平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平忠度は都落ちの途中、引き返して藤原俊成に和歌を綴った巻物を預けた後、
一の谷で討死し、平家一門も滅亡しました。
世の中が静まると、俊成は忠度に託された巻物の中から
一首『千載和歌集』に「読み人知らず」として収めます。
『平家物語』は、忠度は朝敵となった身、とやかく云っても詮ないことであるが、
だた一首それも読み人知らずとして扱われたことに心から同情し
「子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。」と結んでいます。

 故郷の花といへる心を詠み侍りける 読人知らず
♪ささなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

この歌は『万葉集』の「近江の荒れたる都を過ぐる時、
柿本人麻呂の作る歌」の本歌取りになっています。
故郷とは郷里のことでなく、かつて都があったところ、
故郷の花とは古都の桜という意味です。
これは忠度が23歳の時に、寂念の家での歌合せで詠んだもので、
都落ちはそれから20年後のことでした。


志賀の都は、人々の反対をおして天智天皇が大和から遷都し
即位した所ですが天皇の死後、皇位をめぐる争い、
壬申の乱によってわずか5年で廃都となります。
柿本人麻呂はこの宮跡を訪れ、
「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし
神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和をおきて
あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか
 
あまざかる 鄙(ひな)にはあれど 石(いわ)ばしる
 近江の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ
 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ
春日の霧(き)れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」(万葉集巻1・29)


(橿原宮で即位された神武天皇の御代以来、歴代の天皇が、
次々に後を継いで、大和で天下を治めになったのに、
天智天皇は大和を捨てて奈良山を越え、どのようにお思いになったのか、
鄙の国近江の大津宮で天下をお治めになったという。
その大宮は、ここだと聞くが、御殿はここだというが、
今は春草が生い茂り、春の日がかすんでいて何も見えない。
荒廃した大宮の跡を見ると悲しいことよ)と叙事的に歌っています。


忠度は人麻呂のこの長歌を想い起こし、本歌取りの技法を用いて、
かつて華やかな都であった天智天皇の志賀の都は、
今はすっかり荒れ果ててしまったけれども
長等山の山桜だけは昔のままに咲いていることだ。と
「ながら」と「長等」を掛けて、移ろいやすいものと
いつまでも変わらないものの象徴として
志賀の都、山桜をやさしく歌いあげています。
この忠度の歌碑が長等山に、歌碑の写しが長等公園近くの
長等神社の境内のしだれ桜の下にあります。




長等山麓の長等公園



公園奥の長等山不動明王の横の階段を上ります。

 上る途中、木々の間から大津市内が見え隠れします。

長等山の忠度歌碑

 忠度は平忠盛の六男で清盛の末弟にあたり、
「伯耆守」「薩摩守」などを歴任し、薩摩守忠度とも呼ばれます。
父の忠盛は武勇だけでなく優れた歌人として知られています。
『平家物語・巻1・鱸の事』には、忠盛が備前国から都に上った時、
鳥羽上皇に「明石の浦はどうであったか。」と尋ねられ、和歌を詠んで答えると
上皇は大いに感じ入り、この歌はのちに『金葉集』に採られた。と記されています。

♪有明の月もあかしの浦風に 波ばかりこそよると見えしか
(有明の月が明石ではあかるくて、夜に見えないほどでした。
明石の浦吹く風に夜には、波が寄るのばかりが見えました。
「明石」「明し」、「寄る」「夜」の掛詞を使って
朝と夜との情景を交錯させて表現しています)
忠盛の和歌は勅撰集に金葉集以下、18首収録されています。

父の素養を受けて忠度は『平家物語』に熊野育ちの剛の者でありながら、
和歌の才をもあわせもつ文武両道を兼ね備えた人物として描かれ、
母は歌人・僧正遍照の子孫にあたる
高成の娘(藤原為忠の娘とも)と伝えられています。

『千載和歌集』などの勅撰集に十首入集、俊成に託した巻物の百余首は、
俊成によって『平忠度朝臣集』に収められています。
平家一門には歌人が多く、都落ち後も
忠度は一門の人々とともにしばしば都を懐かしむ歌を詠みます。

藤原俊成と平家一門との関係はその他に、
琵琶の名手経正(清盛の甥)も俊成のもとで学び、
『千載和歌集』の院宣伝達の使者であった資盛(重盛の二男)は、
俊成と姻戚関係にあり弟子の一人でした。

また俊成の息子定家に師事した平行盛は、
都落ちに際して日頃詠み集めた歌の巻物を定家に送ります。
忠度の歌の処置を残念に思った定家は、行盛の歌を
『新勅撰集』まで待って、左馬頭行盛と名を顕し入集させます。
♪流れなば名をのみ残せ行く水の あはれはかなき身は消ふるとも
行盛は清盛の二男基盛の長男、
父が早くに亡くなったために伯父の重盛に養なわれました。



長等神社

忠度歌碑
歌碑傍の駒札には、長等山の山上にある歌碑をより多くの人々に
見ていただくために、それを模して建てたと書かれています。
平忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)  
『アクセス』
「長等神社」滋賀県大津市三井寺町4-1
京阪電車石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約10分
三井寺駅琵琶湖疏水に沿って山手に向かって進み、突き当たりを左へ、三井寺観音堂横。
「長等公園」大津市小関町1
 京阪電鉄京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分または石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約20分

長等神社からは、南方に進むと長等公園があります。
歌碑は公園奥の不動堂横の石段からつづら折の山道を上った桜ヶ丘(桜)
広場にあります。
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前」文理閣 新潮日本古典集成「平家物語」(上)(中)新潮社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語を知る事典」東京堂出版
古橋信孝編「万葉集を読む」吉川弘文館 犬養孝「万葉の旅」(中)教養文庫
五味文彦「西行と清盛」新潮社 新潮日本古典集成「謡曲」(中)新潮社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
スライドいショーの背景の桜が優しいですね。 (yukariko)
2013-01-29 23:06:50
このスライドショーは見て貰いたい場所を並べるのにピッタリですね。
昨年三井寺の夜桜見物に行き、観音堂から下った後、神社から疎水伝いにも歩きましたが、知らないのは情けないものです。
春になったらもう一度歌碑を見がてら、長柄公園と長柄神社に参拝したいと思いました。

武士としては優し過ぎ、武運拙く滅びてゆく平氏を哀れと思う読者には、経正や忠度の物語によって彩られた平家物語は、なお一層愛されたのでしょうね。
 
 
 
下手な写真も少しはましに見えます (sakura)
2013-01-30 15:00:30
Yukarikoさんに教えていただいたスライドショーのお陰です。
ありがとうございました。
長等公園と長等神社ぜひお訪ね下さい。山上の桜ヶ丘には少ないのですが、
公園には700本の桜の木があるとか。桜の穴場かも知れません。

「平家物語」の作者が、忠度や経正に共感するのは、芸術性の滅亡に対する哀歌。
平安王朝文化の最後の担い手であった平家公達への愛惜の念。
もし平家一門が滅びることなく和歌や芸道にいそしんだ忠度や経正などが
その命を全うしていればという気持ちが強かったのでしょう。
忠度都落ち、経正都落ちは特に愛読されているようです。
 
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