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寿永2年(1183)7月、北陸で木曽義仲に大敗した平家は、安徳天皇を奉じて
西海へ落ちていきました。屋島合戦の1年半ほど前のことです。
都を捨てた平家一門は九州に落ちのび、清盛が対宋貿易の拠点としていた大宰府に
内裏を造り再起を図ろうとしました。しかし、九州の武士たちは源氏が都を制したと知るや
次々に源氏方に寝返り、一門は海上に漂う身となりました。
その後、阿波(徳島県)の豪族田口成良(重能)のはからいで四国屋島に落ち着き、
内裏が完成するまでの間、六万寺を安徳天皇の御所としていました。
やがて勢いを挽回した平家は、一ノ谷に陣を張って都をうかがいましたが、
義経の奇襲攻撃に惨敗し、ふたたび屋島に退きました。その頃、平家は
東の屋島と西の彦島を押えて瀬戸内海を掌握しようと、知盛(清盛の4男)が
長門国(山口県)に向かい、彦島に砦を築き門司関を固めました。
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六万寺周辺図は、六万寺HPよりお借りしました。
六万寺は屋島古戦場の東、源氏ヶ峯の南麓にあります。源氏ヶ峯には、義経が山上に登って
攻め手を考えたとか、見張りをたて平家軍を見下ろしたいう伝承があります。
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開発が進むこのあたりには、高層団地が建ち並んでいます。
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六万寺駅から北東へ向かうゆるやかな坂道を1kmほど上ると
高台に寺の甍が見えてきます。
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石碑には、「源平屋島合戦古戦場」、「東讃七箇所霊場六萬寺」と刻まれています。
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かつての六万寺は四十二もの支(子)院を持ち、そのひとつに洲崎寺がありました。
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寺には一門が六万寺を行在所にしていた時に詠んだ歌が3首残されています。
嬉しくも遠山寺に尋ね来て 後のうき世を洩らしつる哉
三位中将 平 重衡
世の中は昔語りになれぬれど 紅葉の色はみしよなりけり
但馬守 平 経政
いざさらば此山寺にすみ染の 衣の色を深くそめなむ
経誦坊 祐円
都落ちする一行の中に「経受坊の阿闍梨祐円」の名が見えます。(巻7・平家一門都落ち)
祐円は清盛の異母弟平経盛の子といわれます。
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かつての大寺をしのばせる大鐘楼。
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「愛宕大権現」の扁額が架かる鳥居。
中世の兵火で焼失した六万寺は、寺の鎮守「愛宕権現」の社地に再興されました。
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境内の一角、小高い場所に「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。
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『アクセス』
「六万寺」高松市牟礼町牟礼 琴電「六万寺」駅から 徒歩17、8分
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安徳天皇慰霊祭 例年5月第4日曜日 13:00~
法要のあとには、コンサートや牟礼の子供たちによる演舞などが行われます。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 安田元久「平家の群像」塙新書、1982年
「香川県の地名」平凡社、1989年「香川県の歴史」山川出版社、1997年
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「平家物語図典」小学館、2010年
重衡、経正の歌が残されていると言うことは、一ノ谷合戦前、紅葉と有ることから、寿永2年秋、太宰府を追われた直後となりますね。
屋島に着いて一安心と言う心情が表れています。
ここから和田浦へ向かい、そして戦死、捕縛されてしまったと言うことですね。
拙句
六万の今年ももみぢ染めにけり
安徳天皇慰霊祭を今もなお行われているとは。
壇ノ浦・赤間神宮で5月の最初の頃に先帝安徳天皇を祀るお祭りがあるからそちらだけかと思っていました。
『源平盛衰記・平氏屋島に着く事』は、「昔は九重の内にして
金谷(きんごく)の春の花を翫び給ひしに、今は屋島の磯にて
寿永の秋の月を詠め給ふ。」と綴っています。
屋島に落ち着きほっとしたひと時、詩歌の宴もあったのでしょう。
一の谷で敗れた平家の公達、重衡は須磨で捕えられた後、
木津川のほとりで斬られ、経正は『源平盛衰記』によると、
明石の大蔵谷で自刃したのでしたね。
六萬寺には重衡、忠度、教盛、経盛他、平家一門の和歌を書きつけた
柱が戦国時代まで残っていたと史跡ガイドブックで読んだことがあるので、
六万寺に問い合わせたところ、伝承なので確かなことは分からないが、
寺にもこの言い伝えがあるとのお返事をいただきました。
それから重衡、経誦坊 祐円、経政の歌は直筆ではないとのことです。
他にも、六萬寺で詠んだ歌ではないのですが、
重衡と経政の直筆の歌(短冊と色紙)が寺には残っているそうです。
あまり知られていませんが、高松でも行われているのです。
長曾我部元親の八栗城攻めの戦火で六万寺の記録は
ほとんどが失われてしまいましたが、この地域に残る
六萬寺の旧伽藍にちなむ地名などから推測すると、
当寺の寺領は広大だったようです。
一門の住いもその寺域の中にあったと思われます。
祠は安徳天皇と生母建礼門院徳子を祀るものです。
記事に書き加えさせていただきました。