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堪忍袋の緒が切れたのは… (yukariko)
2008-07-26 22:52:31
平家一門との間に、頼政が何か深い恨みをいだくような出来事でもあったのでしょうか?…と書いておられますが…

…頼政だけでなく一門にとっては、耐え忍んだことは一々書き始めたら一冊ぐらいでは書き尽くせないほど沢山あっただろうと思います。

その頃を実際に見ていなくても、伝え聞く事が出来たぐらいの後世だと、もっと細かい出来事が伝わっていたに違いありません。
その心情が無関係な庶民にさえも充分理解できる程に。

それをすごく端的に表わしたのがこの「仲綱のこのした騒動」であり「競が事」なのでは?
 
 
 
平治の乱より20余年耐え忍んだこと数知れず! (sakura)
2008-07-27 12:01:03
当時の貴族の日記には、以仁王が挙兵を決意し、頼政に呼びかけたと書かれているようです。
「平家物語」は天皇家の人物を謀反の主とすることを憚ったようですが、
頼政にも謀反に参加する理由があったのだと思われます。

以仁王の背後にいた八条院は鳥羽上皇、美福門院の荘園の大半を相続していましたが、
血のつながる後継者がなく、高倉、安徳は不当に皇位を奪った相手ですから、
養子の以仁王を後継者として期待していました。

近衛天皇、二条天皇に仕えていた頼政も、平家と関係の深い高倉、安徳には反発していたと思われます。

以仁王が多子の御所で元服しますが、この元服は立太子から皇位につながる可能性がでてきます。
多子は二条天皇が亡くなられたということもありますが、この後すぐ出家。
元服に奔走した以仁王の叔父は免官されています。

以仁王の生母は閑院流藤原氏の貴族で、藤原季成の娘。
長く天皇家外戚として勢力をふるっていましたが、この頃にはかげりが見え始め
やはり優秀な以仁王の即位に期待していました。

和歌を通じてどちらの邸にも出入りしていた頼政は頼まれたのだと思います。
頼政が決意したとき胸の内に去来したものは何か分りません。
仲綱の馬事件のようなことも何度もあったのでしょう。

 
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