平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




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藤原道長は三女威子が後一条天皇の中宮に立てられ彰子、妍子と
あわせて三人の娘がそれぞれ天皇の后として入内し喜びの絶頂にあった
寛仁2年(1018)10月16日、自邸土御門殿に公卿、殿上人など
多数招き盛大な宴会を催している。
道長は宴たけなわとなった時、
♪この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば 
と満月を仰ぎながら詠み藤原実資に返歌を求めるが、
実資は「大変素晴しい歌なのでとても返歌はできません。
そのかわり一同で唱和させて下さいと全員で数度吟詠した。」と
この時のエピソードが実資の日記・小右記(しょうゆうき)に記されています。

この宴のあとまもなく道長は胸、糖尿病、白内障などの病に苦しみ54歳で
出家し仏道生活に入ります。寛仁4年(1020)自邸・土御門殿の東隣に
御堂の建立にとりかかり、以後十年ほどかけて次々堂が造営されていきます。

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法成寺の敷地は、西は寺町通から東は鴨川の堤、北は広小路通から
南は鴨沂(おうき)高校、護浄院を含む荒神口通まで四町(一万七千坪)
東寺、西寺とほぼ同じの広さといいます。
建立から38年後1058年に全焼しますが、長男頼通により再建されます。
しかしその後も焼失と再建をくり返し藤原氏の勢力後退に伴って少しずつ衰退し、
鎌倉時代末期に吉田兼好が著した「徒然草」には無量寿院(阿弥陀堂)のみが
残っている様子がえがかれている。

62歳の道長は法成寺の九体の阿弥陀如来の手に結んだ糸を握りしめ、
北枕・西向きに横たわり念仏の声につつまれて浄土へと旅立った。



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◆東北院
法成寺内の東北の地に道長の娘上東門院彰子の御願により建立された。
1058年法成寺とともに焼失、3年後法成寺の北に再建されますが
以後焼失と再建をくり返す。
元禄5年(1692)上京区北之辺町(蘆山寺辺)にあった東北院は
すでに大半の建造物はなくなっていたようですが類焼し
翌年真如堂(当時上京区寺町通今出川下ル西側)の移転につれて
迎称寺、大興寺、極楽寺とともに現在地に再建された。

謡曲「東北」(とうぼく)は、諸国行脚の旅の僧が東北院をたずね
和泉式部を偲んで梅の木の前で夜すがら読経していますと、
和泉式部の霊があらわれ上東門院彰子にお仕えしていた
在りし日の東北院のことなどを語りはじめます。

和泉式部が愛でたという梅の木が時代の移り変わりを経て
東北院本堂の傍に植えつがれています。
岡崎通を隔てて西側には、
母彰子、父一条天皇の皇子・後一条天皇の菩提樹院陵があります。



◆東北院・雲水ノ井・誠心院◆
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■東北院駒札■■東北院■■幹は大きく割れ曲がりくねった老木に真白な花が咲いています。■■東北院本堂■■蘆山寺は天正年間に秀吉の命令で現在地に移りました。■■紫式部歌碑の前を通り東に入る。■■慶光天皇陵の前に東北院の雲水ノ井■■誠心院は新京極の繁華街にあるので、うっかりしていると通り過ぎてしまいます。■■本堂前に軒端の梅と歌碑 ♪霞たつ春きたれりと此花を 見るにぞ鳥の声も待たるる■■本堂北にある墓地に和泉式部の宝篋印塔、高さ3・4m■
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◆雲水ノ井(雲井ノ水とも)
廬山寺本堂東の雲水ノ井は東北院の井戸と伝えられ、
傍の澗底(かんてい)の松は、謡曲「東北」ゆかりの松です。

◆誠心院
道長が一条天皇中宮彰子に仕えていた和泉式部のために
東北院内につくった小御堂(こみどう)。
和泉式部の没後その法名『誠心院智貞専意』をとって寺名にしたと伝える。
のち上京区一条通小川の誓願寺の塔頭として併合されたが、
秀吉が寺町をつくった時、誓願寺とともに現在地に移させた。

和泉式部は越前守大江雅致の娘、和泉守橘道貞に嫁ぎ、
小式部内侍をもうけるがやがて別れ、冷泉院の皇子為尊親王の
死後はその弟・敦道親王と両親王の寵愛をうけるが、
敦道親王が亡くなった後、道長の娘一条天皇の中宮彰子に仕え
30代半ばで道長の家司だった藤原(平井)保昌と再婚します。

『アクセス』
「法成寺址の碑」市バス荒神口下車すぐ 荒神口通、鴨沂高校グランド塀の傍に立っている。

「東北院」京都市左京区浄土寺真如町 市バス錦林車庫下車西へ徒歩10分

「廬山寺」京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町 市バス府立医大病院前下車すぐ 

「誠心院」京都市中京区新京極通六角下ル 市バス四条河原町下車徒歩5分

『参考資料』
「藤原道長」朧谷寿 「道長と宮廷社会」大津透 「京都市の地名」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛中)竹村俊則 

「昭和京都名所図会」(洛東・下)竹村俊則 「京都事典」村井康彦 「京都史跡事典」石田孝喜 

「平安京の風景」井上満郎 梅原猛「京都発見」(4)丹後の鬼・カモの神 「平安京年代記」村井康彦





コメント ( 6 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
頼通の平等院ばかりが有名で… (yukariko)
2009-02-10 22:35:10
「望月の…」の歌を宴席で読んでも誰も異を唱えないほどの権勢を誇った道長の土御門殿が後どうなったかを知りませんでした。

平安後期文化の中で息子の頼通の別荘の平等院は教えられますが、現存しないし遺跡も見つからないのでは取り上げる価値もないのでしょうね。

土御門第・法成寺の行方を丹念に調べて下さってありがとうございます。

土御門第跡→法成寺→1058焼失・再建・焼失→残った無量寿院(阿弥陀堂)炎上→法成寺址のみ

東北院→1058焼失・再建→1692類焼し現在の真如堂近くに移転再建。謡曲「東北」由来の梅の木「軒端の梅」が植えられている。

元上東門院邸・東北院の一隅にあった和泉式部の小堂の名を「軒端梅」というのですか?

和泉式部の宝筐印塔のあるのが新京極の誠心院…これも秀吉の寺町移転政策で移転させられたのでしょうね。

盧山寺・紫式部邸跡や蓮台野(貴族の共同墓地)の紫式部の墓は案内にも書かれていますが、不思議に和泉式部の墓の事は読んだことがなかったです。
小野小町の墓とは違いはっきりしているのなら一度お参りしたいものですね。
 
 
 
東北院内の庵は小御堂といいました! (sakura)
2009-02-11 14:46:32
軒端の梅は小御堂(こみどう)前の梅を軒端から
和泉式部が愛でていたことから名づけられました。

和泉式部の墓や伝承は全国各地に存在します。
誠心院は誓願寺の塔頭として再建されましたが、
往時の誓願寺は諸国を歩く時宗の比丘尼のたまり場で
彼女たちが「和泉式部伝説」を語って歩いた。と
云われています。
誓願寺が秀吉の側室松丸殿の尽力で現在地(誠心院の少し北)に
再興された時、誠心院も一緒に移りました。

謡曲「誓願寺」があります。
一遍上人が誓願寺で和泉式部の化身から
「六十万人決定往生」とあるが六十万人より他は
往生に漏れるのかと尋ねられ、
人数を限るものではないと教えます。
一遍上人が御身は如何なる人かと問うと、
自分はあの石塔の下に住む
和泉式部であると告げ消え失せます。
(略・ラストシーン)では歌舞の菩薩となった
和泉式部が登場して仏徳を説くというものです。

謡曲にでてくる石塔は誠心院の宝篋印塔のことで、
誠心院の宝篋印塔の背後には12人の尼僧名と
正和2年(1313)と刻まれています。
高さ3.4m、重美に指定されています。

法成寺の址は現在民有地になっているので
簡単には発掘できないようです。
先年京都御所内に迎賓館が建設され、
建設に先立つ発掘調査によって
道長時代の瓦や土器が発掘されましたが、
場所は土御門殿の北側にあたり道長の邸で
不要になって廃棄されたものだそうです。
迎賓館の建設地がもう少し南であれば、
土御門殿の遺構が発見されたかもしれませんね。
 
 
 
質問にも早速お答え下さってありがとうございます! (yukariko)
2009-02-11 18:49:47
和泉式部の恋模様が最近はコミック雑誌にまで載るようになりました。
恋多き女として有名ですが色々な誹謗中傷にも耐え、歌人として一流、上東門院の元に出仕し宮廷サロンを彩ったのみならず、出家したのちも門院の意向で東北院の一隅に庵「小御堂」を建てて貰い、初代住職としてそこで亡くなったとは聞いて安心できました。
もちろん最後の夫藤原保昌が道長の家司でもあったからでしょうけれど、門院のお気に入りでなかったらあり得ませんものね。

2/11に実家の母の見舞いに大徳寺前の病院まで出かける予定があったので、新京極「誓願寺」と「誠心院」に寄ってお参りしてきました。

宝篋印塔の高さを書いて下さっていましたがあんなに大きいとは思いませんでした。
それに「軒端の梅」傍の歌碑の文字も駒札も和歌の途中が読めなくなっていたので、こちらに書いて下さっていてありがたかったです。

誓願寺にも寄って良かったです。
なぜ誠心院ではなく誓願寺なのかと思っていたら謡曲「誓願寺」があるのですね。
和泉式部が歌舞の菩薩となった話から信仰の対象となった話や扇塚など詳しく読んできたので、追加で書いて下さったお話がとてもよく分かりました。

ありがとうございました。
 
 
 
軒端の梅は8分咲きくらいだったでしょうか。 (sakura)
2009-02-12 16:02:01
早速たずねて下さってありがとうございます。
大徳寺方面にお見舞いに行かれるのでしたら、回り道になってしまいましたね。
この記事を書く数日前に、私も誠心院、誓願寺、東北院、法成寺址を
古典講座で一緒の友達とたずねてみました。
誠心院、東北院どちらの梅もちらほら咲きでした。

コミックのせいでしょうか?
東北院で二人カメラを持った人が、境内に入って来られ写真撮影されたので驚きました。
カメラの被写体にするには、あまりにも雑然としたお寺ですし、
梅の木も今年も咲いてくれるのかしらと心配しないといけないような老木です。
お寺の歴史を知っていてこそ撮影に来られたのだと思いますが。

東北院は平家物語(巻1)御輿振の事に
山門の大衆が神輿をかついで都に乱入した時のことを、
「さがり松・きれ堤・賀茂の河原・糺・梅忠・柳原・東北辺に云々」と
比叡山から西坂本へ下り都に入る辺の地名を記している中にでてくる「東北」です。

源氏物語の注釈書「河海抄」(1367年)『正親町以南、京極西頬、東北院の向い也。』の
一文によって紫式部の曽祖父藤原兼輔が中川(寺町通に沿って流れていた小川)の流域に構えた邸が、
現在の蘆山寺辺といわれています。

和泉式部は平井保昌と再婚してから、保昌とあまり上手くいっていなかったようです。

丹後・宮津市山中に夫が任期を終えて都に帰ってからも、
一人で隠棲したという地があり、そこに和泉式部の墓がありますし、
貴船神社をたずねた時にも、
平井保昌との中を修復するために和泉式部がお参りし、
その時詠んだという和歌の碑がありました。

娘の小式部内侍に先立たれ、60歳くらいで平井保昌より先に亡くなったそうですが、
和泉式部の晩年についてはよく分かっていないようです。

誕生についても、利修上人の小水をなめた鹿が生んだという異常出生譚を持っています。
この辺安倍晴明と一緒ですね。

往時の誓願寺は塔頭、子院が18もある大寺だったようですから、
比丘尼が時宗の布教に和泉式部伝説を伝えて諸国を歩いたのでしょう。
 
 
 
ネットで検索すると…(笑) (yukariko)
2009-02-12 16:40:04
梅の開花は写真でご覧下さい!(6~7分?)

ネットで検索すると伝説が一杯出てくるので可笑しかったのですが、誓願寺縁起にも法然・清少納言・和泉式部と出てくるのでyukarikoとしては「誓願寺」「誠心院」説に決めました(笑)

久しぶりの新京極散歩で、今まではお寺の由来を考えもせずに通り過ぎていました。
だから特に誠心院では楽しく、縁起絵巻を見たりしたから和泉式部に絞って写真を載せようと思います。
(お寺はリンクだけして、謡曲や縁起の内容は書きません)

sakuraさまの「法成寺跡・東北院」の記事から飛び出した勝手な書き方ですがお許し下さい。
そしてこちらにもリンクさせて下さいね。
 
 
 
リンクして頂いてありがとうございました! (sakura)
2009-02-13 17:40:10
先程もしや?と思い訪問させて頂き戻って来た所です。
やはり梅は6、7分でしたか。

私はPCに長時間向っていると疲れるので、
同好会の人を訪問する以外、ネットはあまり見ません。
記事はもっぱら読書からの資料なので、どうしても堅くなってしまいますが、
yukarikoさんは同じ所をたずねられても、いつも違った雰囲気の記事にされるので
楽しみに見せて頂いています。
 
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