government

2011-04-30 19:36:19 | Weblog
なんでも数年前日本共産党が自由民主党に対してこのカーブは危険だ、
車が突き抜けて崖から落ちかねないので手を打てと言ったとか。
自民党を嫌う人たちが最近これを指摘している。
当時の自民党は、ドライバーがブレーキを踏むからそうはならない
との判断だろうこれといったに改善措置は取らなかった。
落ちないためにブレーキを掛ける、運転するとはそういう事だと。

何故共産党は政権与党が替わった時に再度提案しなかったのか。
こう考えると共産党の動きは変に見える。
最初のそれが措置を取る事が国民のためだと思ってのことなら
そうしたはずだ。
国民のための行動ではなく単なる粗探しだった、そう取れる。
つまり彼らは自民党を嫌っていただけ。
国民なんて見ちゃいなかった。
ただ批判するだけの人たちが「批判専門」と揶揄されたりする。
共産党が与党になったとしたら善政を敷くだろうか。

リンカーン氏のgovernmentの文を連立方程式のように解くと、
people for peopleといった文を出すことが可能。
当然government、国家政府の範囲内でとなる。
governmentをより広くpolitical effortとして間に入れると
people's political effort for peopleとなる。
選挙で問われるのは政策などで現されるpolitical willだろう、
そして実際にはpoliticianが選ばれたのだ、とされる。
選ばれし代行者。

リンカーン氏の文のgovernmentをpeopleとイコールとすると
government for governmentといった文を出すことも可能だろう。
そういった政治をする人たちは権力を振るいながら「私が人民だ」
などと言うものではと思われる。

people for governmentとも出来る。
税金の事だろう。
I'm working for people there fore people should work for me.
公務員たちは人民のために存在している、だから彼らには
社会福祉を受け取る権利がある。 社会主義国家。
大量のパンを用意するのはそう難しい事では無いだろう、
名目上パンであるならなんでも良い、とされるのなら。
同じパンでも焼きたてから古くなってカビの生えたパンまで
色々ある。 最初に取る人はまず後者を取らない。
ではどうするか。
上等なパンを用意するべきか。
正当な社会福祉とされるものが到底全員に行き渡らないような
高額なものだったとしたら?
権利者の権利が優先されるだろう、なんと言ってもそれが人権だ。
受け取る権利を持つとされる少数が福祉の水準を決める。

私たちは弱者に対し理解がある、と言う人たちがいる。
そういう人たちほど自分たちを理解しないのは無理解だと言う。
自分たちは他人を理解するためにこんなにも努力してきた、
理解されないのは他人がそれをやっていないからだと。
理解しない人たちを悪とする人たち。
ひょっとすると彼らは不理解を知らないのではなく、
目をそむけて生きているだけなのかもしれない。

私は日本共産党を高く評価している。
なんせ批判が上手い、そして彼らは野党だ。
野党で有る事が彼らの正しさだとするなら私は私が貧乏である事を
幸いとするべきなのだろう、サの付く人たちにしてみれば私こそが
彼らを嫌う人なのだから。
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不理解

2011-04-28 08:33:36 | Weblog
なるほどブッシュ氏が民主主義を無条件で良いものとした背景は
ブッシュ氏にとって奉仕の精神、隣人愛の精神は人にあって
当たり前のものだったからか。
そしてアメリカでは、そういう人が憎まれるようになる。
合衆国を機能不全に陥らせる人だとされる。
私はこれまで彼をリトマス紙としてきた。
彼を悪魔と呼ぶ人たち。
そういう人たちにとって、民主主義とはそういうものなのだろう。
言葉の意味を規定する学者たちがそう言っているということは
民主主義とキリスト教精神、日本において国民国家の精神は、
別物なのだと考える方が正しいのだろう。
アメリカはこれまで民主主義だけを輸出してきたと。
そしてそこには宗教を悪とするものが添えられていた。

イスラム教の精神を解説した本を手に取った。
征服された、貶められたと延々と書いてあった。
ブッシュ氏を非難するものが書かれていたので本を閉じた。

パレスチナ問題とかなんとかの表題が付いた本を手に取った。
リベラル派の取り組みを称えており、やはりブッシュ氏を
批判していた。
先のイスラム教の本で西洋人の一方的な見方とされる内容だった。
とりあえずは読んだが、年表を取る以外に使い道は無いだろう。

古代日本におけるキリスト教に関して書かれた本を読んだ。
殺された、殺されたと書いてあるのでページを飛ばす。
やはり殺された、殺されたと書いてある。
殺されても殺さない、それを大事にするとは書かれていない。
少なくとも読んだ箇所には。
イスラム教徒の骨を教会の入り口に埋め
毎日踏みつけにしている事を嬉々と語る神父の話を思い出した。
これも駄目だ。

前に家族語は不理解を学ぶために必要と書いた。
父親と母親は同性と異性、同質と異質に対応している。
片親だったとしても問題は無い。
社会に出ればより大きな不理解が待っている。
不理解を基に優等生とは何かを考える。
そうすると、それを学ぶ機会に乏しかった人たちだ、となる。

東大、東京大学は日本では特別な大学だとされている。
東大生が千人いたとする。
そのうち独自に考える賢い人が十人だとする。
百人に一人。
院生や教授の中にそういう人が多いとしても数十人に一人か。
学部単位で集まるとそういう人が目に付くようになる。
これも不理解。
教室や研究室で分かれたとする。
二十人か、五十人か。
そういう人が常時いる小社会と、いない小社会とに分かれる。
これもまた不理解。
テストが上手かっただけの変人もいるだろう。
これもまた不理解として機能する。
東大の中では。

東大以外ではこれが起きない。 優等生しか居ないから。
優等生以外居ないのが当たり前、という理解で統一される。
ここでも不理解を学ぶ機会が無い。
マルチリンガルになってもバイカルチャーになっても
これは解決しない。
そうなろうとする努力自体が言語理解で統一された価値観によるもの。
統一された価値観をモノロジカルとでもしておくか。
まさに「空気読め」だ。

リベラル派は保守派を非難する。
不理解を前提に理解の範囲で生活している人たちが保守派なのだろう。
ブッシュ氏が批判されたのはかれが理解の人だったからか。
否だろう。
彼は当初、かかわらないのが正しいとしていたはず。
ではその時かかわるのが正しいとする人たちは、どこに居たか。
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反面教師

2011-04-28 08:32:28 | Weblog
アフリカでは人権となったマルクス教は東ユーラシアにおいては
まったくのゴミだった、としか言いようがなかった。
まともな人たちが殺され、騙す殺すが上手かった人たちが君臨した。

半周遅れの意味を書く。 今更だが。
自分たちに何が出来るかを知るのが半周、その知った事を周囲と、
それ以上に自分たちに対して表すことが出来るようになるのが
残りの半周。

これまで前世紀、日本人が戦争に走った原因は大正デモクラシーに
あったのではと疑っていた。
欧米文化と貴族主義の関係から明治の日本が国民国家たりえたのは
不平士族の存在が大きかったとの結論に至った。
そして彼らが去った後何が維新だったのかという観点を失い、
日本は西洋化した。 それが大正時代。
幕府側人士の方が民主的だったという論がある。
ここに至ってなるほどと思う。
腐臭を放つそれが無くなった時日本人はバラの香る同じ物を輸入し、
そしてそれが崇められるようになったのだと。

民主主義と言う。
人民が主。
明治の日本は国民国家であったが民主主義国家ではなかった。
アメリカ合衆国は民主主義国家ではあるが国民国家ではない。
どうやら民主主義と国民国家とは別物であるのようだ。
ドイツは国民国家か。 国民国家だ。
ロシアは国民国家か。 おそらくは国民国家だ。
フランスは国民国家か。 国民国家だろう。
イタリアは国民国家か。 是、とも否、とも言える。
イギリスは国民国家か。 多分違う。
ソ連内のロシアは国民国家だったか。 国民国家だった。
中華人民共和国は国民国家か。 否、漢民族の氏族集合だ。

何度か国籍とは責任であると書いている。
すべての国民がすべての国民に対する責任を負う。
オールサーバント。
何故国家なのか、何故地球の裏側では駄目なのかと問われたら
私はスープの腐らない距離と書く。
地球の裏側と言う人たちはつまりはスープを腐らせる人たちであり、
腐ったスープを配る人たちであると。

私は「おしん」を見た事がない。
そんな私が「おしん」が団塊世代に与えた影響はこうだったのでは
と推測してみる。
一部がそれを下の立場の者の話とした。
が、団塊世代の大半は自分たちをおしんだとした。
自分たちは被害者だった、自分たちこそが被害者だったのだ、
だから自分たちこそが多く与えられるべきだと。
これが、年下の者たちに並ぶ機会に先立ってあった。
これが私がエゲツナイと書いたことの一面。
えげつなく扱われたのは彼らの下の世代ではない。
団塊世代自身である。
国民国家はかれらには与えられなかった。

つまり国民国家は制度ではない。
では国民国家に今日これが民主主義だとされる政治制度は必要か。
選挙で選ばれた政治家が国民に仕える。
選挙で選ばれた政治家に役人が仕える。
役人とはどういった存在だったかを考えるに、確かに有効だ。
だが非民主的とされた国や時代が国民国家だった例が多数ある。
必須ではないのだろう。
逆に見ると民主主義とは強制力でもって擬似的に
国民国家状態を実現しようとする試みだった、とも。
そして国民が、自分たちが奉仕される存在だと認識した時に
オールサーバント、国民の精神は死ぬ。

なるほど政治エゴを煽る人たちがレフトエンドなわけだ。
そうして生きてきた彼らにははやく死んでほしいとも思う。
彼ら自身のためにも。
と同時に、これからも長生きして欲しいと思う。
彼ら以外の人たちのために。
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専業義賊

2011-04-22 10:27:14 | Weblog
10km歩いて実家に行った。
体重計に乗ったら前からさらに3kgほど減っていた。
一週間に1kgのペースだろうか。
食料をもらった。 また歩いて持って帰った。
帰って中を見たらハムが入っていた。
豚肉である。
食べるかどうか思案中。
中国が良くなるのなら食べても問題は無いはず。
現時点でははっきりとそうだとは言えないので駄目だろう。

さて、金持ちからお金を盗んで貧乏人に分ける人を
世間では義賊と言ったりする。 
金は出せるところから取れと言う。 任侠の徒。

あるところに貧しい村があったとする。
その村に病気の子供が居たと。
薬が買えないので付近の通行者に援助をしてもらう事にした。
村の近くを通る人は少なく、その中に大金を渡す人も
居なかったので子供は死んでしまった。

あるところに貧しい村があったとする。
その村に病気の子供が居たと。
薬が買えないので付近の通行者から通行料を徴収する事にした。
村の近くを通る人は少なかったので、大きな街道でやった。
しばらくすると十分なお金が徴収できたので、子供は助かった。

あるところに貧しい村があったとする。
その村に病気の子供が居たと。
薬が買えないので通行者から通行料を徴収する事にした。
近くに大きな街道が無かったので、遠くまで行く事にした。
遠征には水や食料などが不可欠である。
ところが貧しい村ではこれが捻出出来ない。
そこで徴収する通行料にこれも含める事にした。
しばらくすると十分なお金が徴収できたので、子供も助かり
遠征者の食費も捻出できた。

あるところに貧しい村があったとする。
その村に病気の子供が居たと。
薬が買えないので通行者から通行料を徴収する事にした。
遠征して徴収した。
しばらくすると十分なお金が徴収できたので帰途についたところ、
別の集団にお金をすべて徴収されてしまった。
再度遠征し徴収しなおしてから村に帰ったところ
病気の子供は死んでしまっていた。

病気の子供のに薬を買うためにはお金が居る。
ではこういう解決方法はどうだろう。
薬を薬屋から盗む。
これで世の中上手く行くのならこれが最良の義賊だろう。

ボンネットのへこんだ車がレッカー車に引かれていくのを見た。
そのすぐ近くで警察が現場検証をしていた。
どうやらガードレールに突っ込んだらしい。
曲がってせり上がったガードレールの先と車のものだろうが
なんだかよくわからない地面の跡と破片、それと衝突の衝撃で
移動したのだろうコンクリートブロック。
運転手が無事だったかどうかは不明。
血臭は無かったので多分無事なのだろう。
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社会主義云々

2011-04-21 12:41:44 | Weblog
首都の空に花火を上げたとする。 新作の。
一千万人が見ただろうと言って一人当たり千円を要求すると。
サングラスを掛けた知事がショットガンを持って出てきて
それは通らないぜと言えば十円に、十銭になったりする。
頭にサの付く人たちがタカ派を嫌う理由の一つをそこに見る。
通ってしまったらそれはサの付く人たちにとって既得権となる。
彼らの社会において既得権は保証されるべきもの。
よって既得権化し固定化したサの付く人たちは社会においてもっとも
資本主義的な出自を持ちながら社会主義的政策を主張するようになる。
その方が得だから。

保障の金額を上げろと言う。
だが経済活動の平均を取ると一人が一人を雇う形になる。
保障を上げろが目指していることは一人毎月一人月以上の
収入を得ることだろう。 主張はそうだ。
全員に毎月二人月分のお金を出したらどうなるか。

ベーシックインカム制度はハイパーインフレとなる。
収入があって労働が無いのだから当然そうなる。
公務員の給与がそうなると公務員が関与する部分以外の経済は
外貨か物々交換で回る事になる。
無理やり物価を固定化すると今度は物が無くなる。
物を作る人が居なくなるのだから当然だ。
ところがサの付く人たちはこれに気づかない。
何故なら彼らは同じ物を何人にでも売る事が出来る、
そういう常識の下で生きているから。
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結婚云々

2011-04-20 05:47:55 | Weblog
がんばれ町の仲間たち、という文がある。
騒音を撒き散らし暴走運転をする人が暴走の結果を見たときに
それが単独であることを喜び電柱や街路樹、ガードレールなどを
称える文だ。
暴走車の結末は単独か、あるいは他人を巻き込むかだ。
そしてそれらのいずれかが確定するまで地域社会に不安と騒音を
撒き続ける。
それらが無くなり隣人に安眠がもたらされた事を喜ぶ人たち。
正しい行いが正しいとされる世界に不満人の救いは無い。

名誉の殺人の理由が見せしめだとすると、西ユーラシアでは
結婚が内部統制の道具にされているということになる。
家長、族長たちが兵隊である男に結婚の許可を出す。
地域社会上層部の認可が無いと男はセックスできない。
そしてその体制を改正するはずだったイスラム教は大昔に敗北し
現在ではそれを黙認するという形で従属化してしまっていると。
何故内部統制が維持されているかというと治安が悪いからと。
つまり治安が良くなればそれが無くなるかは定かではないが
治安が良くならない限りは無くす余地は無い、となる。
少なくとも治安を維持している族長側は必要だと信じていると。

女性は保証されることを目指す。
いわゆる女性の解放が進んだとされている北欧などでも
就職先が公務員に偏っているという話を目にするとそう思う。
逆に見ると男性が民間に偏っているわけで、これを
男性は供給をする側を目指すと書くことも出来る。
自分で事業運営をしている女性はこれに文句を言ってもいいと思う。
が、この傾向が女性に多いという前提で続ける。

結婚は生涯保証制度である。
生活保護。
歴史的にそうなっていた。
子供を生まないといずれ保護の担い手がいなくなるから
という理由が裏にあるのだろう結婚した女性は出産が奨励された。
多くの社会では結婚は親族間での所属異動という意味を伴った。
理由は子供の所属であり、母親と子供は不可分とされたからだろう。
夫を亡くした未亡人は子供と同じように親族が保護した。
ケチな親族も少なくはなかったのだろうけれど。
結婚しないつまり次の担い手を作ることに貢献しない女性は
親族社会からは不良債権として扱われた。
結婚を目指す。 それが当人にとっても最良だとされた。
結婚が平均的最良であるかどうかは未だに不明だが
とりあえずはそうだとされていたと。
そうでなければ社会が維持できないという理由があり、
まあそれなりに合理的だった。

結婚に至る道には幅がある。
今日見るその幅の一方をナンパ、もう一方を政略結婚とする。
ナンパ婚で男性側のみに主導権があるものが強姦婚。
ナンパセックスと強姦セックスの違いは合意の有無で、
元々合意があってもその後の保証が少なかったからか
合意が無かったことに差し替えられたりする事例もあるとか。
合意がありナンパだとナンパ婚、合意が無いと強姦婚、
合意がありお見合いだとお見合い婚、合意が無いと政略婚。
欧米社会はナンパ婚至上主義社会である。
彼らはそれを神聖な愛と言うが、対日関係からはそう見える。
愛があるからセックスし、子供が邪魔だから堕胎し、
冷めれば離婚する。 離婚の際には保証請求がされる。
この事からナンパ婚と離婚はセットになっているように思われる。
それでいいのだろうか。
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サーカスの値段

2011-04-20 05:45:00 | Weblog
何故盗むのか、盗まないのかという状態を三段階に分ける。
1. 盗まれた人が困るから
2. 互いに盗みあうという状態が困るから
3. 何も考えていないのであれば盗む

3を荒野のロバとすると1が打たれる前のヨブ氏。
2が1に勝るものを強いて挙げるならそれは双方向だという点。
ヨブ氏は良くされた。 悪くされなかった。
ヨブ氏は周りを良くした。 周りを悪くしなかった。
それらは常に一方向だった。

2を社会上層が言う法秩序に当てはめる。
「おまえの財産を保証してやる」
「おまえもおれの財産を保証しろ」
「おまえのためなのだから感謝しろ」
「従わなければ殴る」
こうなる。
今日の欧米とアフリカの関係にこれを見る。
白人が見たアフリカはおおむね3、まれに1なのだろう。

サーカス派はサーカスを権利と言う。
ところがこれの価格に基準が無い。
新宿駅を貸し切って表看板をそのままにサーカスを開けば
一日一千万人の客が入る。
入場したから見る事が出来たからと言って一万円ふんだくれば
それだけで一千億円の売り上げになる。
従わなければ泥棒だということで殴られると。
これはさすがにめちゃくちゃだ。
だがそれに近い事は常時起きている。
人の多さが価値になる。
払わなかった際の不利益が価格になる。
殴る権利。

殴り方は色々だ。
サーカスを呼ぶのは領主や金持ち。
東と西に米屋があるとする。
上手いサーカスには人が集まる。
そのサーカスが「西の米屋はすばらしい」と言えば人は西に、
「東が美味しい」と言えば人は東に流れる。
消費される米の量はほぼ変化しないので一方が売れれば
もう一方は売れなくなる。 続けばいずれは潰れる。
それをされたくなければサーカスのご機嫌を伺うより他無く、
ご機嫌を伺う最良の方法は資金援助することだ。

サーカスの値段は殴る権利で決まる。
そういう面が今もある。
見た人が金を出さずにそのまま去っていいのなら値段は無い。
そうならないのはそれをしようとすると殴られるから。
サーカスの権利に親しい人、というのは殴る人たちに親しい人、
ということになる。
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男系因習と女系因習

2011-04-20 05:44:33 | Weblog
木が有ったとする。
剪定された木はまっすぐに伸び枝を広げ、いずれ大木となる。
剪定されなかった木はねじくれ大きくはならない。
周囲は大木を称えるだろう、では木自身は剪定されることを
どう思うか。
大木となったその木は別のねじくれた木をどう見るか。
自身が大きくなれたこと、周囲の役に立つことを感謝するか、
あるいは他者が自由に在った事を羨むか。
大木になってみないと判らないしなったとしても
木によって違うのだろう。
では剪定されたが大きくならなかった木は。
拙く剪定された結果ねじくれてしまった木は。
自身が剪定された存在である事を安堵する状況はある。
剪定されなかった木が切り倒された時だ。
ではそれは正しいことなのか。

少年老いやすく学成りがたし、と言う。
私はこの考えは間違っていると思う。
スポーツ選手を目指すのならともかく純粋な学問に老いは無い。
寝たきりにでもなったらそれこそ哲学を始める好機。
事実一流の科学者は永遠の少年だ。
老いとは何か。
そこに因習を見る。

因習を科す人とは人生経験から成功方程式を導き出した人である。
それが真に子供のためであると信じている場合であれ内心自分の
ためであると感じながらもその感覚から目をそむけている場合であれ、
それが正しい、そうしなければならないという根拠を持つ。
タテマエとも言う。 表看板、店の裏はお客には見えない。
こうしてきて正しかった、あるいはこうするべきだった、
そうあるのが老人とすると因習は老人のものだ。
それに対し若者はこうするのが正しいはず、こうするべきだ、となる。
大半は失敗という結果に行きつくわけだが。

因習強要と教育の区別は害虫と益虫、腐敗と発酵の区別と同じと見る。
害が多いか益が多いか、その違い。
強制性は共通。
誰の益か、というと社会の益である。

外部との接触がほとんど無い、五十人くらいの村があったとする。
そこの祭りに新聞記者がやってきて言う。 それは因習だと。
村人はすべて首をかしげる。 みんな楽しんでいると。
この場合村に害を為しているのは新聞記者の方だろうと見る。
村人のうち十人が、実は苦痛だったのだと言ったとしたらどうか。
因習を強要されていた、そういう論が成り立つ。
その祭りの風習に村内部での武力対立を抑制する効果があったとしたら
どうか。 有効な知恵、ということになる。
もちろん別の考え方も出来る。 教育も伝統の知恵もすべて因習だと。

とりあえずは個人に有害なものが因習であるとし、
私見でそれを分けてみる。
男系因習と女系因習。
男系因習は父親あるいは社会における先人、責任者が目下の者に
科すもので、もっぱら労働現場における一体感のようなものを
目的とするもの、あるいは目的であると称するもの。
女系因習とは母親か住居における母親役の人物が年少者に科すもので、
他人に気に入られることを目的とする、あるいはそう称するもの。
何故男系と女系に分けたかと言うと一般に男性は、少なくとも日本では
娘の女性的身体機能と伴う問題に踏み込まないのが良しとされ、
また家族に対して職場の問題に首を突っ込まないように要求し
それが守られないことを不快とする傾向があると見るからと。
まあどちらも無知無経験な人間が係わるのは不毛だから
といったところが理由だろうが結果、因習の住み分けのようなものが
出来るだろうと予想すると。

こうしてみると固定化した職場の文化は容易に男系因習となり、
一方ファッションは常に女系因習の候補で在り続ける、
ということになる。
男系因習については労働の流動化や企業淘汰、行政介入などで
長期化固定化する前に消滅することが多いと思われるが
職業経験者による家庭教育がある方が有利であるとされる分野、
たとえば医者や外交官などの職場では残りやすいだろう、となる。
女性因習の消滅過程は謎だ。 思いつかない。
そうした観点から美容整形を忌避する文化は有った方が良いと思う。
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サーカスの量られ方

2011-04-20 05:43:44 | Weblog
中学の頃テニスをやったら右ひじを壊された。
壊された、といっても人を指しているわけではない。
美術の時間に版画を彫っていたらピキッとなって以後そのまま、
日常生活には何の問題もないが運動をするとコキッと鳴る。
ラケットは左手で持つ事にしたが下手なので疎遠になった。

王権から窃盗心理まで線を引いてみて思ったのは
開通したとは言ってもまだ飛び石状態なんだなと。
ロープ一本通っているだけの道。
私はそこを普通に行ったり来たりしているのだが。

冷戦を貴族の勢力圏争いとしてみるとそれは
セレブとノーメンクラツーラによるものだったとなる。
勝ったのはセレブ、彼らその後はどうなったか。

さてサーカスの量り方だ。
実はひと月前から文無し生活を送っている。
電話は先月止められガスも先週止まった。
積み上がっている漫画やエロゲーを売ってしのいでいるところ。
そんなわけで私自身サーカスの売り方を知らない。
社会ではどう量られているか。
どうやら需要と供給のバランスで価格が決まっているらしい。
資本主義、あるいは自由主義と呼ばれるものだ。
ではそうなる前はどうだったか。
領主や金持ちが便宜を図った。
ノーブレスオブリージュやメセナと呼ばれるものがそれだろう。
美術家が支援される、演奏家が街頭で演奏する、
祭りに芸人が来る、そういったものと。
美術館などにしても収入はそこにステータス性を求める人たちの
寄付意識による物が大きかったのではと見る。
庶民の娯楽はどうだったか。
日本では江戸時代に江戸に男性が集まり男女比が偏った事から
町民文化が花開き浮世絵などが出回るようになったとされるが
海外はどうだろうか。
本はあったか。 高価だったはず。
歌、踊り、酒、セックス。 そこらへんだろうか。

庶民が自分の金、可処分所得と呼ばれるもので
酒やセックス以外の娯楽を買うようになった。
資本主義社会。
何を選ぶかは自由。
ところが自由になっていない部分も有る。
読書の分野だと学校の教科書がそれだ。
教師が何を読ませるかを決める。
読み手である生徒が選ぶことは実質無い。
旧時代の教会と聖書の関係がそのまま横滑りしそこにある。
では教科書は聖書よりも優れているのか。
自然科学の知識習得という目的に限定すればそうだと言えるが、
一般には観点と目的によるだろう。
まあ多様化はした。 多くの国では。
教科書はどう量られているか。
その価値は学校教師の集団が適当に決めている。
テレビはどうか。
それを決めているのが広告会社と呼ばれるもので、
番組作成にはもっぱら政府や企業が出資している。
ここでも旧時代の横滑り、領主や金持ちが存在している。

サーカスの適正価格はどこにあるのか。
制作費か。
視聴者がいればいただけセレブ女優やスター選手の懐に入り、
中間にいるヤクザ業者が潤うのだから制作費の基準なんて
有って無いようなものだろう。
では旧時代よろしく領主や金持ち、現代では政府や企業が
その内容と大きさを決めるのが正しいのか。
大道芸人が街頭でおひねりを貰うのが正しいか。
だとすると適正価格は無料ということになる。
有料が正しいとすると街頭の管理者がボッタクリバー宜しく
見物客の胸倉をつかむのが正しいということになる。

今のところ適正価格は無さそうだ、というのが結論か。
出しているものを立って見るのはタダ。
需給以上の価格が有ってしかるべしという人は、
ボッタクリバーを批判できないのだろう。

こうしてみると今日居る正義のジャーナリストというのもまた
おかしな存在だ。
マスコミというもっとも資本主義的な存在でありながら
企業の資本主義を批判することを生業と称している。
そのためのジャーナリズムと言っても結局はヤクザの仁義、
おそらく任侠の徒以上にはなれないだろう。
彼らが公正であろうとするならバットマンよろしく金持ちの
個人道楽としてやるか、あるいは兼業化し同人的出版活動の場で
「本業は会社員です」などと載せるより他無いのではと思う。
専業正義として存続しようとすると企業にたかるより他無い。
開き直って「かつてマフィアが必要とされたように今我々が
必要とされているのだ」と主張するか。
受けないと思うけど。
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名誉の殺人

2011-04-18 07:35:42 | Weblog
宗教とは家庭教育である。
誰かが社会において人はこうあるべし、といった思い付きをし
それが文化となり、地域家庭の場で受け継がれる。
それが宗教。

久しぶりに近所の教会っぽい集会に顔を出そうかと思っていたが
腹を下したのでやめた。

タイトルは名誉の殺人。
子殺しに名誉もクソも無いとは思うが。

女児割礼。
纏足。
コルセット。
ハイヒール。
社会文化の変化を時代経過と逆に並べるとこうなると見る。

まずハイヒールだが、身体的苦痛を伴うファッションを自分で選ぶ。
コルセットはそれに社交場の常識つまり社会圧が加わったもの。
纏足は親が子に人生の苦痛を強要するもの。
女児割礼に至ってはファッションですらなくなったと。
そこに線を引くとするならば親が子に強要する所だろう。
友人同士でもさほど違わない気もするが、そっちは選べる。

こうしてみると因習化の発端はファッションでありそれが固定化、
社会圧力化していく仮定には就業とさらに大きく結婚の問題が
関わっていると見る事が出来る。
他人に選ばれるための強要が因習となると。

私は女児割礼や纏足を母親から娘への因習と見る。
名誉の殺人は父親から娘への因習。
父親からの因習の理由を考えてみる、というか考えるまでも無く
社会での地位が関わっていることなのだろうと思える。
名誉の殺人が行われる地域では父権的であることが評価となっていて
娘の不品行はそれを貶めるとされ、周囲に対し父権性回復を
示す方法がその殺害であるとされていると。
そこで二点考えてみる。
他の理由は何か。
何故その社会では父権性が必要とされるのか。

理由その一。
家庭内に不和から姦通が発生、上からの報復措置としての殺人が
行われている。 単なる子殺し。

理由その二。
父権が絶対視されているのでそれが容認されているのではなく
他の家庭にも大なり小なり家庭内反乱の傾向があり、定期的に
見せしめがあった方が父権者に都合が良いからそうなっている。
名誉の殺人によって回復されるのは父親当人の名誉ではなく
父権が姻戚関係すべてを取り仕切るという社会制度。

理由その三。
姦通女子は家の中で不能人として生きるか売春婦になるくらいしか
身のやつし方が無く、そうすると近い将来死んだほうがマシだ
という状況に陥ると予想されるとか。
そうだとすると尼寺が無い、あるいは結婚の事故(?)に対応した
結婚制度が無いことが原因の一つということになる。

二の場合も三の場合もイスラム教聖職者が結婚に積極介入し
結婚者当人の状況によっては引き取って保護する、
という行動を取る事で緩和出来ると思われる。
そうした事例が殺すべきではないという発言に根拠が出来る。
つまりこれらが理由の場合は、名誉の殺人の存在は
イスラム教の無能を意味していると言える。

何故父権なのか。
一言で言うなら治安が悪いからかと。
さらには家族構成員個々の政治無能を父親に権力を集中する事で
カバーしているのではと。
人の職業異動が乏しいことが原因だろうか。
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