家からのきしむ音がして怖い怖い夜もようやく明るくなってきて一安心。それとともに台風もおさまり、疲れがどっと出て眠りに。「学校だよ!」の声で目が覚め登校。
台風一過の青空が広がっていた。
通学路の電線は切れ、電柱、樹木は倒れていた。
民家の屋根が最も被害を受け、屋根本体が吹き飛ばされ、トタン、柾が飛ばされた家など無残な姿。
雨でなく本当によかったと思った。
教室に入って先生から臨時休校とともに、連絡船が沈んだことを知らされた。
携帯ラジオがない時代、停電でラジオが聞けず、また、電話とて事業所、裕福な家以外には
ない時代のに情報伝達はどうであったのだろうか?今思えば不思議だった。
同級生のなかに、連絡船乗組員のお父さんがいて、涙を浮かべていたのを今でも思い出す。
ご遺体はだいだい色の日本通運のトラックにムシロをかけられ、大森町の大火慰霊堂前広場に運ばれ仮安置されてした。
そこでもやはりムシロの上に置かれていた。
せめて毛布はなかったものかと。検死は堂の中で行われ、火葬場は函館市内だけでは対応できず、近郊町村の応援を得た。
台風のなか、どうして船長は出航したのか?いろいろな噂が飛びかった。
この事故がきっかけになって、青函トンネルの着工が急がれた。(結び)
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