先週、NHKTVで放映された箱館戦争のヒーロー”中島三郎助”。
いろいろと書きたいことがあって、筆をとった。
私が住んでいたのは、”中島町”。
箱館戦争が終結してから、彼の功績を後まで伝えたいと
いうことから町名にしたらしい。
小学校は”中島小”。本籍地も一時中島町に置いていた。
彼は、ぺりー来航時、浦賀奉行所の与力だったのだが、
その後、”幕府立・長崎海軍伝習所”の一期生として入所した
エリートだった。
明治元年、3,000余の兵を引き連れて蝦夷地に上陸した
旧幕府軍のトップ”榎本武揚”。
榎本は、中島の一期後輩だった。
中島はもともとは、エンジニア。
幕末に江戸徳川幕府がオランダに建造依頼をした軍靴
”開陽丸”の機関長だった。
ところが、江差沖で暴風雪に遭遇し沈没。
その後、榎本軍の幹部を選ぶ選挙で
”箱館奉行並”に任命された。
任務は、現在の中島小学校や球場にあったと伝えられる
旧津軽藩の陣屋の守備。
本陣が置かれていた五稜郭を守るため、
官軍との交戦にあたることだった。
ここに、三郎助とその子2名らも立てこもり、壮烈な死をとげた。
父を信じ、父を尊敬し箱館まで来た二人の心境を思うと、
胸が裂ける。
刀や槍、鉄砲で傷つけられ、苦しんで
亡くなっていったであろう。
その戦いぶりを三郎助は、見ていたのか?
本人も、どんな思いで亡くなっていったのだろうか?
涙があふれて止まらなかった。
(写真はお借りしたものです。)
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