都を福原に遷してからは平家の人々の夢見が悪く、いつも胸騒ぎばかりして、
変化の物が現われることが多かった。
ある時、入道の寝所に、柱と柱の間に入りきれない物の顔がのぞいた。
入道は少しも騒がず、はたとにらむとみるみる消えうせてしまった。
また、岡の御所というのは新しく造られた建物なので、
これという大木もないのに、ある夜、大木が倒れる音がして、
二、三十人位がどっと笑うのが聞こえた。
これは天狗のしわざに違いないと、夜は百人、昼は五十人に警備させ、
天狗のいる方向に蟇目の矢を射ると、何の音もせず
いない方向に射た時はどっと笑い声がする。
またある朝、入道が妻戸を開いて中庭を見ると、
しゃれこうべが数知れず庭に満ちあふれ、転がったりぶつかったりしている。
入道が「誰かいないか」と呼んだが、折悪しく誰も来ない。
すると、沢山の髑髏(どくろ)が集まってひとつになり、庭に入りきれぬ程の
大きさになり、高さ十四、五丈(約45m)もある山のようになった。
そのひとつの大きな頭に、幾千万の大きな目が、
入道をはったとにらみ瞬きもしない。入道も立ったままにらみ返していると、
その大頭は霜や露が日に当たって消えるように跡形もなく消えうせてしまった。
ほかにも、入道が大切にしていた馬の尾に一夜のうちにネズミが巣を作り、
子を産んだという出来事があった。
七人の陰陽師に占わせたところ、重大な御慎みが必要とのことであった。
この馬は「坂東一の名馬」で、
相模の国の住人大庭三郎景親が、入道に献上した馬であった。
黒い馬で額が白かったので、望月と名づけられていたが、
このことがあって直ちに陰陽師頭泰親に下げ渡された。
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年経て、神祇省をはじめ陰陽道など専門の役所もあったにもかかわらず都にあやしい出来事が度々起こり、怨霊、物の怪が跋扈する時代。
その上血を血で洗う争いで世も末の有様だった京を捨て、権力者清盛の急な思い付きで決まったかのようなあわただしい遷都。
行く先は100年先を考えて決定されたとは思えない急拵えの都、福原。
人に見えないものが見える人はなおのこと『無茶な!』という思いではなかったかと。
前もって上申してもまともに取り合ってもらえず、何かが起こった時にだけ頼りにされるのでは安倍泰親も堪りませんね。
晴明や泰親のファンですから「指御子」とまで呼ばれた逸話が載るとわくわくして読みますが、晴明から5代、時代が下がり位自体は上がっていても、そのひどい扱われ方に同情してしまいます。
陰陽思想が日本に入ってきたのは5c末から6c初、推古天皇(聖徳太子を摂政においた女帝)期といわれています。
この思想が圧倒的に支持されるようになるのが、平安時代です。
平城京から長岡京に遷都した桓武天皇ですが、
新都の責任者で桓武天皇のブレーンだった藤原種継が暗殺されます。
当時は藤原氏と大伴氏が勢力争いをしていました。
大伴氏は万葉集を編纂した大伴家持の一族ですが、
勢力が衰えつつあった大伴氏が藤原種継を暗殺したとして大伴氏の一族は処分されました。
この時、桓武天皇は実の弟で皇太子であった早良親王をこの事件の首謀者として、乙訓寺に幽閉し、
早良親王は淡路島に流される途中無念の最期をとげます。
これ以後桓武天皇の周りには不吉な出来事ばかりが次々起こります。
十年たっても完成しない長岡京を平安京に遷すことを勧めたのが、
和気清麻呂で、清麻呂は建設も担当しその功績として御所の西、護王神社に祀られています。
平安京は完成しますが、あいつぐ疫病や天変地異にみまわれます。
これは不幸な亡くなり方をした人の怨霊のしわざと考えられるようになり、
早良親王他恨みを持って遠方でなくなった人々を、神として上御霊・下御霊神社に祀りました。
怨霊や疫病を防ぐため四堺祭が山崎、逢坂、大枝他で行われましたことは前に書いたと思います。
また陰陽道が盛んになるにつれ、陰陽師は呪術的な仕事も引き受けるようになり、
皇族、貴族たちは、陰陽道を生活の指針にするようになりました。
平安京の鬼門に比叡山、御所の鬼門は猿が辻とよばれ四角く削られています。
多分この辺りのことはyukarikoさんもよくご存知だと思います。
平安時代中期になると、安倍晴明が登場し陰陽道の職が世襲されるようになります。
平家物語とはあまり関係ないのですが、次回は泰親の祖先安倍晴明の記事にしたいと思っています。
そこでもう少し陰陽師について書かせてください。