平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



長寛二年(1164)12月、蓮華王院(三十三間堂)が完成し、
盛大な落慶供養が営まれました。
後白河上皇は息子の二条天皇も招待したので当然
行幸するものと思っていましたが、
天皇は臨席せず、
同寺の僧侶に対する勧賞の沙汰もありませんでした。
取り次いだ平親範がそのことを伝えると、上皇は悔し涙を流して
「やゝ、なんのにくさに にくさに」と仰せられたという。
上皇と天皇の仲が悪かったことと同時に上皇の権力がそれほど
強いものでなかったことを示す逸話として伝えられています。
 
蓮華王院の本堂を造営したのは平清盛です。
上皇はこれの賞として、清盛の嫡男重盛を正三位に叙しました。

清盛は後白河天皇の譲位後、まもなく勃発した平治の乱(1159)では、
二条天皇方として活躍し、後白河
上皇はこの乱で
近臣の藤原信西・藤原信頼を失ったばかりでなく、乱後、
後白河上皇とその近臣、二条天皇とその近臣、二つの勢力が
並び立ち、主導権を争ってことごとに批判・反目しあい、
互いに相手の近臣の解官・流罪をくり返していました。
応保二年(1162)、押小路東洞院に造営された天皇の里内裏を
平家一門が宿直しながら警護するなど
清盛は二条天皇の政治を支える立場でした。
同時に自分の妻の妹滋子が上皇の皇子を生んだことで、
上皇ともつながりを持ち、蓮華王院を造営するなど
資金援助を怠ることはありませんでした。

亡き鳥羽院が次の天皇にと選んだのは、聡明な
守仁親王(二条天皇)でしたが、その父親の
雅仁親王の乳母の夫である信西が画策し、
中継ぎの天皇として後白河が即位したのでした。
美福門院の強い意向もあり、わずか3年で息子に譲位した
後白河上皇は、平治の乱で2人の側近を失くして力を失い、
それに代わって二条天皇が政権をとるようになりました。

天皇は母親が早くに亡くなり、美福門院の養子となっていたのです。

清盛は状況を見ながら天皇方についたり、
上皇方についたりしながら両者の間を巧に泳ぎまわり、
その対立をうまく利用しながら出世しました。
もっともこの対立は永万元年(1165)七月、
二条天皇が死去したことで終わり、これ以後、
後白河上皇が権力を振るうことになります。
三十三間堂(蓮華王院)  
『参考資料』
財団法人古代学協会「動乱期の天皇 後白河院」吉川弘文館 「京都学への招待」角川書店
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
待っていました! (yukariko)
2012-04-08 19:06:53
昨年は公私ともにお忙しくてブログをなさる時間もないと伺っていたので諦めていましたが、いつになったら再開なさるのだろうと待っていました。
NHKの「平清盛」が始まりあちこち関連した行事が行われたりしていますが、2007年一月よりこのブログで平家物語を読み解いて下さったお陰で、その時代の背景も人物もよく分かります。
(ドラマは録画だけしてみていないのですが…)
いよいよこれからという所でよんどころない事情ながらお休みになってしまってがっかりしたので、お母上もお元気になられ、お時間も少しはお出来になったのかと嬉しく読ませて頂きました。

待ち遠しかったのですが、半ば諦めて最近は覗いていなかったので4/1付の記事を見つけて嬉しかったです。
どうぞご連載をお願いします。
 
 
 
やっとお許しがでました! (sakura)
2012-04-11 14:52:09
長い間休んでいてすみませんでした。
またご指導よろしくお願いいたします。
ところで大河ドラマは不評のようですが私は欠かさず見ています。
フックションだから仕方ないのでしょうが、欲を言えば
もう少し平家物語か歴史的事実に忠実に画いてほしかったのですが…
見ている人はあれをその時代のイメージとしてしまいますから残念です。
 
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