たとえばだ。
近所に住んでいる親子の子供を気に入った人が居たとする。
彼が言う。 今日から私がその子の親になる、と。
これは通用するか。 一般には否だろう。
彼がその子に他の親でも良いではないか、その子の親に
他の子でも良いではないかと言う。
これも通用しない。
その子にとっては父親は父親その人一人であり母親は母親
その人一人だけである。 同様に、子供を何人も享けようとも
親にとってはそれぞれが「一人だけ」の存在である。
これが人間関係における人の価値であり社会のすべての状況に
これが当てはまる。 その人がそこに居てこそ家族であり
その人がそこに居てこその集まりである。
企業についてもそれは言える。 担当が変わればその人こそ、
としていた人たちにとっては別の会社となる。
優劣はどうか。
これは結局ある「その人」と別の「その人」とで一方を選ぶ、
そういうものである。 選ばれた方も「その人」であり
選ばれなかった方もやはり「その人」である。
百人で競えば百の順位があり「百人で競った一位」は百人
それぞれが居ない事には成り立たない。
競争と選択は違うと言われるかもしれないが競争は作られる
ものである。 暗黙なり明文化されるなりのルールがあり
つまりはルールを作る人が「この基準」とし選択とする。
もちろん基準と無関係に一位を見ずに三位を見る、という行為も
当然ある。 それも好き好きである。
基準を作った段階では「その人」は無いな。
それは「どの人でも」だ。 そして基準で決まる。
基準と無関係に選ぶのが「その人こそ」であり基準で決めるのが
「誰でも」か。 結局のところ「誰でも」に人の価値は無い。
「選ぶ」事も無いし「選ばれる」事も無い。
これが途中で変わる事もあるな。
大怪我をしたらその時は「誰でもいいから医者」であり、
次からは「その医者こそ」となる。 もちろん「その医者だけは
嫌だ」になるかもしれないがそれはそれで、「その人」だ。
それはそれでそうでも、害する人は選ばれない。
「その人を選ぶ」で発生するのが「その人に対してどうするか」
である。 その人に対してどうするかを選ぶ、決める事によって
自分が相手にとっての「その人」になる。 一瞬か、続くかは
さておき。 「その人こそ」に「どうするか」を決める、そう
生きてきた人にとって社会は「誰でも」ではなくなりまた
その人も自身が「誰でも」ではない事を知っている状態になる。
逆に言うと「誰でも」を求める人たちとは周囲の人たちという
鏡に映った自身を「価値が無い」としている人たちか。
では生産性とは何か。
これは大雑把には「より多く」である。
一人一人がありその一人一人の先にさらに一人一人を見て
「より多く」となるのか、自分に多くするための「より多く」
なのか。 この違いは質に出る。 「一人に良く」をより多く
ならば一つ一つが良くなければ意味が無いが、ただ自分に多く
でより多くならただ数だけあれば良い。
数が多くより悪く、となっていく人とは近くの一人に価値を見ず
よって近くの一人に見出される事も無い人である、となる。
なるほど。
自分が「多くである」と見せようとする人は実際には自分に
価値が無いと感じている人であり、「良くする事」を選び続けて
こそ自分に価値があると感じる事が出来るになると。
そして利害の無いまったくの他人に良くする事が出来る人が
実際には「価値を多く持つ人」となるのか。
近所に住んでいる親子の子供を気に入った人が居たとする。
彼が言う。 今日から私がその子の親になる、と。
これは通用するか。 一般には否だろう。
彼がその子に他の親でも良いではないか、その子の親に
他の子でも良いではないかと言う。
これも通用しない。
その子にとっては父親は父親その人一人であり母親は母親
その人一人だけである。 同様に、子供を何人も享けようとも
親にとってはそれぞれが「一人だけ」の存在である。
これが人間関係における人の価値であり社会のすべての状況に
これが当てはまる。 その人がそこに居てこそ家族であり
その人がそこに居てこその集まりである。
企業についてもそれは言える。 担当が変わればその人こそ、
としていた人たちにとっては別の会社となる。
優劣はどうか。
これは結局ある「その人」と別の「その人」とで一方を選ぶ、
そういうものである。 選ばれた方も「その人」であり
選ばれなかった方もやはり「その人」である。
百人で競えば百の順位があり「百人で競った一位」は百人
それぞれが居ない事には成り立たない。
競争と選択は違うと言われるかもしれないが競争は作られる
ものである。 暗黙なり明文化されるなりのルールがあり
つまりはルールを作る人が「この基準」とし選択とする。
もちろん基準と無関係に一位を見ずに三位を見る、という行為も
当然ある。 それも好き好きである。
基準を作った段階では「その人」は無いな。
それは「どの人でも」だ。 そして基準で決まる。
基準と無関係に選ぶのが「その人こそ」であり基準で決めるのが
「誰でも」か。 結局のところ「誰でも」に人の価値は無い。
「選ぶ」事も無いし「選ばれる」事も無い。
これが途中で変わる事もあるな。
大怪我をしたらその時は「誰でもいいから医者」であり、
次からは「その医者こそ」となる。 もちろん「その医者だけは
嫌だ」になるかもしれないがそれはそれで、「その人」だ。
それはそれでそうでも、害する人は選ばれない。
「その人を選ぶ」で発生するのが「その人に対してどうするか」
である。 その人に対してどうするかを選ぶ、決める事によって
自分が相手にとっての「その人」になる。 一瞬か、続くかは
さておき。 「その人こそ」に「どうするか」を決める、そう
生きてきた人にとって社会は「誰でも」ではなくなりまた
その人も自身が「誰でも」ではない事を知っている状態になる。
逆に言うと「誰でも」を求める人たちとは周囲の人たちという
鏡に映った自身を「価値が無い」としている人たちか。
では生産性とは何か。
これは大雑把には「より多く」である。
一人一人がありその一人一人の先にさらに一人一人を見て
「より多く」となるのか、自分に多くするための「より多く」
なのか。 この違いは質に出る。 「一人に良く」をより多く
ならば一つ一つが良くなければ意味が無いが、ただ自分に多く
でより多くならただ数だけあれば良い。
数が多くより悪く、となっていく人とは近くの一人に価値を見ず
よって近くの一人に見出される事も無い人である、となる。
なるほど。
自分が「多くである」と見せようとする人は実際には自分に
価値が無いと感じている人であり、「良くする事」を選び続けて
こそ自分に価値があると感じる事が出来るになると。
そして利害の無いまったくの他人に良くする事が出来る人が
実際には「価値を多く持つ人」となるのか。