スパゲッティについて

2010-02-16 10:20:22 | Weblog
茹で炒め
皿に長々
芳ばしく
乾くと絡み
一塊りに

彼らは「スパゲッティ」と呼んでも良いではないかと言う。
ならば私が彼らを「淫婦の僕」と呼ぶのを止めさせる理を彼らは持たないわけだ。
実はおもしろがっているのではないかとも疑ってたりもするのだが。

このように始めてみたが今回のテーマは宗教問題ではなくパスタの方の話。
イタリア人のパスタやピッツァに対する言行を端から見るに、
彼らはチーズを主役として食べているように思える。
だが日本人にはチーズの味が判らないわけだ。
ここで言う判らないというのは判る人があるチーズを食べた時
その中に十種類の味を認識する所を判らない人が食べた時ハッキリと
識別出来るのが三、四種、判別出来なくとも存在していることを感じるのが
三、四種、残りの数種類については有っても無くても判らない、そういう状態と。

チーズの判らない日本人にスパゲッティが広まった結果何が起きたか。
和風スパゲッティの誕生である。
タラコをかけてみた。 鰹節をかけてみた。 納豆を合わせてみた。
醤油味にした。 ジャコの乾物を合わせてみた。 スープに入れてみた。
チーズはにおいのアクセントを楽しむ物と割り切ることにした。
カルボナーラは食感を楽しむ方向に変化した。

チーズについては相変わらずの味覚音痴である。
スパゲッティは日本中に広まったがそこはあまり変化していない。
だがその結果、レシピが増えた。
私はここに豊かさを見る。
味覚の欠落、「無い」「少ない」という多様性が新しい領域を作った。

無いという形で人と違うことを嘆く人達がいる。
彼らを私は貧しいと見る。
彼らが持っていないから貧しいと見なすのではない。
人と同じであろうとするその精神を貧しいと見るのだ。
彼らが何かを新しくすることは無いだろう。

寿司の新しいスタイルがカリフォルニアなどから始まった。
西洋人は魚の味が判らないのだと思う。
一般に日本人はイタリア食文化への敬意を時々思い起こすわけだが
彼らはどうだろう?

「弱者の兵法」だそうな。
http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20100214-OYT1T00908.htm
日本野球史上有数の強者がそれを獲得した。
そしてそれが、社会に伝えられている。

さて問題。
武器をもって友好を示す方法もある。
それはなんでしょう?
コメント
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