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法皇の御前で名乗った時ほど晴れがましかったことはなかったでしょうね。 (yukariko)
2013-05-21 18:03:52
いかに源氏の主だった武将の嫡子の若武者たちとはいえ、時の法皇の前で名乗りをあげられる身分ではなかったでしょうから、木曽軍を追い落とした勝ち戦の勢いで御所まで駆けつけ、お言葉を賜ったのだから感激したことでしょう。
若武者達の一世一代の晴れ姿、鎧姿も良く似合った事でしょう。

それにしても主命によって仕えることになった主の有為転変に付き合わされて、その後の一族の運勢がガラッと変わるのを読むと、主が貴族、武将のどちらであろうとも宮仕えのなんと難しいことかと思わされます。



 
 
 
義経の華々しい日々の幕開けです! (sakura)
2013-05-22 11:50:42
義仲追討の後、平氏追討の指揮官として大活躍する時期が
義経の生涯でもっとも輝かしい時代にあたります。

平安時代末の治承・寿永の内乱期においては、全国各地の地方豪族が
源平の貴公子をおしいただいて天下取りを狙っていました。

頼朝が北条時政に、義仲が中原兼遠に、土佐では頼朝の異母兄弟にあたる
希義(まれよし)が夜須行宗に、途中阻止されましたが、
常陸国(茨城県)では頼朝の叔父志田義弘が兵を率いて鎌倉に向かったこともありました。

上野国(群馬県)には、八幡太郎義家の嫡孫にあたる新田義重が、
房総半島に逃れた頼朝が頼りにしていた千葉常胤も
源義家の孫、毛利頼隆を養っていました。

頼朝に乗り換えると決めた常胤は直ちに毛利頼隆を頼朝に差出して忠誠をアピールしましたが、

同じく房総半島の豪族で平家の貴公子を養っていた上総介広常の場合、
差出すのが遅すぎました。広常が平時家(時忠の息子)を頼朝に差出したのは、
自分に疑いの目が向けられるようになってから。これも広常が頼朝に殺害された理由の一つでしょう。

義経にしても頼朝はその背後にいる奥州の藤原秀衡の存在を疑っていたはずです。

これからも時々、鎌倉幕府の草創期に頼朝を支えた
武将が誅殺される様子を垣間見たいと思います。
 
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