狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

経済の続きでも書くかー

2013-06-27 10:48:57 | Weblog
さて貨幣の流れとは逆方向の必要性情報の流れになっていてそれさえあれば社会に
貨幣が存在しなくとも社会の状態が経済が機能しているのと同じ状態になる、とした。
貨幣の無い社会と書くと福祉国家主張者だのユートピアンだのと見られそうな気が
するが、人の意思に注目するとなるとこれ各種社会主義政策支持集団と逆になって
いたりする。 人がそこで取る行動は資本主義のそれとまったく同じ。 ただ貨幣
だけが存在しない。 ぶっちゃけ一部の人たちが資本主義下ですでに実践中の状態で
ある。 そこに「政治政策としての社会主義」は無い。 個々にお金を見るか必要性
を見るかの違うだけである。
はっきりと書こう。 自分でやるのが必要性認識の貨幣無き経済で、それを他人に
やらせようとするのが社会主義経済政策。
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結局、うそつきかどうかである

2013-06-27 10:48:11 | Weblog
地球温暖化に関する考察再掲。
エルニーニョ現象が初めて現れたのは何時ごろだったかな、手元に資料が
無い。 18世紀か19世紀だったと以前書いた気がする。
Wikipediaで調べたら古い時代のエルニーニョと出ていた。
1396年
1685-1688年
1789-1793年
1877-1879年

だそうな。
今日の、いわゆる地球温暖化と呼ばれる現象が本格化するのは20世紀からで
あるが、その時点ですでにエルニーニョが始まっている。 これに、最大の
エルニーニョが湾岸戦争の後に起こっている事を併せてみるとエルニーニョ
現象の原因は気温の上昇ではなく海洋汚染では、とした。 1991年の油田
火災と1997年のエルニーニョに関連性があると見るかかどうかだが、海が
吸収する太陽熱の量が増えればそれはそのまま気温の上昇になるわな。

以前からメキシコの麻薬戦争が何時北上するかを注視していたりする。
何故北上するのか、何故北上しないのか。

アフガニスタンの麻薬栽培に対する反応を二通りに見る。 貧乏が悪いんだ
とするものと、麻薬栽培は論外だとするもの。 貧乏が悪いにしても麻薬は
直接は食えない。 食ってカロリーになるわけではない。
百の学問から好きな物を採って良いと言われた時に詭弁術を選んだ連中が
弁護士でありまたその一派であるジャーナリストであると。 彼らがそれを
選んだ理由は何かだが、第一には就職活動上潰しが利くというもので第二が
世間体上正義の味方でカッコよく見えるからだと。
麻薬栽培への反応二通りを弁護士になる理由と重ねてみる。 そうすると、
詭弁術の側が金権栽培へのシンパシーとなる、と解ける。

うそを吐く事で地位を得た人はそれがバレる事をなによりも恐れる人と
なってしまう。 これ動物的反応で避けようがなく、結局そういう人同士で
つるむ事になる。 これがそのままそうした業界の空気となる。 そうした
業界の空気を正とする人たちはモラルの人を嫌う。 彼らは麻薬に騙される
人たちを否とし事実の検証をし、それを騙される人たちに知らせてしまう
から。

従軍慰安婦問題まとめ。
朝鮮半島は元々、親が子を所有する事を是とする地域でありこれが転じて
人身売買となっていた。 日本人がそこを近代化したが、売られた人たちと
売った人たちは残った。 売られた側は売った側を庇わなければならない
何故ならそれが社会のルールだったから、と、そうなっていた。
日本人が彼らに対する経済的救済措置としたものの一つが売春婦に対する
戦地売春の斡旋で、がっぽり稼げれば売った側から離れる事が可能になった。
日本の敗戦によりそれはご破算となり、人身所有を正とする側が権力の座に
戻った。
何故こうした構図が戦後の国際社会で表沙汰にならなかったのかだがこれは
以下と見る。
・多くの日本人が反論していたが打ち消されていた
・アメリカの兵隊が中東やアフリカで死ぬ都合上戦前の日本は悪でなければ
 ならなかった
・事実を言うと白人が逆ギレして嫌がらせしてくるから諦めていた

なんにせよ、弁護士にも少しは正直な人間も居るという事であり、政治家は
こうした問題を語るべきではないと言う人たちは悪質なうそつきだという事
であり。
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「忠の儒教」の足跡に見るマクロ社会的堕天使問題

2013-06-27 10:32:14 | Weblog
さて日本における「忠の儒教」成立は江戸時代である。 大雑把に400年前。
群雄割拠状態が統一され平和になり、それまであった「戦争に強い」美徳が
美徳ではなくなった。 そんな中で導入された「新しい宗教様式」がこれ。
日本単独短期ならこれでめでたしめでたしで話は終わる。

今日の中国を見る。 中国の問題は「中国人の敵は中国人である」という
点が中心となっている。 「中国人の敵は中国人」だから中国から逃げよう
とし、また、中国が強大化すると中国人の敵も強大化し中国が繁栄すると
結局「中国人の敵が繁栄しているだけ」となりそこから「出し抜いて上手く
やる事」こそが正しいとなり、国土崩壊が進む。 そして中国が拡大すると
中国人の逃げ場が逃げ場ではなくなる。 少数民族の迫害問題もこうした
構図の延長上に有ると見る。 まあそれだけを回避する方法も無くはないの
だろうけれども。
何故中国では「中国人の敵は中国人だ」となっているのか。 私はこれを、
身内主義に端を発した現象だと見ている。 身内に多く盛る事が美徳なら
その結果、他人の分を減らす事で吊りあいを取らなければならない必要性が
発生する。 他人の分が多かったら身内に多く盛った事にならない。 多く
盛る事で身内に喜ばれる裏には多く盛らない事が喜ばしくない現実が必要で、
その役割は身内他人という分類上他人が持つ事になる。 単純な話。 中国
の中国的身内主義はどうして発生するのか。 血縁関係至上主義みたいな
ものからだ。 何故そうなっているのか。 儒教だからである。 例えばの
話だが、中国がイスラム化したら中国の身内主義は崩壊するだろうか。 私
は否と見る。 西洋人が「イスラム教徒が問題だ」と言っているからでは
なく、アラブ人たちが相変わらず部族主義をやっているっぽく見えるから。
いつの間にか置き換わっちゃったんじゃないかって話なんだな。

話を忠の儒教に戻す。
現状終末であり中国が竜だとすると忠の儒教は中国人たちのために創られた
ものなのではという仮説が立つ。 そして日本の近代史における各勢力の
言行を見るに、忠の儒教はキチガイサヨクの骨子となってしまっていると。
キチガイサヨクは無神論系であり反逆筋である。 何故こうなったのか。

忠の儒教の足跡。
幕末にあってそれはもっぱら会津に在った。 それがそのまま「朝敵」の
地位となり会庄同盟となり、北海道、東北、満州の三派に分かれてそして、
満州事変となった。 満州国は戦後に中華ソビエトとなりそれが中国を征服
した。 日本に帰ってきた満州国一派は日本でそのまま冷戦の憎悪となった。

こうした忠の儒教の歴史を、忠の儒教イコール天使として読み解くと、それ
は元々は中国を刷新する要素として新規創造されたモノだったが最初から
無理があったのだろう「通らない」事が判明し役を解かれる。 解かれた後
も何故か役だけがふらふらと彷徨っているのが現状と。 そのまま博物館
入りでもしてれば良かったんじゃないのかというのが私見であり、また現状
への提案でもあったりするのだが。

「忠の儒教」抹殺用に創られたモノが「国家神道」の宗教強迫観念。
両者は対なんだな。 対の両者の正邪それそのものも予定のうちだとする
見方もあるだろうけれども今のところ私はそれが結論だとはしていない。
そうだとすると神様は駄人嫌いの天使嫌いだという結論が出てきてしまう。
堕天使、悪魔、邪神。 哲学者にとっての悪妻みたいな面もある。
そもそもそれが目的なのだとすると話は通るが、なんとも。
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人が生き続けない理由ってなんぞ

2013-06-19 11:04:37 | Weblog
近況報告。 先日ちょいと暴発があった。 少し前に天使筋から退避勧告が
あった。 現状勧告無視状態なのかと言うとまあそうなるのだが、さてどう
したものか。 天使筋自体をどう見るかで考え中でもある。

人は何故死ぬのか。 神様が居るのに何故死ななければならないのか、だが、
これの答えをアル中と中国人に見る。 前者は個人的、後者は社会的な理由。
人の多くは歳を取ると精神がアル中様になる。 人を構成している意思が
意思に対して攻撃的になり自壊が進む。
他にはボケもあるわな。 変化していく世界に対し精神が固定的、日敵的に
なった結果、人を構成している意思が遊離していく。
だったらアル中でもボケでもない人は死ななくてもいいんじゃね?って話に
なってくる。 そうかもしれない。 そんなこんなでそちらは「種」なん
じゃないかと見ている。

中国。 現在そこで何が起きているかだが、経済発展がそのまま国土崩壊に
なっていて、外交活動が露な物欲と支配欲で出来ていると。 中国が問題で
ある理由は中国が外国を侵略する点でもなく中国が侵略する事で中国内少数
民族となった人たちが迫害される事でもなくまた中国が侵略される事でも
ない。 それらは他の地域にも共通している。 「中国が問題だ」とする
理由にはならない。 中国の問題は中国歴史文化が「侵略を正」としている
点にあり、現在中国にある問題視すべき現象最大のものは中国人が中国人を
侵略している事だ。 戦争や迫害、あるいは後進国からの破壊的詐取は中国
でのそうした一般社会現象の周辺部でしかない。
君子が人民の意思を奪う、これを正とするのが中国。
意思を奪う人の精神がそのうちどうなるかは歴代の皇帝の最後でも見れば
いいのかな。
人は意思の束であるが外部に対して意思の奪い合いをするのが旧来の社会。
よって人は死ぬ定めにあった。

ちょっと哲学っぽい方向に行ってみる。
人の自由意志ってなんぼ。
ある状態で、行動の選択肢が四つあったとする。
例えばこんな。
・殴る
・騙す
・泣く
・逃げる

大勢の人がその状態にあって全員がランダムに選ぶとするとそれぞれ大体
四分の一ずつになる。 これが自由。

次にまた同じような行動選択があったとする。 前回「殴る」を選んだ人は
また同じように「殴る」を選ぶとする。 次もまたそれを選ぶ。 ある時
選んだ選択肢が、その後その人が選ぶ選択肢となると。 これが個性。
「ランダムに選ぶのを続ける」もまた個性か。

同じ「泣く」でも周囲に人が居る状況とそうではない状況とでは結果が
違っていたとする。 周囲に人が居る場合は「泣く」が有効だと記憶する、
これが学習。

周囲の利用を積極的に行うのが知恵だな。

まとめて書くと、人は自由に選ぶがそこには個性があり、結果に応じて
学習し知恵を身に付ける能力が有る、となる。
人が知恵を身に付ける、これなにげに「自分のために他人に殴らせる人」の
完成である。

「殴る人」同士の争い以上にたちが悪いのが「殴らせる人」の争いである。
これが欧米では弾圧的とされる中国の内政に安定を求める理由であり世界の
各地で米兵が死に続ける理由でもある、としている。

さて人の死の話に戻る。
アル中による死は一種の自殺だな。 現状否認から自壊傾向を強めていき
そうなるのだから結局まあ、そのようなものなのだと。
ここで主観、共感、客観の社会認識三分類を持ってきて当てはめる。
アル中死を主観崩壊の死と置く。 するとボケによる死は共感崩壊となる。
では中国状態は残りの一つ、客観崩壊が当てはまる事になる。 宗教的表現
を用いるなら社会の無明化だな。 一般に事故や殺人事件は社会の局所的な
これで起こる。 中国は無明社会なのか。 是とする。 されならば「中国
の内政安定化は無明社会のままの固定化になるのではないか」と問われる
だろうか。 これに対して私は「中国人に対し中国に取って代わろうとする
近代西洋もまた無明社会である」としていると。

さて人が死ぬ直接の理由で最も多いのは病死のはずだわな。 これの多くは
主観崩壊でも共感崩壊でも客観崩壊でもない。 これらは人が生き続けた先
に訪れる精神の死であると。 一般的な人の状態を「人足らず」だとした。
機械で言う所の不良品、部品が足りていない状態なのだと。 同時に摂り
込み過ぎも有るのかな。 旧来人の多くは崩壊死を迎える前に死んでいた。
それだけの事か。
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無かった奴隷戦争と道東戦争、在った朝鮮戦争とベトナム戦争

2013-06-15 22:37:35 | Weblog
アメリカ南北戦争に南軍が勝ち、その後に奴隷たちによる戦争が起きた
と想定しそれが奴隷戦争と称されたする。 さて奴隷戦争前は奴隷たち
はどのような状態にあったかだが、これを「白人女性を見てはいけない」
「道で会ったら脇に避けて目を伏せていなければならない」という当時
の黒人タブーがそれを現しているとすると。 日本の江戸時代の大名
行列が通る間平民は頭を下げていなければならないとする身分制度と
性タブーとが合さったものだったと見る。 いやそうじゃないと言われ
るかもしれないが、とりあえずこのまま話を進める。 ぶっちゃけ白人
と黒人の関係は、黒人たちが黒人州を獲得した後はインドネシアの歴史
みたいになったんじゃないかと見てるんだな。 
インドネシアとオランダとの関係、インドネシア人とオランダ人とが
社会通念上対等になったのはどの時点からだったのか。 これはよく
わからん。 多分インド独立と前後したあたりだったんじゃないかと
見ると。 では19世紀のアメリカで黒人と白人と対等な関係が成立
し得ただろうか。 これはまったく有りえないとは言い切れない。

戦前のどっか、アイヌ人が赤化しソ連を引っ張り込もうとして蜂起する、
そんな騒乱を道東戦争としてみる。 その結果がどうなるかだが、呼応
した一部の日本人もろとも掃討されておしまいと。 それでその後の
歴史がどう変わったかだがおそらく日本人の間で日本に居る少数民族
ないし外国人に対する嫌悪感が強まり、またアカに対する民間でのそれ
もより根拠のあるものとなっていたと見ると。 こちらはそんなに差は
無いのかな。

朝鮮戦争。 これが無かったと仮定するとどうなるか。 おそらく南側
で共産主義圏に対し強い嫌悪を持つ人たちが今よりもずっと少なく、
北側では自分たちの統一を考慮しない事から国家の目標みたいなものが
より中国に近いのもになっていたのではと見る。 早い話、南北双方で
それぞれ中国との文化的心情的一体化が進み経済的には中国圏の辺縁に
組み込まれるような傾向が進んでいたのではないだろうかと。

さてベトナム戦争が無かったらベトナムはどのような国になっていた
だろうか。 腐敗した南と硬直した北、わりとどうでもいいような国に
なっていたかもしれない。 アメリカが介入しなかった場合はすんなり
統一出来たか、統一後に内戦が頻発するような国になっていなかったか、
を問いにした方が考えやすいか。

さて奴隷戦争に戻ってみる。 すんなり行っていたなら今日黒人州で
黒人のガイドが「ここがナントカ将軍が居た場所ですここであった戦い
は我々の誇りとなっています」なんて判りやすい事になっていた可能性
もあると。 南部白人の悪事のみが大々的に報じられている公民権運動
などよりかは相互承認が進みやすかったかもしれない。 一方で、暗殺
合戦みたいな形で泥沼化していたら今よりも根の深い歴史問題となって
いただろうと。
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アメリカ四ツ首案(没案)

2013-06-14 14:18:20 | Weblog
中国に対する日本人のそれが判りにくいみたいな話を見た。
私の考える中国の、直近のあるべき姿は
・繁栄:崩壊
・外交:破綻
・内政:安定

こうなる。
そして欧米人の求めているそれはちょうど逆になっていると見ている。

さてアメリカが四ツ首だった歴史も在り得たと書いた。
これを突き詰めてみると面白い。 地政学、歴史条件上むしろこちらの
方がより自然に思える。 色で書くと現状アメリカが白で欧州が黒だが
アメリカが黒、裏社会や肌の色といった意味での黒ではなく伝統文化を
解釈する上での分類、諸派連合色が強く欧州が白、統一され唯一の超
大国として君臨する状態、の方が「合っている」のではないかと。

黒のアメリカの歴史はどのよなものになっていただろうか。
簡単なのは南北戦争で南側が勝ち、その後「奴隷戦争」とでもしたもの
か、のような混乱期を経てアメリカ黒人たちの地位が、現在の政治的
マイノリティ分類ではなく農業から教育から司法まで黒人のみでの基盤
をアメリカの一部に持つようになってた、そんな感じのものと。
これを天使論に当てはめるとアメリカには白派天使と黒派天使とが居て
対立状態に在る、となる。 こうすると私が黒派に非常に同情的で
そして白派を、ある種の駄目な連中としているという構図が、現在の
色々書いているものの解釈となっていると。

白派がどこから来たのかだがこれはもっぱら欧州から、となる。
19世紀までに創造されたものの多くが「欧州白派」を基準として出来て
居るように見受けられる。 私の初期配置もそうなっていた。
歴史を遡ればナポレオン氏が欧州白派筆頭で、そこから例えば信長氏、
豊臣氏、家康氏のようなパターンを経て統一へと到ったはずだと。
とするとヒトラー氏は欧州白派の残存勢力だわな。 だから持っていた
「預かりもの」が古かったのだと。
では何故欧州は「そう」ではなくなったのか。
まああそこなんだろうなと見る。 わたしがあそこの国を嫌っているの
とアメリカ黒派に同情的なのはセットなんだな、となる。
アメリカ黒派と日本のキチガイサヨクに対する感情の違いはおそらく
恭順姿勢の差なのではと。
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ため息をつく

2013-06-14 13:58:47 | Weblog
色々と動いている。 「天使たちが猛っている」とでもする所か。
天使たちにしてみれば邪神たちと刺し違えて新しい世界が出来るのなら上々
と言った所なのだろうし、邪神たちにしてみれば天使たちが血塗れになって
自分たちのところまで堕ちてくるのは願ったり叶ったりだろう。 結果戦後
の世界は二分される。 新しい世界と旧来の世界。 旧来の世界の続きは
どういったものになるかだが、私はこれを家の外にスポーツカーがあり家の
中にドレスがある、家の外に出ると詐取と裏切りを警戒せねばならず備えて
も結局奪われ、家の中には互いの不和と二心と嘲笑がある、そんな世界だ
とする。 これまでとの差はそこに居た「モラルの人たち」は居なくなる事。
それが最大、というかある意味唯一の違いであろうが、スポーツカーを誇る
人たちはそれに、そうした違いが発生した事に気付かないだろう。

天使筋と旧神筋とは憎み合っている。 至極単純な事実。
結果は両方堕ちる。 「私たちは違う」と言うモノたちが居ても「かつては
そうだったのだろう」と言われておしまい。

キリスト教徒はユダヤ教徒にに対し「我々こそが新であり彼らは旧である」
と言う。 イスラム教徒はキリスト教徒に対し「我々こそが新である」と
言いキリスト教徒はそれに「我々こそが真であり彼らは偽である」と言う。
プロテスタントはイスラム教徒に対し「我々こそが新である」と言うと。
リベラル教徒が一神教徒を嘲笑するが私が彼らを嘲笑する。 私一人。

さてどうしたもんかと考える。 今何を書くか、だが、やっぱ経済だろうな。
前回、クエーカー教徒の村と書いた。 行った事が無いので空想上の存在で
しかないと言われても反論は出来ない。 またクエーカー教徒だけでお金の
無い経済のようなシステムが成立しえたとしてもそれは狂信者たちだけの
特異な閉鎖社会、ミクロな社会の内部でしか成立し得ない現象だと言われる
かもしれない。
ここで紹介するのが江戸っ子である。
江戸っ子は宵越しの金は持たないと言われていた。 その日稼いだ金はその
日の内に使い切ってしまうのが良いのだと言われていた。 ファッション
スタイルの一種ではある。 だがそれ、そうした生活はそこでは成立し得た。
直近に入用な物が無ければ隣人に借り、困った時は隣人たちの手を借りた。
江戸は四半千年続いた百万都市である。 これはマクロな経済圏と言っても
良い規模だろう。 貨幣以外による擬似経済はそこでは成立した。
さてそれは在った。 国の経済全体からすれば部分的にではあるが、存在
し得た。 これに対しては「今更江戸時代には戻れない」「現代社会は複雑
すぎて貨幣無しなんて考えられない」と言う人も多いだろうと見る。 これ
に対して私は、災害時の日本人の行動を挙げる。 彼らはお金ではなく動く。
彼らは皆現代人であり現代社会の延長上に災害時の行動原理を持っている。
こうした現象は別に日本だけに在るわけではないと見る。
ただし現状、世界は「そう在るべく」なっていない。 逆に、「金である」
「欲である」べくなっている。 まったく、どうしたもんかである。
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書きたいから書く

2013-06-12 12:07:07 | Weblog
いや占領するのなら是、とも出来るんだよ。
それが責任であり、責任者たちも現地人と同様にクソを見る。
だからイラクを占領した米軍に自衛隊が参加するってのは判断として
見る事が出来るんだけど占領する気が無い、なんらかの形で責任を取る
気が無いのに暴れている連中を支持している連中に加わるとかありえない。
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経済論と邪神論をそれぞれ

2013-06-12 11:55:48 | Weblog
経済論
経済に対する見方に、ある日突然貨幣が消滅する、というものを挙げる。
ある経済圏で貨幣が消滅するが、そこに居る人たちは引き続きそれまでの
社会活動を継続する。 大工は家を建てる、農家は畑を耕し作物を収穫
し続ける。 鉄道マンは電車を走らせ続ける。 それぞれそれらの「生業」
が終わったら家に帰るなり町で夕飯を摂るなりする。 そこにお金のやり
取は無い。 それだけが無くなった。 主婦はスーパーから野菜を買って
来る代わりに取って来るようになると。 実は短期的には何も変わらない。
長期的にはどうか。 その差が「情報の流れ」である。 それぞれの人が
圏全域の必要性を見、個々に求められる必要性に応じて動く分には貨幣
経済というシステムの必要性は無かったりする。 貨幣経済とはつまり、
個々の人が他人の必要性を見ずに欲で動く、さらには自身の必要性を認識
せず欲に任せて動く、そういうシステムなのである。
人々が欲に任せて動くのではない、そういうシステムは成立し得ないと
言う人も居るだろう。 人間的ではないと。 他方、クエーカー教徒の村
なんかで成立しているものがある。 私はそれがそうなのでは、と見る。

さて邪神論。
邪神は抽象的な概念だと書いた。 人間ってのも抽象的な概念なんだな。
細胞の集まりであり遺伝子が継続再生産されるシステムであり、社会的に
は個々に意思があるとされるものだと。 まったくばらばらな概念である
それらをまとめて人、人間などと呼んでいると。 極端な例だと自分が人
であるというのと隣の人が人であるというのはまったく別の認識で出来て
いたりする。
人の意識は意思の束である。 これこの文章、哲学の分野だわな。 この
「意思」を「霊」に置き換えると途端に宗教臭くなる。 私の説が一般化
してくると悪徳宗教や商法に利用されるようになるんじゃないかと不安に
思わなくもない。
邪神現象、活動かな?のミクロな例として紹介出来そうな、おもしろい話
を拾った。 セクハラジジイの当て馬効果である。 職場などで脂下がっ
たおっさんが女の社員などに性的ハラスメントをすると。 それによって
女が「女」を意識するようになり何やら社内恋愛などが発展するのだそう
な。 この手のおっさんのそれ、まさに邪神の活動である。
今の日本人にとって判りやすそうなマクロな例は沖縄のキチガイサヨク
たちだろう。 私はあれを島流しと呼んでいる。 では沖縄人たちは本土
の邪神を押し付けられた、現状被害者相当の人たちなのか。 ある意味是
だが「自分たちで引き寄せた」という見方も併記する方がより正確だろう。
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安倍首相へ

2013-06-12 09:40:14 | Weblog
政治家引退してください。
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