平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊谷次郎直実は武蔵の私市(きさいち)党に属し、戦時には命をかけて
勇猛果敢に戦い、平時には一貫して 実直な生きざまを貫いた東国武士でした。
手柄を強く求めていた直実の姿がよく描かれているのが、
「巻九・一二之懸(かけ)」の先陣争いです。

一の谷の戦いで、熊谷直実は搦手の義経別動隊に属していましたが、
この隊は馬で一ノ谷背後の難所を一団となって駆け下りるので、
戦功が挙げられないだろうと、夜中にこっそり隊を抜け出し、
息子の小次郎直家と旗持ち(郎党)を伴い、一ノ谷の先陣を狙って、
多井畑(須磨区)から平忠度が守る西ノ木戸に向かいます。

やはり義経別動隊を抜け駆けし、郎党と僅か二騎で先陣をめざしていた
平山武者所季重(すえしげ)は、横山党の成田五郎に声をかけられます。
「一番乗りを早々となさるなよ。味方の兵が後ろに続いて来なければ、先陣の
功名の確認をしてもらえないぞ。」と引き留めるので、それもそうだと思い
一緒に馬を進めていると、その隙に成田はさっと駆けだしました。
季重は馬に一鞭あて成田を追い抜き、おりから来合わせた
熊谷次郎直実父子とともに先陣手柄を競って西の木戸口に向かいました。

「武蔵の国熊谷次郎直実、小次郎直家一ノ谷の先陣ぞや!」と
大声で名乗りをあげますが、西木戸の総大将薩摩守忠度は、
まだ夜が明けてないので取り合いません。
そのうち平山季重も到着し、共に夜明けを待っている時、城内から
かすかに管弦の調べが聞こえてきたことが『源平盛衰記』に見えます。

次第にあたりが明るくなると、うかうかすると平山季重に、
一番乗りの手柄を奪われかれないと焦った熊谷直実は、
自分が先陣であることをアピールするために、再度名乗りをあげます。
これを聞いて「一晩中名乗っている熊谷父子を引っ捕えてこよう」と
木戸口の柵を取り外し、越中次郎兵衛盛嗣(越中前司盛俊の子)、
上総五郎兵衛忠光(上総介忠清の子)、悪七兵衛景清(忠光の弟)ら20余騎が
躍り出ると、平山季重はすかさず熊谷直実より先に木戸口へ駆け込みました。

敵中に突入したものの、郎党を含めて僅か5騎であった熊谷、平山らは
平家方の猛攻を受け、小次郎直家が負傷し、平山の郎党が討死にしたという。
ちょうどそこへ土肥実平率いる搦手本隊七千騎が駆けつけ、
源氏の白旗と平氏の赤旗が入り乱れての激戦となりました。

熊谷直実が先に先陣の名乗りをあげましたが、
敵陣の中に先に入ったのは平山季重です。
季重は城内には先に入りましたが、名乗ったのは直実の後です。
これを「熊谷、平山一二の駆け」といい、
のちに二人の間には争いまで起きたようです。

戦いでは、一番初めに敵陣に乗り込んで名乗りを挙げることや
敵将の首を討ちとることが功名手柄につながります。
その見返りに与えられる恩賞(土地・地位の保障)をめざし
時には味方をだしぬいてでも武者たちは命がけで働きました。
「人に勝る功をたてねば、生きて帰るまじ。」の
意気込みで東国の武士は故郷をあとにしたといいます。

いざ出陣といっても息子の他には、旗持ちの郎党一騎伴う程度の
直実のような
小領主は多少の危険を冒しても、
手柄を狙わねばならなかったのです。

平山季重は父の直季(なおすえ)の頃から源為朝・義朝に仕え、
保元の乱には、義朝勢の一員として後白河天皇方について功名をあげ、
後白河院の武者所となりました。
平治の乱の際は、熊谷直実とともに悪源太義平に従った
気鋭17騎の中の1騎でした。
治承4年(1180)11月、頼朝の佐竹氏征伐、金砂城(きんさじょう)の戦
いでは直実とともに目覚ましい軍功をたてた。と
『吾妻鏡』にあり、季重と直実は長年のライバルでした。

成田五郎の父成田野三成綱は、流人時代の頼朝に安達盛長らとともに仕え、
『吾妻鏡』によると、平家追討後、阿波国麻植保地頭職を与えられ、
京都で刑部丞に任じられ、
建久6年(1195)頃には尾張国の守護となるなど、
武蔵武士の中では破格の待遇を受けていました。
長子義成も頼朝に仕え、
京都守護一条能保(頼朝の同母姉妹)の家人となっています。
熊谷次郎直実の本拠地(熊谷市の熊谷寺)
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社 「図説源平合戦人物伝」学習研究社
成迫政則「武蔵武士(上)」まつやま書房 「検証日本史の舞台」東京堂出版
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館




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コメント
 
 
 
似雲法師と高槻に関係があるとは…! (yukariko)
2008-03-21 16:35:57
富田の造り酒屋紅屋の当主との交流から日本各地の文人との交流が始まり、各地に点在する有力者を訪ねて遠い地方へも歌を作りながら、西行の後を辿りつつ旅したとは…急に西行と似雲とが身近く感じられました(笑)

…北斎と小布施の豪商(豪農?)との交流なども似た話ですね…

高槻市「大王の国から」のアドレス「キャッシュ」をクリックしてついでに高槻の情報も読んできました。

ご紹介ありがとうございました!

城内公民館に月1通っていてもお隣の「しろあと歴史館」には立ち寄った事も無いのですが、インターネットとは便利なものですね。
高槻市広報の囲み記事は時々読みましたが、「大王の国から」というテーマ名には気付いていませんでした。
今回まとめて読んで「ああ、確かにこれだった!」
 
 
 
本当にインターネットは便利ですね! (sakura)
2008-03-23 08:15:17
「広報切り抜き」の写真の文字では読みにくいので、
「似雲法師と高槻」で検索してみました。

「しろあと歴史館」は時々利用しています。
昨年11月頃?芥川山城に入城していた「三好長慶特別展」がありました。
四国(三好長慶出身地)から子孫(直系ではない)だという人が「展示を見るため訪ねて来た」とおっしゃっていました。
やはりインターネットで展示をお知りになったのでしょうか。

旅案内の冊子で時々目にする「小布施と北斎」どういうゆかりがあるのか気になっていました。
よく旅をされるのでyukarikoさんは小布施に行かれたのでしょう。
このお返事を書き終えたら「小布施」を検索してみます。教えて頂いてありがとうございました。

前回頂いたコメントに書き忘れていた「西行を慕う人々」yukarikoさんのおっしゃる「西行フリーク」でしょうか。

弘川寺御住職のお話にも出てきました。
よく知られているのが「芭蕉」西行500年忌に奥の細道の旅に出ています。
その外、良寛さん、後深草二条(女西行)高杉晋作(東行)、小林秀夫、川田順、佐々木信綱…
でもやはりあいつぐ戦乱で分からなくなっていた西行の墓を見つけた似雲の業績は素晴しいですね。
 
 
 
似雲がおられたからこそフリークが後に続けたのかも (yukariko)
2008-03-24 09:56:15
後深草二条(女西行)だけは少し後の鎌倉時代…とわずがたり…ですが、他の方々はずっと後になってからの方ですね。

西行の歌が時代を超えて心の琴線に触れるのだと思います。
世の中が落ち着き文化が円熟した江戸時代のフリークが多いのはその書き記されたものが今に残っているからかも。
それにしても墓の発見を始め似雲の功績が大だと思います。

小布施は20年近く前に実母の善光寺参詣に付き合い湯田中に一泊した折に訪れました。
以前から「浮世絵・漫画」の北斎が好きだったのですが、折悪しく北斎館は休館日で、北斎の天井絵のある岩松院と高井鴻山記念館を見学し、そこで北斎の旧宅や豪商でこの地方の文化人だった鴻山の後援と交誼を知りました。
(昔の事で記憶が頼りないです。)
 
 
 
ご実家のお母様との思い出の地だったのですね! (sakura)
2008-03-24 16:55:20
一度訪ねた所は写真位しかなくても、割と記憶に残ってるものですね。(細かい事は別にして)
丁度いい機会だったので、私も昨日インターネットで検索して少し勉強させて頂きました。

後深草院二条については白洲正子がその著書「西行」の中で後深草院二条は「女西行」と呼ばれたほどの心酔者であったが西行の修行行脚の足跡を辿ったというだけで西行自身からは何も貰ってはいない。云々と酷評していますが、修行行脚の足跡を辿ったというだけでも中々できることではないですね。
佐々木信綱筆による歌碑も境内にありました。

もう一人忘れてならないのが、弘川寺のご住職です。
先代が西行記念館を私費でお建てになり、
ご自身も「境内の裏山を吉野山のように全山桜の花で埋めよう」と頑張ってらっしゃいます。
桜を愛した西行にはそれが一番の供養になるのかも知れません。
 
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