平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



義仲は後白河法皇と対立が深刻化し、
都に入ってわずか半年そこそこで滅びます。
法皇と義仲との関係が急激に悪化したのは何故でしょう。

義仲が倶利伽羅峠で大勝利すると、その勢いを見て
北陸・美濃・近江などの反平氏の武士が従い、怒涛のように都入りします。
兵糧米の準備が十分でないまま入京した義仲軍は、
飢饉の痛手が冷めやらぬ都で略奪狼藉を繰り返します。
義仲はその取締りを命じられますが、
雪だるま式に膨らんだ軍は、統制が取れない寄り合い所帯。
義仲は部下らの行動を阻止できず、
都の治安回復に失敗し厳しい批判にさらされます。

法皇は義仲に都の守護を命じながら、
守護に任じられた兵の生活を保障していません。
義仲に朝廷と渡り合える才覚があり、
食糧の確保が多少なりともできたなら、
ここまで深刻な事態に陥ることはなかったはずです。

「都の守護に任じられた者が馬に乗るのは当然だ。
その馬に食べさせるために、田を刈って馬草にする、
兵糧米がなくなれば若い者が人家に押し入って徴発する。
それがなぜいけないのか。
大臣や宮の御所を襲ったわけではないものを。」と
義仲は開き直りともとれる発言をします。
その主張にはもっともな点もありますが、
右大臣九条兼実の日記『玉葉』には社寺や人家が襲われ、
人々が田舎に逃げていくという悲惨な状況が記され、
都人は一斉に反感をつのらせます。

このような状況の中、安徳天皇の代わりに高倉上皇の皇子の中から
新たな天皇を擁立することになりますが、
義仲はこの問題に割り込みます。
平氏追討の令旨を発した以仁王(もちひとおう)の功績を強調し、
この王の遺児北陸宮の即位を強く迫ります。
結局、義仲の主張は退けられて、四宮(後鳥羽天皇)が即位します。

皇位継承者を決める権限は治天の君がもち、
家来が口をはさむ問題ではありません。
法皇や貴族の義仲への反感は一層強いものとなります。
船戦になれない義仲軍は水島合戦で惨敗し、
平家との戦いも思うように運びません。

さらに義仲を窮地に追込むのが、法皇と絶えず連絡を取りながら
都の政治情勢をじっと見つづけ、義仲の失脚を図る鎌倉の頼朝です。

義仲が都を留守にしている間に、法皇は邪魔になった義仲を除こうと、
頼朝との提携をさらに進め、
頼朝の上洛を促し、寿永二年十月宣旨を下します。
これにより頼朝はもとの官位に復し、東国の事実上の支配権を与えられます。

平家を都から追放したのは義仲であって
頼朝は鎌倉にあって何もしていないのに、
義仲が上洛して二日後、法皇は平家を都から追放した
功績の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という判断を下します。
さすがに義仲らが抗議して頼朝には恩賞は与えられませんでしたが、
この評価は義仲入京以前から頼朝が法皇に働きかけ、
両者が緊密な関係にあったことがうかがわれます。

義仲の行動の一つ一つは純粋なのですが、都の情報にうとく
複雑な宮廷社会を背景に繰り広げられる老獪な法皇や貴族、
頼朝の政略に巧みに交渉する才能がなく、
有能なブレーンもいません。
義仲唯一の参謀・覚明(かくみょう)もいつのまにか姿を消しています。

『平家物語の虚構と真実』に次のように書かれています。
「覚明は『平家物語』には法住寺合戦の際には、義仲の側近にいるのだが、
他の記録にはまったく見えない。これほどの知名の知識人が貴族の日記にも
まったく姿を見せないのは義仲のブレーンから遠ざけられたしか思えない。
おそらく実際は法皇との合戦にも参加していなかったと思う。」

義仲は勢力を盛り返し備前国まで来ていた平家に頼朝との決戦に備えて
同盟を申しいれますが、むろん平家側は弱体化した義仲と結ぼうとはしません。

ちょうどこの頃、頼朝が派遣した義経が東国の年貢運上を名目にして
近江・伊勢あたりに進んできました。
叔父行家とも不和になり、西に平家・東から頼朝勢が迫り、
都では孤立を深め義仲は追い詰められていきます。
そこへ法皇は義仲に戦いを挑むように兵を集め、
法皇の御所・法住寺殿の周囲に堀をほり、
道路には逆茂木を立て防御を固めて挑発します。

『玉葉』に「法住寺殿に兵を集めて過剰に警固するのは王者の行いではない。
これでは義仲に戦いを挑むとしか見えない。義仲に罪があるなら
その軽重に応じて処罰すべきである。」と
法皇の無責任な政道を批判する記事が記されています。

法皇が頼朝に上洛を促すと、
義仲に従って入京した諸国の武士の中にも
頼朝の上洛が近いと判断し、義仲から離れる者がではじめます。

焦った義仲は挑発されるまま、とうとうクーデターを決行します。
寿永二年(1183)十一月の法住寺合戦です。
法皇方には延暦寺や園城寺の僧兵はじめ続々と兵が集まります。
義仲軍は信濃から従ってきた郎党と
叔父の志田義広らの少数でしたが精鋭ばかりが残り、
法住寺殿を囲み、放った火矢があっという間に
院御所を猛火で包み百余人を殺して圧勝します。

この騒ぎに法皇方の延暦寺座主・明雲や
園城寺長吏・円恵法親王(法皇の第4皇子)らも流矢にあたって亡くなり、
法皇は捕えられて五条東洞院の摂政藤原基通邸に移されます。

法皇が一介の武士と戦ったのも、
武士が法皇を武力攻撃したのも前代未聞の出来事です。

 『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 
安田元久「源頼朝」吉川弘文館

安田元久「源平の争乱」新人物往来社 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
高坪守男「朝日将軍木曽義仲洛中日記」歴史史料編さん会 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
 「木曽義仲のすべて」新人物往来社

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
唯々義仲哀れとしか言いようがありません。 (yukariko)
2013-04-24 16:35:38
読めば読むほど、袋小路に追い詰められてゆく義仲とその身内、郎党の可哀想さが痛いほどで…。

その窮状を打開する方策も見つからずに、法皇と近親さえいう事を聞かせば事態はよくなると思ったのでしょうね。
それが平家どころか同じ源氏の敵対勢力側にとっても、朝敵を討つという一番強い錦の御旗を与えることになると思わず…。
 
 
 
欠点だらけの義仲ですが (sakura)
2013-04-25 16:17:16
決して悪人ではないし、頼朝のようにずるくもないし、何となく哀れになります。
まだ謀反人に過ぎなかった頼朝は鎌倉にいて、義仲が以仁王の遺児北陸宮を擁して、
大軍を率いて都入りするのをどのような思いで見つめていたのでしょう。

都入りは先をこされてしまいましたが、これで頼朝は義仲追討の大義名分ができましたね。

 
 
 
Unknown (ppp)
2021-01-05 16:50:40
義仲は武骨で宮廷政治に対応できなかったが、悪辣であるとか陰険であるとかは感じられない。
むしろ頼朝の方がよほど・・
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2021-01-06 15:39:43
pppさま
義仲は2歳から30歳まで木曽に住んでいたので、京の宮廷世界のしきたりなど
知っているわけありませんね。
田舎育ちのために、その振る舞いは武骨で、言葉も田舎弁まる出し。

頼朝が伊豆で挙兵し、富士川合戦で平家軍に大勝すると、
義仲は養父中原兼遠に諮って旗揚げし、たちまち信濃一円を従えました。
そこに大軍をさしむけたのが同族の頼朝です。
その直前に平家軍と戦って惨敗した源行家が木曽に落ち延びていました。
行家は頼朝と仲違いしていましたから、疑い深い頼朝は
2人が一緒になって自分に謀叛を企てると考えたようです。

義仲は二心なき証に嫡男義高を人質としてさしだしたのですね。
よくご存じだと思います。

 
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