狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

「態度が悪い」「生意気だ」「マナーがなっていない」といったものは制裁理由にはならない、制裁対象としてはいけない

2018-05-31 22:13:55 | Weblog
大相撲の件がまさにこれであり、今日本を賑わしている日本大学アメフト部の件、昨年の仙台育英高校野球部の件も部分的にはこれ。 またスマップ脱退騒動の起こりもこうした問題が関係しているだろう。
この表題に挙げたものって結局は「気に入らない」というだけの事であり、よって「目下の人間は目上の人間に対し媚びなければならない」「相手が目下であるならばそうした理由で制裁行動に出ても許される」といった暗黙の了解、ルールのような社会常識となってしまっているのだと。
いやなに、ネットの、おそらく創作文だろう、のテキストがyoutubeに転載されていてそれを目にしたもので。 内容は、
「コネで入社した社員が周りの人間を不快にさせる言動を繰り返す、ある日不敬を理由に上司である課長が公然とリンチした」というもの。 かなりの数の人間がこれを称えるコメントを書いていた。
このルール。 大相撲の件に明白だが、駄目なものなんだよ。 これを称える側の常識は破棄対象でありそうした行為に出れば今後は、ただの犯罪者として処理される社会になるだろう。

態度、マナーは結局のところ、気に入らないというだけ。 ではだ。 人を傷つける言葉はどうか。 多分女を中心に「許されない」と言う人間が多いと思う。 私の判断は、「明文化されていない限りは許される」である。 やはり好き嫌いの問題でしかない。

もう一つ。 罵声はどうか。 私はこれは駄目なものとする。 大声で威嚇する目的がある、恫喝要素があるといった条件に当てはまるならば暴力に類したものとする。

悪口の類が業務の妨げになる場合はどうか。 これは単純で、業務の妨げに関するルールがそのまま適用される。 会社や官公庁であるならばそれを理由にクビにする事もルールに反してはいないとする。

制裁云々を書いた。 個人制裁全般を禁止するのはどうか。 私はこれを採らない。 「暴力による個人制裁」はともかくもそれ以外の部分に関しては個人の自由である部分が多い。 気に入らない店に二度と行かないのも制裁の一種であり、また他人による不快な行為の実体験を友人親族に伝えるのも制裁行為としての部分がある。 後者の場合は風聞による営業妨害との線引きが不明確な部分があるが、そこらへんも詰めた方が良いのだろう。

暴力行為全般を禁止する。 これはどうか。 だいたい先進国の法律はこれに近い。 だが私は無条件でのこれを是としない。 人の死を招く行為を繰り返すモノに対する暴力制裁は許されるとする。 表題にある通り、理由の問題なのだとしている。 意図的な危険運転が例だな。 バイク乗りが歩道を歩く人に対し事故を起こしかねない運転を繰り返す。 そうしたライダーが暴力制裁の結果そうした行為を止めるのならば一考の価値はあるとする。 もちろん、警察に突き出す事で解決するのであればそちらの方が好ましいだろうが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「悪のナチス・ドイツ」、「捧げられたヒトラー」という無原罪化措置は人類社会にどう作用したか

2018-05-31 13:22:44 | Weblog
「アンネの日記」の真実が公表されたらしい。 なんでも筆者自身の性欲に関する文章で、遺族が上から紙を貼って読めなくしたのだとか。 「アリヤー絡みのヒトラー評だ」とした予想は外れたわけだ。

さて表題の。 優生学で考えてみよう、欧州におけるそのルーツはスパルタだろう。 「戦いに役立たない弱い子は死ね」である。 これはスパルタに限った話ではなく、欧州貴族社会の中に普遍的価値観として存在し続け、今日、黒人社会の中にも垣間見えたりもする。 自分たちは強いから生き残った、弱いものは淘汰され捨てられて当然、といった形で。

無原罪化措置は各国に、どのように作用したのか。
まずドイツ、より先にアメリカか。 これはイギリスやソ連にも共通すると。 結局なんだかんだで戦争犯罪を繰り返す国となった。 具体的には
1. 戦争、その背後の国策を理由とした犯罪行為をする
2. 「それはナチスと同様だ」との指摘がなされる
3. 自分たちはナチスではなく、ナチスよりもずっとマシでありナチスこそが悪、よって戦争犯罪行為は自分たちの正当な権利であるか必要悪である

といった状態を周回し続ける国々となった。 

ドイツ。 旧敵側が続ける戦争犯罪行為を容認し、「悪の配当」を好んで享受する国となった。

中国。 戦争犯罪行為の分類すらない「悪の帝国」となった。 もっとも、そうした状態は歴史的なもので戦後のそれでそうなったわけではない。 「政策の結果野放しの悪となった」が正しいか。

ユダヤ人社会。 「自分たちが聖なのだ」と勘違いするようになった。 いや違う。 「ナチス・ドイツの悪」と言い続けてきた側のお前たちは悪として追われる事になる存在だ。 滅ぶ方がマシか。

日本。 二段階ある。 まず「ナチス・ドイツが悪」「枢軸が悪」という政策の、直接の影響下にあったのが団塊世代。 彼らは「団塊天動説」と言われる存在となった。
彼らの時代を終わらせたのが氷河期世代。 因習の終わりであり、因習が絶たれた時代の始まりである。 長いかどうかは知らない。

こんな所か。
ようするにだ。 無原罪化政策自体が、日本と中国、日本とアメリカ、日本とドイツの対比から「劣っている」という結論が出ているのだと。 それどころか、「なんか効果あったの?」といった疑問すら浮かぶレベル。 もちろん、結果を「終末の土壌」、「日本人を完成させた」、「日本こそがと示した」とする事も出来るが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆ヴィーガン

2018-05-29 12:44:32 | Weblog
ヴィーガンを、中間すっ飛ばして三つに分けると、
1. 哺乳類・鳥類を食べない
2. 動物全般食べない
3. 植物も含め不殺食を独自に規定する

となる、とする。
こう分けると1は倫理上中途半端な場所に位置しているように見えるが、実は我々も似たような事を実践していたりする、つまり
0. 人間を食べない

こうなる。

「何故人間を食べないのか」は生物学上はプリオン病などの問題もあるが、実際には社会を維持するためのルールであるというのが答えと。 ただし、過去には人肉食の文化もあった。 東洋だと中国が有名だな、三国志演義で主人公が人肉食をしその点につき提供者を責めたりはしなかった場面があるとかとかなんとか。
一文にすると、人肉食を肯定すると身分差が固定化したり憎悪の連鎖が止まらなくなったりするよって、そうした行為を否定する宗教文化が残る傾向にある、といったところか。

宗教だの倫理だのは結局のところ保身なのか。 「他人に殺されたくないから人を殺さないルールが絶対であるかのように振る舞っている」というのが保身の意味だとすると、私は、宗教や倫理は必ずしも保身故ではない、とする。 私にとって自身に倫理を課す理由は「他人の価値を認める自分を保全する」ためなのだと。 自己保全が保身に入るのならば問いの答えはそうだ、という事になるが一般に保身と聞いて想定されるものとは違うとすると。

ヴィーガンの話に戻る。
ヴィーガンの問題点は、二言目には「自分たちの方が倫理上位に居る」と主張しだす点。 これをせず、ここにヴィーガンをする分には個人の自由だが彼らは自分たちの子にもヴィーガンである事を強制する。 強制する根拠は倫理上位だからと。 では逆ならばどうか。 植物食は動物食よりも倫理下位にあるとしたら。

一般に、動物は「食う側」である。 食う側である事は食われるルールに生きている事を意味する。 つまり、動物が動物を食べる場合は結果の不均等があるが、弱肉強食ルール上では対等の関係にある。 植物食にはこれは無い。 もちろん、死体は肥料になるのだから循環関係ではある。
実際問題社会を持つ人間、それも都市部在住者が家畜に食われる事があるのか、というとほぼノーだが人類全般につき食われる可能性のほぼ無い相手を搾取し食い物とする事を善だと主張しているヴィーガンたちには倫理上の瑕疵がある。

倫理の話に移動する。 「倫理は他人の価値を認める自身の保全である」とする立場から、私は人肉食否定ルールを肯定する側に居る。 では動物愛護はどうか。 私はどちらかと言うと動物が好きな方だ思っており、そうした点から動物愛護にも好意的ではある。 だが動物愛護に対する評価の多くを占めるのは、「役に立つ」といった観点。 他人につき、人死にを避ける精神、行動双方の訓練になるだろうと。
さてこうした「動物愛護は他人を変える倫理として肯定する」という立場はルールの強制にあたるのか。 是である。 ただし、である。 「趣味で動物を虐めたい殺したい人」と「趣味で動物を守りたい人」とはルール強制の関係上対等の立場にある。 つまり私は、対等の立場にある内の後者を趣味と実益の双方を理由に応援している。 こうなる。
さて、ヴィーガンは役に立つのか。 彼らが倫理上位を主張しないならば。 彼らは倫理上位を主張する事を止めるだろうか。 近々には無いだろうな。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泥人論(どろじんろん)(霊とかの側の話)

2018-05-20 22:02:27 | Weblog
泥人、と書く。 どろじんと読む。 造語である。 造語のつもり。
霊とかそっちの方の概念で、今日の世界、人々が現実だと思っている実社会における人間の多くが、生物学的にはまったく人間なのだが霊的には実は人ではない、といった発想。 危険思想である。 突き詰めて考えると狂人と化す発想であり、突き詰めなくとも「彼らは価値に乏しいのだ」といった考えにつながりかねない代物。

危険思想。 でも泥人。 古典的な単語を使うなら妖怪変化だが「地面から人が生えてくる」という情景を、ファンタジー系ゲームのモンスターなどのイメージでとらえて泥人とした。
「霊的に人ではない」というのはどういうものなのか。 これは「霊的に人である」とはどういうものなのか、とった問いの反対側である。 対偶ってヤツだな。

過去に使ったネタ、出した結論を思い出して並べてみる。
・魂とは「自分のままで居たい」と願い続ける心の事である
・人は意思の束である
・霊には意志と雰囲気の二種類がある
・霊には自己規定があったりなかったりする
 (継続的な霊は自己規定を持つ)
・内省的な自己規定の変化の仕方に自我の有無を見る事が出来る
 (定められた計算を繰り返すロボットには自己規定の変化はなく、またスイッチのオン/オフが切り替わるような自己規定の変化も自我の作用によるものではない。 連続的、継続的でありまったく同じ状態に回帰する事のない自己規定の変化は自我の作用によるものである)

これらが縦糸。 対する横糸は社会に見る、犯罪行為を当然とするまるで妖怪のような人間たち、となる。

考えの起点となったのは、「どうしたら人の社会は戦争にならないか」であり、「戦争へと至る秩序とはどのようなものか」、遡って「秩序と犯罪の関係」、「人は何故犯罪行為をするのか」、犯罪から遡って「法律、ルール構築以前の段階での犯罪様行為」、「迷惑行為全般と悪意の関係」、「悪意の行為を避ける理由と他人の価値」、「他人の価値を量るにあたっての自身の価値」、「自身の価値と照らし合わせての迷惑行為を避ける理由と敢えて為す理由」などなど。
戦争や戦争のような状態、暴力略奪が横行する無秩序な状態の理由として個々人の行動、意思決定に見ていくと、実は「悪い事をする」方が自然であり、富や名声のような直接の利益を理由としたものではなく、他人に自身と同等の価値を見てそれを尊重する事に架空の利益を見出す行動の方が経験的選択的な行動様式なのだとなるのだと。
要するに、「自分に大した価値はなく、他人もまた同様よって盗めるときは盗む」といった、その場その場の好き嫌い思い付きだけで行動を決める、刹那的な人の形をした何かが地面から生えてきていて、それらが今現在の社会の形となっている、というのが泥人説。

さて一歩踏み込もう。
日本だとDQNと在日朝鮮人たちの側が、中国だと農村戸籍の側、韓国だと中国朝鮮族、アメリカの伝統的白人文化圏だとブラックが、アメリカのリベラルだと称する側の文化圏では南部のプア・ホワイトが、イスラエルだと出稼ぎなのかゴロツキなのかよくわからないし近隣アラブ人の側が、ここで言う「泥人たちの側」に該当する。
実際の割合ってどのくらいなんだろうか? 日本の場合で、民主党、古くは社会党あたりを積極支持した層、最近ならフジテレビやインスタバエを刹那的に喜び歓迎する層がそれだ、とすると、少なく見て1割、多く見て3割強。 一方の、「確たる価値あり、よって考え選ぶ」とする側は1割あるかどうか。 とするとその間はどちらでもなくなんとなく雰囲気で生きている層、となる。 他も似たような状況なのかなと考える。

泥人は人になるのだろうか。 理論上は、是である。 生物学的にも社会統計上も人間として扱われているが霊的真実としては人としてあったりなかったりする彼らを「人にする」事は、技術的な話として可能なのだろうか。 そもそも「現実世界を構築する人であるかのように動く人型をした何ものか」全員が「人である」といった状態が実現しうるのだろうか。
まあここら辺は「狂人の領域」だが、実際には神様のリソースの問題であり唯我論とか唯神論の派生であり、哲学的には必ずしも狂人の領域ではなかったりすると。
考えの起点に戻ろう。 「犯罪をする人は何故犯罪をしようとするのか」の理由が「その人が他人の生活継続に価値を見出していないから」である。 泥人論は彼らの表面に、裏返しの無価値さを見ているんだな。 私は彼らは他人を無価値としていると捉え、そんな彼らを私は、被造物として人の内実を伴っていないと見ている、と、そんな話。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育と刑罰

2018-05-16 11:33:55 | Weblog
多数その他大勢の幸せを願う、というのが神様と同じ側に立つモノと。
単にこう書くとおそらく誤解があるだろう。 この幸せは、「それぞれの」といった形でなければ同じ側にはならない。 「自分が与える」ではないのだ。 「各々選び取る」といったもの。

「子供の教育をどうするか」といった問いの答えはだいたい、「親が」「大人が」「社会が」決めた形を与えるといったものに収束する。 社会が既存であり、食べる、飲む、寝る、呼吸するといった生物学的共通事項があり、上から決め付け押し付けるのでなければ大多数が自滅するだろうからそうなるのだが、それが原則として正しいというわけではない。
でだ。 この「教育」を「宗教」あるいは「思想倫理」に置き換えるとどうなるか。 「正しい教育とは」という問いは「正しい宗教は」「社会思想は」といった問いに代わる。 ここではどれが正しいのかの結論は出なくとも押し付けて拘束するものは正しくない、といった結論は出る、つまり
・拘束しない

転じて
・地獄や破門等で脅して離脱を阻止しようとしない
・離脱したものに対し危害を加える追っ手を差し向けたりしない

となると。

で、「拘束しない」となると問題となってくるのが刑事罰の拘禁措置である。
ここで、人の持つ自由意思を尊重するという原則の下「刑事罰が社会倫理上正しい」となるには何が必要か。 過去にある本人の同意、他の者の自由の尊重、罪状に関する相互主義。 社会契約、周囲からの無法行為、同等同質の報復措置、といった話。 ここでもまた離脱の自由がないと「正しい」とはならなかったりする。
要するにだ。 「社会秩序は正しい」、よって「刑事罰によってそれを保つのもやむなし」とする、現状そうなっている、事の倫理的な保障というのかな?正当性のようなものを得るためには、無法を求める人たちが逃走する地域が必要になる、といった話になってくると。

私はそこを地獄と呼ぶのだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「性欲は善かつ悪」としたら?

2018-05-16 08:52:12 | Weblog
アウフヘーベンの螺旋。
性欲がある。 そのままに性交する。

螺旋を半周。
性欲のままの行動は多くの他者を不幸にし、自身をも不幸にしかねないよって悪である。

さらに半周。
男女の関係から家族、世代交代の循環は性欲によって保たれている。 性欲を悪とする事で世界がより悪くなる。

半周。
分別のない性欲行動は家族たちを不幸にするだろう。 愛する人たちが不幸になっても構わないとするのは善に欠ける。

半周。
自然のままである事、無為こそ善である。 無為のままの行動で不幸になる人たちはその人を支配しようとしている。 家族の一員が離れていく事、あるいは新たに生まれてくる子供のために支援を求められる事を嫌悪する側にこそ悪がある。

半周。
人が社会を造り、それを維持しようと思う事もまた人の自然な反応である。 そこに好んで争いを起こす事を悪と言う。 「性欲は悪」とする事は他者に争いを避ける善を求める事であり、「性欲は善」とする事は他者に争わせる悪を求める事に通ずる。

こんな感じか。
個人的な感想を箇条書きするに
・性欲自体は自然現象である
・他人を傷つける行為は悪事に属する
・他人の身体を傷つける行為は客観的悪事である
・他人の精神を傷つける行為は客観的悪事ではなく、悪意を伴った場合のみ悪事となる
・悪意の有無に物的証拠が伴う事はなく、「悪意の人」の経験に照らし合わせた状況証拠のみがある
・「性行為を悪とする事」には支配欲の悪が付きまとう
・「性行為を善とする事」は扇動の悪である
・「家族に対する責任」は社会が決めるそこに自然はない
・「家族に対する責任意識」自体は善意である

結構非対称なんだね。
じゃあどうするか、だが
1. 子供には分別を教えるべし
2. 生まれてくる子供は皆で育てるべし
3. 悪意は叱るべし

解釈に幅があるのが2なわけで。 「皆で育てるってどんな?」って話になるが、これは、あらかじめ決めておくしかなく。 また想定外の事態が発生したならば、「子供の不幸を避けるべし」といった趣旨の下に話し合って決めるよりなく。

最後に霊云々の話を。 「性欲って何?」というのの答えの一つに、「当人にとっては悪い虫のようなもの」というのがあると。 私はこれを分裂志向なのだと見る。 会社の中に独立したがっている社員がいる、これが男の性欲と。 「じゃあ女は?」というと、「いや知らんがな」とするのが本音であり、推測するに男ないし子孫に対する支配欲だろうとすると。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アンネの日記」に書かれていただろう事

2018-05-10 16:02:21 | Weblog
今の世界秩序ってのは言ってみれば、ユダヤ人たちが撒いた「リベラルの呪い」で出来ていて。 で、それの素ってのは「他人の不幸を願う事」だったりすると。 例えば、「セックスしろ」「離婚しろ」「自分の国を嫌え」「近所の人間を憎め」といった。 なので彼らは「ほっといてくれ」と言えるような立場にはない、少なくとも「我々がこうした結果、アメリカはヨーロッパはこうなった」というのを彼らが示すまでは。 一方で、これは「他人の不幸を願う呪い」なのだから「彼らがしないのならば私が解き明かしてやろう」というのはある。 特に、被害に遭っている側の筋では。

ヨーロッパではナチス・ドイツがタブーとなっている。 ハーケンクロイツとかだな。 これを「ハーケンクロイツは一部の人たちに対する武力恫喝を意味する」とするならば禁止する理由にはなる。 だが実際には違う。 優生学もユダヤ人虐殺もナチス・ドイツの専売特許ではないし、ハーケンクロイツが常にそれを意味するわけでもない。 彼らのしている事は自分たちの悪事の数々をナチス・ドイツに被せて善人のふりをしているだけである。
別の例を挙げると判り易いだろう、ユニオンジャックである。 タスマニア人はユニオンジャックの下に全滅した。 だが今日の世界ではユニオンジャックは禁止されておらず、またそれがタスマニア人虐殺政策を意味するわけでもない。 こちらの扱いの方が正常なのだ。
要するにだ。 ハーケンクロイツは西洋人の歴史の一部であり今なお続いている彼らの恥部でもある。 よってこれは公に扱われ、語られるべきなのだ。 だが彼らはこれを法律で禁止している。

「アンネの日記」には書籍化されていない部分がある、と言われている。 たとえば「アンパンマン」には放送禁止になった回がある、という話ならばややこしい話にはならないだろう、「第何話がそう」が事実か、あるいは「そう言われているだけで実は無い」かのいずれかである。 無いのなら「無い」って話が広まってそれで終わり。 だが「アンネの日記」の場合は違う。 そういう話があるというだけで「ネオナチだ」「人道に反している」となったりする。  どういうわけだか火病を起こす人たちが出てくるのだ。

そこでだ。 もしあったならばそれはどのような内容だったのか、を推測してみよう。
1. 著者の性事情が書かれていた
2. 著者周辺同居人たちの倫理に外れた行いが多数書かれていた
3. 大人たちの話す宗教タブーが書かれていた
4. 大人たちが話す政治タブーが書かれていた

さて1~3の場合は、「こういう理由で出版物には含みませんでした」という説明で済む話である。 問題は、4である。 もしそれが政治タブーであったならば。 公表されればもちろんだが、「そうした事実が存在した」という話だけで今日のユダヤ人たちの政治的地位が損なわれるやもしれない、といった判断があり得る。 もし政治タブーであったとしよう、それは何だったのだろうか。
黒人・アラブ人蔑視か。 正直これは1960年代あたりまでは大したタブーではなかったはず。 隠す理由にはならない。
マルクス主義礼賛か。 内容の大半は20世紀のオランダでの出来事のはず。 共産主義はタブーではない。
パレスチナ征服計画か。 これなら隠す理由になるかもしれないが、アリヤー云々の話はありふれていたはずであるし、また世界地図も、英国の気分次第でどうとでもなるというのが常識だった時代だ。 正直弱いだろう。

隠し事があったとして、それは何だったのか。 私が「これかな?」と思うのが、ナチス・ドイツ神の手説。 「アリヤーは神事であり、ヒトラー氏は欲にまみれて動かないユダヤ人たちを追い立てる、天使のような存在だった」とするもの。 当時のユダヤ人の大人複数を一か所に集めればそうした話題は出ただろう、そしてそれを子供が日記に書き残す、これもあり得る。 だが「ユダヤ人たちがナチス・ドイツを神聖視した」という事実を戦後のユダヤ人たちが、「何を以ても隠したい」としたとしても不思議ではない。 そして彼らの多く、少数派かもしれないが、は不用意に嘘を吐く事を「してはいけない事だ」としていると。

キリスト教徒による迫害を恐れ続けている人たちが居て、彼らはキリスト教勢力の滅亡を歓迎する側に居ると。 あらわに意識していないのだろうが、日々の判断がそちら側に傾いていて結果世界はこうなっている、そんな話。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靴デザートとか

2018-05-08 18:51:47 | Weblog
なんかムカついたので「無視するか」とも思ったが、考え直す。
パズルとして捉えてみた。

昔「大使館閣下の料理人」って漫画を買ってた事があったが、その知識で考えてみる。
まず、そうした料理にはメッセージが込められている。 同時に、そうしたメッセージを込める側は、打算的でもある。

メッセージは何か、だがこれは不快表明系のものだわな。 先の訪問地が問題になったのかとか、そんなところだろう。 「俺の靴をなめろ」「とっとと出てけ」あるいは「アメリカ人の靴でもなめていろ」とか。
だがこれには、打算が伴わないとおかしい。 単純解釈だと料理を出した側が相手を怒らせて損をする。 よって、そうした単純な挑発ではない。 直接戦争をしたいか相手のライバルを持ち上げたいかとかといった理由があるならともかく。
よってこれは「独自行動に期待する」でありその際に「中立勢力であるように宣伝する」といった意味がある、といったところが答えと思われる。

なんの事はない。 平和になればいいだけなのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

約束を守らないべき、反故にすべきかどうか

2018-05-07 18:25:30 | Weblog
「全員がより不幸になる約束は反故にすべき」というのはある。
だがこれを基本とすると、「約束をして反故にする」事を乱発する人間が多数出るだろう。 秩序が成り立たなくなる。
秩序は何のためにあるのかというと大雑把に、より弱いモノが不幸にならないようにするためである。

幸不幸は主観である。 当人が不幸であるとする時不幸であり、幸福であるとする時幸福である、となる。 一般には、そうだとされている。 だが社会秩序上の不幸はこれとは違っている。 「AがBを不幸にする」という状況を想定し、その想定の上での状態を避ける、ないし社会秩序上の不幸となったBに、「救済された」と想定される状況が提供されるよう取り決めをしておく、というもの。 「何かを基準として想定された不幸」なのだ。
では「実感としての不幸」とこの、「想定された不幸」とでは後者は常に間違いなのか、というとそうでもない、とすと。 健康問題がある。 「幸福なのだと思い込まされているが毟られ続けていて、精神面から健康を損なっていく状態」というのがあり、これは「想定された不幸」を基準とした救済措置で健康が回復しだすだろうもの。 「実感」と「外部の想定」を一致させるには当人の思い込みを諭すといった措置が必要となってくるだろう。

もう一つ幸不幸の外部基準を出す。 捨て猫である。 「捨て犬じゃだめなのか?」と聞かれるかもしれないが、飼い犬は基本逃げないだろう。
野良猫が不幸とは限らないが、捨て猫は大概不幸であろう。

これら二つを主題に沿うように並べて書くと以下。
・約束の中心となるモノに、約束の束縛による健康被害が発生するようなそれは反故にするべきである
・約束の対象となるモノに、人ないし生物を捨てるよう強制する約束は反故にするべきである

こんな感じとなる。 極論すると前者は「捨てろ」という基準であり、後者は「捨てさせるな」とする基準である。 矛盾している。
どうするとこの、基準間の矛盾が緩和されるのか。
・諭すべし
・逃げて良し
・逃げたモノが戻るのもまた良し

こんなところか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

趣味等に興じる際の当事者の嗜好は三つに分かれる、とする

2018-05-06 05:12:13 | Weblog
1 独行型
2 対面型
3 お仕着せ干渉型

サラリーマン社会などで崇高であるかなにかのように勧められるのがゴルフだが、私はこれが独行型の一例とする。 写生、読書、パズル、黙考、それとスポーツの基礎トレーニングとされるものの大半がここに分類されるわけだ。

ボクシング等格闘技が対面型の例。 競争の場合は、マッチレースならば対面型、競争の形を取っているが自分との闘いであるならば独行型。 人が並んで行う趣味行為の場合は両方の嗜好傾向が同時に存在する状態にある、となる。

アイドルの追っかけといったファン行為等の目的はお仕着せ干渉なのだとする。 私はこれが「邪悪なのだ」としていると。 こうあるもの、ある人が「私はこう」といったものを表した状態に対して「お前はこうでなければならない」といったものを金銭、権力、罵声嘲笑数の暴力でもって干渉する。 スポーツの応援もこれに該当する部分が多いと見ている。

「趣味のものを勝手に捨てる嫁」等の話が時々ネットに上がるが、私は女の過半数が独行型の趣味をネグレクト、対面型の趣味を暴力的だとして嫌っているのではと疑っている。 そういう人間は私が「邪悪なのだ」と断定する干渉型を善としているのだろうと見る。

さて対面型の暴力傾向は邪悪なのだろうか。 私は「双方の合意下にある」、「趣味行為の際の情報が開示されている、開示されていない情報は双方対等な状態にある」、「離脱の自由がある」といった条件が満たされている場合に、暴力傾向の有無にかかわらず邪悪ではない、とする。
干渉型を邪悪だとする理由も同じになる。 情報開示下の合意、対等さ、離脱の自由。 こうしたものがあると干渉型は成立しえない。

さて、ここに問題が残る。 宗教は干渉型である。 小さな子に対し「お前はこうあれ」とし、また神様に対し「我々はこうしているのだからお前は我々にこうしろ」とする。 ファンがアイドルに対するような態度を信仰とするのがまさに偶像崇拝であり、それをもって「こうしろ」と命じるのが魔術である。 だがこうした傾向抜きに宗教は存続出来るのだろうか。
さらにだ。 私の、現在の世界に対する態度。 私は書く事により社会の邪悪を排除しようとしている。 こうした傾向はさて邪悪なのだろうか。 まず対等さは無い。 私が示す人であるが私以外の有象無象は私が示すものを理解する側となる。 教師と子供の開きがある。 私が邪悪でないためには「離脱の自由」、「当事者たちが私と無関係に失敗しそこから学ぶ状況」が保障されていなければならないとなるわけだな。 一方でこれは、「崖へと向かう人を止める努力を途中でやめる」という事でもある。 それはそれで好ましいとは思わない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする