平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




清盛の横暴を抑え諌めていた清盛の長男重盛が他界すると、
後白河法皇と清盛の間には波風が立ち始めた。清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、
高倉天皇を退位させ娘徳子が生んだ僅か三歳の安徳天皇を即位させます。
これによって皇位への道を閉ざされた後白河法皇の皇子以仁王は、
平氏討伐の令旨を下し、頼朝の叔父にあたる源行家に命じて諸国の源氏に伝えさせた。
頼朝に令旨が届いたのは「吾妻鏡」によると
治承四年(1180)4月27日のことであった。
同年5月、以仁王は頼政とともに挙兵、しかし頼政は宇治川の合戦で討死し、戦場から
逃れた以仁王も奈良への途上、光明山の鳥居前で流れ矢に当たり命をおとした。
清盛は宇治川合戦に勝利したものの京都周辺の反平家勢力を避けるため、
同年6月突如遷都を強行します。しかし山と海に挟まれた狭い地形の福原での
新都造営はなかなかはかどりません。そこへ相模国から清盛のもとに
頼朝の謀反を知らせる大庭三郎景親の早馬が到着します。

ここから「大庭が早馬の事」を読んでいきます。
治承4年9月2日相模国の住人大庭三郎景親が福原へ早馬で来て申すことには
「去る八月十七日伊豆国流人、前の右兵衛佐頼朝は、舅北条四郎時政を使わして、
伊豆国目代和泉判官兼隆を山木館で夜討ちにしました。
そののち、土肥、土屋、岡崎をはじめ伊豆相模の兵三百余騎、頼朝に誘われて
相模国石橋山に立て籠もっていたところに、景親が平家方三千余騎を引き連れて
攻めたので、兵衛佐は苦戦し僅か七、八騎になって土肥の杉山へ逃げ籠もりました。
平家方畠山庄司次郎五百余騎と源氏方三浦大介(おおすけ)義明の子三百余騎とが
鎌倉由比ガ浜、小坪ヶ浜で戦いましたが、畠山は敗れ武蔵国へ退きました。
その後畠山一族の河越小太郎重頼、稲毛三郎重成、小山田別当有重の一族、
江戸太郎重長、笠井三郎清重など三千余騎が三浦の衣笠城に押し寄せて
合戦となりました。その際、大介義明は討ち死、義明の子供は久里浜の浦(横須賀市)
から舟に乗って安房上総へと渡りました。」と報告してきました。
平家の人々はこれを聞いて都遷りのこともすっかり興ざめしてしまった。
若い公卿や殿上人は「いっそ早く大事が起こればよい。征伐に向おう。」などと
何ともうかつなことをいう。丁度この時、畠山庄司重能、小山田別当有重、
宇都宮左衛門尉朝綱は大番役で京に滞在していた。
「頼朝と親しい間柄の北条はいざ知らず、その他はまさか朝敵に味方することは
ございますまい。今に正しい情報をお聞きになると思います。」と畠山庄司重能が申すと
「そのとおりだ。」と申す人もあったが「いやいや今に一大事を引き起こすぞ。」と
囁く者もあったとか。入道相国の怒りは大変なものであった。「そもそもかの頼朝は
平治元年12月父義朝の謀反によって死罪にするはずであったのに、
お亡くなりになった池殿が嘆願されたので、罪を減じて流罪にしたのにその恩を忘れて、
弓を引き矢を放つとは神も仏もお許しになることがあるものか。
今に頼朝には天罰が下るであろう。」と仰る。
(平家物語・巻五「大庭が早馬の事」「朝敵揃への事」)

◆大庭三郎景親とは桓武平氏・鎌倉権五郎景政から出た一族で、
大庭御厨(おおばみくりや・藤沢市大庭)に所領を持ち、景政の曾孫にあたる景親は
一族の棟梁であった。鎌倉権五郎景政は後三年の役で源義家の軍に従って戦い
武名を轟かせ、景親も兄景義とともに保元の乱では義朝に従い白河殿を攻めるなど、
源氏とは縁の深い一族であった。その後、景親は何らかの事情で処刑されるところを
平氏に助けられ、その恩に報いるため平家に仕え有力家人の一人となった。
「清盛は景親が献上した坂東八カ国一の名馬を『望月』と名づけ大切にしていたが、
馬の尾に鼠が巣を作り、子を生んだため陰陽頭安倍泰親に下げ渡した。」
(平家物語巻5「物怪の事」)とありこの逸話からも景親と清盛の親しい関係が
うかがわれる。一方兄の大庭平太景義は頼朝の挙兵に応じて戦功をたて、
以後鎌倉幕府の有力御家人の一人として活躍します。
以仁王・頼政が挙兵した時、大番役のため京にいた景親はその追討にあたり、
続いて伊豆にいる頼政の孫有綱を討つため帰国した。その半月後、
頼朝が挙兵すると景親は三千の軍勢を率いて石橋山に頼朝軍と戦いこれを破った。


『参考資料』「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語」(中)新潮日本古典集成

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 「国史大辞典」吉川弘文館



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
清盛にすれば『恩知らず』ですよね (yukariko)
2010-06-08 19:43:06
義母を始め色々な人から嘆願があって仕方なく助命、流罪にした源氏の跡取りが20年の雌伏の末挙兵したという知らせは清盛にとって怒り心頭に発した知らせだったでしょう。やはりあの時願いを聞くのではなかったという思いが胸に去来した事でしょう。
恩知らずですが武門の『臥薪嘗胆』は世の習いですものね。

安徳天皇を即位させ後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、思うがままの政治を行ってきた清盛にとって先の以仁王と源三位頼政の謀反に続いて源氏が反旗を翻したという知らせはこれから先を暗示する忌まわしい知らせとなって彼を悩ませた事でしょう。

柱と頼む大事な後継ぎ、重盛を失い、他の武将としては頼りない息子達や孫が各地の反平氏を標榜する源氏と法皇側近を始めとする貴族の中の反抗勢力をちゃんと抑え込んで宮廷を仕切ってゆけるか?と考えると、おちおち京の都に居座っていられなかったのかも。
 
 
 
栄華から没落へ (sakura)
2010-06-10 15:49:28
以仁王の謀反が起こり、清盛が強引に都遷りする頃から平家の運にも陰りが見えはじめます。

頼朝挙兵の知らせを聞いた清盛は池禅尼を深く恨み、頼朝を助けたことを後悔したことでしょう。
清盛が池禅尼の嘆願を固く退けていれば、平家はこんなに早く滅びなかったかも知れませんね。しかしこの時点で清盛は頼朝軍を甘く見ていたのでしょうか。
高倉上皇が9月に病をおして厳島神社に参詣、10月には代わって清盛が厳島神社・宇佐神宮参詣に出発。11月清盛が戻ると富士川合戦で維盛を大将とした平家軍が大敗北との情報が伝わってきた。
汚名を挽回しようと宗盛を大将として再び東国へ大軍を送ろうとしますが、その出陣直前に清盛は熱病におかされ死の床についてしまいます。

 
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