狸喰うモノ牛愛でるモノ

あー。 なんでこんな偉そうな事書いてるんだろうなー。

幸せか助けるか

2012-12-28 15:58:17 | Weblog
他者には他者の幸せが有る。
これを認識しないと押し付けが正しいと言う人になる。
何故そのような人になるのかはその人にその人固有のそれ、他者は
どうであれ自分はこうである、といった認識が無いからだろうと
思うわけだがこれ、その人に「自分が無い」という事でも有る。
自分が無い人は他者の幸せを画一的に見る。
強い、賢い、美しい、富んでいる、そういった見方。
他者の幸せを画一的に見る人は自分が無いのか。
画一的に見るが自分が有る人、これが居るかどうかだ。
極端に社会経験の乏しい人ならあるいは、といったところか。
強かったり富んでいたりする当人にしてみればそういった要素は
幸せとはさほど関係が無い。 人間関係の一要素として機能して
いる、ただそれだけ。

さて、略奪や強姦を当たり前とする人が居たとする。
どうするか。
罪を犯すのを待って刑務所に送るか。
そのまま精神病院や動物園に送るか。
刑務所、病院、動物園、どれもようは檻の中、繋いでおけという方法。
これも一つではある。
人には人の幸せが有る。
犯す人当人のそれはどうなるか。
刑務所や動物園にそれは有るのか。
ひょっとしたら有るかもしれないが、期待は出来ない。
そういう人たちの国を作ってそこに放したらどうなるか。
管理されない国が出来る、そう言われるだろう。
さて管理される人とされない人、どちらが固有の幸せを見出せるか。
管理されるべきだという発想が有ってそう言うようになるわけだ。
管理下にある幸せってどんなだと考える。
管理者が管理として意識するそれつまり被管理者に押し付けるそれか、
被管理者が管理者の意向と無関係に見出すそれか、管理者と被管理者
との関係にあるそれか。

略奪者たちの国があったとする。
そこに住む人すべてが略奪するのが当たり前で日常であると。
外部から略奪して来るのでなければ互いに互いの財産を奪い合う。
その関係が不幸せだと外部の人間が判断したとする。 どうするか。
宣教師よろしく入って行って、それは正しくないと説く、あるいは
占領して教育を強制してその常識を徹底的に破壊する。
両極端だ。 その中間はどうか。
それが正しくないと言う人を釣って武器を与える。
求める結果は占領のそれと同じなのだが自分ではやらない。
そんなところだろう、おそらく当地では殺し合いになるわな。
殺しあう連中のうち自分たちの方を向いている一方にだけ武器を
与えている。 行動としてはそんなもの。
じゃあ、と考えてみる。 宣教師は何故宣教するのか。
自分の持っている幸せを他人に紹介したいのか、他人に強制し
他人を管理する立場を求めているのか。
「宣教が正しい」という語には両方の志向が含まれる。
前者を求める人も後者を求める人もその語をして自分が正しい
とするだろう。

社会が進歩したら人はそれに助けられるだろうと書いてみる。
具体的にはどうなるか。 餓えにくくなる。 凍えにくくなる。
それをして、人が人を助けなくなる。 あの人は飢えていない、
凍えていない、怪我をしていない。
助けられる人は幸せか。 人による。
だがそれなりには期待できる。
助けられない人は不幸せか。 これも人による。
では、だ。
助ける人は幸せになるか。
助ける事をもって幸せと感じる人はいるだろう。
そういう人は助けようとする人になるかもしれない。

略奪する人は他人を助けようとするか。
身内だけなら、あるいは。 他人にそうする事はまれだろう。
自分で自分のルールを決められる事は幸せか。 これは一般
には自由と呼ばれるもの。 人は自由を求める、とされている。
自由な人は幸せか。 どうだろう。 それはまた別のもの。
ではだ。 自分のルールを他人に決められる人は幸せか。
これは一般に、自由が無いと言われている状態だ。
その人は不幸か。 そうとも限らない。 だがその人固有の幸せ
は見出しにくくなるのでは、と思わなくも無い。
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人民の教育云々

2012-12-27 11:14:06 | Weblog
怒って書いている間を毒暴走状態だーなんて思ったり。
妙なんだよね。
その方が結果が良いような感じ。
当たり前なのかもしれないけど。

さて中国がどうなるか。
中国がどうなるかを見るに当たって注目しているものがある。
チベット人たちである。
チベット人たちが暴動を起こすか、ではない。
私はそれを悪とする。
中国人たちがチベット人たちを尊重出来るか、である。
ひいてはこれが、中国人が中国人を尊重出来るかであり。
出来ないのならそれがチベット人たちに対するそれに表れる。
一般中国人たちはそれを意識しているのか。
否だろう。
じゃあそれを人民に広く知らしめる能力が北京政府に有るか。
やはり、否だろう。
通達だけなら出来る。
だが人民は、それを読んでまた元に戻る。
人民の常識に合致しなければそれは天動説を説く徒労にしか
ならない。

人民、と書く。 国民ではない。
枠があり枠内に責任が有る。
何故枠内の責任を持とうとするのかの答えは個々にはそこに
友人が居て友人の友人が居るからだとなるが、何故枠外に
責任を持たないのかとの答えはやろうとするだけ無駄だから、
となる。 中国の責任は中国人が持つしかないが、持つ人を
党員と言い持たない人を人民と言う。 だから人民と書く。
国家つまりは国民の枠に無責任な党員が多すぎるという問題
は日本では国民の枠に無責任な国民が多すぎる、という問題
になる。 ここでは無責任な人が「アジアに対する責任」
などと言う。 どこにでもある話だ。
さて党員にとって人民は国民に相当するのか。
党員は言うだろう、彼らは党員ではない、と。
だから、国民ではない、と書く。
かつて蒋介石氏は人民の死を「好ましい」とした。

では、だ。
中国はほっとかれて変わるのか。
中国が変われば北朝鮮とフィリピンとが仲違いをする理由は、
当面のそれは無くなる。 韓国は中国の庇護下を離れたのに
ああじゃないかと言われたら、そうだねえ、としか言えない。
中国は変わるのか、は中国人は変わろうとする意思を
持てるのか、と同じ事。 当面の中国人は変わらないまま
金だけを持とうとしていると。 中国政府がそれを変えよう
と思ったら何が出来るのか。 中国政府は族長の集まり
でしかなく身内に嫁を配れるかが関心事のほぼすべてだ。
族長の集まりである限りは民主化しようとしまいとそうに
しかならない。 人民にとっては「女を頼む族長」「金を
配るリーダー」が政党に置き換わるだけ。

民主化したら正しい情報が伝わるのではと言うだろうか。
私は書く。 またテレビか、と。
ジャーナリストの責任と言うだろうか。
私は書く。 人民釣り、と。

さて中国の政府、実際には中国の要人が、となるのだろうか、
「国を変えよう」と思ったとする。
何が出来るか。
通達を出しても人民は常識の内であっちに寄ったりこっちに
寄ったりするだけ。 通達を出す側もその都度エサを撒く
必要に駆られ、結局「族長とエサ」の関係に収束する。
強制の起点をどこに置くか。
徴兵訓練に、という手も有るが、あっさり密室化するのが
オチだ。 まあ小学校教師あたりだろう。
13億人1000人につき1人の外国人教師とすると百万人ちょい。
中国内戦の危険に繋がりそうもない国ならドイツ、スイスや
北欧、内戦が不利益になる国は日本とロシアだが日本はまず
無理でロシアはまず自分たちの事が先だろう。 中国で教鞭
を執るに相性の良さそうな国はフランスあたりか。
13億にうんざりするようになればフランス人の病気も治る
だろう、とすると双方にメリットありか。
まあ亡命チベット人をチベット語教師として雇う、という
のが一番手っ取り早そうではあるが。
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興行ってなんぞ

2012-12-27 09:52:48 | Weblog
スポーツ選手が「トレードだ」とされている。
興行だ。
場所を取り、人を買い、客を囲う。
これが興行。
場所を取るのがヤクザなら興行はヤクザにしか為し得ない。
場所を取るのを止めたらどうなるか。
客を囲えなくなる。
これをアマチュアなどと言ったりする。
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奴隷制度と聞いて何を思うか

2012-12-27 09:45:14 | Weblog
テレビで聞き上手とやらをやっていた。
私「テクニックでしかない」
母「それで良い関係が続く」
私「人に関係の上手だけがある」
母「嫌われたら相手が去ってしまう」
私「相手を所有したいだけだろう」
母「何故もっとおおらかになれない」

改めて考えてみた。
何故その人は自力でそれを身につけたか、なんだな。

西洋人の行動哲学は「人は取ってくれば良い」で出来ている。
大学にあるのは持てる者がそれを表面化させない方法。
持っていない者たちはそれを実行する事が出来ず末端は児童
誘拐にり、それを見た大学人たちは自分たちこそが正しい
のだと確信するようになると。 だが中国に七色の川を
作ったのは彼らだ。 彼らは言う。 政府が悪いと。
私の目には彼らに潰されまいとする人たちが居るだけだ。
じゃあ、と聞かれるだろうか。 「悪い政府」はどうするのだと。
説得すればいい。
説得して駄目ならば?
どうしてもそうある状況を変えたければ占領する事になるの
だろう。 それは外部の「取ってくる」だけが有る状態よりは
マシだろうと。

奴隷を多く所有する者が偉いのだ、と多くの人は人をそう見る。
経営者は社員の数を、ヤクザは組員の数を、活動家は動員数を、
街に立つ人は魅了する人の数を、ねたむ人たちは金の多寡を見て
その人の高さとする。
命令出来る人の数。
ここに3000年前の人が居たとする。
彼は「奴隷を見る」と言う私にこう言うだろう、
「それの何がおかしいのだ」と。
彼らは悪か。 私は今彼を悪として書いていない。
3000年、志向するものは変わっていない。
言葉の認識だけが変わった。
300年前でも同じ事か。

100年前まで族長に頼めば女が貰えた。
男たちはみなそうだった。
今日男は女を頼まなくなった。
それは消えつつある。
やもめが増えた事を喜ぶべきだろう。
何が減っていないのか。
人を金や地位、美貌で釣るのは正しいのか。
釣られない人たちを誹っているのは誰か。

さて先日、従属を当然とする親は批判に子のペット化と家畜化を
行き来すると書いた。 なにかが足りないと感じながらも
その対称性に喜んだが引っかかっていたものに思い当たった。
「野生動物にエサをやる感覚」だ。
放任主義、今風に書くとネグレクトってヤツだな。
なるほど、「エサやりだけ」がひどすぎるのを見た後で
ペット化や家畜化を見たらそれが良い物であるかのように
認識するかもしれない。
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準備って何が必要なんだ?

2012-12-26 13:10:36 | Weblog
湖のまわりでローカルな諍いが。
せっかく左に動くと自壊する環境が出来かけているのに
なんでわざわざそれを潰そうとするのかねえ。

最近夏が恋しい。 というかずっとだ。
だからと言ってどうこうしたいわけでもなく。

復活云々と書いているわけだが今それを信じているのかと
聞かれたらノーと答えるだろう、例えば街中で、「私は
慶応ウン年の生まれでとか言ってるにーちゃんが居たと
したらまず最初にテレビカメラを探し、見当たらなければ
「おまわりさーん」とか言いそうになる。 たぶん。
ターミ○ーターよろしく空間が球形に削り取られて放電を
伴いながら裸のおっさんが出現する現場に居合わせた
のならそれはそのまま超常現象として受け入れて、で
「私は見たッ!」とか言い出すだろうが。

イスラム教が多分に復活準備を含んでいるように見える。
これは私の状態に関する一事実なわけだ。
イスラム教について多くを知っているわけではないが
イスラム教徒に「お前たちの宗教は復活受け入れになって
いる」と言ったら彼らは「当たり前だろう」くらいに
答えるかもしれない。 そもそもそういうものなのだと。
復活準備を突き詰めると無明時代への回帰を志向する
ようになると言ったら彼らはどう反応するだろうか。
場所の準備が目的化になってしまうと当初の目的が
どこかにいってしまう。 作業員たちにとってもその方が
居心地が良かったりする。 まあよくある話だ。

イスラム教は復活者たちの受け入れ準備である。
イスラム教徒たちにとっておそらくこれは真実であり、
私にとっては考察の結果である。 じゃあ復活は有るのか
と聞かれたらいやなんとも、とりあえずまだ見ていない、
とでも答えるしかなく。
そこで発想を転換してみる。
どうするとそれが信じられるのか。
ここで私の言う「信じる」とはむにゃむにゃと拝む事でも
どっかの祭壇の前で呪文を唱える事でもなく、起きて当然
の未来として待つ事である。
信じなくて良いとかと言われてもいやとりあえずやって
みるくらいにしか答えようが無い。

ヒトラー氏。
彼には百回くらいの暗殺があり、それをことごとく潜り
抜けてきたのだそうな。 この歴史の常識を少し変えて
考えてみる。 実際の彼は何度か死んでいて、そのつど
復活していたのだと。
血だまりが広がりちょび髭親父の死体が転がり、
しばらくしてむっくりと起き上がる。 信じるか。
無理だ。 復活ではなく何か別の現象だと思うだろう。

起き上がる死体。
これだと材料が足りない。
そこでここに個人的経験を足す。
数年前近所のコンビニで、角を曲がったら陳列棚が
すっからかんで、日本の小中学校なんかに有るパイプ製の
机が手前に置いてあった。 次の瞬間その光景は消えて、
いつもの資本主義色全開の陳列棚になっていた。
これならイケる。 これで行こう。
3メートル先でちょび髭親父の頭が急に傾ぎスイカの実が
飛び散り遠くで破裂音がし鉄っぽい臭いが辺りに満ちる。 
次の瞬間なんともないちょび髭親父がいて彼ともども
皆でしゃがみこみ、警護の連中が遠くを指差すと。
ちょび髭親父に言う、一瞬あなたが撃たれた様に見えた
と。 ちょび髭親父答える、一瞬高いところから撃たれた
自分を見下ろしていたと。

うん、これなら「有り得る」「不思議な話」だ。
じゃあこれなどうか。
何十年も前に戦死した人が帰ってきた。
何故かぱっと見若いままで、記憶もあいまい。
これもイケる。
あいまいなまま、運が良かったのだろうという話になる。
山奥から急に現れる未開人集団はどうか。
「イエメンのユダヤ人」なら事実として受け入れている。
ではその先は。
何が起きるかワクテカしながら待つ、くらいには。
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洗濯機を買うかどうかは個々の判断である

2012-12-25 11:45:01 | Weblog
大陸に隠し子が居る人たちってその事をどう思って
いるのだろうかと考えた。
一方に、親米派は旨い汁を吸っているのだから自分が
吸えないのはおかしい、といった感情があり、もう一方
に、ひとじchもとい庶子の面倒を見てくれている大陸
有力者と自分との友好関係こそが美しい国際協調のある
べき姿なのだといった大義名分があると。
「有力者との友情」こそがあるべき姿なのだから自分は
その維持に全力を尽くさなければならずそして他人も
それを支持しなければならない、道義的にはそうなる
はずだ、となると。
チェンジリングのもう一方、の話をしているわけではない。
影響範囲は似てはいるが。

社会福祉と労働力の関係。
国民全員に行き渡る労働力とはどのようなものか。
この問いに私は、洗濯機がそうだ、と答える。
ファミコンが来た時私は喜んだが老人たちは「社会が
蔑ろにされる」と怒った。

一時期介護サービスのCMがあった。
ロボットによる介護に老人が嫌そうな顔をするもので、
人の手による介護を売りと。

経済学者たちは言う、私たちなら福祉受給者一人につき
一人分の労働力を量る事が出来ると。
私は答える。
それは財務会計だと。
これに対し彼らは、財務会計が無かったら総量でどれだけ
あるか判らないではないかと言うだろうか。
これに対しては、金持ちになったらそうだわな、とでも
しておくかな。 一方で本当の金持ちとは自分の財産が
どれだけあるか判らない人たちのことを指す、といった
話もあったり。 彼らは自分が誰を雇っているのか把握
していない、という事になるのか。
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やったもんだがありました

2012-12-25 11:19:03 | Weblog
カンボジアのポルポト派を正しいとしてみる。 試しに。
ポルポト派による虐殺とされているものが実際にどの程度
のもので誰の意思で誰が係わっていたかはまだ不明だが。

カンボジアは僧侶たちがいたからこそ近代化出来なかった。
よって「近代化する」という意志の下、思想的強迫観念に
従って行動するならば野蛮の排除つまり僧侶虐殺は必須
だったのだ、となる。 同時に、近代化した国にあって
僧侶たちの生き場は在るのかと聞かれれば、近代化の形に
よって多少は異なるがその多くは無くなる、と答える。
「近代化の意志」があり宗教関係者は究極的にはその意思
に準じるのが正しいはずであり、近代化の結果に彼らの
生き場の多くは無く、銃口を前に彼らは生きようとはせず、
翻ってみれば彼らは「近代化したい」とする人たちを
圧殺していた者たちだったと。
彼らがカンボジアを牢獄にしていた、ポルポト派たちの
実感はそうだったのだろう。

神様が居るのに何故止めない、の答えがここにある。
独裁者による人生の圧殺も宗教屋たちによるそれも、
神様によるそれも結局の所本質的な部分は全部同じ。

じゃあ人が人を殺すための拠り所となるものを全部無くして
しまえばそれで戦争は無くなるんじゃね?というのも一つの
試み。 それで殺人が無くなるかと聞かれればノーと答える。
人には殺す理由付けとして正義があるのであって正義のため
に殺しているのでは無いと。 正義が無くても殺すヤツは
やっぱり殺す。
人を殺さない、よりも、人の意思を圧殺しない、の方が
上位に来る。 確固たる「殺す」という意思は尊重される。

「近代化の意志」とは何ぞやと聞かれたら、ポルポト派に
憑いていた強迫観念のようなものだと答えるか。
それが無かったら彼らは僧侶やその支持者たちの虐殺に
走らなかったかと聞かれたら、個々にただの殺人者になって
いたかもしれなかったと答える。
神様が居るとしてだ、まあ居るんだが、「近代化の意志」は
神様由来なのかと聞かれたら、割とそうなんだろうなと
答える。 まったく無関係だとは思えないと。
遡って何のための近代化というか国際社会化だったのかと
というと、農耕世界創造の考察からは人の人に対する必要性
を複雑に絡み合わせることで殺人を抑制する事が目的だった
という結論が出た。 まあ勝手な考察だが。

「ポルポト派の虐殺」は近代化のための殺人を抑制する役に
立ったかと聞かれたら、まあ割と、と答える。
本稿原点に返ろう。
ポルポト派は正しかったのか。
個々にはノー、と答える。
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権力者のおもちゃと言う

2012-12-24 20:22:37 | Weblog
教育の押し付けが悪い、詰め込み教育が悪いといった風に見える
文章が出るとそれに対する世間の反応は「放任こそが正しい」
「子供は甘やかすべきだ」となったりする。
では詰め込みも放任もどっちも正しい、としたらどうなるか。
これって親の目的がどこにあるかなんだな。
放任や甘やかしはペット化を、詰め込みが馬車馬化を目的と
しているのならば実はどちらの親も子に対して同じ態度なのだ
といった具合になる。
親子関係とは、人間関係とは従属なのだという信念が存在する限り
求める答えはペット化か家畜化のいずれかでしかなく、批判されても
一方が批判されているのだからもう片方、といった具合にしか
ならない。

権力者のおもちゃ。
例えば国に権力者が居てその意向で国民にとってクソの役にも
立たないような事が成されたような時の物をそう言ったりする。
では社会体制が変わって国民が権力者となったらどうなるか。
やっぱりクソの役にも立たない事が成されるだろう、それも
同様に権力者のおもちゃと言うべきだ。

高級福祉の構図。
宣伝者が「こんな福祉が実現するー」と喧伝する。
権力を握ったらそれをまず自分たち、そして支持者たちに配る。
そこで行き詰る。
行き詰ったらどうするか。 似て非なるものでも撒いて適当に
ごまかす、誰かのせいにする。 そんなところだろう。
「右派が悪い」「アメリカが悪い」というのは実はそう的外れ
でもなかったりする。 社会において生産性の部分を担って
居るのは右派でありまた現状アメリカは食糧生産国であり
食料援助国である。 右派が自分たちの社会の家畜に、あるいは
アメリカがその奴隷になったとしたならばそこではもう少しだけ
福祉が行き渡るわけで。
人が人を雇うのであるから行き渡る可能性があるのはそれが人
一人分の労働力になっている場合のみ、よって自分のための
24時間専属従者を全員が複数持つというのは不可能事。
もちろん外国人を「彼らは人にあらずよって福祉を受け取る側
ではない」とする事は可能だが。
では何故彼らは全員に行き渡るかのように喧伝していたのか。
彼らにとって正しい事が「自分たちが上に立つ事」だったから。
それこそが正義なのだから他はすべて些事。
人生自体がそうなっていた。
自分たちが上に立てば自動的に解決するはずなぜならそれこそが
正しく現状が間違っているから、というのが彼らの精神構造。
傍から見たら支離滅裂なのだが釣られる人は釣られる。
釣られる人は何故釣られるのか。
釣られる人たちにとっても「より多くを従える」事こそが正しいから。

判断の依存。
ある集団のエリート化希望が成就する事とその周囲のアフリカ化は
同一の現象である。 依存する側とされる側。
実際には依存される側が教科書に依存してたりするわけでそこには
「誰も判断していない」という現象だけが残ったり。

実際の選民はどうか。 選民とは道具なのだと書く。
とある国では大学教授が畑を耕す事を喜んだりしているとか。
その人には自身の判断で事を成す喜びがあるのではと見る。
自分を従える自分。

北朝鮮にとって自身の問題は何か。
部外者の立場から勝手に推測するわけだがそれは宗主国依存の
精神に有る、とする。 事大主義ってヤツだな。
止める事は可能か。
中国が隣国である限りは不可能だ、という見方も出来る。
中国は隣国が敷かれている状態こそが正しいとする。

フランスの人がアルジェリアに行ったのだそうな。
現地の連中、全員ではないとしてもその一部は何故素直に喜べない
のかなーとか思う。
彼らはおもちゃを欲しがっているのかな?
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美女とキャデラック

2012-12-24 20:21:49 | Weblog
大勢の中に復活者が混じっているッ、とか言いたいのではない。
私は見た!、でもない。 これからそういう事が起きたとしても
今起きても奇跡がバレる状況にはならないだろうというだけ。
じゃあ問題は無さそうかというとそうでもなくむしろ大有りで、
下手をすると古代人未開人と同レベルのメンタリティーを持つ
人間が待ちに溢れ出す状況になるわけでありまた当人たちに
とっても住み辛い環境に放り出されたような状態になると。
未開人を現代社会に放り込んだ際に発生する問題に欧州の
ロマ人やアメリカインディアンのアル中なんかがあるわけで。

これまでのシロンボどもなら財務体質改善とスラムの両立から
社会福祉と名のついた乞食エンクロージャー運動に進むのだろう
がそれでいったい誰が幸せになるだと。 日本なら当面山奥に
村でも造ってそこに住んでもらえばいいんじゃないとかいった
話になるのだろうか。 あらかじめ鹿でも増やしておくか?
そうなった時にアラブ社会が、少なくとも直近には問題が発生
しないような構造になっている、というのが今回の発見。
復活準拠なんだな。

大雑把に復活準拠、転生準拠、永遠準拠、新造準拠、こんな
感じに分けられるんじゃないかなと見る次第だがあのへんは
極端に復活準拠になっていると。
何故今までそれ、復活準拠の存在に気づかなかったのかは
欧米キリスト教社会がほとんどそうなっていないから。
社会がそうなっていないという事は神様がそうしていない
という事であり、んー、だったら色々あるのは再生医療とか
そっちの事を指しているのだろう、と思うわけで。
んで、改めて復活準拠で欧米社会を眺めてみると例えば
合衆国の南北対立なんかは復活準拠の側に社会を押しやろうと
する南部の宗教強迫観念イコール天使どもの活動と北部の
方針不一致から来るものか、となったり。
神様云々天使云々が妄想だとすると北部の側に筋がある、
そうなる。

復活準拠的にある事が正しいかどうかはおいておく。
アラブ人は復活準拠的に正しいのか。
部族文化人の復活に準拠するという事を突き詰めると社会が
部族主義に戻る事になる。 部族民である事を常識とし
アイデンティティとする人は部族社会でしか生きられない。
社会が部族社会ではなくなったとしたらどうなるか。
その人はそれにあわせて自分を変える事を選ぶか、社会に
居場所の無い日陰者として長いだけの余生のような人生を
送る事になるか、あるいはなにかと戦って死ぬかである。
復活者が復活し死も変化も選ばない、仮定だ、のならば社会は
彼らを日陰者にするか社会を彼らの社会に戻すかしかなくなる。

さて何度も書いた事をもう一度書く。
現代の状況はいわゆる終末に似ている。
イスラエルが再建されたり海が毒になったり氷河で火山が
吹いたりとか。
たまたま似ているだけとするには続きすぎているよって、
現代は終末であると。 こうなる。
なんでそうなったんだというのを追っていくと陰謀論なんか
ではなくそもそも世界とはそういうものだったんだ、といった
結論に至ると。 こうした検討は各自やってほしい所。

実は結論が逆でもそれはそれで問題が無い。
新たな一致が次々とやってきて信じざるを得ない状況に
追い込まれるか、あるいは何も起きないかのどっちかだ。
言っちゃなんだが「神様が居る」的な話を出されて
「信じてて良かった」が反応じゃあ程度が低いと私は思う。

神様はやる気っぽい。
神様がいて、西側で復活準備業をやっていたっぽく見える。
「やっぱやーめた」ってなったとしても「あーやめたんだ」で
終わりだが。 ではどうするか。

天使たちは復活予定者に使えているっぽい。
天使たちの側が割と正しいのか。
どちらかと言うと、というか、復活準拠的にはそうだ、
となるのだろう。
じゃあ天使たちに問題は無いのか。
正直なところ私は彼らの活動はそのー、なんて言うのかな、
寝ている我が子のために多くを確保しようとする母親の
勝手な行動的なものがあるんじゃないかなーと疑わなくも
なかったりする。

話を飛ばす。
世界の一大転換点はどこかと聞かれたら農耕社会の成立
だろうと答える。 それまで人類の世界はもっぱら狩猟採集
で成り立っていたと。 狩猟採集社会の「良さ」が何で
出来ているかと言うとこれが「森からの持ち帰り」であり
この良さを狩猟採集社会以外で短絡的に実現しようとすると
どうなるかというとこれが賭博になったりすると。
運良く多く入りそれを身内に振舞う。 そうした良さ。
それを求める連中が居てそれを提供する連中が居る。
彼らはともにそこに良さが有ると言う。
まあ有るのだろう、一時的には。
じゃあなんで農耕化なのかと言うと上記の良さは誰にでも
出来る。 その結果、「彼がやらなくても私が良く」から
「彼が居なければ私こそが良い」になる。
容易にそうなる。 村社会ならば例えば村の掟のような
もので縛る事が可能かもしれない。 では村の外では?

こうした狩猟社会の良さに対する考察から「天使たちは
いまだに判っていない」といった結論に至った次第。
狩猟世界における人類のパートナーはなにかというと
これが犬でありこれが今日の、宗教における犬の地位問題
になるのかなとかとも思う。

去年犬に提案した。
二回吠えるのを一回にしろと。
実現したという話はとりあえず耳にしない。
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約束お約束

2012-12-17 12:44:48 | Weblog
予想、大外れ。
ほにゃらら反対とか言ってた軽いミコシ組躍進を見て
shame on whom? とか書こうと思ってたんだけど。
一方の、まあ、最初から今の路線だったら、とも言われて
いたみたいだけれどもそれはそれで、無理だっただろうな
といった感想。

一応書くけど応援団への報復措置とか朝鮮人叩きとか無しな。
まあ判っている人が大半だと思うけど。 戻すまでなら可だが
それもよく吟味してから。

北朝鮮がフィリピンに通達出さなかったとか。
相変わらず「東方礼儀の国」やってんなーといったところ。
国交の有る国に対する非礼をおちょくってるんではなく
中国と仲が悪い国にわざと悪くするのを当たり前とする
朝貢体質の方を言っている。

天使筋から抗議が来た。
天使と言ってもまあなんだ、非常に強い偶然性があり、系統上の
符号が一致したものを筋とかメッセージとかとしているだけだが
曰く、われわれの死生観は仏教のとは違うとの事。
んでもって復活云々が実現した場合に矛盾をきたさないか
どうかをあらためて考えてみたところ、意外とイケるという
結論に至った。 例えばアメリカなどの場合新規移民の中に
復活者が混じっていたとしてもだれもその事を認識できない、
というか、なんか古臭い人だなと思ってもそうだと気付くには
至らないと。 アラブ世界だと「砂漠から来た旅人」とかだな。
なんとなく親近感があってそのまま馴染んじゃう。

天使たちは死者との約束を守ろうとしていると。
DOSプロンプト用画面を保守しているかのような、なんで
こんな事を感は有るがまあ良しとしよう。 そっち系は。
問題は「復讐の約束」みたいなもの。
ほっとくと大々的にやられる。
やつら区別がついてない。
こっちは値切って値切って値切って値切って最小限にして
ちょこっとだけやって「はい約束守った」で済ますのが
当事者双方にとっても最上のはずなのだが。
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