平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




鎌倉駅東口を出て東へ、若宮大路を横断して鎌倉郵便局脇を右へ、
本覚寺前を通り夷堂(えびすどう)橋を渡って
東に進むと長興山妙本寺(日蓮宗)があります。



ここは比企ヶ谷(ひきがやつ)といい、頼朝が鎌倉に拠点を構えた時、
20年に亘る流人生活の間、支援を受けた比企尼を迎え入れた土地です。
比企ヶ谷の邸は主に比企尼が用いたようで、当時、尼の養子
比企能員(よしかず)の館は大蔵幕府の東御門近くにあり、
京都からの使者の宿舎にもなりました。
有力御家人の多くが大蔵幕府(大倉御所)の周辺に
邸宅や宿所を構え、そこから幕府に出仕していたのです。
後に比企一族が比企ヶ谷の地に邸を建てたようです。

北条政子が嫡男頼家を生んだのも比企尼の邸でした。
「木陰が涼しいです。」などと比企尼が誘ったので、頼朝と政子が
納涼に訪れたり、また、庭に他所よりも早くに白菊が咲いたと聞き、
頼朝夫妻が供を連れて訪れ、重陽の節句の
酒宴が開かれるなど、尼の邸が頼朝夫妻にとって
心安らぐ場所となっていたことが『吾妻鏡』に記されています。


総門を入り広大な境内に足を踏み入れると、右側に比企谷幼稚園があり、
その前から長い参道が続いています。
参道の石段を上ると二天門が建っています。

門の右手後方に見えるのが妙本寺が経営する比企谷幼稚園で、
昭和12年3月、八角形の夢殿を模して建てられたものです。




幕末頃に建てられた二天門

欄干には飛竜、一角獅子、像などの彫刻が施され、
向かって右側に持国天、左側には多聞天が立っています。

二天門を潜ると源頼家の嫡男一幡(いちまん)6歳が
北条氏に攻められ、比企一族とともに炎の中に消えた時、
焼け残った袖を埋めたという袖塚があります。

一幡君袖塚

袖塚の背後に建つ巨大な五輪塔は、前田利家の側室
千代保(ちよぼ)の供養塔です。
  千代保((寿福院)は、加賀藩第2代藩主前田利常の母で、
熱心な日蓮宗の信者でした。この五輪塔は千代保が人質として
江戸在住時代の元和10年(1624)に建立した
逆修塔(自分の死後の冥福を祈って建てた供養塔)です。



千代保の供養塔から少し進むと、比企能員一族の墓が並んでいます。

正面の祖師堂には、中央に日蓮上人像、右には日朗と比企能員夫妻像、
左には比企大学三郎能本(よしもと)夫妻の像が並んでいます。

日蓮上人像

北条一族は頼朝の妻政子の実家として権勢を誇っていましたが、
比企能員の娘若狭の局が頼家の側室となり、一幡(いちまん)を生むと
能員にその座を奪われそうになり、能員と対立を深めていきます。

頼朝の急死後、二代将軍となったのが18歳の頼家でした。
頼家の後見には比企氏、頼家の弟千幡(せんまん)には
北条氏がついていたことが問題をより複雑にしました。

頼家の乳父(めのと)は比企能員、乳母には比企尼の娘がなり、
千幡は北条時政の名越(なごえ)の邸で生まれ、乳母には政子の妹阿波局、
その夫阿野全成(ぜんじょう)が乳父と、一族あげて千幡に肩入れしていました。
比企氏・北条氏と異なる乳母父関係をもったことが抗争の火種となり、
時政は将軍頼家を廃し、千幡(実朝)を将軍に立てようと画策します。

 『吾妻鏡』によると、頼家の病気見舞いに訪れた政子が能員と頼家の
北条氏打倒の密談を障子の陰で立聞きし、父の時政にこれを知らせます。
能員の最期はその日の午後でした。
かねがね比企一族を討つ機会を狙っていた時政は、仏像供養をするとして
名越(なごえ)の邸に能員を招きました。
能員が北条邸に行くというので、
能員の子息や親戚は危険を察して「思わぬ事態が起こるや知れません。
軍兵をお供に加えるように」と忠告
しましたが、「薬師如来の供養であるから
それには及ぶまい。」と
郎党2人と雑色5人だけを従えて平服で出かけ、
総門を入ったところで時政の側近らに
刺殺されました。あまりにも軽率で
無謀な行動ですが、人を疑わない能員の性格がよくあらわれています。
能員の従者は比企館に逃げ帰り事情を告げました。

時政はすかさず「比企氏謀反」といって御家人を集め、比企一党が
立てこもる比企ヶ谷の館を襲撃しました。比企氏は必死に防戦しましたが、
所詮は多勢に無勢、力尽きた一族は館に火を放って全滅しました。
建仁3年(1203)9月2日のことです。(比企の乱)

『吾妻鏡』は幕府側(北条氏)に立つ記録から書かれているので、事件の発端は
能員側にあったとしていますが、北条氏による謀略という見方もあります。
『愚管抄』の著者慈円によると、頼家が地頭職を分割せず、嫡男の一幡に
すべてを譲ろうとしているのを知った時政が能員を罠にはめ謀殺したとし、
この事件を北条時政のクーデターとしています。

 比企の乱の翌朝、焼け残った一幡の菊の文様が入った小袖を
頼家の近習大輔坊源性が小御所の焼跡から見つけ、
遺骸はこの辺りにあると推測し、遺骨を拾い首にかけて
高野山へ出発し、奥の院に納めたという。(『吾妻鏡』)
源性は摂津渡辺党出身で蹴鞠や算道を学んだ京下りの頼家の側近です。

ところが、『愚管抄』や『鎌倉年代記裏書』建仁3年条には、
一幡は合戦の前に乳母に抱かれて小御所を出たが、のちに北条義時の命で
殺されたと記されています。どちらにしても比企の乱以前に
頼家の後継者と決められていた一幡は、北条氏に誅殺されたことになります。
その後の経過も『吾妻鏡』と『愚管抄』などの
史料とではかなり違いがあります。
ただ、北条氏が比企一族を滅ぼし、一幡を殺し、千幡を将軍に立て、
頼家を修禅寺
幽閉した後、殺害したことだけは確かです。

 比企一族が滅んだ時、能員の末子能本(よしもと)は生き残っていました。
能員の妻と2歳の能本は、政子と好(よしみ)があったという理由で
和田義盛に預けられ、安房国へ流罪と決まりました。(『吾妻鏡』)
 しかし、『新編鎌倉志』によると、能本は伯父の伯耆(ほうき)上人に
匿われて出家し、京都の東寺に入って順徳天皇に仕え、
天皇が承久の乱に敗れ佐渡に配流された時、
そのお供をして佐渡まで同行しました。
やがて四代将軍九条頼経の
室となっていた姪の竹御所の執り成しで許されて鎌倉に戻り、
竹御所死後にその菩提を弔うため、日蓮の弟子日朗を迎え
文応元年(1260)、比企一族の邸跡に法華堂を創建しました。

建長5年(1253)頃、能本は日蓮に帰依し
法名を日学妙本と称していたので、この法華堂は妙本寺とよばれます。


総門の右方に石碑があり、碑文には次のように刻まれています。
「比企能員邸址   能員ハ頼朝ノ乳母比企禪尼ノ養子ナルガ 
禪尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之ニ基ク
 能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト稱シ 子一幡ヲ生ム 
建仁三年頼家疾ムヤ母政子関西ノ地頭職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡ニ授ケントス
 能員之ヲ憤り蜜ニ北条氏ヲ除カント謀ル 謀泄レテ 
郤ツテ北条氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル 大正十二年三月 鎌倉町青年團建」

意訳(比企能員は頼朝の乳母であった比企禪尼の養子であり、
禪尼とともにこの地に住んでいました。これに基づいて、
この土地を比企ヶ谷といいます。
能員の娘は頼家の側室となり、若狭局と称し一幡を生みました。
建仁三年(1203)体調不良が続いていた頼家が重体に陥ると、
母政子は分割相続を発表しました。それは関西38ヵ国の地頭職を
頼家の弟千幡(せんまん)に、全国の守護職と28ヵ国の地頭職を
一幡に支配させるというものです。頼家が家督を譲るとすれば、
当然嫡男の一幡に譲るべきであると、能員はこれを怒り
ひそかに北条氏打倒を図りましが、謀(はかりごと)はもれ、
逆に北条氏によって比企一族はこの地において滅ぼされてしまいました。)
比企ヶ谷妙本寺(2)蛇苦止堂・竹の御所墓・仙覚の碑  
比企尼・比企遠宗の館跡    宗悟寺(比企尼・若狭局伝承地) 
 金剛寺(比企氏一族の菩提寺) 
比企尼の娘、丹後局が生んだという島津忠久誕生石が住吉大社にあります。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石)  
アクセス』
「妙本寺」鎌倉市大町1-15-1 
JR横須賀線鎌倉駅東口より徒歩約9分
『参考資料』

松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年 
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館、2010年 
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社、2009年
上横手雅敬「鎌倉時代その光と影」吉川弘文館、平成7年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年
 現代語訳「吾妻鏡(7)」吉川弘文館、2009年

 

 

 

 



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コメント
 
 
 
乳母の愛情は実母をもしのぐから。 (yukariko)
2017-10-31 13:32:40
身分の高い女性と子供の関係は血の繋がりというだけで、実際にお世話をする主たる乳母の愛情がその乳母子や乳父とその一族の帰属をも左右する一番の例ですね。
長い流人生活を物心の両面で支え、その子弟は頼朝の旗揚げ後も重要なご家人として仕えるのですから。

でも幕府の権力が確立した後はその継承をめぐって長男頼家の子一幡と次男実朝を擁立しようとする乳母父達の勢力争いに発展し、比企氏は北条氏に滅ぼされてしまう。
政子も息子の頼家よりも常に実家の北条氏側で、その勢力を背景にしますよね。
 
 
 
政子は実家の北条氏が大切だったのでしょう (sakura)
2017-11-02 16:20:47
頼朝の急死後、頼家の時代になると、誰が政局を主導するかを争う
権力闘争の時期でした。

頼家を支持する勢力は比企一族とその縁者でした。
一方、頼家政権から疎外されることになった人々は、
千幡を擁する
北条氏のもとに集まります。その中心にいたのが政子とその弟義時、
それに三浦半島を中心に勢力を伸ばしていた三浦義村です。

北条義時の娘が義村の嫡子に嫁いだため、三浦氏は北条氏と結びつきを強め、
北条氏は頼家を支える比企氏と対抗できる勢力基盤を築くことができました。

能員は好人物でしたが、有能な政治家ではなく、
頼家を支える勢力の拡大を図るということはしなかったようです。
このような状況の中で、比企氏と北条氏の争いが始まりました。

 
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