平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



治承4年(1180)8月、伊豆で挙兵した頼朝は、伊豆国目代の
山木兼隆を討取り初戦に勝利しましたが、続く石橋山合戦では散々に敗れ、
房総半島に逃れた頼朝は、安房の豪族千葉常胤・上総介広常らを従えると
その軍勢は数万に膨れあがりました。
これを見て、当初平家方であった武蔵の武士も頼朝に降り、
頼朝は源氏ゆかりの地鎌倉に入りました。
9月には信濃で木曽義仲、甲斐では甲斐源氏の武田信義が挙兵、
全国で反平氏の動きが盛んになり、各地で源氏やその与党が蜂起し
内乱状態となっていきます。
ここから諸国の反乱を伝える「飛脚到来の事」の章段を読んでいきます。

木曽という所は信濃にとっても南の端、美濃との国境であるので、
都もきわめて近い。平家の人々は義仲の謀反を漏れ聞き
「東国の謀反さえ手に負えないのに北国(北陸)
まで謀反を起こすとは。」
大騒ぎしましたが、清盛は「義仲なんぞ案ずるには及ばぬ。
信濃一国の武士どもがぜんぶ義仲に従ったとしても、越後(新潟県)には
余五(よご)将軍の子孫・城太郎資長、同四郎資茂兄弟がいる。
この兄弟には一族郎党が大勢いる。あれらに命ずれば義仲などたやすく
討ちとってくれようぞ。」というが、
「はたしてそうであろうか。」とささやく者も多くいました。
余五将軍とは鎮守府将軍平維茂(これもち)のことで、
平安時代中期の武勇の聞こえ高い武将です。


治承5年(1181)2月1日、木曽義仲を追討するために、城太郎資長は
越後守(新潟県の長官)に任命されました。
資長の越後守は誤りです。
当時は藤原光隆が越後の知行国守、その子雅隆が
越後守でした。
平家物語は語られているうちに、
またもとの調査が
不充分なために所々に間違いがあります。

同月7日、大臣以下の家々では尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)経を
書写し、不動明王の画像を描いて仏に奉納して供養しました。
これは兵乱鎮定のための祈願です。
同月9日、河内国石川郡に住む武蔵権守(ごんのかみ)入道義基の子息
石川判官代義兼が平家に叛いて頼朝に味方するとの噂があったので、
清盛はすぐに討手をさし遣わしました。
大将には、源大夫(げんだいふ)判官季貞(すえさだ)、摂津の判官盛澄(もりずみ)が
軍勢三千余騎を従えて河内国へ出発しました。
城内の反乱軍は僅か百騎ほどでした。
朝の六時に矢あわせして一日中戦い暮れ、夜に入ると
義基(よしもと)法師が討死し、子息の石川判官代義兼は
痛手を負って生捕りにされ、義基法師の首は都大路を引きまわされました。
武蔵権守義基は義時の子、八幡太郎義家の孫にあたります。

高倉院が崩御され服喪中だというのに賊の首を渡されるということは、
堀川天皇崩御の時、前対馬守源義親の首を
引き回したことがあって、その例にならってのことでした。

同月12日、九州から飛脚が到来しました。宇佐の大宮司公通から
九州の者ども、緒方三郎惟栄(これよし)をはじめとして臼杵、
戸次(へつぎ)、菊池、原田、松浦党にいたるまで皆平家に叛いて源氏に味方し、
大宰府の指図にも従わないという知らせでした。
「東国・北国が平家に叛いた上に西国までもこの有様、これはいかに」と
平家の人々は手を打って呆れかえりました。

同月16日、伊予国より飛脚が到来し、去年の冬の頃から伊予国の河野通清はじめ
四国の者どもが皆、源氏に味方したので、平家に志深かった備後国(広島県)の
額(ぬかの)入道西寂(さいじゃく)は軍勢三千騎を率いて伊予へ渡り、
道前・道後の境にある高直城に押寄せてさんざんに攻め、
河野通清を討ちとりました。この時、通清の子息河野通信は伯父の所に
出かけていて留守でしたが、父を討たれて心穏やかでなく
西寂を討つ機会を窺っていました。

四国の無法者を鎮めた西寂は正月十五日、備後の鞆(とも)へ渡り、
遊君遊女どもを召し集めて遊び戯れ酒盛りをしていた所へ河野通信が集めた
決死隊百余人が突然押し寄せました。西寂側には三百余人の武士がいましたが、
急なことだったので慌てふためくばかり。西寂を生捕り、伊予へ戻った河野通信は
父が討たれた高直城まで連れていき鋸で首を切ったとも、磔にしたともいわれています。
その後は四国の者どもは平家に叛き河野四郎通信に従いました。

又、紀伊国の熊野別当湛増は平家重恩の身であったが、にわかに心変わりして
源氏に味方したという情報が流れました。東国、北国が平家に叛いた上に南海、
西海までもとは。これはまた何としたことだ。四方の賊がにわかに叛乱を起こし、
世は今に滅びるであろうと平家一門ならずとも心ある人は嘆き悲しみます。

熊野別当湛増は、当時はまだ権別当でしたが、のち別当となっています。
父は熊野神社の長官十八代別当湛快、母は源為義の娘鳥居禅尼で
田辺水軍を擁して勢力を誇り、古くより平家と縁が深かった人物です。

京都市南区の羅城門跡には、平正盛の凱旋をつげる駒札が建っています。
◆対馬守源義親

八幡太郎義家の嫡男義親は勇猛ではあったが思慮分別に欠けた乱暴者で
あったため晩年の父を苦しめます。義親は任国対馬に赴かずに九州各地で
乱行を重ねたため隠岐に流されるが、父が亡くなると対岸の出雲に渡って
国府を襲い目代を殺害した。白河院は因幡守平正盛(清盛の祖父)に
義親追討を命じた。源義親を追討しその首を携えた正盛が
多くの郎党を従えて鳥羽の造り道を凱旋し無名だった平正盛が
一躍武名をあげる機会となりました。

義親追討の功により正盛は因幡守から但馬守に栄転した。

これによって河内源氏は凋落、伊勢平氏の台頭を告げることとなった。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 高橋昌明「清盛以前」文理閣
高橋昌明編別冊太陽「平清盛」平凡社 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
この時代の人は変節も平気ですね。 (yukariko)
2012-05-29 22:07:15
今の世と違って情報が西国、東国まで伝わるのは時間がかかると思うのですが、各地の武士達は素早く風に稲穂がなびくように平氏、源氏と旗色を変えますね。
この時代は変節は悪ではなかったのでしょうか?
自分の欲に正直と言えるのでしょうが、なんだか鼻白みます。
でも大河ドラマはやはり凄いです。
平安末期や鎌倉時代の歴史など全く興味のなかった息子が保元の乱の清盛と義朝の話を真顔でしていますから(笑)
ナレータが頼朝らしいのですが、私は彼が嫌いでドラマをたまにしか見ていないのですが…(笑)
 
 
 
悪ではなかったと思います (sakura)
2012-05-30 16:16:38
息子さんもご覧になっているという大河ドラマでは、丁度保元の乱の火蓋が切って落とされ、
戦いで敗れた崇徳上皇側が敗走する所です。
この乱は皇位や摂関家の氏の長者をめぐる対立が鳥羽法皇の死をきっかけとして起こったものですが、
これまでもこのような対立ありましたが、策略と陰謀で決着をつけていました。
武士の台頭で政争が武力で解決され、以後、武士の力を無視できなくなります。
続く平治の乱では清盛に義朝が破れ、源氏が壊滅状態となり、
東国の武士たちも平家に従わざるをえなくなります。
二つの乱で勝ち残った清盛は破格の地位を得、天皇の外戚となり、
平家一門で高位高官を独占します。もとは平氏も源氏も天皇の子孫ですが、
何代にも渡って武家として地方に住むうちに、身分は低くなり、
貴族の侍(さぶろう)と蔑まれて呼ばれていました。
このよう身分の低い武士達は清盛に自分たちの権利と利益を守ってくれる政治、
武士の社会を作ることを期待しましたが、清盛は貴族化してしまい
結局、藤原摂関家と同じ道を辿ることになります。

頼朝の挙兵について東国の武士、中でも三浦一族が中心となって
頼朝を担いだと理解されたりもします。
平氏の勢力が衰えを見せていたとはいえ、まだ平家の時代であり、
「旗挙なんて何と無謀な」と言って参加しない武士も沢山いましたが、
「武士による武士のための新しい社会を作る」と誘えばどうでしょうか、
それまでひっそくしていた源氏やひそかに源氏に心を寄せていた武士が次々に蜂起したわけです。

 
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