コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
義経の容貌についての誤解が解けました!
(
yukairiko
)
2011-02-28 22:37:57
昔から判官贔屓という言葉があるように義経には物語、歌舞伎などで『悲運の将・源義経』のイメージが出来上がっています。
もちろんyukarikoもその一員だったので、義経の真実はこうだ!…小男、鼠顔、反っ歯…を読んで哀しかったです(笑)
大人になれば頼朝の目指すものとそれを理解せず法皇の策略に載せられ追討指令を出される軍事馬鹿の義経の哀れさが分かりましたが、やはり判官贔屓は治りませんね。
最上川下りでも逃避行中の義経主従が参詣したというお寺に寄ったり、平泉で遠くに「衣川」がどこだと探したり(笑)
でも山本義経も氏素性正しい源氏で直系ではなくても結構活躍していますね。
木曽義仲追討、源義経追討、そしてすぐに臣従しなかった佐竹氏を滅ぼすなど幕府設立の為に手段を選ばない頼朝とその御家人に、同じ新羅三郎の系統としては御家人として無条件に臣従出来なかった?
近江の住人で都は近く、縁者も多かったでしょうから貰った官位を生かして権力から離れて生きたのでは?
皆死んでしまった義経兄弟を始め、何度も繰り返される有力御家人の勢力争いを眺めていれば、それも一つの生き方だと思います。
二人の源義経がいたことはあまり知られていませんが
(
sakura
)
2011-03-01 15:09:01
都近くの近江でいち早く挙兵した山本義経の軍功は認められると思います。山本義経・義兼父子は飛騨守景家の一行を襲った後、我ら山本一党だけででも都に上り平家を討とうではないかと相談するほど血気盛ん!そこへ新羅源氏の武田信義の使者が甲斐から訪ねてきて、頼朝軍が来るまで軽率な行動は慎むようにと意見します。武田信義は新羅三郎義光の次男義清の孫にあたり、甲斐の所領を継いで武田氏を名のります。その末裔が武田信玄です。
山本義経は頼朝の御家人となりましたが、鎌倉には移住せず故郷に戻り山本城を修理して潜み、頼朝の上洛を待ちます。しかし頼朝は東国を固めることに専念し中々出てきません。そこへ義仲が都を目指して破竹の勢いで進撃してきたわけです。
平家に強い敵意を抱く義経は喜んで、義仲に加勢して都に入ります。
のち義仲追討軍に加わった義経の息子山本判官義弘はその戦いで亡くなり、義経の動向も不明になります。戦死したか、yukarikoさんが仰るようなことでしょうか?
のち義経の子孫も頼朝の家人でありながら鎌倉に赴くことなく都で宮仕えをしています。鎌倉中期以後、この子孫の消息は明確ではありませんが、
一方の佐竹氏の子孫は戊辰戦争では官軍に属して明治維新を向かえ、今日に至るまでほぼ900年続く清和源氏の名門として残っています。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
もちろんyukarikoもその一員だったので、義経の真実はこうだ!…小男、鼠顔、反っ歯…を読んで哀しかったです(笑)
大人になれば頼朝の目指すものとそれを理解せず法皇の策略に載せられ追討指令を出される軍事馬鹿の義経の哀れさが分かりましたが、やはり判官贔屓は治りませんね。
最上川下りでも逃避行中の義経主従が参詣したというお寺に寄ったり、平泉で遠くに「衣川」がどこだと探したり(笑)
でも山本義経も氏素性正しい源氏で直系ではなくても結構活躍していますね。
木曽義仲追討、源義経追討、そしてすぐに臣従しなかった佐竹氏を滅ぼすなど幕府設立の為に手段を選ばない頼朝とその御家人に、同じ新羅三郎の系統としては御家人として無条件に臣従出来なかった?
近江の住人で都は近く、縁者も多かったでしょうから貰った官位を生かして権力から離れて生きたのでは?
皆死んでしまった義経兄弟を始め、何度も繰り返される有力御家人の勢力争いを眺めていれば、それも一つの生き方だと思います。
山本義経は頼朝の御家人となりましたが、鎌倉には移住せず故郷に戻り山本城を修理して潜み、頼朝の上洛を待ちます。しかし頼朝は東国を固めることに専念し中々出てきません。そこへ義仲が都を目指して破竹の勢いで進撃してきたわけです。
平家に強い敵意を抱く義経は喜んで、義仲に加勢して都に入ります。
のち義仲追討軍に加わった義経の息子山本判官義弘はその戦いで亡くなり、義経の動向も不明になります。戦死したか、yukarikoさんが仰るようなことでしょうか?
のち義経の子孫も頼朝の家人でありながら鎌倉に赴くことなく都で宮仕えをしています。鎌倉中期以後、この子孫の消息は明確ではありませんが、
一方の佐竹氏の子孫は戊辰戦争では官軍に属して明治維新を向かえ、今日に至るまでほぼ900年続く清和源氏の名門として残っています。