フィギュアスケートの高橋大輔選手が引退するとのニュースが流れました。
ソチ五輪が終わった直後のインタビューで抜け殻の状態でインタビューをこなしている高橋選手を見て、もう、競技に戻る”火”が消えてしまっているな、と、感じていました。
高橋選手の功績はきっとニュースではバンクーバー五輪銅とか世界選手権金とか、そういう風にしか評されないだろうけれど、本当の彼の功績は日本で男子フィギュアスケートの人気を盛り上げ、世界的なスター・スケーターになったことだと思う。
高橋選手との出会いは多分、世界ジュニアで優勝した後の日本での試合のEXかショーに出演していたのではないかと思います。その時には「日本人で初めて世界ジュニアを制した」という紹介があったのですが、当時はフィギュアスケートを見る目がなかったので、「やっぱり、ヤグディンとは比べられないなー」くらいにしか思わず、そのあとはすっかり忘れていました。今なら、スケーティングのうまさとか、スピンとか、もっと見るべきところが分かっていたのですが、当時は「ヤグディンかっこいー」くらいの目線でしか見てなかったんですね。
次に彼の存在がクローズアップされたのは2005年のスケート・アメリカ。トリノ五輪では荒川さんを応援しようと思って、当時、NHKが放映権を持っていたGPシリーズの一挙放送を録画したのですが、そこで繰り返し繰り返し見たのは高橋選手の演技。
SPのロクサーヌは3Aで転倒しているのに、何度も何度も見たくなる。どうしてだろう?と、思いながらもまた見たくなる。
それは、最初のポーズから作品が始まって、19歳の日本人男子とは思えない退廃と官能を併せ持った表現。
氷にしっとりとねばりつくようなスケーティング、アクセントのつけたスピン、要素と要素の間のところも音楽のニュアンスを決して離さないところ、音楽に合わせてぴったりと跳ぶ3Lz、そして、メロディラインをメジャーなメロディラインだけでなく、裏でカウントを取っていたりする絶妙なステップ、シットスピンの腕さえも、曲想にぴったりくる演技に魅せられてしまったのです。
そして、FS。SPとか髪型も変え、音楽表現もまったく違うもの。ラフマニノフの深く沈んだ精神がやがて輝きを取り戻し、情熱のあらん限りを表現するという、ラフマニノフのこの曲の意図そのものを演技に変えてしまったプログラムは当時無名だった高橋選手にアメリカの観客がスタンディング・オーベーションを巻き起こす輝きに満ちたプログラムとなった。
このアメリカ人をスタオベさせたことが私にとって「すごい、日本人でも海外の人を感動させることができるんだ」という感動はその後、世界各地の試合に興味を持つきっかけとなったのです。
当時、「日本人に表現は無理」と思っていた私にとってすごく衝撃的な出会いだった。これは、まるでヤグディンのようだ、と、素人ながらに思ったのです。
「彼なら頂点にいける」と。
当時、ヤグディンの振付師として最も人気のある振付師だったモロゾフ氏が当時無名の高橋選手にこれほどのプログラムをあたえたのは気に入られた証拠だと思ったし、荒川さんがモロゾフの元にいったのは、高橋選手を見たからだと思った。全日本では採点ミスで繰り上げ1位になったことで、メディアにいろいろ書かれていたけれど、プログラムの素晴らしさははっきりとトップレベルであることを示していた。ヤグディンも当時すでに高橋選手の芸術性を認め、五輪代表にふさわしい、と言っていたのを思い出します。(同時に日本人での五輪メダル有力は荒川さんと言っていた)
その後のNHK杯は3位。GPFは3位。当時、世界ジュニアからシニア入りした織田選手と1枠しかない五輪代表の座を争った。
今ならわかるのですが、初めての五輪を狙える年に初めてスケート・アメリカで優勝。突然、注目を浴び、突然、本田選手が怪我で全盛期の力を出せなくなり、織田選手が4回転抜きのプログラムの完成度で挑み、精神的なコントロールが難しい年だったのだと思う。
でも、1枠だったからこそ、今の日本男子の発展があるのだと確信している。
五輪では、SPはなんと1番滑走。FSでは最終滑走と、あまりのくじ運の良さ(?!)にびっくり!
でも、この時の悔しさこそが高橋選手を作り上げる原動力となったのだと思います。
つづく
ソチ五輪が終わった直後のインタビューで抜け殻の状態でインタビューをこなしている高橋選手を見て、もう、競技に戻る”火”が消えてしまっているな、と、感じていました。
高橋選手の功績はきっとニュースではバンクーバー五輪銅とか世界選手権金とか、そういう風にしか評されないだろうけれど、本当の彼の功績は日本で男子フィギュアスケートの人気を盛り上げ、世界的なスター・スケーターになったことだと思う。
高橋選手との出会いは多分、世界ジュニアで優勝した後の日本での試合のEXかショーに出演していたのではないかと思います。その時には「日本人で初めて世界ジュニアを制した」という紹介があったのですが、当時はフィギュアスケートを見る目がなかったので、「やっぱり、ヤグディンとは比べられないなー」くらいにしか思わず、そのあとはすっかり忘れていました。今なら、スケーティングのうまさとか、スピンとか、もっと見るべきところが分かっていたのですが、当時は「ヤグディンかっこいー」くらいの目線でしか見てなかったんですね。
次に彼の存在がクローズアップされたのは2005年のスケート・アメリカ。トリノ五輪では荒川さんを応援しようと思って、当時、NHKが放映権を持っていたGPシリーズの一挙放送を録画したのですが、そこで繰り返し繰り返し見たのは高橋選手の演技。
SPのロクサーヌは3Aで転倒しているのに、何度も何度も見たくなる。どうしてだろう?と、思いながらもまた見たくなる。
それは、最初のポーズから作品が始まって、19歳の日本人男子とは思えない退廃と官能を併せ持った表現。
氷にしっとりとねばりつくようなスケーティング、アクセントのつけたスピン、要素と要素の間のところも音楽のニュアンスを決して離さないところ、音楽に合わせてぴったりと跳ぶ3Lz、そして、メロディラインをメジャーなメロディラインだけでなく、裏でカウントを取っていたりする絶妙なステップ、シットスピンの腕さえも、曲想にぴったりくる演技に魅せられてしまったのです。
そして、FS。SPとか髪型も変え、音楽表現もまったく違うもの。ラフマニノフの深く沈んだ精神がやがて輝きを取り戻し、情熱のあらん限りを表現するという、ラフマニノフのこの曲の意図そのものを演技に変えてしまったプログラムは当時無名だった高橋選手にアメリカの観客がスタンディング・オーベーションを巻き起こす輝きに満ちたプログラムとなった。
このアメリカ人をスタオベさせたことが私にとって「すごい、日本人でも海外の人を感動させることができるんだ」という感動はその後、世界各地の試合に興味を持つきっかけとなったのです。
当時、「日本人に表現は無理」と思っていた私にとってすごく衝撃的な出会いだった。これは、まるでヤグディンのようだ、と、素人ながらに思ったのです。
「彼なら頂点にいける」と。
当時、ヤグディンの振付師として最も人気のある振付師だったモロゾフ氏が当時無名の高橋選手にこれほどのプログラムをあたえたのは気に入られた証拠だと思ったし、荒川さんがモロゾフの元にいったのは、高橋選手を見たからだと思った。全日本では採点ミスで繰り上げ1位になったことで、メディアにいろいろ書かれていたけれど、プログラムの素晴らしさははっきりとトップレベルであることを示していた。ヤグディンも当時すでに高橋選手の芸術性を認め、五輪代表にふさわしい、と言っていたのを思い出します。(同時に日本人での五輪メダル有力は荒川さんと言っていた)
その後のNHK杯は3位。GPFは3位。当時、世界ジュニアからシニア入りした織田選手と1枠しかない五輪代表の座を争った。
今ならわかるのですが、初めての五輪を狙える年に初めてスケート・アメリカで優勝。突然、注目を浴び、突然、本田選手が怪我で全盛期の力を出せなくなり、織田選手が4回転抜きのプログラムの完成度で挑み、精神的なコントロールが難しい年だったのだと思う。
でも、1枠だったからこそ、今の日本男子の発展があるのだと確信している。
五輪では、SPはなんと1番滑走。FSでは最終滑走と、あまりのくじ運の良さ(?!)にびっくり!
でも、この時の悔しさこそが高橋選手を作り上げる原動力となったのだと思います。
つづく