goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



下界には病気や災いのもととなる疫神や様々な化物である
魑魅魍魎(ちみもうりょう)がはびこっており、
それらが
京へ入るのを防がねばなりませんでした。

四角四境祭(しかくしきょうさい)は、それらを追放するために、
大内裏の四隅と国の四方の境で行った祭祀です。

古来より渡来人によってもたらされていた陰陽道は、古代中国の思想で
我国には中国との交流が盛んになる5C末から6C初仏教と前後して
国家レベルで伝来します。
大宝元年(701)大宝律令が完成し律令国家ができた時、
中国のさまざまな制度を取り入れましたが、その中に陰陽五行をもとにして
天体観察、暦の作成、土地を占う卜筮(ぼくぜい)・相地、方位等の判断を
陰陽師に行わせる「陰陽寮」を設置しました。

陰陽道は道教、密教、神道等の影響を受け我国独自の発展を遂げていきます。
平安時代になると疫病や天変地異は、怨霊のしわざと考える御霊信仰が広まり
陰陽師は呪術的な仕事も引き受けるようになり、
皇族、貴族は陰陽道を生活の指針にするようになりました。

奈良時代、藤原四兄弟が西国から広がった疱瘡で相次いで亡くなったように、
平安京が都となり人口が増え、人や物の流通が盛んになると、
疫病は居住環境・衛生状態の悪い都にたちまち広がり人々を苦しめました。
そうした疫病から都を守るため様々な祭祀が行われました。

都に通じる山崎・逢坂・和迩(龍花)・大江では、陰陽師によって
外部から侵入する悪霊・疫病を祓う四堺(境)祭が行われ、
祭祀には陰陽寮の役人と勅使には滝口があてられました。

陰陽道により東北が鬼門とされてからも、古くから我国では
西北に黄泉の国があるとされ、不吉な方角と恐れられ、
丹波・山城国境の大江が四堺(境)祭の最も重要な祭場でした。
祭は日没から夜にかけて行われ、祭壇に供えられた酒、米、魚、貝、鮑、
塩等が、疫神にふるまわれ陰陽師が災厄を除く儀式を行い、
途中放した鶏の鳴き声で疫神を退散させ、都に入るのを防ぎました。

大内裏(宮城)の四隅で行われる「四角祭」の勅使には
蔵人所の役人があたりましたが、祭祀の進行は
四堺祭と同じようなものだったようです。

老の坂峠の首塚大明神

<


山城と摂津の国境に建つ「従是東山城国(これより東山城の国」と刻んだ碑
国境付近に建つ関大明神社
 
◆『大江(枝)』京都市西京区老の坂峠、山城国・丹波国との国境、山陰道へ
◆『山崎』島本町山崎一丁目、山城国・摂津国の国境、山陽道へ
◆『逢坂』大津市大谷町(逢坂の関)山城国・近江国との国境、東山道へ
◆『和迩・龍花(華)関』大津市和迩、山城国・近江国との国境、北陸道へ
龍花(華)関は天安元年(857)に逢坂・大石とともに
近江国三関として新しく設けられた関。

上龍華村の畑山、栗原村(滋賀郡志賀町)の大畑の二ヶ所に関址の伝承がありますが、
交通路からみると上龍華の畑山の地が有力とみられます。





大津市上龍華

 滝口(京都御所清涼殿傍の滝口)

禁中警固や天皇を物の怪から守ることを任務とし、
清涼殿東庭にあった御溝水が落ちる所に詰所があったので滝口と呼ばれました。
淀川河口の渡辺の津を拠点とする渡辺党の武士の多くが
滝口となって
鳴弦にも従事しました。
「平家物語」巻五(文覚の荒行の事)に登場し源頼朝に挙兵を勧めた
文覚上人(遠藤盛遠)も渡辺党の出身で、源姓渡辺氏、
遠藤姓渡辺氏を総称して渡辺党という。
また芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁を祖とする斉藤氏も
滝口を出す氏で、巻十(横笛の事)の斉藤時頼(滝口入道)がいます。
『アクセス』
「大江・国境碑」 阪急桂駅より亀岡行京都バス「老の坂峠」下車徒歩10分
 老の坂トンネルすぐ手前(左)にある細い道を入ります。
「山崎・国境碑」JR「山崎」駅下車徒歩5分 「逢坂の関」京阪電車「大谷」駅下車徒歩5分
『参考資料』
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 「京都学への招待」角川書店   
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「滋賀県の地名」平凡社 井上満朗「平安京の風景」文英堂  「平安時代史事典」角川書店 

 


コメント ( 5 ) | Trackback (  )





都を福原に遷してからは平家の人々の夢見が悪く、いつも胸騒ぎばかりして、
変化の物が現われることが多かった。
ある時、入道の寝所に、柱と柱の間に入りきれない物の顔がのぞいた。
入道は少しも騒がず、はたとにらむとみるみる消えうせてしまった。
また、岡の御所というのは新しく造られた建物なので、
これという大木もないのに、ある夜、大木が倒れる音がして、
二、三十人位がどっと笑うのが聞こえた。
これは天狗のしわざに違いないと、夜は百人、昼は五十人に警備させ、
天狗のいる方向に蟇目の矢を射ると、何の音もせず
いない方向に射た時はどっと笑い声がする。
またある朝、入道が妻戸を開いて中庭を見ると、
しゃれこうべが数知れず庭に満ちあふれ、転がったりぶつかったりしている。

入道が「誰かいないか」と呼んだが、折悪しく誰も来ない。
すると、沢山の髑髏(どくろ)が集まってひとつになり、庭に入りきれぬ程の
大きさになり、高さ十四、五丈(約45m)もある山のようになった。
そのひとつの大きな頭に、幾千万の大きな目が、
入道をはったとにらみ瞬きもしない。入道も立ったままにらみ返していると、
その大頭は霜や露が日に当たって消えるように跡形もなく消えうせてしまった。

ほかにも、入道が大切にしていた馬の尾に一夜のうちにネズミが巣を作り、
子を産んだという出来事があった。
七人の陰陽師に占わせたところ、重大な御慎みが必要とのことであった。
この馬は「坂東一の名馬」で、
相模の国の住人大庭三郎景親が、入道に献上した馬であった。
黒い馬で額が白かったので、望月と名づけられていたが、
このことがあって直ちに陰陽師頭泰親に下げ渡された。


昔、天智天皇の時代に馬寮の馬の尾に一夜のうちにネズミが巣を作り、
子を生んだ時には外国の凶賊が蜂起した。と日本書紀に記されている。
また、源中納言雅頼に仕えていた若侍が見たという夢も恐ろしいものだった。

その夢というのは、内裏の神祇官庁と思われる所に、
正装した上席の貴人たちが大勢出席し会議が開かれた際、
末席にいた平家の味方をする人が退席させられた。というものだった。

若侍が「退席させられた方は何というお方でいらっしゃいますか。」と
居合わせた老翁に問うと「厳島の大明神」と答える。
そののち、上座の高貴な老翁が、「日頃平家に預けてあった節刀を、
これからは伊豆の国の流人、頼朝に授けよう。」というと、
別の老翁が、「その後はわが子孫にもお与え下さい。」と仰られたという。
若侍はその名を順にお尋ねしたところ、
「節刀を頼朝に授けよう。」と仰られたのは八幡大菩薩。
「その後、わが子孫にも」と言われたのは、
春日大明神、そういう私は武内大明神」とお答えになる。

この夢を若侍が人に語ったのを入道が聞きつけて、
夢を見た若侍を急いでよこすよう雅頼に使いを出した所、
大変なことになると思ったのか、若侍は行方をくらました。

雅頼は入道の所に行って、「そのようなことはありません。」となだめたので、
その後は何の話も出なかった。

日頃は平家の天下で朝敵を鎮めていましたが、
勅命に背いたからでしょうか、この夢を若侍が見た後
清盛が安芸の守だった時に厳島大明神から賜った銀の蛭巻の小長刀が、
ある夜突如消えうせた。
平家は日頃、朝廷の御かため役で、天下を守護していたが、
今は勅命にそむいてしまっているので、節刀までも取り上げられたのだろうか、
先行き心細いことだと噂された。

(若侍の夢とぴったり合うこの出来事は、平家の世の終焉を告げる出来事と受けとめられたという。
またこの記述により『平家物語』の成立を承久元年以後とする説がある。)

※「蟇目の矢」鏑矢の形大きく鏃(やじり)のないもの、射ると高く鳴り響くので悪魔よけに使われた。
「鏑」(かぶら)鹿の角や抱などの堅い木で作った矢の先につける球状のもの。

※「内裏の神祇官」大内裏の中央東寄(現二条城の北辺)に
神祇(神々)をつかさどる官庁神祇官があった。

※「節刀」將軍が出征の際天皇から賜った刀のことで、天皇の権限を
代行する意味を持ち合戦から帰ったら天皇にお返しする。

※「春日大明神」
藤原氏の守護神と、祖神である天児屋根命と比売神を祀り藤原氏の氏神とされる。
源氏から藤原氏へとは承久元年将軍実朝が殺され、京の摂関家から
九条道家の子三寅(頼経)が迎えられたことを指す。(摂家将軍)

※司会者役の「武内大明神」武内宿禰、景行帝より仁徳帝まで五帝に
大臣として仕え、二百余歳の壽命を保った伝説的人物。
石清水八幡宮摂社高良社に祀られている。八幡大菩薩は源氏の氏神。

※「銀の蛭巻」
補強や装飾を目的に鞘や柄の部分に銀を螺旋状に巻いたもの。


◆木が倒れたり、笑い声が聞こえるなどの怪異現象は、近代にいたるまで
天狗の仕業と考えられ民族学的には「天狗倒し」「天狗笑い」といった。
(歴史を読みなおす)


『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語」(中)新潮日本古典集成 「平家物語がわかる」朝日新聞社

「平家物語を知る事典」日下力・鈴木彰・出口久徳 「歴史を読みなおす」(5)朝日新聞社 井上満郎「平安京再現」河出書房新社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )






<
マウスを写真の上に置いて下さい、写真が変わり離せば元に戻ります。



鎌倉地蔵説明板に書かれている「玉藻前」伝説は、
鳥羽院の御所に現われた美女を鳥羽院は寵愛するが、
院の健康がだんだんすぐれなくなり、安倍泰親(一説には子の泰成)に
占わせたところ、病気の原因が妖狐(ようこ)玉藻前であることが判明し、
泰親が悪霊祓いの「泰山府君祭」をおこなっている途中、
突然玉藻前の姿が消えてしまいます。
占いが間違いでなかったことが分かり、
鳥羽院は三浦介、上総介に妖狐退治を命じます。

我国では狐や異類の霊がとりつき病気になるという考え方は多く、
正体を見破られた狐や異類が異界に戻っていくという
伝説や物語が数多く生み出されました。
この物語も妖怪狐と陰陽師の悪霊祓いの儀式を、母胎にして作られたようです。
※「泰山府君祭」(たいざんふくんさい)
陰陽師が悪霊祓い、延命、栄達の目的でおこなった祭礼。
中国・泰山の神を府君といった。
   


阿倍泰親(1110~83)
平安時代後期の陰陽師、阿倍晴明から五代目の子孫。
雅楽頭(うたのかみ)、陰陽権博士、正4位の下にまで昇進し、
陰陽頭兼大膳権大夫(だぜんのごんのだいぶ)に任じられます。
邸は樋口京極(現在の下京区万寿寺通寺町)にあった。

晴明に匹敵するほどの占いの天才と言われ、
泰親のはなばなしい活躍ぶりは「平家物語」「台記」「玉葉」に
承安2年(1172)の斎宮の死去、久安4年(1148)の土御門内裏の炎上、
治承3年(1179)の政変(清盛のクーデター・後白河法皇を鳥羽殿に幽閉)を予見、
泰親が肩に落雷を受けたが無事であったことなどが記されている。


※「台記」(たいき) 藤原頼長の日記 「玉葉」(ぎょくよう)九条兼実の日記


<
  写真の上にマウスを置いてください、CR、WCR、
マウスを写真から離してください、元の写真に戻ります。



「平家物語巻三」(法印問答の事)には
治承3年(1179)11月7日の夜、都で大地震があり、
陰陽頭安倍泰親が内裏へ参って申すには
「今度の地震天文の示すところでは、近々大変なことが起こります。」
とはらはらと泣くので、申請や訴訟を院に取り次ぐ職の人は顔色が変わり、
帝も驚かれるが、若い公卿や殿上人は大した事はないだろうと笑いあった。
けれどもこの泰親は阿倍晴明から五代目の子孫として、天文道を極め、
吉凶を推理すれば一つとしてはずれたことがなかったので
「指御子」(さしのみこ)と呼ばれた。
雷が肩に落ち狩衣の袖は焼けたけれども、泰親の身に異状はなかったという。
上代にも末代にも泰親はめったにない人物であった。

「平家物語巻四」(鼬の沙汰の事)では
鳥羽殿で鼬が走り回ることがあり、不審に思った後白河法皇が安倍泰親の所に
使いをやり占わせたところ三日以内に吉事と凶事ありとのこと。
吉事とは、その翌日法皇は幽閉を解かれ、
凶事とは、熊野の別当湛増が以仁王の謀反を飛脚で知らせてきた。
と記されている。

「真如堂縁起」(三巻本)には、
陰陽家安倍氏の祖・安倍晴明が生死の境をさまよった時、
不動明王が閻魔大王に命乞いをして、蘇生することができたという
安倍晴明蘇生譚が記されている。
真如堂本尊の阿弥陀仏の右には千手観音、
左には安倍晴明の念事仏と伝えられる不動明王が安置されている。

※ご本尊とともに不動明王公開・例年11月15日

※能「殺生石」
玄翁という修行者が下野国那須野ヶ原で、飛鳥が石の上に落ちるので
不思議に思っていると、里の女がこれは恐ろしい殺生石だという。
訳を聞くと、昔鳥羽院に仕えていた玉藻の前が化生のものであると見破られ、
逃げてきてここで殺され、その執心が石になったと語る。
自分はその石魂で夜になると懺悔のために本体を表すといい、石の中に隠れる。
玄翁が供養して引導を渡すと野干(やかん・狐)が現われる。
自分は三国を跨にかけて悪事をした老狐だが、安倍泰成の祈祷で苦しくなり、
那須野に隠れ住み、ついに射伏せられて命を失った。
そこで殺生石になり多年人を殺したが、ありがたい供養を受け、
この後は決して悪事はしないと約束して消え失せる。(第35回・篠山春日能パンフレットより)


『アクセス』
「真如堂」京都市左京区浄土寺真如町82
市バス「真如堂前」「錦林車庫」下車西へ徒歩10分

『参考資料』
「平家物語」(上)新潮日本古典集成 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫

「源平合戦事典」吉川弘文館 「平安時代史事典」角川書店 「京都・伝説散歩」京都新聞社 

「異界と日本人」小松和彦 「京都異界の旅」志村有弘 「昭和京都名所図会」(洛東下)竹村俊則


コメント ( 0 ) | Trackback (  )




秋草の画像は十五夜さんよりお借りしました。

徳大寺実定は、待宵小侍従と昔のことやら今のことやら
話しているうちに、
夜もふけてきたので
旧都が荒れていくさまを、今様にしてお歌いになりました。

古き都をきてみれば  浅茅が原とぞあれにける
月の光は隈なくて  秋風のみぞ身にはしむ
(古い都を訪ねてみると、今はまばらの茅萱の原となって
荒れはててしまった。
しかし月の光は曇りなく輝いて、
秋風ばかりが身にしみて吹きわたる。)

と繰り返し三回見事に歌うと大宮(太皇太后多子)
はじめ女房たちは袖を涙で濡らします。

そうこうしているうちに夜も明けてきたので、
実定は別れを告げて福原へと
帰ることになりました。
その時、お供の蔵人を呼んで、
「小侍従があまりに
名残惜しそうだから慰めてこい。」と命じました。

蔵人は走って引き返し、小侍従の前にかしこまって、
「これは大将殿がご挨拶申せとのことなので、
歌で申し上げます。」といって


物かはと君がいひけん鳥の音の 今朝しもなどか悲しかるらん
(あなたがかつて夕の鐘の音に比べれば、その悲しさは
なんでもないとお詠みになったという、その朝の鳥の声が、
大将殿とお別れなさる今朝にはなぜこれほど
悲しく聞こえるのでございましょうか。)


小侍従も涙を押さえて、
待たばこそふけゆく鐘もつらからめ あかぬ別れの鳥の音ぞうき
(思う方を待つからこそ宵の鐘もつらいのです。
その思いを詠んだのでしたが、せっかくお目にかかったのに
今またいつお会いできるともわからない
と思いますと、
別れをうながす
朝の鳥の声こそ、辛いのです。)

蔵人は走り帰って、このことを大将に告げると
「よくやった、それだからこそそなたを遣わしたのだ。」とお褒めになり、
それ以来、蔵人は「物かはの蔵人」とよばれるようになったという。

 待宵小侍従と実定の月を眺めながらの語らいと
翌朝名残を惜しむ歌のやり取りは、
二人の親密な関係を伺わせますが、この時実定42歳、

待宵小侍従は60歳位であったという。
巻五「月見の事」 (1)  

待宵小侍従の顕彰碑・墓   
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
日下力・鈴木彰・出口久徳「平家物語を知る事典」東京堂出版





コメント ( 4 ) | Trackback (  )





画像は十五夜さんよりお借りしました
平清盛は周囲の反対を押し切って福原への遷都を強行し、
治承4年(1180)6月、
安徳天皇は頼盛(清盛の弟)の邸を
とりあえず仮の皇居として入ることになりました。

旧都(平安京)はさびれてゆきますが、今の都は賑やかになっていきました。

騒がしかった夏もすぎ、中秋の頃になったので、福原にいる人々は
名所の月を見ようと『源氏物語
の須磨・明石の巻にならって
須磨から明石へ行く人、
淡路島・北端の絵島、紀伊の吹上、
和歌の浦、白浦、摂津の住吉、難波、
播磨の高砂、
尾上(高砂の東)まで行って月を眺める人もいます。

住み慣れた都(平安京)に残った人々は、
伏見や嵯峨広沢の月を愛でました。


そうした中、徳大寺実定(さねさだ)は京の月が恋しくて、

8月10日すぎのある日、福原から京に戻ってきました。
京の都は荒れ果て、残っている家は門前は草深く、
庭は露に湿っています。
茅萱(ちがや)が疎らに生え、
虫の声は恨むように鳴き秋草茂る野辺となっています。

実定は姉(妹とも)の近衛河原の大宮多子の御所を訪れます。
随身に門を叩かせると、
中から女の人の声で
「どなたでございますか、
草の露を払う人もいない草深いこのような所へ」

「福原から大将殿がおいでになりました。」と随身が答えると、
「表門は錠がさしてあるので、東の小門からお入り下さいませ。」と
いうので、
あらためて東門へ周りました。

大宮(多子)は昔を懐かしんでおられたのであろう、
寝殿の蔀格子を上へ開けさせ琵琶を弾いていたところに、
弟の左大将実定卿がすっと入ってこられたので、
「まあこれは夢かや現かや、さあこちらへ、こちらへ」

『源氏物語』宇治の巻には、宇治八宮の姫君が秋の名残を惜しみながら
琵琶を弾いて夜すがら心を澄ましておられた時、
父の留守中に訪ねてきた薫が
垣間見ているのも知らず、
有明の月が出てきたので感動にたえかねられて、

月を撥(ばち)で招いたという情景がありますが、
今こそしみじみなるほどと大宮は納得するのでした。

この御所には待宵小侍従という女房が仕えていました。
小侍従はある時、大宮に「恋人を待つ宵と、
恋人が帰ってゆく朝と、どちらが趣深いか」と尋ねられて

♪待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは

(恋人を待ちわびる宵の空しくふけゆく鐘の音を聞くときの
切なさに較べれば、名残惜しい朝の別れに聞く
鳥の声など物の数ではありません。)
と宵を待ちわびる歌を
詠んだことから、待宵小侍従と呼ばれるようになりました。

実定は小侍従と月を眺めながら、
しみじみと物語をして夜を明かします。


『源氏物語』宇治十帖の橋姫巻
琵琶を弾いていた大君が明けゆく月を撥で呼び戻そうとする様子を
宇治八宮
(光源氏の異母弟、北の方を失い、
二人の娘・大君と中君とともに宇治に隠棲していた)を
訪ねた
薫大将(光源氏の息、実は柏木の子)が垣間見る美しい場面。

琵琶を弾いていた大宮が実定を招いた優雅な姿が、
源氏物語のこの場面を連想させ、大宮を交えて風流人の実定と
待宵小侍従とが月を眺めながら昔のことやら今のことやら語る様子は、
まるで王朝絵巻でも見るような雅な情景です。
大宮とは今は亡き、近衛・二条天両天皇の
后となった藤原多子のことです。
近衛帝崩御後、近衛河原(現、荒神橋の東辺)に
多子が棲んでいた御所があったという。
二代后多子の近衛河原大宮御所と頼政邸  
荒神橋附近の様子からは当時の面影を偲ぶことはできませんが、
すだく虫の音や鴨川の水は昔と変わることなく流れています。
巻五「月見の事」 (2)  
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
別冊国文学「源氏物語を読むための基礎百科」学燈社
「兵庫県の地名」平凡社 「和歌山県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
 


コメント ( 4 ) | Trackback (  )





♪ほのぼのと明石の浦のあさ霧に 嶋かくれゆく舟をしそ思ふ(柿本人麻呂・古今集巻9)

清盛は福原へ安徳天皇を伴ってきたものの、
福原は山と海に挟まれた狭い土地であるため、
新都建設するにも京域(条里)を充分にとることができません。

建設地を印南野(いなみの)にすべきだとか、
古代より西国と都を結ぶ交通の要所である
昆陽野(小屋野)にすべき、ともいわれその選定ははかどらず、
福原京の造営は遅々として進みませんでした。
印南野は、1167年清盛が大功田(国家より功労のあったものに賜った田)として
与えられた土地でしたが、水不足の土地であったため見送られました。


清盛にはここに都を遷すというはっきりとした構想はなかったようです。
公卿達の屋敷造りも進まず、京都の家屋を分解して淀川で運び
大工を連れてきて、福原で組み立てさせた者もありました。
やっと出来上がった頃には半年足らずで旧都へ還ることになります。







『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」東京堂出版 高橋昌明「平清盛・福原の夢」講談社


コメント ( 2 ) | Trackback (  )





平清盛の推薦によって念願の三位に昇進できた老齢の頼政
(75歳とも76とも)が
高倉宮以仁王と組んで謀反を起こした動機を
『平家物語』は、(巻4・競が事)で語っています。


頼政の嫡子伊豆守仲綱は木下(このした)という名馬を持っていました。
宗盛(清盛の三男)がこの馬に目をつけ、
評判の名馬を拝見したいとたびたび催促してきます。


仲綱は貸すのが惜しくて、乗り損じて傷めたので馬は田舎で
保養させているとうそをつきますが、密告する者がいて、
事実を知った宗盛は一日に何度も使いを出してきます。
頼政は「たとえ金で作った馬であろうとも人がそれほど
欲しがっているのだから、すぐに六波羅へ遣わせ。」と仲綱を諭しました。

♪恋しくは来てもみよかし身に添える かげをばいかが放ちやるべき
(この馬が欲しいのならば、こちらに来てご覧ください。
影のようにわが身に離れず寄り添っているこの鹿毛の馬を、
どうして手放すことができましょうか。)の歌とともに
仲綱は馬を宗盛のもとへ送り届けさせます。
「かげ」と「鹿毛」は、掛詞になっています。


この和歌を見た宗盛は馬を惜しんだのが憎いと、この馬に
「仲綱」という焼印を押し、この馬を見たいという客が来るたびに
「仲綱に鞭をあてろ。」と
なぶりものにしていました。

これを伝え聞いた仲綱は「大切な馬を奪われただけでなく、

笑いものにされてしまった。」と憤り、
頼政も平家打倒の決意を固めたというのです。


続いて以仁王謀反が平家方に知れたため、頼政が一族郎党を
引き連れ、以仁王のいる三井寺に入った時のことです。
頼政に長年仕えていた渡辺競(きおう)は、
連絡をもらえず同行できませんでした。
頼政は競の家が六波羅の宗盛の邸に近いので、
謀叛が洩れるのをおそれ招集するのを控えたのでした。
もともと源平両氏につかえる兼参者だった競は、

六波羅に呼び出されます。


一計を案じた競は、平家に服従するふりをし、
宗盛に三井寺攻撃に参加したいと申し出ます。
そして自分の馬が盗まれたと偽り、
宗盛の愛馬「煖廷(なんりょう)」を借り受けました。
日の暮れるのを待って自分の館に火をつけ、
宗盛秘蔵のこの馬に乗り一目散に三井寺へと駆けつけます。
頼政と競は強い主従の絆で結ばれ、頼政は競が
必ず三井寺に駆けつけてくれると信じていたといいます。

競から話を聞いた仲綱は喜び、馬の尾とたてがみを切り
「平宗盛入道」と焼印を押し六波羅へ追い返しました。
宗盛は
「いかにしても競めを生け捕りにせよ。鋸で頸切らん。」と激怒しますが、
いまさら馬の毛も生えず、焼印も消えません。


宗盛は兄重盛、父清盛の死後、平家のリーダーとなった人ですが、
人格者だった兄重盛とは対照的な人物だったことが、
こんな逸話からも浮かび上がってきます。


このように『平家物語』では馬一頭くらいのことで
頼政が一族郎党を巻き込んで謀反を起こしたと語っています。


この物語が史実かどうかは分かりませんが、
平治の乱を清盛とともに勝ち抜いた頼政は、
源氏として
政界に唯一生き残り、忍従の日々を送っていました。

平治の乱後、平清盛が政治の中心に出てきて、
「此一門にあらざらん人は皆なるべし」などと
豪語した平時忠のような人物もいた
平家一門との間に、
頼政が何か深い恨みをいだくような出来事でもあったのでしょうか。


この章段の主人公の渡辺競(きおう)は、渡辺党に属する
滝口の武士で源頼政の郎党です。
『源平盛衰記』によると、都第一の美男であったという。
渡辺党は渡辺綱の子孫がつくった武士団で、
摂津渡辺一帯にいたのでこの名でよばれていました。

治承4年(1180)5月、競は頼政の最期まで供をして奮戦し、
三井寺から奈良へ向かう途中、平等院辺で
平家の追討軍に追い詰められ切腹しています。

仲綱は歌人としても名高く『千載和歌集』に六首収められています。

 『参考資料』
「平家物語」(上巻)角川ソフィア文庫
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社

 

 






コメント ( 2 ) | Trackback (  )





熊谷次郎直実は武蔵の私市(きさいち)党に属し、戦時には命をかけて
勇猛果敢に戦い、平時には一貫して 実直な生きざまを貫いた東国武士でした。
手柄を強く求めていた直実の姿がよく描かれているのが、
「巻九・一二之懸(かけ)」の先陣争いです。

一の谷の戦いで、熊谷直実は搦手の義経別動隊に属していましたが、
この隊は馬で一ノ谷背後の難所を一団となって駆け下りるので、
戦功が挙げられないだろうと、夜中にこっそり隊を抜け出し、
息子の小次郎直家と旗持ち(郎党)を伴い、一ノ谷の先陣を狙って、
多井畑(須磨区)から平忠度が守る西ノ木戸に向かいます。

やはり義経別動隊を抜け駆けし、郎党と僅か二騎で先陣をめざしていた
平山武者所季重(すえしげ)は、横山党の成田五郎に声をかけられます。
「一番乗りを早々となさるなよ。味方の兵が後ろに続いて来なければ、先陣の
功名の確認をしてもらえないぞ。」と引き留めるので、それもそうだと思い
一緒に馬を進めていると、その隙に成田はさっと駆けだしました。
季重は馬に一鞭あて成田を追い抜き、おりから来合わせた
熊谷次郎直実父子とともに先陣手柄を競って西の木戸口に向かいました。

「武蔵の国熊谷次郎直実、小次郎直家一ノ谷の先陣ぞや!」と
大声で名乗りをあげますが、西木戸の総大将薩摩守忠度は、
まだ夜が明けてないので取り合いません。
そのうち平山季重も到着し、共に夜明けを待っている時、城内から
かすかに管弦の調べが聞こえてきたことが『源平盛衰記』に見えます。

次第にあたりが明るくなると、うかうかすると平山季重に、
一番乗りの手柄を奪われかれないと焦った熊谷直実は、
自分が先陣であることをアピールするために、再度名乗りをあげます。
これを聞いて「一晩中名乗っている熊谷父子を引っ捕えてこよう」と
木戸口の柵を取り外し、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総介忠清の子)、悪七兵衛景清(忠光の弟)ら20余騎が
躍り出ると、平山季重はすかさず熊谷直実より先に木戸口へ駆け込みました。

敵中に突入したものの、郎党を含めて僅か5騎であった熊谷、平山らは
平家方の猛攻を受け、小次郎直家が負傷し、平山の郎党が討死にしたという。
ちょうどそこへ土肥実平率いる搦手本隊七千騎が駆けつけ、
源氏の白旗と平氏の赤旗が入り乱れての激戦となりました。

熊谷直実が先に先陣の名乗りをあげましたが、
敵陣の中に先に入ったのは平山季重です。
季重は城内には先に入りましたが、名乗ったのは直実の後です。
これを「熊谷、平山一二の駆け」といい、
のちに二人の間には争いまで起きたようです。

戦いでは、一番初めに敵陣に乗り込んで名乗りを挙げることや
敵将の首を討ちとることが功名手柄につながります。
その見返りに与えられる恩賞(土地・地位の保障)をめざし
時には味方をだしぬいてでも武者たちは命がけで働きました。
「人に勝る功をたてねば、生きて帰るまじ。」の
意気込みで東国の武士は故郷をあとにしたといいます。

いざ出陣といっても息子の他には、旗持ちの郎党一騎伴う程度の
直実のような
小領主は多少の危険を冒しても、
手柄を狙わねばならなかったのです。

平山季重は父の直季(なおすえ)の頃から源為朝・義朝に仕え、
保元の乱には、義朝勢の一員として後白河天皇方について功名をあげ、
後白河院の武者所となりました。
平治の乱の際は、熊谷直実とともに悪源太義平に従った
気鋭17騎の中の1騎でした。
治承4年(1180)11月、頼朝の佐竹氏征伐、金砂城(きんさじょう)の戦
いでは直実とともに目覚ましい軍功をたてた。と
『吾妻鏡』にあり、季重と直実は長年のライバルでした。

成田五郎の父成田野三成綱は、流人時代の頼朝に安達盛長らとともに仕え、
『吾妻鏡』によると、平家追討後、阿波国麻植保地頭職を与えられ、
京都で刑部丞に任じられ、
建久6年(1195)頃には尾張国の守護となるなど、
武蔵武士の中では破格の待遇を受けていました。
長子義成も頼朝に仕え、
京都守護一条能保(頼朝の同母姉妹)の家人となっています。
熊谷次郎直実の本拠地(熊谷市の熊谷寺)
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社 「図説源平合戦人物伝」学習研究社
成迫政則「武蔵武士(上)」まつやま書房 「検証日本史の舞台」東京堂出版
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館




コメント ( 4 ) | Trackback (  )




「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」
有名な平家物語の冒頭の一節です。
祇園精舎とは、昔、お釈迦様が25年いて布教活動をしたという古代インドの僧院で、
お釈迦様に深く帰依したインドのスダッタ長者が建てて釈迦に寄進しました。
そこには多くの僧侶が修行する沢山の院や坊があり、この精舎には
無常堂という堂がありました。修行僧が病にかかり、助からないとわかった時、
自らこの堂に入り静かに最期を向かえたというお堂です。
臨終の時になると、堂の四隅の梁に架けられた鐘がひとりでに
「諸行無常、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅己(しょうめつめつい)、
寂滅為楽(じゃくめついらく)」(この世の全てのものには永遠不滅ではなく、
生あるものは必ず死ぬ。死んで楽となす。)と鳴りました。
これは仏の教えを詩の形で表したもので、この鐘の音を聞いた病僧たちは、
それまでの苦悩が取り払われ、極楽浄土にいったといわれています。

「沙羅双樹の花の色」は、
お釈迦様が弟子を伴いクシナガラのはずれの河のほとり、
沙羅の木の下で最後の説法を終えて亡くなった時、辺りの沙羅双樹の花が悲しみのあまり
枯れて真っ白になったという故事にもとづいて語られ、お釈迦様のような偉大な方でも、
いつかは死を向かえなくてはならないという道理を現しています。

次に、盛んな者はいつか必ず衰え、おごれる者も長続きはしない。
それはまるで春の夜の夢、
風の前の塵のようだと述べ、それを身をもって
あらわした異朝・本朝の人物を登場させます。
中国秦の趙高(ちょうこう)、漢の王莽(おうもう)、梁(りょう)の
朱异(しゅい)、
唐の禄山(ろくさん)の四人の名をあげています。
禄山は玄宗皇帝・楊貴妃に叛き、
反乱を起こした安禄山です。

日本の例では、東国で承平の乱を起こした平将門、

同じ頃、瀬戸内で海賊として暴れまわった藤原純友(すみとも)、
それから八幡太郎義家の子の義親(よしちか)は、九州で乱行し
流罪となりましたが、
罪に服さなかったので平正盛に討たれました。
そして源義朝を語らって平治の乱を
起こした藤原信頼。

つい最近の例ではと平清盛を紹介しています。

六波羅の入道、前太政大臣、平朝臣清盛公という人のありさまは、
想像を絶し話に聞くだけでもその傲慢さと横暴は、
筆にもことばにも表せないほどである。と語っています。
沙羅双樹の花をご覧ください。東林院の沙羅の花を愛でる会  
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語・上」新潮社 水原一「平家物語の世界・上」日本放送出版協会

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )






「俊成社」祭神・藤原俊成
俊成社は藤原俊成の邸宅跡に俊成の霊を祀ったのが起源とされています。
平忠度(1144年~1184年)は平安時代の武将・平忠盛の六男で清盛の腹違いの
末弟にあたります。早くに母親を亡くしたため熊野の豪族に預けられ、
けわしい山々、荒々しい海の中で荒法師に鍛えられて育ちました。
母親は歌人として有名だった藤原為忠の娘でしたので、忠度はその血筋を受け継いで
武勇だけでなく歌人としても高い評価を得ていました。

平家物語「忠度都落の事」「忠度の最期の事」より
寿永2年(1183)木曽義仲に追い立てられた平家は一門の邸宅に火を放ち、
七千騎を率いて都を落ちていきました。都を落ちたはずの忠度が、
いずくより立ち戻ったのか侍五騎と近侍の童一人を従えて、
和歌の師である藤原俊成卿(藤原定家の父)の邸宅を尋ねます。
落人が帰って来たと言って邸内は大騒ぎになりますが、俊成卿は
「忠度ならばさしつかえない、お入れ申し上げよ」と言って門を開けて対面します。
忠度の申すには、「長年和歌を教えて頂きましたが、この二・三年は都の災い
国々の乱れが当家の上に降りかかって、お伺いも出来ませんでした。
安徳天皇はすでに都をお出になってしまい、一門の運命はもう尽きてしまいました。
世の中が静まりましたらきっと勅撰和歌集の勅命が下ることでしょう。
この巻物の中に勅撰和歌集に入れるのにふさわしい歌がございましたなら
たとえ一首でも結構ですので載せて頂けたら草葉の陰にて嬉しく思います。」
といって巻物を取り出して俊成卿に差し出しました。俊成卿は巻物を開けて見て
「このような忘れ形見を頂いた上は、決して粗略には致しません。それにしても、
このような時によくお越しくださいました感涙致しました。」とおっしゃると
忠度は喜び「今はもう山野に屍をさらすならさらしてもよい。西海の浪に沈むなら
沈んでもよいこの世に思い残すことはございません。それではおいとま申し上げます。」
と言って別れを告げ馬にうち乗り甲の紐を締め西の方に向かって馬を歩ませました。
俊成卿がずっと見送っていると
前途程遠し思いを雁山(がんざん)の暮(ゆふべ)の雲に馳す
『9C渤海(ぼっかい)からの使者が帰国する時、大江朝綱が別れを惜しんで詠じた漢詩』
と忠度とおぼしい声で高らかに 詠うのが聞こえてきたので
俊成卿も思わず涙を押さえて邸に入るのでした。

再び戦場に戻った忠度は一の谷の戦いで奮戦しますが、腕を切り落とされて観念し
静かに念仏を唱えながら源氏方の武将・岡部忠澄に首を討たれたといわれます。
享年41才でした。忠度は名乗らずに討たれましたが、
箙(えびら=矢を入れて背に負う道具)に結びつけていた文に書かれていた
和歌から忠度であることがわかったのだそうです。

♪行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよいの主ならまし
(旅をするうちに日が暮れてしまいそうだ、桜の木陰を宿とすれば、
花がこよいのあるじということになるなあ)

その後、世の中が落ち着いて、『千載集』の勅命が下ると俊成卿は、
例の巻物の中から、「故郷の花」という題で詠まれている次の一首を選んで載せます。 
♪さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
(志賀の古い都、今はもうすっかり荒れてしまったが、
長等山の山桜だけは、昔ながらに美しく咲いていることだなあ)
この歌は『万葉集』の「近江の荒れたる都を過ぐる時、
柿本人麻呂の作る歌」の本歌取りになっています。

しかし、忠度は朝敵(天皇に反逆する者)となっていましたから
俊成卿は、この歌を「読み人知らず」として載せたのでした。  
二首の和歌のことは文部省唱歌“青葉の笛”の2番に
♪更くる夜半に門(かど)をたたきわが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちしえびらに残れるは「花や今宵」の歌と歌われています。  

平忠度は官位をとって薩摩守忠度ともいいますが「薩摩守ただのり」から
無銭乗車のことを『薩摩守(さつまのかみ)』と言ったりします。
薩摩守とは、薩摩国を治める長官で今の知事のような官位ですが
実際に任地に赴くケースはほとんど無かったようです。
※追記
俊成社はホテル・京都ベースの一角に移されました。
俊成社・新玉津嶋神社(忠度都落ち) 
♪さざなみやの歌碑が大津市の長等山(ながらやま)
にあります。
平忠度の歌碑(長等山・長等神社)  

 『アクセス』
「俊成社」京都市下京区松原下ル俊成町
 阪急電車烏丸駅又は市バス「四条烏丸」又は地下鉄「四条烏丸」駅下車 烏丸通りを南へ徒歩10分

 






コメント ( 4 ) | Trackback (  )





住吉大社境内大海神社近く、住吉文華館の東に
「住吉神宮寺跡」の石碑が建っています。
神宮寺は、神仏習合の時代に神社の境内などに建てられた仏教寺院です。
神仏習合の時代になると、日本にもともとあった神道と外国からやってきた
仏教が結びつき、神社の境内やその付近に寺(神宮寺)を建て、
神々の本体である仏菩薩を祀るようになります。神仏習合とは、
仏菩薩が我が国においては神の姿となって現れたという考え方です。

当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、
津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていました。
明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸しましたが、
そのうち西塔は四国八十八ヶ所の第40番札所切幡(きりはた)寺
(徳島県阿波市市場町)に売却移築され、国の重要文化財になっています。



『大阪市の歴史』より転載

荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)は白河天皇の勅により、
津守国基が浄土信仰の流行を受けて浄土教の寺院として再興したお寺です。
神宮寺と津守寺(津守氏の氏寺)は神仏分離令により取り壊されました.

住吉大社においても神仏習合が進み、鎌倉時代の説話集
『古今著聞集』に高貴菩薩の託宣によって神宮寺が境内北方に
建立されたという伝承が記載されています。

住吉明神は、高貴徳王菩薩(こうきとくおうぼさつ=大威徳明王)の
変身として名を仏教に顕し、聡明で優れた君主の守護として
その恵を神国(日本)に示されました。
(『源平盛衰記巻36・維盛住吉詣並明神垂迹の事』)

 『週刊古寺をゆく』より転載
『巻1・神祇』(慈覚大師如法経書写の折、住吉神託宣の事)には、
「住吉は四所おはします。一の御所は高貴徳王大菩薩なり。龍に乗る。
御託宣に云はく、「我はこれ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。
国家を鎮護せんために、当朝墨江の辺に跡を垂。云々」と記されています。

兜率天(とそつてん)には内院と外院があり、内院は将来仏となるべき
菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。


大威徳明王騎牛像 明円作
 木造 平安時代 重文  『週刊古寺をゆく』より転載。
大威徳(だいいとく)明王(高貴徳王菩薩)は、 五大明王のひとつで
西方の守護者とされ、 日本では六面六臂(ろっぴ)六足で、
神の使いである 水牛に乗っています。悪蛇、悪竜を退散させ
怨念を取りのぞく、 死後の世界をつかさどる神の出身です。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分  
阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間 ・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間 ・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
新定「源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年 
新潮日本古典集成「古今著聞集(上)」新潮社、昭和58年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
佐伯快勝「古寺めぐりの仏教常識」朱鷺書房、2000年  
週刊古寺をゆく「天龍寺 大覚寺」小学館、2001年
週刊古寺をゆく「観世音寺と九州の名刹」小学館、2002年 
「平家物語図典」小学館、2010年

 

 

 

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )







コメント ( 4 ) | Trackback (  )
你好ニィーハオ!
無錫のclistalさんから寧波に
旅行した時の画像が届きました。
無錫から寧波まではおよそ500K
離れているそうです。

無錫は上海と同じ江蘇省(コウソショウ)
寧波は浙江省(セッコウショウ)です。

寧波港は古くから日本と交渉の深い港で
日本船の渡航の
目的地であり、また日本に
向かう中国船の出発地でも
ありました。
古くは秦の始皇帝の命を受けた徐福が
不老不死の薬を
求めて旅立った
という伝説の地であったり

(沢山の徐福伝説が日本各地に残っています)


遣唐使が上陸した場所の一つでもありました。
平安時代始めには最澄も遣唐使船に乗って
寧波港に
第一歩を踏みだしています。
(この時は日本から寧波まで二ヶ月近く
  かかったようです)


寧波には遣唐船や日本の僧侶の
資料館もあります。
また日明貿易(勘合貿易)の最初の
査証を受ける地
でしたし、朱印船の
寄港地でもありました。

その寧波に明~清の時代の
(日本では室町~江戸時代)
古建築物が
沢山残っています。
全部重点文化財になっているそうです。
近くにはグルメ広場もあって有名レストランも
多く
地元の人だけでなく外国からのお客様にも
評判が高いそうです。
新鮮な魚介をあっさりと醤油と塩で味付けした
海鮮料理は和食に似ているようです。


日明貿易
室町時代に日本と明王朝の間で行われた貿易。
許可書である勘合符を使用することから勘合貿易
(かんごうぼうえき)とも呼ばれています。
朱印船
秀吉の時代から江戸時代にかけて日本を
出港する船に
海外渡航を許可する
朱印状を与え貿易を行うもの

長崎を出港して長崎に帰港するものが
ほとんどで
中国南部・東南アジアに渡航し交易が
さかんになるにつれて
各地に日本人町も
つくられるようになりました。


地図は中国地図のHPよりお借りしたものに
一部文字入れさせていただきました。
画像は全て古建築物です




南国書城(古建築物)
明の時代に建てられた個人の蔵書楼で
30万冊の蔵書があります。

現在は一般にも開放されていますし
専門家や学者はここで資料を
調べることができるようになりました。
国家重点文化財に指定されています。
麻雀博物館
麻雀のルーツは1000年位前にあり
寧波の陳魚門が1850年頃現在のような
麻雀を考案したといわれています。
南国書城の傍にあります。
  (麻雀博物館は新しい建物です)
京劇の舞台だったところです(古建築物)
お茶を売っていたお店です。
画像を拡大してみると
木札に鉄観音
茉莉花モーリファ(ジャスミン茶)と
書かれています。
一枚ははっきり見えません。(古建築物)



コメント ( 0 ) | Trackback (  )




松花堂弁当の器は、松花堂昭乗が絵の具や煙草や薬・種等の
小物入れとして使っていた十字に仕切られた箱が、
原型と言われています。

昭和の始め、吉兆の主人湯木貞一が松花堂昭乗の旧跡での茶会に参加した折

部屋に置いてあった四つ切箱を譲り受け、この箱をヒントに工夫を重ね
料理の器にしたところ大変喜ばれました。
これが徐々に広まり今では知らない人がいないくらい一般的になりました。
松花堂弁当の見本

 


松花堂弁当の器

画像は吉兆松花堂店HPよりお借りいたしました













松花堂昭乗(1582~1639)江戸時代初期

堺の生まれで、石清水八幡宮の社僧ついで石清水八幡宮の瀧本坊の住職となりました。

昭乗は、書・絵画・和歌・茶の湯・造園などにも精通した当代きっての文化人で、
寛永の三筆の一人に数えられています。

松花堂は松花堂昭乗が退隱後に建てたの茶室でもとは男山の中腹にありました。
尾張藩祖徳川義直や小堀遠州などとも親交がありこれらの風雅を好む人々が集う松花堂は
寛永時代の文化サロンのひとつであったようです。

「庭園は 約22000平方メートルと広く
内園と外園に分かれている。内園は昭乗が晩年に
隠棲するために建てた草庵松花堂(茶室)や書院を
苔庭や枯山水の築山で囲っています。


庭石や灯篭など露地庭園としても細かい
心遣いがなされていて、昭乗が生きていた時代の

庭園の風情が偲ばれす。
外園は、小堀遠州が建てた茶室を再現した茶室
および宗旦好みの茶室を持つ、茶の庭園としても
有名で、
珍しい竹40種 茶花として珍重される
椿200種を植栽しており、春、夏の深緑、
秋の紅葉など四季を通じて雅趣ある景観を
ごらんいただけます。」  案内書より

この他外園には美術館や昭乗の遺品を展示した
資料館や
吉兆松花堂店(要予約)があります。
        (内園は撮影禁止)
八幡市立松花堂庭園・松花堂美術館
八幡市八幡女郎花43

京阪電車楠葉駅下車 約4km 徒歩一時間
又は京阪電車楠葉駅下車バス15分
(バス停大芝下車)すぐ


地図は吉兆松花堂店よりお借りしたものに
一部文字入れさせていただきました


コメント ( 5 ) | Trackback (  )




菅原道真(845~903年)平安時代初期
菅原道真の家系は祖父が遣唐使として唐の国に渡り学問を修め
帰国して文章博士(もんじょうはかせ)になって以来、
学問の家柄として朝廷に仕えました。
父是善も文章博士。(学位の最高位)
道真も幼少より厳格な教育を受け、文才豊か33歳で文章博士になっています。

宇多天皇のもと
891年蔵人頭(天皇側近で機密文書担当)
893年参議に異例の昇進をしています。


しかし公卿達の間では学者上がりの道真の異例の昇進を疎ましく思う者が多くいましたし、
中でも政界の第一人者として活躍してきた藤原氏にとって道真の存在は面白いはずがありません。
宇多天皇は在位10年で藤原時平、菅原道真に後事を託して譲位、
出家して仁和寺に入り宇多法皇となられました。


コメント ( 3 ) | Trackback (  )
897年 醍醐天皇即位
899年 左大臣藤原時平 右大臣菅原道真(55歳)
901年 時平の中傷により菅原道真
太宰権帥に左遷が決まりました。(57歳)

道真は宇多法皇に事の次第を訴えるべく仁和寺に
急ぎ、石に腰かけて勤行中の法皇を待ちました。
(道真が腰をかけたという石は仁和寺の水掛不動尊の台座となって残っています。)
訴えをうけた法皇は、醍醐天皇に道真の赦免を
求めるために御所に赴き、
草座の上で座り込みの抗議を行いますが、
藤原菅根や衛士に阻まれて
天皇には会うことができませんでした。


道真が太宰府に赴任する前に自宅の紅梅殿の
梅に別れを告げて
"東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春なわすれそ”
と詠んだ飛梅が道真旧宅跡に残っています。
「菅大臣神社は菅原道真公を祭神とする神社で、
この地は紅・白梅殿という菅原道真公のお邸や、
菅家廊下と称する学問所の跡でまた道真公誕生の地と伝えられ……仏光寺通りを中心に南北二町、
東西一町が当時のお邸で
道真公太宰府へ左遷に当たり東風吹かば……
と詠まれた飛梅の地である。……」
神社由緒書より
飛梅伝説については太宰府に左遷された折、
自邸の梅花に思いをよせて詠んだ歌とか、

左遷の途中立ち寄った土師(はじ)里の伯母に
別れを告げる時の歌とか諸説ありますが、

天神縁起絵巻の多くが自邸の紅梅殿で梅に別れを
告げる絵として描かれていますので、
こちらに従わさせていただきました。

菅大臣神社 京都市下京区西洞院仏光寺新町西入

阪急電車京都線烏丸駅下車 南へ五条警察署手前西入300m
地図は菅大臣神社HPよりお借りして一部文字入れ
させていただきました。


« 前ページ 次ページ »