平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




琴電八栗駅の北側あたりは屋島合戦の激戦地と伝えられ、この地区には古戦場跡の
「平家総門跡」「射落畠」「義経の弓流し」「那須与一の駒立岩」「洲崎寺」などが残っています。

射落畠(いおちばた)は、佐藤継信が義経を庇って戦死した場所です。



総門跡角の道標。 「源平合戦史跡  射落畠八0米」

道標に従って進むと防火用水の向うに射落畠の碑が見えます。

合戦当時、この辺りは海近くの湿地帯でした。昭和6年(1931)5月、継信三十世の孫、
佐藤信古氏が蓮畑の一部を買い取り整地して射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立。







遠祖君乗馬薄墨碑
兄頼朝の挙兵を聞いた義経は、奥州平泉から兄のもとに馳せ参じます。
その時、藤原秀衡は思いとどまらせようとしましたが、どうしてもという義経に
はなむけとして秘蔵の愛馬「薄墨」を贈り、佐藤継信・忠信兄弟をつけてやりました。


佐藤継信顕彰碑
この地は源義経の四天王の一人佐藤継信戦死の場所である。
継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。

継信は若くして智略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。
源義経陸奥に来て秀衡の批護をうけ後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、
父の命により継信 忠信の兄弟もこれに従う。
連戦して平家を追い屋島壇(檀)ノ浦にいたり、
敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八才

継信はみちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり、
源平八00年祭と当クラブ結成二十周年を記念してこの碑を建立するものである。

      昭和六十年四月十八日    福島飯坂ライオンズクラブ

 お目汚しに拙句を一句  ♪故郷のヒーローかこむ 蓮の花

平家の総大将宗盛(清盛の三男)は、義経の奇襲に驚きいったんは
沖に逃げましたが、源氏の軍勢が少数だと気付いてややおちつきを取り戻し、
能登守教経(清盛の弟教盛の子)に攻撃をしかけるよう命じます。
教経(のりつね)は平家きっての猛将とうたわれ、
率いる兵らも源氏の精鋭に劣らず勇猛な勇士たちです。
すぐに態勢を立て直した教経は、巻き返しを図るべく総門に押寄せ、
沖の平家船団と屋島の浦に駒を進めた源氏勢との矢合戦となりました。

教経は評判の強弓で源氏の兵を次々に射落としていきます。どうかして義経を
一矢でしとめようと狙いをつけますが、源氏の方もそれと知って1騎当千の
兵(つわもの)らが矢おもてに立ちふさがります。教経は「そこをのけい」と叫びながら
さんざんに射ったので、十数騎ほどがあっという間に射落とされました。
次いで義経めがけて放った矢が主君の前に進み出た佐藤継信の左肩から右脇へと射ぬき、
その首を落とそうと走り寄った教経の童菊王丸を継信の弟忠信が射とめます。
やはり童の首を取られまいと、教経は左手で弓を持ちながら右手で童を抱え
岸辺の船に投げ入れました。首はとられませんでしたが、やがて息をひきとりました。
この時菊王丸、18歳。教経は年若い菊王丸が不憫でならず、
その日の合戦をやめてしまいました。
その菊王丸が相引川左岸の屋島東小学校北側に葬られています。

教経の矢にかかって、まっさかさまにどうと馬から落ちる継信。

義経は陣の後ろに担ぎ込ませた継信の手をとり、涙ながらに
「思い残すことはないか」と問うと、継信は苦しい息の下から答えます。
「弓矢とる者、敵の矢に当たって死ぬことは元より覚悟のこと。主君のお命に代わって
討たれるということは、この上ない名誉なことです。ただ思うことは故郷に残した
老母のことが気がかりなのと平家を滅ぼし、殿の御栄達を見届けることが
できないのが残念です。」と言い残して息を引き取りました。
右腕とも頼む郎党を殺され、義経もこの日は戦う気力を失いました。
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
屋島古戦場を歩く(安徳天皇社・菊王丸の墓) 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「射落畠」高松市牟礼町牟礼浜西 琴電「八栗駅」下車徒歩5分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年 
冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年
 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年
「平家物語図典」小学館、2010年


 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
末代までの誉れ (自閑)
2016-03-02 20:46:28
sakura様
佐藤継信が、前に進み出て主君を守った事から、やがて義経が平家を滅ぼす事となったと言う事ですね。
「弓矢取身の習也。敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず」
この忠臣兄弟に、松尾芭蕉は500年後に飯坂を尋ねて、二人の嫁の墓に涙し、800年後に子孫が屋島に碑を立てた。地元の人もその忠義を今も讃えている。
末代までの誉れを得たり!と言う事でしょう。

拙付け句(俳句575の後に付ける77です。)
今は仲良く風に揺れなむ
 
 
 
付け句ありがとうございました。 (sakura)
2016-03-03 09:16:44
秀衡が餞別に贈った薄墨と継信が仲良く眠っているよ。ということでしょうか。

♪笈も太刀も五月にかざれ紙幟
奥の細道の旅で芭蕉が飯坂の温泉宿に一泊したのは、
江戸を発ってちょうど一ヶ月目の五月はじめのことです。
「月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云宿に出づ。
佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。
飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云に
尋あたる。是庄司が旧館なり。」の下りですね。

医王寺にある二人の嫁の墓標は悲しいです。
二人の嫁が老母を悲しませまいと、夫の甲冑を着て、
凱旋したかのようにけな気に振る舞ったという話が伝わっていますね。
 
 
 
右腕とも頼む継信を失ったのは義経にとっても衝撃だったでしょう。 (yukariko)
2016-03-05 23:47:19
子飼いの家来の少ない義経にすれば藤原秀衡にはなむけとして愛馬「薄墨」と佐藤継信・忠信兄弟を付けてもらった、彼にすれば大事な股肱の臣だったでしょう。
若くして智略兵法に通じ、豪勇・一騎当千の武者であればその彼を思いがけなく失って衝撃はさぞ大きかった事でしょう。
継信30世の子孫が750年後に射落畠碑を建立された…を読んでお話だけでなく実際に血筋が連綿と続いているのに感動しました。
 
 
 
先祖に対する誇りと深い尊敬の念! (sakura)
2016-03-07 09:30:47
嗣信の家系が代々続いてきたことはすばらしいことですね。
佐藤信古氏は沼地を整地して射落畠の碑を建てると共に
継信の墓所も大改修しておられます。
昭和の始めといいますから、現在のように高度に交通が発達していない頃です。
はるばる山形から四国まで何度も足を運ばれたのでしょう。

義経は継信を丁寧に供養して葬むり、郎党らを感激させています。

 
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