平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 

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一の鳥居
額に掲げられた社紋「晴明桔梗」は、「五芒星」ともよばれます。



二の鳥居

二の鳥居の傍に千利休屋敷趾の碑



旧・一條戻橋の傍らには、式神の石像が置かれています。
式神は陰陽師が使う精霊で人の目には見えず、
橋を渡る人の
占いをしていたといわれています。
一条戻橋は、平成7年に架け替えられ、
現在、晴明神社から南へ100メートル辺、一条通りの
堀川に架かっています。



本殿
祭神は平安時代に活躍した安倍晴明と倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祀っています。

屋根瓦、御神燈等についている安倍晴明のゆかりの星形の紋章は、
五芒星(ごぼうせい)と呼ばれ陰陽道で用いる祈祷呪符の一つといわれています。



安倍晴明像



 晴明祭 毎年、秋分の日とその前日。
湯立神楽の奉納や、神輿巡幸などが行われます。

安倍晴明(921~1005)は、大膳大夫安倍益材(ますき)の子で、
右大臣安倍御主人(みうし)の子孫にあたります。

晴明は幼い頃から賀茂忠行・保憲父子に指示し、陰陽道・天文道を学びます。
賀茂忠行は葛城地方を本拠とした賀茂氏の一族で占いに優れ、
息子の保憲は暦博士、陰陽頭、天文博士を歴任し、従四位上にまで出世しています。
保憲は弟子晴明の才能を高く評価し、陰陽道を二派に分け
晴明には「天文道」を授け、息子の光栄(みつよし)には、
「暦道」(れきどう)を伝えます。
以後、賀茂氏が独占していた陰陽道の職は、

二つに分かれ両家によって継承されていくことになります。

安倍晴明は40歳の時、はじめて歴史上に登場します。
天徳4年(960)内裏が炎上し、所蔵されていた節刀がすべて焼失してしまい、
新しく作り直す必要にせまられて、天皇の前に
天文得業生(てんもんとくごうしょう、陰陽寮・天文道の学生)として
修行の身だった晴明がよばれ節刀について言上しています。

出世は遅かったようですが、
天皇の前によばれて節刀について述べたということから、
晴明の学識が宮中や周囲の人に高く評価されていたことが窺えます。
この頃からしだいに時の権力者、花山天皇・一条天皇、藤原道長などの信任を得、
大膳大夫、天文博士、播磨守等を歴任し従四位下に至ります。

賀茂・安倍両家によって受け継がれた陰陽道は晴明以後、
その子孫には優れた才能をもつ者が多く、賀茂氏と立場が逆転し、
安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を継承し、賀茂氏は陰陽助ということが多く
安倍氏(後の土御門家)が陰陽道の主流となっていきます。


「安倍御主人(あべのみうし)」は天武天皇の寵臣で、
「竹取物語」の中で、
かぐや姫に求婚する貴公子の一人、
右大臣安倍の御主人のモデルといわれています。


「節刀」とは、將軍が出征の際天皇から賜った刀のことで、
天皇の権限を代行する意味を持っています。

安倍晴明邸跡
 社伝によると、晴明の邸跡を神社化したとしていますが、
「今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。」で始まる『今昔物語』には、
「忠行は晴明を側から離さず愛弟子として、陰陽道の秘術を残りなく教えこんだ。
そこで晴明は陰陽道によって、公私にわたり重用され、 大そう偉くなって
世間から尊ばれていた。
そのうち忠行が死んで、晴明は土御門大路よりは北、
 西洞院大路よりは東に家をかまえ、そこに住んでいた。云々」と記されています。
(今昔物語・安倍晴明、忠行の弟子になる)

このように『今昔物語集』や『大鏡』巻一の記事によると、
晴明の邸宅は、土御門(現・上長者町通)北、西洞院(現・西洞院)東と記し、
 現在の晴明神社の場所ではないことがわかります。

晴明の 邸宅跡は、続『京都史跡事典』、『昭和京都名所図会(洛中)』によると、
 現在の上京区上長者町通新町西入土御門町、 晴明神社の東南へ約700㍍の地にありました。
晴明神社は明治維新の廃仏毀釈で廃社になるところでしたが、
 斎宮を主神とする神社を作り、晴明社はその傍らに稲荷大明神として、
 やっと残すことができました。
斎稲荷社(いつきいなりしゃ)はその名残の社です。

陰陽道では、古来より桃の木には霊力があるといわれ、
家の鬼門(東北)の方角に植えたり、平安時代に宮中で大晦日に行われた
大儺式(たいなしき)には親王や公家達は桃の木の弓、杖等をもって参列しました。
 

『アクセス』
「晴明神社」京都市上京区堀川通一条上ル806 
JR 京都駅より9 番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩約2分
阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12 番「一条戻橋・晴明神社前」下車徒歩約2分
京阪 三条駅より12 59 番「堀川今出川」下車 徒歩約2分
地下鉄. 今出川駅より徒歩約12分
『参考資料』
諏訪春雄「安倍晴明伝説」ちくま新書 小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫 
小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
文芸別冊「安倍晴明」河出書房新社 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社

梅原猛「京都発見」(4)新潮社 志村有弘「京都異界の旅」勉誠出版 
志村有弘「夢枕獏と安倍晴明」桜桃書房 瀬戸内寂聴「今昔物語」中公文庫
 
「平安時代史事典」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)俊々堂
 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
なるほど! (yukariko)
2009-01-14 20:08:12
一条戻り橋を渡って○○に行ったなどと書かれているから、今の晴明神社では場所がおかしい?と思っていたし、晴明邸宅跡の住所が記された文献も見たのですがイメージとして思い浮かばなかったのです。

お写真をUPして下さったので、今度この辺りを通る時は探してみようと思います。

晴明神社も鳥居前がきれいに整備されましたね。
ずっと以前に訪ねた時は『これだけ?』等と思いましたから(笑)
晴明ファンとしては嬉しいです!
 
 
 
このTOPの「御神燈と五芒星」の写真の構図がいいですね。 (yukariko)
2009-01-14 21:59:24
「くるりん」でお作りになった時も感心して見せて頂きましたが、枠の色と五芒星の赤が引き立て合って華やかで印象的ですね。

写真自体の構図も凄いなと思って見せて頂いています。
 
 
 
ご指導ありがとうございました! (sakura)
2009-01-15 16:08:23
教えて頂いた時の作品大切に保存していました。
晴明神社は平日だというのに修学旅行生や参拝客が多く、
神殿の前は中々撮影できなくて仕方なく、
参拝者の横から撮影させていただきました。
神殿の内部でも中年の女の人が宮司さんから託宣を受けてらっしゃいました。

夢枕獏、岡野玲子の影響はとても大きいですね。
廃仏毀釈で廃社になるはずだった社だったとは!ビックリです。

晴明邸宅跡には何もないのですが…
神社からでも徒歩10分位だと思います、近くを通られる時はおたずねになってください。
ブライトンホテルの南辺りの筈です。碑か駒札がほしいですね。
 
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