平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




寿永3年(1184)正月、平氏追討のため西国へ出陣しようとしていた
木曽義仲は鎌倉から頼朝の命を受けた東軍の軍勢、
大手の大将軍頼範、搦手の大将軍義経軍が都に向かってきたと聞いて
軍勢を宇治や瀬田に配置しました。宇治川を挟んで義経軍と
義仲軍が向かい合い、この合戦で義仲軍は敗れ
散り散りになってしまいました。

ここから『巻9・義経院参(いんざん)』のあらすじをご紹介します。

宇治川の合戦で義仲軍勢を敗った義経は、一気に京へ軍を進め、
後白河院の身柄を確保しようと、真っ先に院御所に駆けつけました。

ところがその時、義仲は呑気に最愛の女房の家に立寄り、
急き立てても
いっこうに出てくる気配がないので、郎党はたまりかねて
腹をかき切って
義仲に出発を促します。ようやく重い腰をあげた義仲が
六条河原に出てみると、
続々と義経軍が現れ、とうとう主従7騎になってしまった義仲は、
瀬田にいる乳母子今井四郎兼平のもとに落ちていきます。

平業忠(なりただ)が御所の土塀に上って周囲を見回していると、
白旗を掲げ甲冑に身を固めた武士たちが五、六騎
こちらに向かって馳せ来る様子が見えます。義仲が戻ってきたと驚き
大騒ぎになりますが、よく見るとその軍勢は鎌倉勢でした。

義経が門前で馬を下りて声高に「鎌倉の前右兵衛佐(すけ)頼朝の弟九郎義経が
参上しました。」と言うと業忠は嬉しさのあまりあわてて土塀から躍りおちて
腰を打ちますが、痛いのも忘れ這いながら御前に参ってこの由を申し上げます。
門が開けられ法皇が「中々雄々しげな者どもよ。みな名を名乗れ。」と仰せになります。

赤地の錦の直垂に紫裾濃(すそご)の鎧着て、
鍬形打った兜(威容のために兜の前に打った前立物)の緒を締め、
黄金づくり(黄金で装飾した)の太刀を帯(は)いているのが
今度(こたび)の大将軍、生年二十五歳の義経です。
紫裾濃は、上の方が白で裾に向かって次第に濃い紫色になっています。

残る五人の鎧は様々ですが、精悍不敵な面魂いずれ劣らぬ強者ぞろい。
次に「畠山重能の子、次郎重忠、生年二十一歳!」
「河越重頼の子、小太郎重房、生年十六歳!」」
「渋谷重国の子、右馬允(うまのじょう)重助、生年四十一歳!」
「梶原景時の嫡子、源太景秀(かげすえ)、生年二十三歳!」
三目結(ゆい)の直垂に、小桜を黄に返した鎧の裾金物が、
ことにきらめいて見えるのは「佐々木秀義の四男、四郎高綱、
生年二十五歳!今度の宇治川の先陣」と次々に名乗ります。
そこへ味方の兵が続々と馳せ参じて四方の門を固めると、
法皇はじめ御所中みな安堵の思いに包まれます。こうして後白河院と
後鳥羽天皇の身柄を手にした義経は官軍、義仲は賊軍となりました。

当時、後白河院は平業忠邸を御所としていました。
この御所は六条西洞院にあったので六条殿と呼ばれました。
 
長講堂写真集(後白河院の御所六条殿内の持仏堂)  クリックして画像をご覧ください。 

ところで伊豆に配流された頼朝の生活を二十年間支え続けたのは、
頼朝の乳母比企尼であったことは以前に述べました。
義経の初陣である義仲追討の戦いに、
嫡子重房とともに従った河越重頼の妻がこの尼の娘です。
頼朝は鎌倉に本拠を構えた時、比企尼の恩に報いるため、
尼を鎌倉によびよせ、その中心地の一角に
比企谷(ひきがやつ)とよばれる広大な土地を与えます。
鎌倉駅にほど近い現在の妙本寺がその館跡です。

重頼の妻は、のちに義経の正妻となる娘を生み、
政子が頼家を身ごもった時には比企谷の館は産所として使われ、
彼女は頼家の乳母の一人となります。
しかし頼朝と義経が不和になったことから、重頼の運命は大きく変わり、
所領を没収された上に重頼と嫡子重房は頼朝に殺害されます。
ちなみに平泉で義経と運命を共にした妻は重頼の娘とされています。

木曽義仲との法住寺合戦の際、法住寺殿を焼かれた後白河法皇は、
捕らわれて摂政近衛基通邸から側近平業忠の屋敷に遷されます。
六条西洞院のその屋敷は法皇の御所六条殿とされ、建久三年(1192)、
法皇はこの御所において、66歳でその波乱に富んだ生涯を終えます。
その際、業忠はお棺を担いで葬車に入れる重要な役を担っています。
平家を都おちさせて、京に入った義仲に
宿所として与えられたのもこの業忠の屋敷でした。

義経が頼朝に追われる身となった時に、逃亡中の義経に様々な人が
援助の手を差し伸べましたが、その中に、平業忠の名がみえます。
文治元年(1185)11月、頼朝の申入れで、
業忠は逃亡中の義経を助けたという名目で左馬権頭を解任されました。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 
上横手雅敬「流浪の勇者源義経」文英堂
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社

財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館 
 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




義仲は後白河法皇と対立が深刻化し、
都に入ってわずか半年そこそこで滅びます。
法皇と義仲との関係が急激に悪化したのは何故でしょう。

義仲が倶利伽羅峠で大勝利すると、その勢いを見て
北陸・美濃・近江などの反平氏の武士が従い、怒涛のように都入りします。
兵糧米の準備が十分でないまま入京した義仲軍は、
飢饉の痛手が冷めやらぬ都で略奪狼藉を繰り返します。
義仲はその取締りを命じられますが、
雪だるま式に膨らんだ軍は、統制が取れない寄り合い所帯。
義仲は部下らの行動を阻止できず、
都の治安回復に失敗し厳しい批判にさらされます。

法皇は義仲に都の守護を命じながら、
守護に任じられた兵の生活を保障していません。
義仲に朝廷と渡り合える才覚があり、
食糧の確保が多少なりともできたなら、
ここまで深刻な事態に陥ることはなかったはずです。

「都の守護に任じられた者が馬に乗るのは当然だ。
その馬に食べさせるために、田を刈って馬草にする、
兵糧米がなくなれば若い者が人家に押し入って徴発する。
それがなぜいけないのか。
大臣や宮の御所を襲ったわけではないものを。」と
義仲は開き直りともとれる発言をします。
その主張にはもっともな点もありますが、
右大臣九条兼実の日記『玉葉』には社寺や人家が襲われ、
人々が田舎に逃げていくという悲惨な状況が記され、
都人は一斉に反感をつのらせます。

このような状況の中、安徳天皇の代わりに高倉上皇の皇子の中から
新たな天皇を擁立することになりますが、
義仲はこの問題に割り込みます。
平氏追討の令旨を発した以仁王(もちひとおう)の功績を強調し、
この王の遺児北陸宮の即位を強く迫ります。
結局、義仲の主張は退けられて、四宮(後鳥羽天皇)が即位します。

皇位継承者を決める権限は治天の君がもち、
家来が口をはさむ問題ではありません。
法皇や貴族の義仲への反感は一層強いものとなります。
船戦になれない義仲軍は水島合戦で惨敗し、
平家との戦いも思うように運びません。

さらに義仲を窮地に追込むのが、法皇と絶えず連絡を取りながら
都の政治情勢をじっと見つづけ、義仲の失脚を図る鎌倉の頼朝です。

義仲が都を留守にしている間に、法皇は邪魔になった義仲を除こうと、
頼朝との提携をさらに進め、
頼朝の上洛を促し、寿永二年十月宣旨を下します。
これにより頼朝はもとの官位に復し、東国の事実上の支配権を与えられます。

平家を都から追放したのは義仲であって
頼朝は鎌倉にあって何もしていないのに、
義仲が上洛して二日後、法皇は平家を都から追放した
功績の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という判断を下します。
さすがに義仲らが抗議して頼朝には恩賞は与えられませんでしたが、
この評価は義仲入京以前から頼朝が法皇に働きかけ、
両者が緊密な関係にあったことがうかがわれます。

義仲の行動の一つ一つは純粋なのですが、都の情報にうとく
複雑な宮廷社会を背景に繰り広げられる老獪な法皇や貴族、
頼朝の政略に巧みに交渉する才能がなく、
有能なブレーンもいません。
義仲唯一の参謀・覚明(かくみょう)もいつのまにか姿を消しています。

『平家物語の虚構と真実』に次のように書かれています。
「覚明は『平家物語』には法住寺合戦の際には、義仲の側近にいるのだが、
他の記録にはまったく見えない。これほどの知名の知識人が貴族の日記にも
まったく姿を見せないのは義仲のブレーンから遠ざけられたしか思えない。
おそらく実際は法皇との合戦にも参加していなかったと思う。」

義仲は勢力を盛り返し備前国まで来ていた平家に頼朝との決戦に備えて
同盟を申しいれますが、むろん平家側は弱体化した義仲と結ぼうとはしません。

ちょうどこの頃、頼朝が派遣した義経が東国の年貢運上を名目にして
近江・伊勢あたりに進んできました。
叔父行家とも不和になり、西に平家・東から頼朝勢が迫り、
都では孤立を深め義仲は追い詰められていきます。
そこへ法皇は義仲に戦いを挑むように兵を集め、
法皇の御所・法住寺殿の周囲に堀をほり、
道路には逆茂木を立て防御を固めて挑発します。

『玉葉』に「法住寺殿に兵を集めて過剰に警固するのは王者の行いではない。
これでは義仲に戦いを挑むとしか見えない。義仲に罪があるなら
その軽重に応じて処罰すべきである。」と
法皇の無責任な政道を批判する記事が記されています。

法皇が頼朝に上洛を促すと、
義仲に従って入京した諸国の武士の中にも
頼朝の上洛が近いと判断し、義仲から離れる者がではじめます。

焦った義仲は挑発されるまま、とうとうクーデターを決行します。
寿永二年(1183)十一月の法住寺合戦です。
法皇方には延暦寺や園城寺の僧兵はじめ続々と兵が集まります。
義仲軍は信濃から従ってきた郎党と
叔父の志田義広らの少数でしたが精鋭ばかりが残り、
法住寺殿を囲み、放った火矢があっという間に
院御所を猛火で包み百余人を殺して圧勝します。

この騒ぎに法皇方の延暦寺座主・明雲や
園城寺長吏・円恵法親王(法皇の第4皇子)らも流矢にあたって亡くなり、
法皇は捕えられて五条東洞院の摂政藤原基通邸に移されます。

法皇が一介の武士と戦ったのも、
武士が法皇を武力攻撃したのも前代未聞の出来事です。

 『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 
安田元久「源頼朝」吉川弘文館

安田元久「源平の争乱」新人物往来社 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
高坪守男「朝日将軍木曽義仲洛中日記」歴史史料編さん会 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
 「木曽義仲のすべて」新人物往来社

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )




平清盛は平家物語では人の気持ちのわからない暴君として描かれ、
物語の冒頭で『驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には亡びぬ、偏に風の前に塵に同じ。』とし反逆と横暴に
よって歴史に
名を残した中国や日本の驕れる人、猛き者を列挙し、
最後に清盛の有様を『間近くは、六波羅入道前の太政大臣平朝臣
清盛公と申しし人のあり様、伝え聞くこそ心も言葉も及ばれね。』と
その横暴ぶりにおいて誰よりも勝っていたと語っています。
しかし、清盛の生涯を史実に即して見てみると、確かに最晩年には悪行が
集中して行なわれていますが、実像は平家物語が冒頭で語るイメージとは
程遠いように思われます。平治の乱後、頼朝が助命されたのは上西門院に
依頼された池禅尼が清盛を説得したといわれていますが、それを受けとめた
清盛が
大らかな人物だった事も起因しているのではないでしょうか。
「平家物語・経の島の事」、鎌倉時代中期の説話集
「十訓(じっきん)抄」からも迷信や旧習にとらわれない合理的な考えを
持つ一方で大変思いやりのある一面があることが垣間見えてきます。
今回は清盛にまつわるエピソードや「経の島の事」、「十訓抄」から
知られざる清盛の人柄について触れたいと思います。

平治の乱は清盛が熊野参詣に出かけた後、藤原信頼、源義朝が後白河院の
御所三条殿を襲撃して始まった。藤原信頼は後白河院を一本御書所に幽閉、
二条天皇を内裏に移して除目を行なった。すぐに京へ引き返した清盛は
二条天皇の側近と連携して天皇を六波羅に脱出させた。この時、摂関家の
関白藤原基実が六波羅へ駆けつけたが、基実は平治の乱の首謀者
藤原信頼の妹婿であるため、その場にいた人々の間には微妙な空気が流れた。
しかし清盛は心おきなく歓迎したので人々は感心したという。清盛の度量の
大きさを示すエピソードである。平治の乱後、清盛は武士としてはじめて
公卿の列に連なり、やがて太政大臣という最高の官職についた。
当時、後白河上皇と二条天皇は父子でありながら仲が悪く、双方の貴族は対立
していたが、清盛は後白河上皇、二条天皇双方に心配りをして慎重に行動
したので、異例のスピード出世にも関らず清盛を悪く言う者はいなかったという。
*二条天皇は後白河上皇の子であるが、美福門院の猶子になっている。
鳥羽院と美福門院は、近衛天皇崩御の後、二条天皇を即位させるまでの
中継ぎの天皇として後白河を即位させた。しかし後白河にとってこのような
状況が面白いはずはなく、この父子の間には潜在的な対立があった。

「平家物語(巻六)経の島の事」
清盛の葬送の夜、どうしたことか不思議な事が起こった。玉を磨き金銀を
ちりばめて造った西八条殿が急に焼けた。放火という噂であった。
またその夜、六波羅の南の方角で2、30人ほどの声がして「嬉しや水、鳴るは
瀧の水…」という延年舞の歌謡を舞い踊り、どっと笑う声がした。去る、正月に
高倉上皇が崩御され、僅か1、2ヶ月をおいて入道相国が亡くなられた。
身分のいやしい賤の者といえども、どうして嘆き悲しまずにいられよう。
これはきっと天狗のしわざであろうと取りざたされた。平家の中で血気盛んな
若者百人余が笑い声をたよりに尋ねて行くと、院の御所法住寺殿であった。
この御所には、この三年の間、院のおいでもなく留守を預かっていた
備前前司基宗の知り合いの者どもが集まって酒を飲んでいたのである。
時節柄騒ぐまいと言っていたがそのうちに酔いがまわってきて舞い踊りの
騒ぎになった。そこへ押寄せた若者らが酒に酔った者どもをからめとって
六波羅に引っ立て御殿の中庭に引き据えた。前右大将宗盛はことの子細を
尋問し「酔っているものを斬るわけにもいかない」と全員が釈放された。
『百錬抄』によるとこの酒宴騒ぎは最勝光院の中であったとしています。
最勝光院は法住寺殿の一角にあり、建春門院の御所でした。清盛が亡くなる
少し前に後白河院は最勝光院に移られ、清盛が死亡した夜、最勝光院から
今様を乱舞する声が聞こえてきたのは「清盛死去」の記事で述べました。
*「嬉しや水、鳴るは瀧の水…」
延年舞(興福寺、東大寺、延暦寺、四天王寺等で法会の余興に僧や
稚児の演じた舞)の詞で、よく歌われていた。
『梁塵秘抄』四句神歌(しくのかみうた)に「滝は多かれど 
うれしやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも絶えでとうたへ
やれことつとう」とあり『義経記』他中世の作品によく見える。


人が死んだ後は朝夕に鐘をならし常例の勤行をするのが世のならいであるが、
入道相国の死後、法事はいっさい行なわれず、明けても暮れても合戦の策を
めぐらせていた。清盛公の最期の様子は見るにたえなかったが、
普通の人とは思われないことも多かった。日吉神社へ参詣の時なども平家
はじめ他家の公卿たちを大勢お供につれて行かれるので、摂政関白の
春日参り、宇治参りなどもこの盛大さにはとても及ぶまいと世間の人々は
噂しあった。また何よりも福原の経ヶ島を築いて、上り下りの船が今の世に
至るまで不安なく航行できるようにしたのは誠に賞賛に価することである。
経ヶ島は応保元年二月上旬に築き始められたのであるが、同年八月に
突然大風が吹き、大波が立って崩れてしまった。同三年三月下旬に
阿波民部成能を奉行として再度築かれた。その時、「人柱をたてるがよかろう」
などと公卿詮議があったが清盛は「それは罪深いことだ」と石の面に一切経を
書かせて海に沈めた故に人工島は経の島と名づけられた。

「十訓抄(第七思慮を専らにもっぱらにすべき事)第二十七」
福原大相国清盛公の若い頃は立派であった。その場に困り果てるような、
どんな嫌なことであっても、その人が冗談でやったことと思い定め、
その人がやったことが少しもおかしくなくても、本人の前では、にこやかに
笑ってやる。部下がどんな誤りを犯しても、また物を散らかし、
とんでもない事をしても、荒々しく声を立てることなども一切なかった。
冬の寒い頃には若い小侍従たちを自分の衣の裾のほうに寝かせてやり、
彼らが朝寝坊していればそっと寝床から抜け出して思う存分寝かせて
やった。召し使うにはあまりに身分の低い者であっても、その者の家族や
知人が見ている前では一人前の人物として扱ったのでその者は
大変に名誉だと感じ心から喜んだ。このように情けをおかけになるので、
ありとあらゆる者たちが、清盛公に心服したのだった。
人の心を喜ばせるというのはこういうことをいうのである。

『参考資料』
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 上杉和彦「平清盛」山川出版社
上杉和彦「歴史に裏切られた武士 平清盛」アスキー新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 高橋昌明「別冊太陽 平清盛」平凡社
新編日本古典文学全集「十訓抄」小学館 新潮日本古典集成「平家物語」(上・中)新潮社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




治承4年(1180)8月、伊豆で挙兵した頼朝は、伊豆国目代の
山木兼隆を討取り初戦に勝利しましたが、続く石橋山合戦では散々に敗れ、
房総半島に逃れた頼朝は、安房の豪族千葉常胤・上総介広常らを従えると
その軍勢は数万に膨れあがりました。
これを見て、当初平家方であった武蔵の武士も頼朝に降り、
頼朝は源氏ゆかりの地鎌倉に入りました。
9月には信濃で木曽義仲、甲斐では甲斐源氏の武田信義が挙兵、
全国で反平氏の動きが盛んになり、各地で源氏やその与党が蜂起し
内乱状態となっていきます。
ここから諸国の反乱を伝える「飛脚到来の事」の章段を読んでいきます。

木曽という所は信濃にとっても南の端、美濃との国境であるので、
都もきわめて近い。平家の人々は義仲の謀反を漏れ聞き
「東国の謀反さえ手に負えないのに北国(北陸)
まで謀反を起こすとは。」
大騒ぎしましたが、清盛は「義仲なんぞ案ずるには及ばぬ。
信濃一国の武士どもがぜんぶ義仲に従ったとしても、越後(新潟県)には
余五(よご)将軍の子孫・城太郎資長、同四郎資茂兄弟がいる。
この兄弟には一族郎党が大勢いる。あれらに命ずれば義仲などたやすく
討ちとってくれようぞ。」というが、
「はたしてそうであろうか。」とささやく者も多くいました。
余五将軍とは鎮守府将軍平維茂(これもち)のことで、
平安時代中期の武勇の聞こえ高い武将です。


治承5年(1181)2月1日、木曽義仲を追討するために、城太郎資長は
越後守(新潟県の長官)に任命されました。
資長の越後守は誤りです。
当時は藤原光隆が越後の知行国守、その子雅隆が
越後守でした。
平家物語は語られているうちに、
またもとの調査が
不充分なために所々に間違いがあります。

同月7日、大臣以下の家々では尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)経を
書写し、不動明王の画像を描いて仏に奉納して供養しました。
これは兵乱鎮定のための祈願です。
同月9日、河内国石川郡に住む武蔵権守(ごんのかみ)入道義基の子息
石川判官代義兼が平家に叛いて頼朝に味方するとの噂があったので、
清盛はすぐに討手をさし遣わしました。
大将には、源大夫(げんだいふ)判官季貞(すえさだ)、摂津の判官盛澄(もりずみ)が
軍勢三千余騎を従えて河内国へ出発しました。
城内の反乱軍は僅か百騎ほどでした。
朝の六時に矢あわせして一日中戦い暮れ、夜に入ると
義基(よしもと)法師が討死し、子息の石川判官代義兼は
痛手を負って生捕りにされ、義基法師の首は都大路を引きまわされました。
武蔵権守義基は義時の子、八幡太郎義家の孫にあたります。

高倉院が崩御され服喪中だというのに賊の首を渡されるということは、
堀川天皇崩御の時、前対馬守源義親の首を
引き回したことがあって、その例にならってのことでした。

同月12日、九州から飛脚が到来しました。宇佐の大宮司公通から
九州の者ども、緒方三郎惟栄(これよし)をはじめとして臼杵、
戸次(へつぎ)、菊池、原田、松浦党にいたるまで皆平家に叛いて源氏に味方し、
大宰府の指図にも従わないという知らせでした。
「東国・北国が平家に叛いた上に西国までもこの有様、これはいかに」と
平家の人々は手を打って呆れかえりました。

同月16日、伊予国より飛脚が到来し、去年の冬の頃から伊予国の河野通清はじめ
四国の者どもが皆、源氏に味方したので、平家に志深かった備後国(広島県)の
額(ぬかの)入道西寂(さいじゃく)は軍勢三千騎を率いて伊予へ渡り、
道前・道後の境にある高直城に押寄せてさんざんに攻め、
河野通清を討ちとりました。この時、通清の子息河野通信は伯父の所に
出かけていて留守でしたが、父を討たれて心穏やかでなく
西寂を討つ機会を窺っていました。

四国の無法者を鎮めた西寂は正月十五日、備後の鞆(とも)へ渡り、
遊君遊女どもを召し集めて遊び戯れ酒盛りをしていた所へ河野通信が集めた
決死隊百余人が突然押し寄せました。西寂側には三百余人の武士がいましたが、
急なことだったので慌てふためくばかり。西寂を生捕り、伊予へ戻った河野通信は
父が討たれた高直城まで連れていき鋸で首を切ったとも、磔にしたともいわれています。
その後は四国の者どもは平家に叛き河野四郎通信に従いました。

又、紀伊国の熊野別当湛増は平家重恩の身であったが、にわかに心変わりして
源氏に味方したという情報が流れました。東国、北国が平家に叛いた上に南海、
西海までもとは。これはまた何としたことだ。四方の賊がにわかに叛乱を起こし、
世は今に滅びるであろうと平家一門ならずとも心ある人は嘆き悲しみます。

熊野別当湛増は、当時はまだ権別当でしたが、のち別当となっています。
父は熊野神社の長官十八代別当湛快、母は源為義の娘鳥居禅尼で
田辺水軍を擁して勢力を誇り、古くより平家と縁が深かった人物です。

京都市南区の羅城門跡には、平正盛の凱旋をつげる駒札が建っています。
◆対馬守源義親

八幡太郎義家の嫡男義親は勇猛ではあったが思慮分別に欠けた乱暴者で
あったため晩年の父を苦しめます。義親は任国対馬に赴かずに九州各地で
乱行を重ねたため隠岐に流されるが、父が亡くなると対岸の出雲に渡って
国府を襲い目代を殺害した。白河院は因幡守平正盛(清盛の祖父)に
義親追討を命じた。源義親を追討しその首を携えた正盛が
多くの郎党を従えて鳥羽の造り道を凱旋し無名だった平正盛が
一躍武名をあげる機会となりました。

義親追討の功により正盛は因幡守から但馬守に栄転した。

これによって河内源氏は凋落、伊勢平氏の台頭を告げることとなった。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 高橋昌明「清盛以前」文理閣
高橋昌明編別冊太陽「平清盛」平凡社 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




富士川の戦いで大勝利した源頼朝は鎌倉に引き返し、
ここを本拠にして東国の地盤を固めます。
一方頼朝の従兄弟にあたる源義仲の所にも叔父の源行家に
よって以仁王の令旨がもたらされました。今回は「巻6・小督の事」の
末尾部分から義仲旗揚げの章段を読み進めていきます。

後白河法皇にとってお嘆きが続きました。永万元年(1165)には
第一の御子二条院が崩御、安元2年(1176)の7月には孫の
六条院がお隠れになり、天に住むならば比翼の鳥、地上で
あるならば連理の枝のようにありたいと天の川の星を指して
ご夫婦のちぎりを交わされた建春門院(高倉天皇の生母)が
朝露のようにはかなく消えてしまわれた。

年月は経ってもこれらの出来事がまるで昨日今日のことのように思われて
涙もつきないのに、治承4年(1180)の5月には第二皇子の
高倉宮(以仁王)が討ち取られてしまわれました。その上、現世
後世の二世にわたって頼みに思っておられた新院(高倉院)
までも先にお亡くなりになったので恨みごとを言う言葉もなく
涙ばかり溢れでます。「悲しいが上にも悲しいものは老いて子に
先立たれることより悲しいことはない。若くして子供が親に
先立つことより恨めしいことはない。」と大江朝綱が
子息の澄明に先立たれた時にお書きになったが、
後白河法皇も今になってなるほどと思われました。
こういうわけで後白河法皇は法華経の読誦も怠らず、
真言の修行にも精を出されていました。新院の崩御で世間は喪に
服すことになったから、いつもは華やかな装束をまとっていた
大宮人達も一様に喪服に着替えました。(巻6・小督の事)

清盛はこのように法皇にひどく冷酷なふるまいをした事(鳥羽殿に幽閉)を
さすがに何となく空恐ろしく思われたのか、法皇をお慰めしようと
して安芸厳島内侍(巫女)との間にできた18歳の娘を差出ました。
多くの公卿をお供につけたのでまるで女御が入内する
ようでした。「高倉上皇が崩御されてまだ二七日(2回目の7日)さえ
過ぎていないのに何ということだ。」と人々は噂しあいました。

その頃、信濃国(長野県)に木曽冠者義仲(駒王丸)という源氏がいました。
これは故六条判官為義の次男で、帯刀先生(たちはきせんじょう)
義賢(よしかた)の子です。義賢は去る久寿2年(1155)8月16日、
武蔵の国大蔵で甥の鎌倉の悪源太義平(頼朝の兄)によって殺されました。
その時、2歳であった義仲は斉藤実盛の世話で、母に抱かれ
木曽の
中三権守兼遠のもとに行き、「この子を育て
一人前の人間にしてください。」とお願いすると
兼遠は義仲を受け取り20余年の間かいがいしく育てました。
成長するにつれて
義仲は、力も人並外れて強く、
気性もまたとなく剛毅でした。

「力の強さ、弓矢をとっては昔の坂上田村麻呂・藤原利仁(としひと)
・平維茂(これもち)の各将軍、平致頼(むねより)・藤原保昌、
先祖の源頼光・源義家と比べても勝るとも劣ることはない。」と
人々は噂しました。13歳で元服しましたが、まず石清水八幡宮へ参り参籠して
「四代の先祖義家殿は八幡神の御子として八幡太郎義家と申された。我も
それにあやかるぞ。」と御宝前にて髻とりあげ木曽次郎義仲と名乗りました。
日頃は中原兼遠に連れられて都へ上り平家の様子を探っていました。

義仲はある日、兼遠を呼んで「兵衛佐頼朝は東(関東)八カ国を従え、
東山道(東海道)より攻め上り、平家を追い落とそうとしている。
義仲も東山・北陸両道の軍勢を従えて、頼朝より1日も早く平家を滅ぼし、
日本国に2人の将軍ありと言われたいと思うがどうか。」と言うと
兼遠は大いに喜んで「それでこそ今日までお育て申しあげたかいがあった
というものです。さすが八幡殿(源義家)のご子孫です。」と
いうので義仲は気を強くして謀反を企てました。
廻文(めぐらしぶみ・回覧文)をまわして決起を促すと
信濃国根井幸親をはじめとして信濃国兵(つわもの)ども誰一人として
背くものはなかった。上野国(群馬県)では多胡郡の武士たちが父義賢の
よしみによってみな味方につきました。平家が末となる機会をとらえて
源氏が長年の望みを遂げようとし始めたのです。(巻6・廻文の事)

*清盛は高倉院が亡くなられたら徳子を後白河法皇のもとに
入内させようと考え時子もこれを承知しました。
しかし徳子は帝が亡くなられたら出家すると言って強く拒否したので
代わりに厳島内侍に生ませた娘を入内させることにしたのです。
後白河法皇はこの話に乗り気でなく頻りに辞退しましたが、
清盛は強行に御子姫君というこの娘を入内させよと迫り、
養和元年(1181)正月十四日、高倉院が没すると
二十五日、
法皇の御所に入内させました。
しかし法皇はこの娘を
猶子のように取り扱われたという。
高倉院の命が今日明日に迫っていたころにこの入内話が
進められていたと九条兼実の日記『玉葉』に記されています。

このでき事について一般的には娘婿高倉院を失った清盛は
後白河法皇との関係をつなぎとめて悪化した政治情勢の
収拾を後白河に託したかったのである。
と云われていますが、
『平清盛の闘い』には、「(後白河)が一応院政を
復活させたとは言え、清盛は後白河の政治活動を厳しく
制約していたし、貴族や寺社に対する態度も決して妥協的ではなかった。
したがって、この入侍を単に迎合と見なすのは誤っている。
(中略)清盛はこの女子の入侍を機に、院御所に平氏側の
人間を送り込んだり、頻繁に出入りさせようとしたのである。
これによって、後白河の動向を規制するとともに、院周辺の
情報収集を目指したのではないか。
同時に流れた徳子入侍の噂は、冷泉局(御子姫君)入侍の
情報が、誤解、あるいは意図的に曲解されて、
広まったものであろう。」と書かれています。
『参考資料』 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫

上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館 
 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




長寛二年(1164)12月、蓮華王院(三十三間堂)が完成し、
盛大な落慶供養が営まれました。
後白河上皇は息子の二条天皇も招待したので当然
行幸するものと思っていましたが、
天皇は臨席せず、
同寺の僧侶に対する勧賞の沙汰もありませんでした。
取り次いだ平親範がそのことを伝えると、上皇は悔し涙を流して
「やゝ、なんのにくさに にくさに」と仰せられたという。
上皇と天皇の仲が悪かったことと同時に上皇の権力がそれほど
強いものでなかったことを示す逸話として伝えられています。
 
蓮華王院の本堂を造営したのは平清盛です。
上皇はこれの賞として、清盛の嫡男重盛を正三位に叙しました。

清盛は後白河天皇の譲位後、まもなく勃発した平治の乱(1159)では、
二条天皇方として活躍し、後白河
上皇はこの乱で
近臣の藤原信西・藤原信頼を失ったばかりでなく、乱後、
後白河上皇とその近臣、二条天皇とその近臣、二つの勢力が
並び立ち、主導権を争ってことごとに批判・反目しあい、
互いに相手の近臣の解官・流罪をくり返していました。
応保二年(1162)、押小路東洞院に造営された天皇の里内裏を
平家一門が宿直しながら警護するなど
清盛は二条天皇の政治を支える立場でした。
同時に自分の妻の妹滋子が上皇の皇子を生んだことで、
上皇ともつながりを持ち、蓮華王院を造営するなど
資金援助を怠ることはありませんでした。

亡き鳥羽院が次の天皇にと選んだのは、聡明な
守仁親王(二条天皇)でしたが、その父親の
雅仁親王の乳母の夫である信西が画策し、
中継ぎの天皇として後白河が即位したのでした。
美福門院の強い意向もあり、わずか3年で息子に譲位した
後白河上皇は、平治の乱で2人の側近を失くして力を失い、
それに代わって二条天皇が政権をとるようになりました。

天皇は母親が早くに亡くなり、美福門院の養子となっていたのです。

清盛は状況を見ながら天皇方についたり、
上皇方についたりしながら両者の間を巧に泳ぎまわり、
その対立をうまく利用しながら出世しました。
もっともこの対立は永万元年(1165)七月、
二条天皇が死去したことで終わり、これ以後、
後白河上皇が権力を振るうことになります。
三十三間堂(蓮華王院)  
『参考資料』
財団法人古代学協会「動乱期の天皇 後白河院」吉川弘文館 「京都学への招待」角川書店
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





平家が奈良を焼き討ちにしたのは、治承4年(1180)暮れのことでした。
都では、
 以仁王が平家打倒の挙兵した際、三井寺とともに以仁王に味方した奈良の
興福寺・東大寺の僧兵は朝敵である。奈良も討つべしと評定しました。
これを聞いた南都では清盛への反感がますます高まり、不穏な動きをしていました。
興福寺は藤原氏の氏寺であるため、摂政藤原基通が説得しても興福寺の
僧兵はいっさい聞き入れません。
僧兵たちは大きな毬打(ぎっちょう)の玉を作り、
「清盛の頭」と名づけて「打て」「踏め」などと言って騒いでいました。
安徳天皇の外祖父である清盛をこのように言うのは狂気の
沙汰としか思えません。

興福寺の騒動を鎮めるために瀬尾太郎兼康が
大和国の検非違使に任命され、
五百余騎を率いて奈良に向かいました。「
鎧兜はつけるな。弓矢は持つな。
たとえ僧兵が狼藉を働いても、
決して手向かいするな。」と出発する時、
兼康に清盛は強く命じていました。
ところが僧兵らはこのような内情とも知らず、
兼康の軍勢を散々討ち散らし、
60余人の首をはね、猿沢の池の端に並べるという
行動にでました。
これには清盛も激怒し、直ちに重衡(清盛5男)を大将軍、 
清盛の甥・平通盛(みちもり)を副将軍として四万余騎を奈良に差し向けました。
 

これを迎え撃つ僧兵7千余人が奈良坂、般若寺の二ヶ所の
道に堀を掘り、
逆茂木をひき、楯を並べて待ち構えていました。
「逆茂木(さかもぎ)」とは刺のある木の枝などを束ねて横に結んだ木柵のことです。
楯を横一列に並べると垣根のようになり、堀、逆茂木、楯で戦場に
簡単なバリケードができ、これを城郭と呼びます。

平家は軍勢を二手に分け奈良坂、般若寺に攻め寄せ、馬上から次々と矢を射るので
僧兵は防ぎかねて多くの者が討たれました。
落ち行く僧兵の中に坂四郎栄覚という
悪僧がいました。太刀を取っても
弓矢を取っても、力の強さでも南都七大寺、十五大寺随一。
萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻に黒糸縅の鎧を重ね着て、左右の手には細長く反り返った
白柄の大太刀と黒漆の大太刀を持ち、同宿の者
十余人を率いて東大寺の転害(てがい)門より
討って出て、敵方を暫く
防ぎとどめ、多くの軍兵が馬の足を栄覚の長刀で払われ落馬して
討たれました。しかし所詮多勢に無勢、永覚の前後左右で戦っていた僧兵は皆討たれ、
栄覚一人が
最後まで勇猛果敢に戦っていましたが、力及ばず南へと落ちて行きました。
午前6時から矢を射あって一日中戦い、
日が暮れる頃には平家軍は奈良坂・般若寺を
陥落させ、戦いは夜戦になりました。余りに暗いので重衡が同士討ちをさけようと
般若寺の門前で「火をつけよ!」と命じると、
播磨国の住人福井荘(姫路市西部)の
庄司二郎大夫友方が楯を割り、松明のつもりで民家に放った火が師走の強風にあおられて、
奈良坂を駆け下り
あっという間に東大寺、興福寺の伽藍を呑みこんでしまいました。

僧兵の中でも、恥を知り、名をけがすまいと思う僧兵は奈良坂、般若寺で討ち死にし、
歩ける者は吉野、十津川方面へと落ちのびて行きました。歩けない老僧や修行僧、
稚児、女、子供らは我先にと、興福寺の中や大仏殿の二階に逃げ込みました。
大仏殿の二階へと駆け上った者は、敵が上れぬようにと梯子を取り外してしまいました。
そこへ猛火が襲いかかり、堂内は炎に包まれた人々のわめき叫ぶ声であふれ
焦熱地獄の光景が展開されました。

藤原不比等の御願によって造営された藤原氏代々の氏寺である興福寺の
仏像や塔も煙となり、東大寺の盧舎那仏も頭は焼け落ちて地に落ち、
体は溶け崩れて山のような銅の塊となりました。 興福寺に伝わる法相宗、
東大寺に伝わる三輪宗の法文や
経典もすべて焼けてしまいました。
炎の中で焼け死んだ人は、大仏殿の二階だけで千七百余人、
興福寺では八百余人、
その他の御堂を合わせると三千五百余人、
また戦場で討たれた僧兵が千余人という大惨事となりました。

翌日、重衡が都に帰ってくると、喜んだのは清盛だけで
建礼門院や後白河法皇、高倉上皇らは「たとえ悪僧を滅ぼすとしても
伽藍まで焼いていいものか。」と大そう嘆きました。
当初、「持ち帰った僧兵の首は大通りを
引き回して獄門の木に
さらすべしということ」でしたが、
予想だにしない結果に驚き、
何の指示も下されず、あそこここの溝や堀に捨て置かれる有様です。
こうして、ひどい事件が相次いだ治承4年(1180)も暮れていきました。
焼き討ちにあった般若寺・東大寺・ 興福寺の画像を載せています。
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
 『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
川合康「源平合戦の虚像を剝ぐ」講談社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





源頼義は陸奥の国で勃発した前九年の役を鎮圧して東国に
ゆるぎない勢力をきずきました。頼義の次男賀茂次郎義綱は甥義忠を
殺害したという冤罪をきせられて佐渡へ流罪となり、頼義の系統は
嫡男八幡太郎義家の子孫と三男新羅三郎義光の子孫に大きく分かれました。 


新羅三郎義光の嫡子義業は近江・常陸の所領を受け継ぎ、その長男昌義は
常陸の所領を受けて佐竹に住み 「佐竹冠者」と称し佐竹氏の始祖となりました。

次男義定はもう一つの所領を継いで 近江国浅井郡山本(木之本町広瀬)に

居館を構えて山本氏と称し、義定の嫡男山本義経は
湖北の所領を継いで山本冠者と名のっています。

弓馬の芸に秀で仁安三年(1168)左兵衛尉に任じられ、
活躍していましたが、
か彼の郎党が延暦寺の僧を殺害したという
罪で佐渡に流されました。
 その後、
平清盛の嫡男重盛が死去、
その特赦で義経は治承三年(1179)秋に

近江に帰っていました。  この時、義経は50歳位であったという。

治承四年四月、以仁王の平家追討の令旨が全国の源氏に伝えられると

同年十一月、  源頼朝や木曽義仲に倣って山本義経は挙兵しました。

 平家の将藤原飛騨守景家とその家臣が伊勢に向かう途中、

義経はこの一行を襲撃し 十数人を殺害、討取った首を勢多橋にさらした。

 

飛騨守景家は頼政が挙兵した時、以仁王を討ち取った武将です。

「平家物語」(高倉の宮最後)によると以仁王と頼政はひとまず三井寺に逃げて

比叡山と南都(奈良)の僧兵に援軍を求めるが、比叡山はあてにならず

奈良からの援軍は中々こない平家軍は三井寺に迫った。そこで一行は興福寺を

頼って南都へ逃れたが宇治の平等院で追いつかれた。頼政が 平家軍を

防いでいる間に、以仁王は僅かな供とともに南都へと急いだ。

平家の中でも古兵(ふるつわもの)の飛騨守景家は、以仁王は南都に

 逃れたに違いないとみて、戦場をぬけて五百余騎を率いて以仁王の後を追った。

光明山の鳥居前で ついに以仁王は景家の軍勢に追いつかれ、

 矢をわき腹に受けて落馬し首をとられました。

勢いにのった山本義経は近江国を押え琵琶湖水運を支配下に入れ、

平家への運上物を北陸道で差し押さえました。三井寺を拠点に義経が六波羅へ

夜襲をかけるという噂も流れましたが、治承四年(1180)十二月一日、清盛の命を

受けた平知盛を大将とする軍勢が近江に押し寄せ山本(下)城を攻め落とした。

義経とその弟柏木冠者義兼は頼朝を頼って鎌倉に逃げ、土肥実平を介して

頼朝に謁見すると「まっ先に参向するとは実に神妙である。関東に

仕えることを許す。」と仰りその御家人となったが、鎌倉には移住せず 

故郷に帰って山本城を修復してこもり、 近江各地に潜伏し

反平家のゲリラ戦を続けながら頼朝が上洛してくるのを待ちました。

そこへ源頼朝の挙兵に応じて木曽で旗揚げをした源義仲が

寿永二年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦で平家の大軍を撃破し

北陸路から京を目指して勢多に迫ると平家に強い敵意を抱く

 山本義経は義仲に加勢して都に入りました。

いち早く挙兵し平家に抵抗した義経はその功を認められ

寿永二年(1183)秋に伊賀守、12月には若狭守に任じられた。

 

木曽義仲の傍若無人な振る舞いを嫌っていた山本義経は、元暦元年(1184)

頼朝が九郎判官義経や範頼に源義仲追討を命じた際、一族とともに

 義仲追討軍に加わるが、それ以後の山本義経の消息は不明。その子孫は

 殷富門院(亮子内親王)や条院(後鳥羽上皇の生母)に判官代として仕えた。

「延慶本平家物語」(巻11)に九郎判官義経の容姿について

「色白男の長(たけ)低きが、向歯(むかば)の殊に指し出て」とあり、色白で背が

低く反っ歯と記していることから 義経は出歯の醜男」だったといわれた。

 実はこれは山本義経が反っ歯で「反っ歯の兵衛」と呼ばれていたため、 

山本兵衛尉(じょう)源義経と九郎判官義経を混同したものと思われます。

二人の義経は共に清和源氏、同じ時代の人物、さらに義仲追討に

一緒に加わり行動したことで混同されやすかったのでしょう。

 

「古活字本平治物語」によると九郎判官義経は「鏡の宿」で自ら元服し、

義経という名に決めた。と書かれている。源氏の通字は頼朝・義家の二代は

 「頼」であったが、「頼義・義家・義親・為義・義朝」というように「義」であった。

 九郎は「義」の下に自分で適当な文字を入れたのであろう。

なお「義経記」では、熱田神宮で熱田大宮司を烏帽子親として元服したとある。

しかし平安時代にはできるだけ同一の名をつけることを避けるため、

烏帽子親は前もって名を調べ研究したので「
義経記」のこの記事は作り話と思われます。

正式な元服式を行い烏帽子親に名をつけてもらったなら、 烏帽子親は

山下兵衛尉と同じ義経という名を九郎のためにつけなかったはずです。 

 

もう一方の新羅三郎義光を祖とする佐竹氏は源氏の一族でありながら

いまだに帰属していなかったため、頼朝は富士川合戦から帰るとただちに

 佐竹征伐のために常陸国に向った。佐竹氏は多くの兵をもち

その権威は国外にまで及び郎従は国中に満ち、当主である隆義の母が

藤原清衡の娘であったため、奥州藤原氏とも通じていました。

治承4年11月4日、頼朝軍は常陸国府に到着した。しかし佐竹冠者秀義は

父隆義が平家方として都にいることもあってすぐには参上できないといって

金砂(かなさ)城に籠った。そこで千葉常胤・上総介広常・三浦義澄

土肥実平らの宿老たちはよくよく計略を練ろうと話し合いました。

  

まず佐竹一族の縁者上総介広常を遣わして一族をおびきだすことにし、

佐竹義政は広常の誘いにのり、頼朝に見参するために常陸国府に向かいました。

だが一行が国府手前の大矢橋にさしかかると広常は義政を殺害しました。

だまし討ちです。続いて頼朝は金砂城(茨城県久慈郡金砂郷町)を

攻撃するために兵を遣わせた。

 

 佐竹秀義は金砂山の切り立った断崖の上に城壁を築き、以前から防戦の

備えをしていたため少しも動揺せず、高い崖の上から大木や岩石を

投げ落とすので頼朝軍の兵士には当たるが、頼朝軍から射た矢が山の上に

届くことはなかった。そこで頼朝の側近たちは策を練った。佐竹秀義の

叔父佐竹義季は智謀が優れ欲深い人物であった。この義季を利で

つろうという作戦である。恩賞に目がくらんだ義季はたちまちひっかかった。

事情をよく知っている義季が頼朝勢を案内して城の裏手に回り

鬨の声をあげると、佐竹勢は防ぎきれずに逃亡した。秀義は城を逃れ

常陸と奥州の国境に近い 花園山(北茨城市花園)に逃げ込み、その子たちの

中には奥州の藤原秀衡を 頼った者もいた。頼朝はここで兵を引いた。

奥州の藤原氏と戦う力はその当時の頼朝にはありませんでした。 

『アクセス』
「瀬田唐橋」滋賀県大津市唐橋町 京阪電鉄/石山坂本線「唐橋前駅」下車 徒歩 5
JR
琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 10

 『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛著作集6「平安人物史」(下)法蔵館

 七宮三「常陸・秋田 佐竹一族」新人物往来社 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 

奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会

 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店「平家物語」(上)新潮日本古典集成 

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





源頼朝が挙兵に成功した訳は、東国は源頼義、義家以来の源氏の基盤であり、
一円には源氏譜代の家臣が多くいたからとよく説明されます。
佐々木兄弟が挙兵緒戦の山木兼隆攻めで、兼隆の後見堤信遠邸の前庭で
平氏討伐の源家最初の一矢を放ち信遠を討ち取ったことは前にも述べましたが、
これなどはかっての家人が源氏再興のために馳せ参じたことになるのでしょう。

佐々木兄弟の父佐々木秀義は、源為義以来の源氏家人であり、保元の乱、平治の乱では
源義朝に従って戦いました。平治の乱後、平家の権勢にもおもねらかったために、
近江国佐々木の庄を没収されて、四人の子息定綱・経高・盛綱・高綱とともに、
伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州に落ちていきます。
その途上、相模国渋谷重国に引き止められ、重国の娘婿となり五男義清をもうけ、
渋谷の庄に留まり二十年が経っていました。
その間、息子らは伊豆の頼朝のもとに出入りし身辺に仕えていました。

吾妻鏡によると頼朝は源氏の旧家人たちに書状を送って挙兵参加を呼びかけました。
しかし頼朝の招集に応ずる武士は少なく、山内経俊や波多野義常などは
頼朝の使者安達盛長に罵言雑言を浴びせて追い返したという。
山内氏は源義家以来源氏に仕え、経俊の母は頼朝の乳母山内尼です。
経俊の父俊通、兄俊綱は平治の乱の際、義朝に従い参陣して討死しています。
一方の波多野氏は、12C前半から代々中央に出仕していた武士の家柄であり、
波多野義常の父波多野義通の妹は、中宮大夫進朝長(頼朝の兄)を生み、
このよしみによって義通は義朝に仕えていました。
このように源氏とは特別関係の深い武士まで参加を拒否しました。

石橋山平家軍の総大将大庭景親も保元の乱では、源義朝に従って活躍し、
その配下には、保元の乱や平治の乱で義朝に従った武士海老名季貞、
熊谷直実、岡部六弥太忠澄や乳母子・山内経俊などもいました。
このように、かっての義朝の家人でも頼朝に弓を引く者も少なくなかった。
そうした中、相模の豪族三浦一族は早くから頼朝の挙兵に参加しています。

「相模三浦一族とその周辺史」によると「三浦大介義明は、平治の乱で娘婿源義朝と
孫義平を失い、以来、三浦氏の介職は大庭庄司景親が取って代わった。
このことは、源頼朝の挙兵の際、大庭景親が、平家方の総大将として三千騎を率いた
記述が『吾妻鏡』にあり、彼が『東国の御後見』であったという『源平盛衰記』巻廿の
記述を考合すると、彼が東国武士を徴兵する介職にいたことを類推させるものである。
三浦義明が源氏より与えられた相模大介職は、平家の世においては、
実権が伴わないものであったと思われ、それ故、三浦義明にとっても源氏再興は
宿願であったに相違ない。」とあります。
三浦氏の場合、隣接する大庭氏と勢力争いをする関係にあったことも
挙兵参加の理由にあげられるでしょう。

では千葉介常胤や上総介広常の場合はどうだったのでしょう。
千葉常胤の嫡子胤頼は、挙兵以前から頼朝のもとに出入りして、
父に頼朝に従うよう勧めたといわれています。
下総国の千葉氏は、保延2年(1136)下総守藤原親通に所領の一部である
立花郷や相馬御厨を没収され、親通の子下総守藤原親盛は、
奪い取った立花郷や相馬御厨を継承して下総に勢力を延ばしています。

中央に出仕して皇嘉門院判官代であった親盛の子藤原 親政は、
平忠盛の娘を妻とし、妹は平重盛の妻となり資盛(すけもり)を生み、平家との関係を背景に
千田荘(下総東北部)を本拠にして急速に勢力を拡大し、千葉氏と対立していました。
上総国でも治承3年11月の清盛のクーデター(反平氏公卿を一掃し、後白河院を
鳥羽殿に幽閉)によって、平氏の有力家人藤原忠清が上総国の国司に任じられました。
その際、「坂東八カ国の侍の別当」ともいわれて東国の武士団を統率する権限を
与えられ、それまでの権力を保持しようとする上総広常と対立状況が生まれていました。
上総広常の場合も千葉常胤と同様、国内での地位や自身の利害とも密接に関わって
頼朝軍に参加したと考えられ、かっての家人が平家打倒のために
立ち上がったわけではなかったのです。

頼朝は挙兵するとまず伊豆国の目代山木兼隆を討っています。
伊豆は源頼政の知行国であったが頼政が宇治川で戦死したため、
知行国主が頼政から平時忠にかわり、山木兼隆が目代に任じられていました。
吾妻鏡によると「山木兼隆は清盛の権威を借りて周囲の郡郷に威光を
ふりかざすようになっていた。これはもともと平家の一族だったからである。
頼朝は平氏を討つため、まず手始めに兼隆を攻め滅ぼすことにした。」と記されています。
平治の乱後、清盛は宮廷に接近して妻の妹建春門院は高倉天皇の生母となり、
娘徳子は高倉天皇に入内して安徳天皇を生み、藤原摂関家を圧倒する権力を握ります。
「日本秋津島わずかに六十六箇国 平家の知行の国三十余ヶ国すでに半国にこえたり。」と
平家物語(巻一)に書かれています。

知行国とは一定の国を支配し、知行権を与えられた国をいう。
有力皇族、貴族、寺社が知行権を与えられて知行主となり、自分の知行国に
一族縁者や側近を国司として任命し、その国からの収入の大半を得、
莫大な財を貯えます。平安時代中期以降になると、一部の有力貴族が知行国を
独占するようになる。知行国が半数を超えたということは、
事実上日本国の支配者になったということです。国司に任命された者も実際には
任地に赴かず、自分の家人などを代理人に任命して現地に派遣するようになりました。
これを目代という。国司が実際に赴かない国衙(国の役所)は留守所といわれて
目代に管轄させ実務にあたった在庁官人によって運営されていました。

在庁官人には地方の最有力豪族がなり、目代の下に介(すけ)掾(じょう)・
目(さかん)などの
官職がありました。こういう官職を持つと免税田がある上、徴税にあたっても
自分や家人に手心を加えることができるうまみのあるポストでした。
これらの職務やそれに伴う収益もしだいに世襲されるようになり、東国武士は
中央貴族や国司にとりいって在庁官人の肩書をもらえるように懸命に務めていました。
この在庁官人を平氏の家人とし、主従関係を固く結んでいれば、地方の国衙は平氏の
重要な軍事的基盤となっていたはずですが、平氏の武家支配は十分ではありません。

当時、東国の武士たちは平家が遣わした目代の過酷な支配に苦しんでいました。
この頃はまだ武士といっても農場主であって農場の開拓を進め、
東国の農村では広い所領をもっていても、荒廃地が多く水利の便が悪く収穫できる
生産物にも限りがあり、開拓が進めば所領争いも激しくなり、小農場主はつぶされて
大農場主の家人となっていきました。この大農場主が東国武士団です。

国司は国衙領から一定額以上に徴収した租税は全て自分のものになったので、
国司や目代の中には権力を振るい重い税をかけたり、土地を奪ったりするものがいました。
挙兵当初に頼朝がその目代の一人を討ち取ったという知らせが
各地に伝わると、東国武士は共感しました。
頼朝が安西景益に送った書面には「在庁官人を誘って参上せよ。目代以下、
京から下向してきた輩はことごとくからめ取れ。」とかかれてあり、
景益は在庁官人を引き連れて参上し、千葉常胤は嫡子胤頼に平家方の下総の目代を
討ち取らせ、さらに下総千田荘の藤原親政の軍勢と戦い勝利し、親政を捕虜にして
国衙に頼朝を向かえています。
頼朝は長い流人生活の間に東国の武士が何に苦しみ、
何を望んでいるかを感じ取り行動したようです。

また地方の武士には平氏によって組織、編成された京都大番役が課せられていました。
宮城を護衛する番役がまわってくると武士は郎党を従えて上洛し、三年にわたって
勤めねばならなかった。その際、衣食住の費用は全て持ち出しであったため、
武士にとって大きな負担となります。治承4年4月以仁王が挙兵した際、
三浦義澄(三浦義明の嫡子)や千葉胤頼は大番役で京にいて、戦の状況をつぶさに
見ています。大番役を終えて故郷へ帰る途中、二人は伊豆の頼朝をたずねて密談を
行っています。吾妻鏡治承4年6月27日条に「しばらくの間、密やかに話されていたが、
その内容を他の人は知らない。」とこの時の模様を伝えています。
平家に対する反感が都に満ち、畿内の情勢は予想以上に緊迫しており、
大番役で上京した武士たちは、平家衰退のきざしを敏感に捉えていたはずです。
武家の棟梁であるはずの平家は藤原氏の摂関政治そのままを踏襲して、
平氏自身貴族化し、一門の人々の地位を向上させただけでした。
そのため武士の支持を得られず、武士の間には武家の利益のための新しい組織を
作ろうという動きがあったことも見逃すことができません。
そんな機運に頼朝は源氏嫡流として上手くのったのだといわれています。


『参考資料』
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社 

「源頼朝のすべて」新人物往来社 中村吉次「武家の歴史」岩波新書
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 
水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 
永原慶二「源頼朝」岩波新書
高橋典幸「源頼朝」山川出版社 湯山学「波多野氏と波多野庄」夢工房 

田端泰子「乳母の力」吉川弘文館服部英雄現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
「武士と荘園支配」山川出版社 
「官職要解」講談社学術文庫





コメント ( 2 ) | Trackback (  )





頼朝の乳母は、4人まで明らかとなっています。
摩々尼(ままのあま)、寒川尼(さむかわのあま)、比企尼(ひきのあま)
そして山内尼(やまうちのあま)です。
いずれも東国にゆかりの深い人々です。
摩々尼は頼朝の父義朝の乳母摩々局の娘と推定されています。(『乳母の力』)

また三善(みよし)康信のおばも乳母であったと思われます。
その縁で康信は、
 伊豆に配流された頼朝に月に三度も京都の情勢を送り続けました。
三善氏は都の下級貴族出身ですから、乳母の中では唯一貴族の娘ということになります。
しかしこの乳母についてこれ以上伝える史料がなく、
あるいは4人の乳母の誰かと同一人物だとも考えられています。
 
「石橋山合戦に敗れ、土肥椙山(すぎやま)に逃げこんだ頼朝は、
髻(もとどり)の中に入れていた正観音を取り出して巌窟の中に安置しました。
この観音像は頼朝が三歳の時、乳母が清水寺に籠もって
頼朝の将来を祈願したところ、夢のお告げがあり現れたという
銀製の二寸(約6㎝)の正(しょう)観音像です。
頼朝はこの像を肌身離さず大切にしていました。
土肥実平は日頃、信仰する像を巌窟に置いた訳を頼朝に尋ねると
『大庭景親らに首をとられた際、源氏の大将ともあろう者が観音像に
戦勝祈願したと、後々まで誹りを受けるであろう。』と答えたという。」
(『吾妻鏡』治承4年8月24日条)

「その後、この正観音像を伊豆山権現の専光坊良暹の弟子が山中を
数日間捜して見つけ出し、像を持って参上すると、頼朝は手を合わせて
正観音像を直接受け取った。」(『吾妻鏡』治承4年12月25日条)

義朝の乳母である「摩々局」と頼朝の乳母「摩々尼」が
同一人物である。という説が根強くありますが、
田端泰子氏は別人であるとし、「清水寺に籠もって観音像を得た乳母を
摩々局かその娘摩々尼」とされています。(『乳母の力』)

摩々局は義朝の乳母として、『吾妻鏡』に二度登場しています。
①平治の乱で義朝が敗死したため、摩々局は京から相模国早河荘へ下り、
田地七町の作人となって暮らしていました。文治3年(1187)6月13日、
局が源頼朝の元に参上すると、頼朝は御前に召して昔のことを語り合って涙し、
その田地を摩々局の所領にしてあげようといっています。

②建久3年(1192)2月5日、余命いくばくもないとして
香り高い酒を持って、相模国早河荘から再び頼朝の御前に参上しました。
乳母は92歳になるという。頼朝はたいそう憐れみ、
望みがあれば何事でも叶えよう。というと、
乳母は早河荘内の知行地の課役免除を総領に命じてほしいと言うので、
頼朝はその願いを聞きいれた上に更に三町の田地を与えることを約束し
すぐに土肥の弥太郎に伝えるよう命じています。

この記事から、早河荘(小田原市早川付近)は、建久3年には
土肥氏の勢力下にあったことがわかります。土肥弥太郎とは、
早河荘の惣領地頭である土肥遠平(土肥実平の嫡男)のことです。

また、『吾妻鏡』には、義朝の乳母の他に頼朝の乳母として登場する女性がいます。
頼朝誕生時に御乳付けに召された青女(若い女性)が、今は摩々尼といい、
相模国早河荘に住んでいました。頼朝は彼女の屋敷・田畠を安堵し、
このことを惣領地頭によくよく仰せられた。(養和元年(1181)2月7日条)

建久3年に早河荘から参上した義朝の乳母は92歳であったといいますから、
頼朝誕生の時には、義朝の乳母は47歳ということになります。
摩々局と摩々尼が同一人物だとすれば頼朝誕生時、
47歳だった義朝の乳母が青女(あおおんな)とよばれるはずがありません。

『吾妻鏡』(1)の注によると、「乳付とは生まれた子に
初めて乳をのませたこと。またその乳母。」と書かれています。
これに従うと47歳の義朝の乳母が頼朝に授乳させたことになります。
年齢的にこれは少し無理ではないのでしょうか。

また文治3年、建久3年の記事に登場する義朝の乳母にはわざわざ
「故左典厩の乳母」と書かれていますが、養和元年の記事には
「御乳付けに召された青女今は尼、摩々といい」とあり、
明らかに区別されています。
このようにみてくると摩々局と摩々尼は別人と考える方が自然であり、
田端泰子氏の『摩々局と摩々尼は別人であり、義朝の乳母摩々局の娘が
頼朝の乳母として仕えたのであろう。』という説は納得できます。
乳母が母娘二代続くということは、珍しいことではなく、
頼朝の乳母比企尼の娘は、頼朝の嫡子頼家の乳母として
母子二代源家に仕えています。

摩々局、摩々尼が居住していた早河荘は11C末には、
早河牧とよばれる牧場でしたが、12C初には牧場から荘園となっています。
摩々局母娘が義朝の死後に京から帰国した時、土肥実平の勢力がどの程度
早河荘に及んでいたのか、また摩々局母娘が土肥一族の女性であったのか
どうかは明かではありませんが、彼女たちが早河荘に帰ることができたのは、
この地に何らかの縁がある人物だったと思われます。
比企尼・比企遠宗の館跡  

比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  
源頼朝の乳母山内尼  
『参考資料』
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 石井進「中世の武士団」小学館 
「武士と荘園支配」山川出版社 「源頼朝七つの謎」新人物往来社

現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)(5)吉川弘文館
 
 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )





清盛の横暴を抑え諌めていた清盛の長男重盛が他界すると、
後白河法皇と清盛の間には波風が立ち始めた。清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、
高倉天皇を退位させ娘徳子が生んだ僅か三歳の安徳天皇を即位させます。
これによって皇位への道を閉ざされた後白河法皇の皇子以仁王は、
平氏討伐の令旨を下し、頼朝の叔父にあたる源行家に命じて諸国の源氏に伝えさせた。
頼朝に令旨が届いたのは「吾妻鏡」によると
治承四年(1180)4月27日のことであった。
同年5月、以仁王は頼政とともに挙兵、しかし頼政は宇治川の合戦で討死し、戦場から
逃れた以仁王も奈良への途上、光明山の鳥居前で流れ矢に当たり命をおとした。
清盛は宇治川合戦に勝利したものの京都周辺の反平家勢力を避けるため、
同年6月突如遷都を強行します。しかし山と海に挟まれた狭い地形の福原での
新都造営はなかなかはかどりません。そこへ相模国から清盛のもとに
頼朝の謀反を知らせる大庭三郎景親の早馬が到着します。

ここから「大庭が早馬の事」を読んでいきます。
治承4年9月2日相模国の住人大庭三郎景親が福原へ早馬で来て申すことには
「去る八月十七日伊豆国流人、前の右兵衛佐頼朝は、舅北条四郎時政を使わして、
伊豆国目代和泉判官兼隆を山木館で夜討ちにしました。
そののち、土肥、土屋、岡崎をはじめ伊豆相模の兵三百余騎、頼朝に誘われて
相模国石橋山に立て籠もっていたところに、景親が平家方三千余騎を引き連れて
攻めたので、兵衛佐は苦戦し僅か七、八騎になって土肥の杉山へ逃げ籠もりました。
平家方畠山庄司次郎五百余騎と源氏方三浦大介(おおすけ)義明の子三百余騎とが
鎌倉由比ガ浜、小坪ヶ浜で戦いましたが、畠山は敗れ武蔵国へ退きました。
その後畠山一族の河越小太郎重頼、稲毛三郎重成、小山田別当有重の一族、
江戸太郎重長、笠井三郎清重など三千余騎が三浦の衣笠城に押し寄せて
合戦となりました。その際、大介義明は討ち死、義明の子供は久里浜の浦(横須賀市)
から舟に乗って安房上総へと渡りました。」と報告してきました。
平家の人々はこれを聞いて都遷りのこともすっかり興ざめしてしまった。
若い公卿や殿上人は「いっそ早く大事が起こればよい。征伐に向おう。」などと
何ともうかつなことをいう。丁度この時、畠山庄司重能、小山田別当有重、
宇都宮左衛門尉朝綱は大番役で京に滞在していた。
「頼朝と親しい間柄の北条はいざ知らず、その他はまさか朝敵に味方することは
ございますまい。今に正しい情報をお聞きになると思います。」と畠山庄司重能が申すと
「そのとおりだ。」と申す人もあったが「いやいや今に一大事を引き起こすぞ。」と
囁く者もあったとか。入道相国の怒りは大変なものであった。「そもそもかの頼朝は
平治元年12月父義朝の謀反によって死罪にするはずであったのに、
お亡くなりになった池殿が嘆願されたので、罪を減じて流罪にしたのにその恩を忘れて、
弓を引き矢を放つとは神も仏もお許しになることがあるものか。
今に頼朝には天罰が下るであろう。」と仰る。
(平家物語・巻五「大庭が早馬の事」「朝敵揃への事」)

◆大庭三郎景親とは桓武平氏・鎌倉権五郎景政から出た一族で、
大庭御厨(おおばみくりや・藤沢市大庭)に所領を持ち、景政の曾孫にあたる景親は
一族の棟梁であった。鎌倉権五郎景政は後三年の役で源義家の軍に従って戦い
武名を轟かせ、景親も兄景義とともに保元の乱では義朝に従い白河殿を攻めるなど、
源氏とは縁の深い一族であった。その後、景親は何らかの事情で処刑されるところを
平氏に助けられ、その恩に報いるため平家に仕え有力家人の一人となった。
「清盛は景親が献上した坂東八カ国一の名馬を『望月』と名づけ大切にしていたが、
馬の尾に鼠が巣を作り、子を生んだため陰陽頭安倍泰親に下げ渡した。」
(平家物語巻5「物怪の事」)とありこの逸話からも景親と清盛の親しい関係が
うかがわれる。一方兄の大庭平太景義は頼朝の挙兵に応じて戦功をたて、
以後鎌倉幕府の有力御家人の一人として活躍します。
以仁王・頼政が挙兵した時、大番役のため京にいた景親はその追討にあたり、
続いて伊豆にいる頼政の孫有綱を討つため帰国した。その半月後、
頼朝が挙兵すると景親は三千の軍勢を率いて石橋山に頼朝軍と戦いこれを破った。


『参考資料』「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語」(中)新潮日本古典集成

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 「国史大辞典」吉川弘文館



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





<<
写真の上にマウスを置いてください。CR、離せば元の写真に戻ります。


藤原道長は三女威子が後一条天皇の中宮に立てられ彰子、妍子と
あわせて三人の娘がそれぞれ天皇の后として入内し喜びの絶頂にあった
寛仁2年(1018)10月16日、自邸土御門殿に公卿、殿上人など
多数招き盛大な宴会を催している。
道長は宴たけなわとなった時、
♪この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば 
と満月を仰ぎながら詠み藤原実資に返歌を求めるが、
実資は「大変素晴しい歌なのでとても返歌はできません。
そのかわり一同で唱和させて下さいと全員で数度吟詠した。」と
この時のエピソードが実資の日記・小右記(しょうゆうき)に記されています。

この宴のあとまもなく道長は胸、糖尿病、白内障などの病に苦しみ54歳で
出家し仏道生活に入ります。寛仁4年(1020)自邸・土御門殿の東隣に
御堂の建立にとりかかり、以後十年ほどかけて次々堂が造営されていきます。

<<
写真の上にマウスを置いてください。CR、離せば元の写真に戻ります。


法成寺の敷地は、西は寺町通から東は鴨川の堤、北は広小路通から
南は鴨沂(おうき)高校、護浄院を含む荒神口通まで四町(一万七千坪)
東寺、西寺とほぼ同じの広さといいます。
建立から38年後1058年に全焼しますが、長男頼通により再建されます。
しかしその後も焼失と再建をくり返し藤原氏の勢力後退に伴って少しずつ衰退し、
鎌倉時代末期に吉田兼好が著した「徒然草」には無量寿院(阿弥陀堂)のみが
残っている様子がえがかれている。

62歳の道長は法成寺の九体の阿弥陀如来の手に結んだ糸を握りしめ、
北枕・西向きに横たわり念仏の声につつまれて浄土へと旅立った。



<
マウスを写真の上に置いて下さい、写真が変わり離せば元に戻ります。


◆東北院
法成寺内の東北の地に道長の娘上東門院彰子の御願により建立された。
1058年法成寺とともに焼失、3年後法成寺の北に再建されますが
以後焼失と再建をくり返す。
元禄5年(1692)上京区北之辺町(蘆山寺辺)にあった東北院は
すでに大半の建造物はなくなっていたようですが類焼し
翌年真如堂(当時上京区寺町通今出川下ル西側)の移転につれて
迎称寺、大興寺、極楽寺とともに現在地に再建された。

謡曲「東北」(とうぼく)は、諸国行脚の旅の僧が東北院をたずね
和泉式部を偲んで梅の木の前で夜すがら読経していますと、
和泉式部の霊があらわれ上東門院彰子にお仕えしていた
在りし日の東北院のことなどを語りはじめます。

和泉式部が愛でたという梅の木が時代の移り変わりを経て
東北院本堂の傍に植えつがれています。
岡崎通を隔てて西側には、
母彰子、父一条天皇の皇子・後一条天皇の菩提樹院陵があります。



◆東北院・雲水ノ井・誠心院◆
<
■東北院駒札■■東北院■■幹は大きく割れ曲がりくねった老木に真白な花が咲いています。■■東北院本堂■■蘆山寺は天正年間に秀吉の命令で現在地に移りました。■■紫式部歌碑の前を通り東に入る。■■慶光天皇陵の前に東北院の雲水ノ井■■誠心院は新京極の繁華街にあるので、うっかりしていると通り過ぎてしまいます。■■本堂前に軒端の梅と歌碑 ♪霞たつ春きたれりと此花を 見るにぞ鳥の声も待たるる■■本堂北にある墓地に和泉式部の宝篋印塔、高さ3・4m■
<
<<


タグはsakuraさんの「スライドショー」をお借りしました、マウスオンでストップします。


◆雲水ノ井(雲井ノ水とも)
廬山寺本堂東の雲水ノ井は東北院の井戸と伝えられ、
傍の澗底(かんてい)の松は、謡曲「東北」ゆかりの松です。

◆誠心院
道長が一条天皇中宮彰子に仕えていた和泉式部のために
東北院内につくった小御堂(こみどう)。
和泉式部の没後その法名『誠心院智貞専意』をとって寺名にしたと伝える。
のち上京区一条通小川の誓願寺の塔頭として併合されたが、
秀吉が寺町をつくった時、誓願寺とともに現在地に移させた。

和泉式部は越前守大江雅致の娘、和泉守橘道貞に嫁ぎ、
小式部内侍をもうけるがやがて別れ、冷泉院の皇子為尊親王の
死後はその弟・敦道親王と両親王の寵愛をうけるが、
敦道親王が亡くなった後、道長の娘一条天皇の中宮彰子に仕え
30代半ばで道長の家司だった藤原(平井)保昌と再婚します。

『アクセス』
「法成寺址の碑」市バス荒神口下車すぐ 荒神口通、鴨沂高校グランド塀の傍に立っている。

「東北院」京都市左京区浄土寺真如町 市バス錦林車庫下車西へ徒歩10分

「廬山寺」京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町 市バス府立医大病院前下車すぐ 

「誠心院」京都市中京区新京極通六角下ル 市バス四条河原町下車徒歩5分

『参考資料』
「藤原道長」朧谷寿 「道長と宮廷社会」大津透 「京都市の地名」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛中)竹村俊則 

「昭和京都名所図会」(洛東・下)竹村俊則 「京都事典」村井康彦 「京都史跡事典」石田孝喜 

「平安京の風景」井上満郎 梅原猛「京都発見」(4)丹後の鬼・カモの神 「平安京年代記」村井康彦





コメント ( 6 ) | Trackback (  )




<<
写真の上にマウスを置いてください。CR、離せば元の写真に戻ります。


寛和二年(986年)藤原兼家・道兼親子が花山天皇を欺き出家させるという事件を
安倍晴明が、天変によっていち早く察知したという話が「大鏡」に記されています。

元慶寺(花山寺)で剃髪するため内裏を出た花山天皇一行は、
土御門大路を東に進み、晴明の家の前を通りかかると、家の中からパチパチと
手を打つ音とともに、安倍晴明の声がして「帝座の星に異変がある。
どうも天皇が退位されたようだ。直ちに参内し奏上しよう。
先に式神一人様子を見てまいれ」と晴明があわてる様子を天皇は耳にされた。
すると目に見えない者(式神)が戸を押し開け
「今、家の前を帝がお通りになりました。」といった。
安倍晴明が天文道に非常に優れていたことを示す逸話の一つです。



花山天皇は冷泉天皇の第一皇子で、
母は太政大臣藤原伊尹(これただ)の娘であった。
花山天皇が17歳で即位されてからは、外戚にあたる藤原伊尹の一族が
権勢を握り政治を動かしていった。
これに激しく抵抗し対立していたのが、同じ藤原氏の右大臣藤原兼家であった。

最愛の弘徽殿の女御が懐妊中に病没し、花山天皇が悲嘆にくれているのを見て
藤原兼家は道兼に命じて出家をして女御の菩提を弔うよう勧めさせた。
道兼も一緒に出家するというので、天皇は決心され夜更けに内裏を出発、
途中から源満仲と配下の武士が、一行の前後を固め邪魔が入らぬようにした。
道兼は天皇が剃髪されて後、「父に剃髪前の姿でもう一度お目にかかり、
事情を説明して必ずもどってまいります。」と申し逃げ出してしまった。

このようにして19歳の若い天皇は藤原兼家、道兼父子の謀略により
退位させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)の即位が実現した。
一条天皇の即位は、兄二人が相次いで亡くなった後、トップに躍り出た
道長を中心とした藤原氏全盛時代を向かえることになります。
安倍晴明の晩年は、丁度この時期にあたっています。


<
マウスを写真の上に置いて下さい、写真が変わり離せば元に戻ります。



藤原道長は法成寺建設の折、毎日現場視察に出かけていた。
ある日寺の門を入ろうとすると、愛犬がしきりに吠え
道長が門に入れないようにした。
不審に思って晴明を呼んで占わせると、「殿を呪詛したものがおり、仕掛けが道に
埋められていて、それを踏み越えると呪詛がかかるようになっている」と占った。
晴明が指すところを掘ると、土器を二つ合わせて黄色のこよりを
十文字に結んだものがはいっていた。
紙を開いてみたが何もなく、ただ土器の底に文字が
一つ朱で書かれているだけであった。
晴明は懐より紙を取り出して、鳥の形に結んで呪文を唱えて空に投げると
白鷺となって南へ飛び、呪いをかけた道摩法師(蘆屋道満)の家に落ちた。
道摩は、道長の政敵堀川左大臣藤原顕光に頼まれて行ったと白状した。
道長は道摩を罰せず故郷の播磨に追い返した。

晴明は法成寺が建立される十数年前に亡くなっているのですが、
道長だったら陰陽師は当然晴明だろうということで結びつけられた話のようです。

『アクセス』
「元慶寺」京都市山科区北花山河原町13 京都市営地下鉄「御陵駅」下車徒歩20分

「法成寺址碑」上京区荒神口通寺町東入北側 市バス「荒神口」下車すぐ
荒神口通の鴨沂高校グランド傍に石碑が立っている。

『参考資料』
「安倍晴明伝説」諏訪春雄 文芸別冊「安倍晴明」河出書房 「天皇たちの孤独」繁田信一 「道長と宮廷生活」大津透



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





国道9号線老ノ坂トンネル東口すぐ手前の細い旧山陰道を
南に入ると老ノ坂峠へと続きます。
老ノ坂峠は、古くから交通の要衝とされ山陰地方や丹波の産物、人々が
京へと行き交い賑わいました。
峠には山城国、丹波国の国境を示す石標が立ち、
そこから少し東へ行くと小高い塚上に酒呑童子の首を埋めたと伝えられる
首塚大明神が祀られています。

老ノ坂は古くは大枝(おおい)道とよんだが「おおい」が
つまって「おい」となり「老」の字をあてるようになった。(昭和京都名所図会)


<
マウスを写真の上に置いて下さい、写真が変わり離せば元に戻ります。

一条天皇の時代、都の若君、姫君が次々に誘拐され
財宝を盗まれる事件が発生した。陰陽師安倍晴明の占いにより、
大江山の奥に棲む酒呑童子を首領とする鬼たちの仕業と判った。
この鬼を退治するために源頼光と平井保昌が選ばれ、
八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り山伏姿に身をやつし、
頼光配下の渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武の四天王と共に
都を出発し深山に分け入ります。


<<
写真の上にマウスを置いてください。CR、離せば元の写真に戻ります。

途中川辺で出会った洗濯中の老婆が
「この頃都では安倍晴明が泰山府君祭を行っているので、
式神、護法が都を巡察していて、酒呑童子は都から人を奪って来ることが
できないことが多く機嫌が悪い。」と語ります。
一行はさらに山を登り酒呑童子の館に辿りつき、童子の接待を受けます。
頼光は酒好きの童子に毒酒を勧め、酔った童子を激戦の末退治します。
本殿傍の由緒書きによると
鬼の首を持って都に凱旋する途中ここで休息しますが、
ここまで運んだ首がびくとも動かなくなり、仕方なくここに埋めたといいます。

※「泰山府君祭」
中国の泰山は死霊が集うよみの世界と考えられ、そこの神を府君といい
道教の祭神で閻魔大王と同一視され、死者の生前の善悪を裁判する神といわれた。
道教的な泰山府君祭を賀茂保憲と安倍晴明らが密教経典を参考にして
延命長寿と幸いを祈る日本独自の祭祀につくり変え安倍晴明が得意な祭祀だった。

※「式神」 安倍晴明や陰陽師が駆使したとされる神霊。
※「護法」 密教系の宗教者が用いた神霊で童子姿が多い。

※平安時代、密教と陰陽道が混沌としていて、
安倍晴明は式神と護法の両方を操っていた。(異界と日本人)


◆大江山
酒呑童子の大江山は京都府に二つあり、丹後・丹波の境の大江山は
御伽草子に描かれる酒呑童子や近世以降の酒呑童子説話の舞台です。

古代・中世では大江山といえば老ノ坂峠の大枝山のことをさし、
♪大江山生野 の道の遠ければ まだ文も見ず天橋立(百人一首・60番)
※「生野」 現在の福知山市内

小式部内侍が丹後守だった夫・平井(藤原)保昌とともに任地で暮らす
母・和泉式部を偲んで詠んだ大江山のことです。
謡曲「大江山」では
♪都のあたり程近きこの大江の山に籠居て
とあり、やはり老ノ坂峠の大江山が舞台になっています。

首塚大明神は首から上の病気平癒に効能があるとか。私がお参りした時にも
小雪がちらつく中、初老のご夫婦が杖をつきながら階段を上ってこられました。

『アクセス』
「首塚大明神」阪急桂駅より亀岡行きバス「老ノ坂」下車徒歩10分

国道9号線老ノ坂トンネル東口すぐ手前(京都側からみて左手)の細い旧山陰道を
南に入り、つきあたりを左折する。

『参考資料』
「異界と日本人」小松和彦 「京都魔界案内」小松和彦  高橋昌明「酒呑童子の誕生」もうひとつの日本文化

「京都異界の旅」志村有弘 文芸別冊「安倍晴明」河出書房 「昭和京都名所図会」(洛南)竹村俊則 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




 

<




一の鳥居
額に掲げられた社紋「晴明桔梗」は、「五芒星」ともよばれます。



二の鳥居

二の鳥居の傍に千利休屋敷趾の碑



旧・一條戻橋の傍らには、式神の石像が置かれています。
式神は陰陽師が使う精霊で人の目には見えず、
橋を渡る人の
占いをしていたといわれています。
一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、
現在、晴明神社から南へ100メートル辺、一条通りの
堀川に架かっています。



本殿
祭神は平安時代に活躍した安倍晴明と倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀っています。

屋根瓦、御神燈等についている安倍晴明のゆかりの星形の紋章は、
五芒星(ごぼうせい)と呼ばれ陰陽道で用いる祈祷呪符の一つといわれています。



安倍晴明像



 晴明祭 毎年、秋分の日とその前日。
湯立神楽の奉納や、神輿巡幸などが行われます。

安倍晴明(921~1005)は、大膳大夫安倍益材(ますき)の子で、
右大臣安倍御主人(みうし)の子孫にあたります。

晴明は幼い頃から賀茂忠行・保憲父子に指示し、陰陽道・天文道を学びます。
賀茂忠行は葛城地方を本拠とした賀茂氏の一族で占いに優れ、
息子の保憲は暦博士、陰陽頭、天文博士を歴任し、従四位上にまで出世しています。
保憲は弟子晴明の才能を高く評価し、陰陽道を二派に分け
晴明には「天文道」を授け、息子の光栄(みつよし)には、
「暦道」(れきどう)を伝えます。
以後、賀茂氏が独占していた陰陽道の職は、

二つに分かれ両家によって継承されていくことになります。

安倍晴明は40歳の時、はじめて歴史上に登場します。
天徳4年(960)内裏が炎上し、所蔵されていた節刀がすべて焼失してしまい、
新しく作り直す必要にせまられて、天皇の前に
天文得業生(てんもんとくごうしょう、陰陽寮・天文道の学生)として
修行の身だった晴明がよばれ節刀について言上しています。

出世は遅かったようですが、
天皇の前によばれて節刀について述べたということから、
晴明の学識が宮中や周囲の人に高く評価されていたことが窺えます。
この頃からしだいに時の権力者、花山天皇・一条天皇、藤原道長などの信任を得、
大膳大夫、天文博士、播磨守等を歴任し従四位下に至ります。

賀茂・安倍両家によって受け継がれた陰陽道は晴明以後、
その子孫には優れた才能をもつ者が多く、賀茂氏と立場が逆転し、
安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を継承し、賀茂氏は陰陽助ということが多く
安倍氏(後の土御門家)が陰陽道の主流となっていきます。


「安倍御主人(あべのみうし)」は天武天皇の寵臣で、
「竹取物語」の中で、
かぐや姫に求婚する貴公子の一人、
右大臣安倍の御主人のモデルといわれています。


「節刀」とは、將軍が出征の際天皇から賜った刀のことで、
天皇の権限を代行する意味を持っています。

安倍晴明邸跡
 社伝によると、晴明の邸跡を神社化したとしていますが、
「今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。」で始まる『今昔物語』には、
「忠行は晴明を側から離さず愛弟子として、陰陽道の秘術を残りなく教えこんだ。
そこで晴明は陰陽道によって、公私にわたり重用され、 大そう偉くなって
世間から尊ばれていた。
そのうち忠行が死んで、晴明は土御門大路よりは北、
 西洞院大路よりは東に家をかまえ、そこに住んでいた。云々」と記されています。
(今昔物語・安倍晴明、忠行の弟子になる)

このように『今昔物語集』や『大鏡』巻一の記事によると、
晴明の邸宅は、土御門(現・上長者町通)北、西洞院(現・西洞院)東と記し、
 現在の晴明神社の場所ではないことがわかります。

晴明の 邸宅跡は、続『京都史跡事典』、『昭和京都名所図会(洛中)』によると、
 現在の上京区上長者町通新町西入土御門町、 晴明神社の東南へ約700㍍の地にありました。
晴明神社は明治維新の廃仏毀釈で廃社になるところでしたが、
 斎宮を主神とする神社を作り、晴明社はその傍らに稲荷大明神として、
 やっと残すことができました。
斎稲荷社(いつきいなりしゃ)はその名残の社です。

陰陽道では、古来より桃の木には霊力があるといわれ、
家の鬼門(東北)の方角に植えたり、平安時代に宮中で大晦日に行われた
大儺式(たいなしき)には親王や公家達は桃の木の弓、杖等をもって参列しました。
 

『アクセス』
「晴明神社」京都市上京区堀川通一条上ル806 
JR 京都駅より9 番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分
阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12 番「一条戻橋・晴明神社前」下車徒歩約2分
京阪 三条駅より12 59 番「堀川今出川」下車 徒歩約2分
地下鉄. 今出川駅より徒歩約12分
『参考資料』
諏訪春雄「安倍晴明伝説」ちくま新書 小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫 
小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
文芸別冊「安倍晴明」河出書房新社 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社

梅原猛「京都発見」(4)新潮社 志村有弘「京都異界の旅」勉誠出版 
志村有弘「夢枕獏と安倍晴明」桜桃書房 瀬戸内寂聴「今昔物語」中公文庫
 
「平安時代史事典」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)俊々堂
 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 3 ) | Trackback (  )


« 前ページ 次ページ »