秋草の画像は十五夜さんよりお借りしました。
徳大寺実定は、待宵小侍従と昔のことやら今のことやら
話しているうちに、夜もふけてきたので
旧都が荒れていくさまを、今様にしてお歌いになりました。
♪古き都をきてみれば 浅茅が原とぞあれにける
月の光は隈なくて 秋風のみぞ身にはしむ
(古い都を訪ねてみると、今はまばらの茅萱の原となって
荒れはててしまった。しかし月の光は曇りなく輝いて、
秋風ばかりが身にしみて吹きわたる。)
と繰り返し三回見事に歌うと大宮(太皇太后多子)
はじめ女房たちは袖を涙で濡らします。
そうこうしているうちに夜も明けてきたので、
実定は別れを告げて福原へと帰ることになりました。
その時、お供の蔵人を呼んで、「小侍従があまりに
名残惜しそうだから慰めてこい。」と命じました。
蔵人は走って引き返し、小侍従の前にかしこまって、
「これは大将殿がご挨拶申せとのことなので、
歌で申し上げます。」といって
♪物かはと君がいひけん鳥の音の 今朝しもなどか悲しかるらん
(あなたがかつて夕の鐘の音に比べれば、その悲しさは
なんでもないとお詠みになったという、その朝の鳥の声が、
大将殿とお別れなさる今朝にはなぜこれほど
悲しく聞こえるのでございましょうか。)
小侍従も涙を押さえて、
♪待たばこそふけゆく鐘もつらからめ あかぬ別れの鳥の音ぞうき
(思う方を待つからこそ宵の鐘もつらいのです。
その思いを詠んだのでしたが、せっかくお目にかかったのに
今またいつお会いできるともわからないと思いますと、
別れをうながす朝の鳥の声こそ、辛いのです。)
蔵人は走り帰って、このことを大将に告げると
「よくやった、それだからこそそなたを遣わしたのだ。」とお褒めになり、
それ以来、蔵人は「物かはの蔵人」とよばれるようになったという。
待宵小侍従と実定の月を眺めながらの語らいと
翌朝名残を惜しむ歌のやり取りは、
二人の親密な関係を伺わせますが、この時実定42歳、
待宵小侍従は60歳位であったという。
巻五「月見の事」 (1)
待宵小侍従の顕彰碑・墓 『参考資料』「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社日下力・鈴木彰・出口久徳「平家物語を知る事典」東京堂出版
しかも小侍従の60歳はその年代では長生き、もうとっくに老婆の年代ではないですか?
夜中月を観て歌を交わし恋人のように語っていたとは本当に驚きです!
小侍従は歳を取っても可愛く元気な方だんたんですね!
きっとその時聞いた話や実定の様子を後から大宮やお傍の人達にも話した事でしょう。
実定の傍に仕える「物かはの蔵人」も光源氏の惟光のように心きく気配りのできる腹心だったのでしょう。
主の気持ちになり替わってぴったりの和歌が読め、相手がそれに応えて返歌を読み返し、その報告を聞いた主がまた満足をする…その一部始終が世間に知れて言い伝えられる…これこそ、みな共通の教養があり、色々な出来事や和歌も知っているからこそ出来ることですね。
「待つ宵の小侍従」と呼ばれた人の元の歌だけでなく、それから繋がる出来事や交わされたお話を書いて下さったのでその哀愁の情景がよく分かります。
年齢の関係なく、歌の上手な機知に富んだ人は大事にされていたのですね。
「思ひやれ八十のの年の暮なれば いかばかりかは物はかなしき」と歌合で詠み、
すでに80歳だったことが分かります。
82歳位まで生きて天寿をまっとうしたようです。
小侍従の名は体が小さいことからつけられたそうですし、美人で小柄だったため年齢よりずっと若く見えたのかも知れません。
その上、才女ですから若い歌人によくもてたようです。
「平家物語」は歴史書ではないので、虚構の部分が多々あります。
一説にはこの時、小侍従70歳位?ともいわれていて、
実定との恋愛関係は、
作者が「月見」につけ加えて、「平家物語」名場面の一つにしたのかもしれませんね。
紫式部が道長の娘一条天皇の中宮影子に、清少納言が一条天皇の中宮定子に、赤染衛門が影子の母や影子に仕えて活躍したように、
多子や実定も小侍従や「物かはの蔵人」のような和歌の教養があり、
才気あふれる人たちを近くにおかれ、公卿や殿上人との和歌の贈答や
機知を賭けたやりとりをうまく交わされていたようです。
蔵人の歌は「新拾遺集」に藤原経尹(つねただ)の離別の歌として小侍従の歌は「新古今集」「続詞花集」恋・題しらずとして入首しています。