平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
長講堂(西山浄土宗)は、もと六条西洞院西にあった後白河法皇の御所
六条殿内の持仏堂でした。
法華経を長期間講読し、阿弥陀仏を念じて
三昧境地に入る道場という意味の「法華長講弥陀三昧堂」を略して寺名としています。
六条河原の西方は、秀吉の時に寺院が集められた寺町でその一角、
蓮光寺の南隣にあります。

長講堂は通常非公開となっていますが、
檀家の方と一緒に拝観させていただきました。

「元六條御所長講堂」山門




本堂には、本尊阿弥陀三尊坐像(重文)が安置されています。



境内御影堂には、高さ1㍍弱の法体の後白河法皇坐像(重文)が置かれています。


長講堂には後白河法皇から寄進された多くの所領があり、法皇の崩御後、
長講堂は付属の荘園とともに寵愛した丹後局の生んだ
宣陽門院(せんようもんいん)に受けつがれ、
のちに法皇の御影を安置した御影堂が建造されました。
その後、後深草天皇を経て子孫の持明院統に、さらに北朝へと伝えられ、
室町時代まで皇室の財政を支えました。
長講堂は度々火災、兵火にかかりましたが、その都度再建され、
天正6年(1578)、秀吉によって現在地に移されました。

長講堂には後白河法皇自ら死者の名を書き入れたという過去帳の写本が伝えられ、
そこには妓王、妓女等の白拍子の名が書いてあることで有名です。
『平家物語(巻1)妓王の事』の末尾にも
「かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも「妓王、妓女、仏、とぢ等が尊霊と、
四人一所に入れられたり、ありがたかりし事どもなり」と記されています。


なぜ後白河法皇が彼女らの供養をしなければならないのでしょうか。
新潮日本古典集成「平家物語」(上)『義王出家』の頭注に、
4人が後白河法皇の過去帳にある事として
「長講堂の過去帳は現存するが、江戸時代の書写と思われる。
閉(とぢ)、妓王、妓女、仏御前の名が記されているが、おそらく平家物語等に
合わせて作られたものであろう。」と書かれています。
なお、六条殿時代の仏堂(延寿堂)が長講堂の東側に移転し現存しています。

木曽義仲との法住寺合戦で法住寺殿を焼かれた後白河法皇は、捕らわれて
摂政近衛基通邸から近臣平業忠の屋敷に遷されます。
六条西洞院のその屋敷は法皇の御所六条殿とされ、
建久三年(1192)、法皇はこの御所において波乱に富んだ生涯を終えます。
その際、業忠はお棺を担いで葬車に入れる重要な役を担いました。
 
    『アクセス』
「長講堂」京都市下京区富小路五条下ル本塩竈町528 
市バス「河原町正面」下車 徒歩約5分 地下鉄「五条」下車 徒歩約7分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(中)(下)新潮社
 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「京都市の地名」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
由緒ある建物が数百年を経て現存しているのが… (yukariko)
2012-07-26 14:20:15
表を通り過ぎてもどこのお寺かしらん?と思う程度ですが、歴史を紐解く上では素晴らしい第一級の資料の山ですね。
平安後期と鎌倉以後の歴史書や公卿たちの日記、諸々の物語で語られる出来事の証人としてお堂や建物が移築されながらも消滅せず現存するのは凄いですね。
それらのお寺や古いお宅に収蔵されていた古文書なども在りし日の様を後世の我々に語ってくれますね。

説話のために作られた事実とは違う物も長い年月がたてば真贋不明で難しいでしょうが、それはそれで庶民の夢が含まれて世に膾炙してきたのかも分からないし、一概に否定はできないですか?
 
 
 
一概に否定はできないです。 (sakura)
2012-07-27 16:17:42
「歴史学は嘘か本当かを判定すれば、それで終わりなのではない。疑問があるなどというと、それでがっかりる人が多いが、伝説(説話)の歴史も大切である。」と上横手雅敬先生も五味文彦先生と同じようなことを『源平争乱と平家物語』の中で述べられています。
「長講堂」の北隣には平清盛の駒を止めたという駒止地蔵や長曽我部盛親の墓がある蓮光寺が、長講堂同様、天正年間に秀吉の命で移されています。
京都は少し歩けば、歴史の宝庫ですね。
 
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