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時代が頼朝を必要としたのですね。
(
yukariko
)
2010-11-23 11:35:51
丁寧な説明に納得!しました。
頼朝が伊豆で流人生活を送っていた20年の時の流れの中で、東国各地域での勢力争いがあり、平氏政権下で代理人として過大な収奪を繰り返す平家家人側とそれまでの特権を奪われた反対勢力の争いが激化、武家の利益を考えてくれる新しい組織を必要とした反対勢力の旗頭として期待された…というのが分かります。
時代が頼朝を必要としたのですね。
大番役で各地の武士が京に3年滞在して都の空気を身を持って体験した事も都・引いては日本国の政治の趨勢などの情報の共有に役だったのでしょう。
主従一党による都での見分、実地体験は都からの噂話を聴くだけのそれまでとはインパクトが違ったでしょうから。
そのようです
(
sakura
)
2010-11-24 13:58:05
東国武士の間には、土地の所有権や境界争いがあったことは述べましたが、この他、相続をめぐるいさかいも絶えず起こり、武家の棟梁である平家に訴えますが、当時は中央から目代だけが派遣されて来るという有様で、貴族化した平家は遠い東国にまできて裁判を下すことが困難だったようです。
当時、一族内の争いは上総介広常もかかえていました。頼朝は目代を討って安房、下総、上総の国衙(今の県庁)を掌握した後、富士川の戦いで平家に勝利して上洛できると判断、「上洛して平家を討て」と命じますが、頼朝のもとに参じた東国武士を代表して、三浦義澄、千葉常胤、上総広常らは「都に上るよりまず東国を平定すべき」と諫言し、結局、頼朝はこの言葉に従うことになります。彼らが源家再興のために挙兵に加わったのではないことは、前にも述べましたが、
このことからも頼朝挙兵の実態は東国武士団の旗揚げであり、頼朝は担がれただけといわれる所以です。
京都大番役は中央貴族と知り合い、在庁官人の官位を手にする事もできるいい機会でした。また草深い東国に生まれた武士にとって都の文化にふれるチャンスでもあり、後に音楽の教養が深い武士たちが平家物語に登場しますが、彼らは京で音楽を習ったものといわれています。頼朝挙兵の際、畠山重忠の父重能が京都大番役で都にいたため17歳の重忠が一族を率いて、平家方として頼朝討伐に向かい、父重能や叔父は人質として平家の都落ちの頃まで足止めされています。大番役は東国武士にとっていい面と悪い面と合わせもっていたようです。
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頼朝が伊豆で流人生活を送っていた20年の時の流れの中で、東国各地域での勢力争いがあり、平氏政権下で代理人として過大な収奪を繰り返す平家家人側とそれまでの特権を奪われた反対勢力の争いが激化、武家の利益を考えてくれる新しい組織を必要とした反対勢力の旗頭として期待された…というのが分かります。
時代が頼朝を必要としたのですね。
大番役で各地の武士が京に3年滞在して都の空気を身を持って体験した事も都・引いては日本国の政治の趨勢などの情報の共有に役だったのでしょう。
主従一党による都での見分、実地体験は都からの噂話を聴くだけのそれまでとはインパクトが違ったでしょうから。
当時、一族内の争いは上総介広常もかかえていました。頼朝は目代を討って安房、下総、上総の国衙(今の県庁)を掌握した後、富士川の戦いで平家に勝利して上洛できると判断、「上洛して平家を討て」と命じますが、頼朝のもとに参じた東国武士を代表して、三浦義澄、千葉常胤、上総広常らは「都に上るよりまず東国を平定すべき」と諫言し、結局、頼朝はこの言葉に従うことになります。彼らが源家再興のために挙兵に加わったのではないことは、前にも述べましたが、
このことからも頼朝挙兵の実態は東国武士団の旗揚げであり、頼朝は担がれただけといわれる所以です。
京都大番役は中央貴族と知り合い、在庁官人の官位を手にする事もできるいい機会でした。また草深い東国に生まれた武士にとって都の文化にふれるチャンスでもあり、後に音楽の教養が深い武士たちが平家物語に登場しますが、彼らは京で音楽を習ったものといわれています。頼朝挙兵の際、畠山重忠の父重能が京都大番役で都にいたため17歳の重忠が一族を率いて、平家方として頼朝討伐に向かい、父重能や叔父は人質として平家の都落ちの頃まで足止めされています。大番役は東国武士にとっていい面と悪い面と合わせもっていたようです。