狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

防災について

2010-02-28 15:16:27 | Weblog
天災の
被害を増やす
人災の
増やす不安が
あるから不安

さて現在日本の太平洋沿岸部ほぼ全域が防災体制に入っております。
と言っても一般人がすることは、基本的には津波が来るタイミングで
海から離れた高台に移動するだけですが。
原因は昨日のチリ地震。
なんで地球の反対側の地震で日本人が非難しているのかというと
理由は地球の反対側だからだと。
地球が丸いから波が陸に当たらない、減衰しないとすると反対側では震源地と
同程度の高さになるわけですね。

災害というのは当然、来るタイミングが判るものと判らないものがあります。
判るものは避難すればいい。
ここで重要なのはタイミングを知るための情報と避難場所、
あとは避難に当たってのコンセンサス作り。
逃げろと言われているのに逃げない馬鹿をどうするか。
どこまで警告してどこから先を見捨てるのか。

来るタイミングが判っていないものについては、
ダメージ軽減対策を日常に組み込んでおくしかない。
あとはリスクを分散しておいて被害が起きた後の支援復旧をより迅速にすることか。

大半の災害は完全に判るわけでも全く判らないわけでもない。
そんなこんなで両方の対策が重要と。

私から見て危険な場所に居る人達に対して
定期的にそこから逃げろと書いていたりするわけですが
あまり届いて無さそうですね。

低カロリーケーキだそうな。
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/news/business/20100226-OYT8T00791.htm
なんでも宇部市は人口あたりの医師数が日本一の都市だとか。

甲殻類の化石が発見されたとか。
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=10013
ヤドカリに近いらしい。

さて問題です。
災害の後に来たりするのが病気。
病気を防ぐための一般的な方法を一つ書いて下さい。
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会社の発展について

2010-02-27 22:46:50 | Weblog
人参に
関心持たず
草を食む
動物を人
駄馬と罵る

会社の発展を願って、などと言ったりする。
修辞だ。 慣用句だ。
だがそこには本音もある。

会社が発展すると何が起きるか。
会社が大きくなる。
部下が増える。
分業出来る作業の割合が大きくなる。
判断経験の蓄積共有が容易になる。
自分にとって苦手な作業を慣れた他人に任せることが出来るようになる。
楽になる。

会社が大きくなると楽になる。
これは常識だ。
旧人が新人に対して「早く楽にしてくれ」などと言ったりもする。
社会とは、組織とは、会社とはそういうものだ。
ではそれは正しいか。

分業で楽になる。
これは有り得る。
だがそれが起きない場合もある。

全員が楽になろうとする。
楽になることを当然とする。
楽にならないと怒る。
誰に怒るのだ。
怒りの矛先は誰に向かうのだ。
より弱い者。
ありがちな話。

楽になる。
これが正しいとされる。
会社の発展は正しいのだから当然だ。
ではどうすれば楽になるか。
自分以外の、他人が仕事をすればいい。
これで楽になる。

では国家の発展とはなんだろう?

温暖化云々。
http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20100219-OYT1T00111.htm
気候変動への取り組みを検索するとビジネス語がガシガシ引っかかります。
欧米人の常識なのでしょうが、私にはそれが胡散臭く感じる。

さて問題。
最近の日本の若者はハングリー精神に欠けると言われていたりする。
では人にハングリー精神とやらをもたらす内面的状況はどういったものか。
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朝日新聞とアメリカ民主党との関係について

2010-02-26 13:50:25 | Weblog
始まって
関係の差に
人分かれ
厭う左と
求める右と

先ほどとあるニュースを目にした後、昼飯に出かけた。
歩く中思い出したのはムルロアのニュース。
日本の大臣がそこで、NPOだかの提灯行列に参加していた。
手の空いている人は当時の日本の政治がどうなっていたか
調べてみると面白いと思う。

さて、朝日新聞とアメリカ民主党との関係について。
先のエントリーで日米間技術意識のズレの原因の一つがアメリカの国際戦略に
あったとしたのですがこれ、日本側のズレでの原因あってアメリカ側のズレを
説明するものではない。
当然、アメリカ側のズレはどこから来たのか、という問いが残る。
これの答えをアメリカ人の傲慢で終わらせてもいいのだが
別の答えを出すことも可能なわけだ。
私はそれを、朝日新聞に見る。

日米関係でアメリカ共和党のパートナーはどこかと言うと自民党なわけです。
じゃあアメリカ民主党のパートナーはどこかというと、朝日新聞だろうと。

共和党と自民党の関係理念は、国家は基本的に対等ではあるが実力差や問題への
距離の差から自ずと役割が違ってきて、そこに同盟関係という助け合いが生じる、
人によって差があるだろうがもう一方の関係よりも、よりこれに近い。
ではアメリカ民主党と朝日新聞の関係はどうか。
主人と奴隷でしょうね。
アメリカのインテリ左派は奴隷であることを忘れさせてくれる良い主人、
逆に保守派は従属関係を表面化させる腹立たしい主人と。

朝日新聞の記者や読者は自民党の親米を奴隷根性と呼びますが私は逆と見ます。
日頃から奴隷根性で考えている、そこから目を逸らそうとして行動しているから
何が問題で何が必要かを議論することに反感が生じてそれが奴隷根性だ
という結論になるんですよ。

言ってしまえばアメリカ民主党とその周辺の人達は
騙しを求める日本人とだけ付き合ってきたのだと。
戦後日米関係初期状態の違いでもあり、自身の構造の違いでもある。
その結果そうなった。
じゃあこれからそれを改めることが可能かと聞かれると、
むずかしいんじゃないのかなとしか答えようがない。

羽田空港に濃霧用電波誘導を導入とか。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10015851391000.html

朝鮮学校の扱いに国連が懸念。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100226-OYT1T00347.htm
何を懸念しているのです?
パチンコと工作利権者達が作り上げた利権のための構造ですよ。
維持のための金が必要なわけ無いでしょうに。
民族学校というのは本来は帰国を前提とする物です。
帰るべき国が無いというのなら元いた場所を支配している帝国の解体や
支配体制の変革を進めるべきでありそれをやらずに現状維持を目論んでいるのなら
それは国際連合の、「悪の組織」としての側面だ。

日本共産党委員長が中南米機構を支持とか。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-02-26/2010022602_01_1.html
「麻薬のある平和」というものが私にはどうにも想像出来ません。

韓国国民が在日朝鮮人を自国民として受け入れられるようになるまでに
もう少し期間が必要だろう、ということなら理解出来ます。
私はその時間は既に過去になっていると見ていますが。

私は大臣のNPO行列参加を批判的に見ているわけだ。
そこで問題。
ある国の行動に別の国の大臣が反対する時にとれる行動は
どういったものがあるだろうか。
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勝利について

2010-02-25 16:55:12 | Weblog
勝ち負けの
決まった後の
競技場
胃袋のまま
人後にする

男子の話題にだれが人類最強か、というのがある。
古今東西共通だろうこの話題の結論もやはり、
万国共通なのではないかと思うわけだが。

日本はスポーツ後進国だそうな。
http://www.asahi.com/olympics/columns/from_vancouver/TKY201002230298.html
ピンと来ない。
私から見てこの文章は、特に厳しくもないし不遜でもない。
なんせオリンピックに社会的価値があるのかどうか疑問に思っているのだ。
日本はパエリヤ後進国だとかヒッチハイク後進国だとか言われても、
おそらく同様にピンと来ないだろう。

というわけで勝利について。
強いと偉い。
勝つから偉い。
スポーツの世界などを中心に信奉されている社会倫理だ。
この考え方、価値が無い。

では何故この傾向が一般的になっているのか。
思いついた理由を並べてみる。
・勝った方が精神的に余裕がある
・序列秩序の決め方の一つ
・目立つ人を中心にした方が纏まりやすい
・戦争力を反映していると見なされる
・身体の健康さを表わしている
・交渉の場において身体的優越は武器となる

競技の勝者であることと指導者としての指導内容との間に関連性は無さそうだ。
税金投入が利権者の巣になっているという害の方が大きいのではと。
スポーツに金をかければ医療費が減るとのことだが
それは単に、欧米人に肥満が多いというだけの話では。

さて問題。
最強論はあるもののスイッチを握っている人が最強、
という結論になることが多い。
なんのスイッチだろうか。
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電子制御について

2010-02-25 13:42:41 | Weblog
経験の
怖い嬉しい
常識に
なった挙げ句に
無さを忘れる

実はさっきまで、しばらく何も書かずに放っておこうかなとか
そんなことを考えていたんですよ、アメリカ民主党について。
彼等はそうあるべく国民の内の彼等の支持者から選ばれたのだから
そういう実態を曝すのを眺めるのも一興かなとか。
でも書きます。

トヨタの社員達には電子制御を乗り物に組み込むに当たって必要だろうセンスが
欠けているのではないかと考えています。
でそのことにトヨタの社員達は気付いていないと。
一方アメリカのエリート様方はそれはあって当然だと思っている。
この差がどこから来たのか。
これが日本の戦後なんですね。
私の見立てでは。

周知の通り日本は敗戦国です。
敗戦国という立場が現代日本の原点です。
これが色濃く出ている分野の一つが科学技術。
言ってしまえばアメリカはミサイルの国なんですよ。

トヨタのような企業が戦後という時代に最初にしたことは
アメリカ製品というブラックボックスを分解して
その技術を調べ上げることだったりするわけですね。
トヨタなどの企業上層部の人間はそこで発想が止まっている。
有る意味で。

時代が下って冷戦終結、1990年代。
コンピュータが一般化してくるわけですが、これがブラックボックス。
ここで認識の差が出来てくる。
当時の日米関係は、まあそういうものだったと。
結果、新技術に関する認識のズレは双方それぞれの旧識に則る形で固定化した。
それが今表面化していると。

まあトヨタの行動が良心的だったかどうかはまた、別の話ですが。

「鳥取、島根は日本のチベット」と日本の民主党。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100222-OYT1T01270.htm
これも認識の差か。

じゃあ問題を出しましょう。
奴隷が、奴隷には必要無いとされて、持っていた本を奪われた。
後日その奴隷は主人に文盲を詰られた。
ではその奴隷は学ぶ機会が無かったことを誰の所為だと考えるでしょうか?
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無神論について

2010-02-24 12:38:00 | Weblog
主義主張
唱えてみると
偉くなる
偉さ欲しがる
座敷犬かな

県外移転が無いのは「いかれている」との発言。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091215-481540/news/20100224-OYT1T00105.htm
沖縄にあって初めて抑止力になるわけで、そういう意味では
千葉に移転するのも米本国に移転するのも大差ないのだが。
ベストな案は太平洋にミサイルを向けている隣の帝国の解体です。
多分彼等は自分たちの仕事を陳情係か何かだと思っているのだろう、
そういう意味で彼等は一国の大臣として行動していない。

漂着ポリ容器の中身は強酸60リットル。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/9179.html
共産か、それとも共催の方か?

水俣病の訴訟を推進だそうな。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-02-23/2010022314_01_1.html
薬害や公害病と普通の病気との違いは人間に加害者が居るかどうか。
企業に対する見せしめとして正義を騙っているのだろうが
見せしめ効果が正しいというのならアカ狩りも正しかったのだろう。

さて無神論について。
無神論、今となっては無神説と呼んだ方がより正確か、
は間違いであることが判明しているわけだ。
恣意性のない汎神論、汎神説も同様に間違いであると。
外部があり介入がある。
介入があるから結果に一致がある。
だが介入は科学者の観測網に引っかかっていない。
もちろん一致が一致ではないと判明するか、
あるいは介入が観測網に引っかかるかすると
私の説は否定されるわけだが。

無神説は誤りである。
世界はそうなっていない。
それが人類にとって社会規模で確認可能になったのは私の見る限りでは
20世紀後半になってからなのだが、では未確認だったから、
確認不能だったから無神説、当時は無神論という呼称の方が適切か、
を掲げることは、はたして正しかったのだろうか。

ここで言う「正しさ」とは良心的か、悪に流されていないか、
そういう意味で使っているわけだがそれ以前から感覚的常識として
無神論は間違いであるとの認識はあったはず。
多くの人がそう行動している。

無神論者とそれ以外との違いはどこにあったのか。
無神論を信じるに到った人は何故そうなったのか。
どういった理由があってそちらを選んだのか。
私はそこに「否定」を見る。

西洋の無神論を私はこう捉える。
社会がある。
ルールがある。
道徳がある。
道徳の元に神様がいるとされている。
どこかの段階で否定しようとする上で無神論が都合が良かった。
つまり無神論は、隣近所との関係といった固定的なもの、
生まれた時からそこにあり与えられていた状況というものを否定したい、
そういう人達にとって便利な道具だったのではと。
だから革命思想と結びついた。

スーダンが平和になりそうな動き。
http://english.aljazeera.net/news/africa/2010/02/2010223618950368.html

トヨタ、米議会で公聴会。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10015802041000.html
消費者の証言には二、三割ウソが入っているのではとも思えるが、
トヨタの対応も態度もおかしい。
社員にプログラミングが判る人間がいないのではないだろうか。
この件はアメリカで民主主義が機能している例、ということになるのだろう。
日本人としては残念な話。
まあアメリカはアメリカで
右ハンドルの日本に左ハンドル車を売りつけてきた歴史を持つのだが。

オリンピック代表の尻出し服装が日本で話題になっている。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100224/erp1002240743003-n1.htm
水泳選手が海パンで空港を歩いていたら私はそれをおかしいと感じる。
現在の日本に街頭で尻を出す習慣は無かったはずだ。
カナダも同様のはずと記憶している。
日本代表がそういう服装をしていたのなら
それを代表に選んだ人達が非難されて当然だと思う。
仮に尻出し人が金メダルを取ったとしても
彼が日本代表に相応しいとは思わない。

さて問題。
インター、インターナショナルと呼ばれる集会は、宴会である。
集まる人達はそこで酔っぱらう。
彼等は何を飲んでいるのでしょうか。
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アイヌについて

2010-02-23 13:19:19 | Weblog
日本では
食べ放題を
バイキング
名称に出る
満腹の欲

変な夢を見た。
どこか開けたところでトロッコ列車のようなものが脱線事故を起こす。
私は機関車から客車を引き離し、乗っていた人達にそこから離れるように
と言うのだが、彼らはそこに止まろうとしたと。

さてアイヌについて。
18世紀頃からロシアが太平洋アジアに進出してくる。
元々そこに住んでいた側に言わせれば侵略傾向ということになるわけだ。
で当時の日本、徳川幕府と明治政府だが、から見てその前線となったのが
西の朝鮮半島と、北の北海道。

日本人(ヤマト人)の北海道支配は、白人のアメリカ大陸支配や
漢人のチベット支配と比較される。
歴史的経緯や状況が近いわけだ。
で遡って江戸時代まではどうだったかというと、交易してたり戦争してたり。
さらに遡ると双方が縄文人に行き着く。
農業化し渡来人と混血、国家化したのがヤマト人で
狩猟採集文化のまま残った部族がアイヌ人。

ヤマト人との歴史を見てみる。
元々アイヌ人は農耕も主要産業だったらしいのだがヤマト人との交易が
盛んになってくるにつれ狩猟の比重が増えていったとか。
ヤマト人側の輸出品目が鉄器。
値段と品質に文句を付けた少年が鍛冶屋に刺されるという事件から起きたのが
コシャマインの戦い、1457年。
この戦いの結果、北海道に居たヤマト人側が諸侯化して出来たのが松前藩。

この松前藩がアイヌ独占交易権を徳川幕府に認められたのが1604年。
その後アイヌ人集団間の対立で一方の首長が殺される事件が発生、
殺された側の集団が松前藩に武器の提供を申し出るがその使者が帰路に病死。
松前藩が毒殺したとの誤報をアイヌ人が信じて始まったのが
シャクシャインの戦い、1669年。
当初一斉蜂起からアイヌ側が攻め込むも武器の差やアイヌ人同士の連携が
上手く行かなかったことなどから松前藩側が有利となりアイヌ側が退く形に。
その後シャクシャイン氏は和睦のためと呼び出されて謀殺される。
この戦いの結果アイヌ側は戦いに参加した集団もしなかった集団も
松前藩に服従を誓わされることとなり、帝国主義期の植民地人的立場に
転落していったらしい。

商取引の横暴さに不満が爆発した国後島のアイヌ人が蜂起したのが
クナシリ・メナシの戦い、1789年。
この戦いの時点で既に北方からのロシアの南下が始まっており
後に道東が、続いて道西が幕府の直轄地となったと。
ヤマト人の道東への進出がこの後に本格化したのだがそれによってアイヌ人は
オーストラリアの白人に対するアボリジニのような立場となったらしい。

北海道在住の日本人がどうなのかは判らないが自分がアイヌ人である
と認識していない日本人が「アイヌ」という単語を聞いて思い浮かべるのは
文化保護だろう。 さらには就職待遇差の問題。
では自分がアイヌ人であると認識している日本人はどうか。
おそらくは、いわゆる歴史問題やアイデンティティーの問題、
そういったものを思い浮かべるのではと想像する。
ではどうあるべきか。
双方良好な状態とはどういったものか。

調査捕鯨を縮小、IWC直轄にとのこと。
http://www3.nhk.or.jp/news/k10015781491000.html
反捕鯨国の主張は私は狂気に分類されるものだと認識していまして
IWCの実態は彼らの手下なのではとの懸念も持っていたりします。
過去にそういう傾向はあった、これは事実。

戦災から復興する際に役立つ価値観体系があったとする。
これが必要無い状況が二つあるわけだ。
この二つはどういった状況でしょう、というのを今回の問題としてみる。
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労働組合について

2010-02-22 12:31:06 | Weblog
赤い旗
たなびき響く
無神論
どこでどうして
こうなったのか

労働組合というとコミンテルンに行き着く。
コミンテルンで高い地位を得た日本人として、片山潜氏の名前が挙がる。
なのだが彼の歴史観には私の視点からは不正確と思える部分が目立つ。
そしてこの歴史観の不正確さ、日本のサヨクと呼ばれる人達のそれと
一致しているように見える。
ソ連人の歴史観が不正確なのかというとおそらく違う。
ネタを漁っている時に何回か目にしたが、アメリカ人やイギリス人のそれよりも
歪みが少ないのではと思える点も多かった。
つまりコミンテルンは、正さなかった。

そんなこんなで、労働組合について。
労働者がいて資本家がいるというのが左側の人達の論法なのだが
とりあえずここでは、労働者と経営者がいるとして考える。
労働者には高質な人と低質な人がいるわけだ。
高質な労働者とは勤勉で有能、モラルが有る。
従順さはここでは考慮しない。
経営者にも高質な人と低質な人がいると。
高質な経営者とは会社の健康を維持出来る人。
会社の発展はここでは考慮しない。

というわけで会社の状態を以下に分けて考える。
1. 高質な労働者と高質な経営者
2. 高質な労働者と低質な経営者
3. 低質な労働者と高質な経営者
4. 低質な労働者と低質な経営者

双方高質な場合は、基本的には問題無し。
労働者は社会水準と比較してまあそれなりの賃金と待遇を受け続ける。
ここでは労組は必要無い。

労働者のみが高質。
経営者が会社の足を引っ張るケースだ。
高質な労働者は不当に低い賃金と待遇を受ける。
このケースの対処法は、独立だろう。
起業の自由が充分に存在する状況下ではこの問題は勝手に解消する。
逆に言うと起業が出来ない、新規参入がない社会では状況はそのまま固定化する。
ここでも労組は必要無い、というより、問題解決に機能しない。
労組とは起業する組織でも無能をクビにし差し替える組織でもない。

労働者が低質。
ここで会社の健康を維持するために経営者が取る手段は色々有り得るのだろうが
例としては、ルール適用を厳格化する、インセンティブを導入し質を改善する、
作業を個別化・簡略化し馬鹿でも出来るようにする、
最も低質な労働者をクビにするなど。
ここでは労働者の賃金は低いのだろうが不当に低いわけではない、ということになる。

労働者、経営者共に低質。
自由競争が機能している場合はこの手の会社は早晩、破綻する。
残る場合というのは税金組織か犯罪組織か。
こうした組織の残存自体が犯罪的なのだとするとその手の税金組織は
犯罪組織に含まれることになる。 税金泥棒というヤツだ。

二つ傾向が見えてきた。
・労組を求めるのはもっぱら低質な労働者
・低質な会社の排除は無競争下では困難
・高質な経営者がいないと社会は悪化の方向へと進む
・社会の健康に必要な経営能力は起業と会社維持である

実際にはここまで極端ではないわけでだいたいが真ん中ら辺に位置するのだろうが、
いずれにせよ高質な経営者の存在の方がより重要、ということになりそうだ。
で高質と低質とを分ける線は社会が要求するサービスの水準、
ということになるわけだ。
ただの石コロを有り難がる社会において高質な労働、高質な経営とは
それを拾ってくるだけの労働でありそれを店先に並べるだけの経営である。
さて教育は質を保障しているか、
サービスの要求は必要に準じているか。

ソ連の正確さとサヨクの不正確さを重ね合わせると
そこから彼らが「インターナショナル」と呼ぶものの実態を
うかがい知ることが出来るのではないかと思う。
そこから出る私の結論はそれは、宴会のようなものだったのではないかと。
もちろん酒が出る席ではなかったのだろうが。

さて問題。
会社の発展とは何を指すのだろうか。
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評価について

2010-02-21 18:35:28 | Weblog
人の目に
一喜一憂
ぬかに竿
後にぺんぺん
レミングの笛

維持する人達にとっての生活とは、稼ぎのことである。
何かを渡し、その対価として何かを得る。
基本得られなくて当たり前であり、得られることに感謝する。
持っている物は得た物であり、だから取られると怒る。

正義を唱える人達にとっての生活とは、
取る側から見た税金のようなものなのだろう。
得られて当然であり、得られないことを悪とする。
だから他人が得ている物を見て怒り、取ろうとする。
不平等だと騒ぐ。

さて評価について。
人が価値を測る時、二つの物差しを使う。
一つは自分にとっての価値、もう一つは他人にとっての価値。

食べ物を、食べる。
美味しい。 食感が楽しい。
食べ物がない。
目が回る。 腹が減る。
これらが自分にとっての価値。

高級なものを食べる。 他人がうらやましがる物を食べる。
食べる様が格好良く見える。 食べたことを他人に話すと珍しがられる。
これらが他人にとっての価値。

自分の価値で物事を捉える人達にとって
持っている物の社会的価値は、自分が何を得られるかで量られる。
それが自分にとって嬉しければ価値があるとし、
そうでなければ嬉しい物と交換出来ることが価値となる。
嬉しくなくかつ交換出来ない物は、持っている価値のない物。

他人にとっての価値で捉える人達にとって
持っている物の社会的価値は、人気、注目度、そう表わされるもので量られる。
人気がある物、他人が良い物と喧伝する物、持っていて注目を浴びる物。
そういう物が価値がある物となる。
どれだけ美しくともガラス玉には価値がない。
そういう価値観。

創作活動と呼ばれる行動にもこれが出るわけだ。
ある人は自分が嬉しい物を創ろうとし、
ある人は他人を喜ばす物を創ろうとし、
またある人は、創った自分が注目を浴びることを目標とする。

嬉しい、楽しいといった感情。
他人にどう見られるか、という地位。

後者の価値を高める手っ取り早い方法は何か。
悪人がいればいい。
悪人がいて、それに勝利する。
そういう価値観で動いている人達がいる。

価値があるとされるから価値がある、というのが評価。
自分にとっての価値と、他人の評価。
評価という歩を進めてきた人の足跡は、時間の経過と共に消え去る。
足跡が残らない。 道が出来ない。
だから振り返らない。 振り返ることが出来ない。
振り返れば、これまでの「無さ」を知ってしまうから。

さあ問題だ。
学校教師は「価値」だろうか?
それとも「評価」だろうか?
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道路について

2010-02-20 23:11:16 | Weblog
ガソリンを
燃やして流れ
物多く
これが止まると
飯はどうなる

車が通る道を道路と呼ぶわけだ。
昔は馬車だったかもしれない。
人が通るのは歩道、電車が通るのは鉄道。
英語だとそれぞれpavement、railway。

道路を造るのに何が必要かというと、まずは土地。
ハイウェイにして建築物などの上を通すにしても空間は必要で
これが無いと話にならない。
次が舗装か。
車を通す目的で作るのだから車が通れないと目的が達成出来ない。
多少でこぼこでも走破出来るにせよ、路面が平らであるに越したことはない。
その後何が必要になってくるかを考えると浮かんでくるのが交通ルール。
駐停車に秩序がない、前方向から車がやってくる、事故が頻発する、
そういった状況下で道路は駐車場になる。

道路を造ると何が起きるか。
まず、便利になる。
道路がないと車が通れない。
現在の先進国地域では、車が通れないところと人が住めないところはイコールに
なっていたりするが昔はそうではなかった。
快適な生活の維持には食料他様々な物資の輸送を必要とし、
もっぱらそれを担っているのが車。
車社会と言われる所以か。
無いと日常において不便であり、非日常においては死活問題となりうる。
と言っても、良いことばかりではない。
まずうるさい。
振動がある。
排気ガスが出る。
さらに犯罪がやってくる。

車は組織犯罪の道具として筆頭にあげられる物。
銃よりもロープよりもまず車。
遵法意識に欠けた人というのはとかく刺激を求める自分を大きく見せたがる。
そうした人達にとって恰好のおもちゃの一つが、車なのだろう。
道路が通るとそうした人達が来やすくなる、というか、大概は来る。
生活維持に問題が感じられなければ道路を増やす、広くする、まっすぐにする
といった工事は必要無い、むしろ有害だと感じるわけだ。

つまりだ、道路、道路に限らず交通の便を増やす際に量るべきは
便利さではなくて不便さだ、ということになる。

実際にはこうした判断は道路を造ると土地の値段が上がるという目論見によって
押し流されてしまうわけだが。

最高裁、教師の飲酒運転を容認。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100220-OYT1T00877.htm
車社会ですなあ。

さて問題。
糖尿病ってどんな病気?
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