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狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

エアコン

2011-06-30 09:41:44 | Weblog
今日文明の利器筆頭に挙げられるものの一つがエアコンだろう。
前の冬は暖房無しで過ごした。 この夏はまだ扇風機も使っていない。
非文明の極みか。
私をして何らかの習慣、宗教行事の類を作り出そうとしているのだろうか。
それなら納得できる理由にはなるがそれがどのような物になるのかも不明だし
そもそもそうなのかどうか判らない。

赤道付近の後進国で頭脳労働が成立するようになった理由がエアコンなのだ
とか言われていたりする。
暑いと考えがまとまらなかったりもする。
でも暑くとも頭脳労働は成立したりもする。

周知のとおりエアコン、冷房というものは非効率な機械である。
液体が気化する時に周囲の熱を奪う、気体が液化する時に熱を放出する
といった現象を利用して室内を冷やし、室外を暖める。
これをするための圧縮や減圧にも当然エネルギーが使われるわけで
トータルでは冷やす以上に暑くなる。
十軒のエアコンに囲まれた家でエアコンを使わないか使えなかったら
そこはエアコンが無い時代以上の地獄になる。
エコや迷惑に敏感なはずの都会人が何故かエアコンだけは例外視したりする。
何故だろう。

後進国の人間全員がエアコンを使える状況を考える。
すぐに破綻という言葉が思い浮かぶ。
ではこういうのはどうか。
人が居る場所だけ冷やし、冷気を外に逃がさない。 熱気を中に入れない。
都市設計の大幅変更になりそうだが、十分に可能だろう。
エアコンの廃棄熱の方向を決め、ファンなどで上空に逃がすようにする。
商店街などの場合はアーケード化し集中冷却を設置。
戸別に冷やすのとどちらが効率が良いかは所によりそうだが。
室外機の大型化や遠隔化も効きそうな。
冷媒輸送のパイプを太くするといいのだろうか。

さて全員にエアコン、という状況は正しいか。
否だろう。
要らない人は要らないというままでいい。
最優先で設置するべき場所はどこか。
学校と病院ではないかと思う。
小学生には使わせずに慣れさせた方が良いというのも一つの意見だが、
その場合は家にあって学校に無いよりも学校にあって家に無い
という状況の方が良いと思う。
家にあるのは止めようが無いので学校にある方がまだマシだろう。
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自動車

2011-06-30 09:41:20 | Weblog
さて自動車だ。
私は運転免許を取得していないので自動車の所有者になる考えは持っていないが
今日の社会においてそれは一種のステータスでありシンボルになっていると。
男は車が好きだろうと言われれば多くの男性は、自分がそうではなくとも
大多数がそうだと頷く。

車社会化が進むと人が歩かなくなるそうな。
田舎や南国でこの傾向が強いらしい。
楽だから、という理由が肯定されると。
車は迷惑物でもある。
排気ガスがあり騒音があり、燃料を消費し場所を取り、そして事故を起こす。
都市部ではこちらが重視され無くても暮らせる状況から脱車社会化が進むと。
何故田舎ではこれが進まないのか。
この差をしてレッドネックと呼ぶ事も可能だろう、田舎の人間は良識が無く
メンタリティーが旧時代で遅れたまま止まっていると。
でもそれは都市住人の感情論でありそこで止まったら考察にならない。

田舎の生活には車が必要だが都会では不必要だ。
田舎には駐車スペースがふんだんにあるが都会には乏しい。
ここら辺が基本だろう、多くの人がこれらを指摘してきていると。
既に論じられていて新しいものは無さそうな。
田舎の人間は日常的な迷惑行動を悪とする傾向が弱い。
田舎はステータス社会である。
これはどうか。

田舎の人間は迷惑を迷惑だとしない、そうする事の方をむしろ悪い事だとする。
当てはまる人そうでない人、当てはまる場合とそうでない場合とがありそうだが
傾向は有ると思う。
田舎の人間は人の物を勝手に使う、そしてそのまま無くしたりもする。
無断で借りる事をむしろ良識とする、その傾向が有るとしてそれは
どこから来るのか。
人間関係が密であり外部からの人の流入が少ないため親の世代のルーズな習慣が
そのまま引き継がれ積み重なっていく、共同作業が多く貸し借りが頻繁にある、
物品の購入に必要となる手間や時間が都市よりも多く借りる方が効率的、
全員身内なのが当たり前で拝借する事に遠慮が無い、物が無くなった側にしても
人に聞けばすぐに持って行った人に行き着く、相互監視社会なので悪質な
拝借者に対するペナルティーの発動が容易、などだろうか。

田舎はステータス社会である。
娯楽が少なく隣人のステータスにまつわるゴシップが喜ばれる傾向が強い、
法治的ではなく身内主義的な個人制裁の世界なので各人が制裁発動者としての
地位を重視する、珍しい物新しい物が単純に娯楽として喜ばれる、などか。

迷惑という発想が有る人と乏しい人。
一緒に住むとトラブルが多発するだろう。
どちらが正しい、というわけでは無い。
都会人は自分たちが正しいと言い、そしてそれが通るのだろう。
運転免許の取得というのはその認識差を見て必要ならば切り替える
良い機会だと思うのだが、現状有効活用されているようには見えない。
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中国と北朝鮮

2011-06-30 09:40:59 | Weblog
電気が止まったらどうなるか。
パソコンが使えなくなる。
電子レンジが使えなくなる。
そうした生活も有りかもしれないが、歓迎する気は無い。

何故中国は北朝鮮を止めないのか。
中国人の歴史観からこれだろうという理由を探してみる。

中国の歴史を三つに分ける。
漢や唐、明といった漢人による長期政権時代。 
それらの間にあるもっぱら漢人同士が争う戦国時代。 
金、元、清といった異民族に支配されている時代。
漢人時代、戦国時代、異民族時代が折り重なっているのが中国史と。
近代は異民族時代に始まり租界という形で侵食されるその末期、
貧民勢力や軍閥、共産党が入り乱れる戦国時代に日帝の侵略があり、
その後共産党独裁体制という一応は漢人の時代に戻ったとされているわけだ。

日本人も朝鮮人もベトナム人も、モンゴル人もチベット人もウイグル人も
漢人にしてみれば周辺の諸民族なわけだ。
漢や唐といった時代を基準とする歴史観を適用すると中央に中華があって
周辺諸民族が臣下の礼を取るといった国際観となる。
他国と対等な平和、といった発想が無い。
対等とはどういう状態かと問われればおそらく、北宋と金、南宋と元、
あるいは明と女真族、そういった歴史を思い浮かべる。
正しい中央である中華で平和に暮らしている漢人の土地を異民族が侵略する、
その前段階が対等な状態、そういう発想になると。
別に正しくもないし歴史的に平和で非戦的非侵略的だったわけでも無いのだが
中国の漢人はそうだと思い込むのだろう。
現代日本人は中国のこの傾向を中華思想と言ったりする。
さて話を北朝鮮に話を戻す。
中国が北朝鮮を止めない理由。
これを私は北朝鮮が中国に対して臣下の礼を取っているからだと見る。
北京政府の言う事をまったく聞かないピョンヤンのどこが臣下だ
と言うかもしれないがそこが中国の礼だ。
おそらく、中国を責めない、中国の認めない外部に侵略しない、国際的な場で
目下の位置に立つ、これくらいで臣下の礼が成立する。

対等が当たり前という日本人にしてみれば中国が自然とする要求は論外だし
中国が認める北朝鮮の在り様も、国家としてみればゴミ同然だ。
だが中国人、漢人だが、にしてみればそれは問題にならない、と言うよりも、
中国の歴史的正統性から問題視してはいけない、となるのではと。
中国的愛国心や政府が作り上げる国家の敵ストーリーなどと同様に中国の掟
と見ている。
北朝鮮にしてみれば韓国に進攻しない、有事の際にアメリカやロシアの側に
立ち中国と敵対すると明言しない、などの点さえ守れば中国との関係は不動、
韓国といくら小競り合いをしてもいいし中国相手の借金を踏み倒すのも可能、
となる。
中国人の掟にさえ接触しなけれ中国のば軍や党、富裕層や一般国民が統一的な
行動を取る事が出来ないよって馬鹿にし放題、と見ているのだろう
実際そういう態度を取っている。
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家庭経済の腹八分

2011-06-30 09:40:14 | Weblog
ここ三ヶ月ほど、うどんを食べる事が多い。
冷麦、スパゲッティも併て三食に二食は麺類を食べている。
元々は蕎麦派で「うどん? お子様の食べ物だろう」と思っていたのだが
最近は結構美味しいと思うようになって来ていて少ない調味料でどう
工夫して食べるかを探求している。

私の近況はまあどうでもいい話だろう。
家庭の経済状況を三つに分けてみる。
金持ち、普通、貧乏。
金持ちという状況は当面生活に困る事は無いと思っていてより豊かな
人生を送るために余暇の出費をどうするかを考えている状態。
普通の経済状況は生存に困る事は無いだろうとしてはいるが日常生活に
回避可能な程度の困難はあるが方法によっては将来別の困難が発生する、
あるいは困難は無いが日常的に不便に感じる事がある、といった状態。
貧乏とは将来なんて無く、当面の生存が課題という状態。
旅行に対する態度で分けると周期的に旅行をし帰ってきたら次は何処に
行くかを考える人というのはもっぱら金持ち、最近旅行に行っておらず
数年積み立てる前提で行くかどうかを考える人というのが普通、
有料の滞在先なんて論外、というのが貧乏。

貧乏には不安が付きまとい、普通なら普通で不満がたまり、
金持ちになれたらなれたで虚しさを感じるようになると。
つまり貧乏で不安が無い、普通で不満が無い、金持ちだが虚しくない、
というのがそれぞれの良い状態ということになる。

貧乏だが不安が無い、というのはどういう状態か。
まず第一は、それでも食える事だ。 
そして人間医者が居ようと居まいと死ぬときは死ぬものだとして
生きることが出来る事。
生きる事に日常と、当面死なないこと以上を求めない人だろう。
宣伝業で食っているような人たちはこの状態で満足する事を嘲笑し
貶めることを常識とするだろう、そしてその常識を共有するように
なってしまった人はおそらく、不安で居続ける側に進む事になる。

経済が普通、貯蓄なり現金収入なりがあって現状お金に困っておらず、
そしてそれに不満が無いというのはどういう状態か。
欲の皮が突っ張っていない人と言ってしまえばそれまでだが、
日常において賄える範囲での満足が有る、そういう生活をしている人が
そうなのだろう。
満足を知らない人が煽られ流されていく。

金持ちだが虚しくない。
壷を集めている人がいたとする。
当人が壷が好きで好きでたまらない、それさえ眺めていれば毎日幸せ、
そんな人がいたとしたらそれはそれで虚しくは無いかもしれない。
もっと単純に人から感謝されている、それも感謝されるための行動の結果
ではなく困っている人を助けたら結果的に感謝されたような状態にある、
そんな人かもしれない。

では虚しい金持ちとはどんな人だろうか。
壷の例で考えてみる。
壷を買ったが虚しいこれはどういう状態か。
おそらくその人は壷そのものが好きだったのではなく高価な壷を買う
という自分の自分への評価が好きだったのだろう、そして金持ちに
なった結果苦も無く入手できるようになり、高価である事、困難である事
といった旧来の自分への評価が消滅した、だからいくら壷が有っても
虚しくなったと。

金持ちになった結果虚しくなった、という人は自分が無いのだろう、
自分で物も人も見ていない。 だから高価な物に囲まれていても
入手が容易つまり安価になっただけ、人を助けるとされる事業に
首を突っ込んでも困っている人を見、困っていない状態になるのを
見届けるようにはならず単なる便利屋止まりにしかならないと。

お金はそれで何を買うかでは無いな。
それで何を成すかだだろう。
成さない人は虚しくもなる。
それならまだ生活に追われる方がマシというものだ。
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世の中はお金

2011-06-27 11:23:44 | Weblog
ニガヨモギなんかの一致する確率を計算すると馬鹿らしい数字が出てくる
はずで、さらにそれ以外の一致が多数あると。
介入者はある。
これは事実。 単なる事実。
自然災害なども含まれているので予測と誘導だけで実現するのはまず無理、
よって介入者は何らかの形で「山を動かせる」存在だ、となる。
介入者の目的が私が予想するものに近いとし試行錯誤があったと仮定すると
人類にとっての世界に元々余裕があって発展の段階に応じて進出許可地域が
増えていったか、あるいは世界自体拡張と再配置が繰り返されて
作られてきたかのいずれかと見る。
前者はパーテーション説とでもするか。 後者が創造者説。
これらとは別に単純誘導説や偶然説も説としてはあるだろう。
パーテーション説と創造者説、どちらかが正しいといった視点で世界地図を
眺めると、ウソ臭い地形が目に付くわけだが。

お金を中心に生きようとすると公が見えなくなると書いた。
逆に見てみよう。
お金はすばらしいものだと。

お金が有ると大概の事がそれで済む。
デカイ家に住めるし物もたくさん買える。
嫌な隣人や不快な業者と付き合わなくて済むようになるだろうし
美味しい物もたくさん食べれるだろうし観光旅行も好きなところに行って
好き勝手出来る。
病気になっても医者に優先的に診てもらえるだろうし行くところに行けば
女漁りも出来るだろう。

お金が無いとどうなるか。
公共料金も払えない。
農業地域だとどうかは知らないが、都市部だと飯に困るようになる。
親族友人の家に行けば食べる物くらいはあるだろうが、好まれはしない。
好きな物が買えない。
そのうち着る物に困るようになってくる。
ってゆーか靴下が少なくなってきた。

飯に困らなければいいか。
服が買えればいいか。
公共料金が払えればいいか。
家具家電が買えればいいか。
趣味の物が買えればいいか。
多分そう。
そしてそのためにはお金が要る。
お金が必要なのか。
必要だとして生活してきた。
お金が目的なのか。
お金を目的として生きてきたつもりは無いが
それを目的とした行動はわりと取ってきた。
お金が必要だとするとお金が目的になる。
何処かおかしいだろうか。

お金は何か。
流通兌換物だ。
流通兌換用の金属片や紙片や電子情報を一般にお金と言う。
公共料金や税金の請求書にゼロが並ぶ。
詳細不明だが社会では自動的に流通兌換物を求められるらしい。

電気と水道の無い生活。
どんなだろう。
とりあえず亀は近所の川にでも放すことにするか。
飲み水は近所の公園で飲むか。
うどんは棒状のままかじる。
洗濯は、無理か。
すぐに死ぬわけではなさそうだ。
でもあまりやる気はしない。
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所属はどうあるべきだろうか

2011-06-27 11:23:31 | Weblog
電化は進歩だろう、だが人がネオンサインに引き寄せられるだけなら
その社会の状態はサルのそれに近い、そしてそのサルを嫌って電化を
全否定するのもまた別種のサル社会でしかない。
車やオートバイが空気抵抗を考慮した形になったり騒音防止の
マフラーが付いたりするのは社会の進歩だろう。
だがその所有者が空力板を伸ばしたり竹やりマフラーに付け替えたり
するのはファッションの分野、進歩とは関係が無い。
アイデンティティやイデオロギーといった形で視点を固定化する、
これはどっちに転んでも頑迷さにしかならない。
世相に合っていれば人はそれをファッショナブルだとするだろうけど。

さて現代人は多所属が普通だ。
これが一生農村で暮らす事が一般的だった時代との違い。
多所属ということは同一所属内に別所属の人がいるということになる。
例えるなら私生活では劇団員でもそれは会社の同僚とは無関係、
そしてそれが同僚および劇団員のほぼ全員についても言える状態。
日本の会社のノミュニケーション文化は単一所属のものだろう、
だから心理的相互依存と行動の拘束が当たり前になる。
在日朝鮮人に付いても同じ事が言える。
朝鮮人の単一コミュニティーである事を主張するのなら
朝鮮人の国である韓国なり北朝鮮なりに帰国すればいいし、
マイノリティーとして単一所属独自藩を作りたいというのなら
人種幕藩体制国家であるアメリカにでも移住すればいい。

国家は所属になっている。
だから集団の責任範囲として国境があり集団内で相互に保障し合う
国民が居る。
こうした所属がいらないのなら全員無国籍でもいいのかもしれないが
それは全員無責任状態、おそらく合意の政治は成り立たないだろう
よって有力者が実力で秩序を維持する社会になる。
秩序が不要というのならまた別だが。
政治のために秩序が要るのか秩序のために政治が要るのか、鶏と卵
みたいな話だが政治が機能する範囲、スープの腐らない距離が国家。

国家、国民という所属は強制である。
大半の人にとってそれは生まれた時点で自動的に付いてきて
高い確率で一生ずっとそのままである。
では国家という所属は絶対か。
否である。

近代以降で一時期日本人は無国籍状態にあった。
終戦後の混乱期ともされる時代である。
大日本帝国という所属は消滅し、ほぼ同時に住人には出身地に応じて
中華民国、大韓民国という所属が割り当てられたわけだが日本列島
出身者は無所属という状態が続いた。
確定するまでの間日本地域出身者は日本人でも日帝人でもなかった。
日本(仮)人だった。
その間日本では国家所属が無いのに公意識が有るという珍しい現象が
見られたわけだがこれは単一民族としての意識が有った事、
公が継続するだろうことがほぼ確実視されていた事などをその理由
だろうと考えるわけだが。

国家という所属はあった方が良いだろうか。
私はあった方が良いと見ている。
無ければ政治が混乱するだけだろう。
では複所属はどうか。
国際貿易を生業としているサラリーマンが自国と隣国、
それぞれ別に家庭を持っていたとする。
これをどう見るか。
政治の責任は一つでたくさんだ。
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日本の親中と中国の反日

2011-06-27 11:22:55 | Weblog
現在の日本の親中派を独断と偏見で分けてみる。
1. 反米派
2. 親中ステータス派
3. 交易派
4. 縁があった派

1かつ2かつ3かつ4、などといった人も十分考えられるので最大の理由はどれか
で派が分かれているのだとする。

まず1の反米派、私が最大派閥だろうと見ているのがこれ。
日本の現状が嫌い自民党が嫌い社会が嫌いという人の多くが日本の場合
反米に行き着く。 感情反米でそれっぽく格好が付けばいいので別に中国である
必要は無く、群としてはヨーロッパを信奉したり北朝鮮を信奉したりと節操が無い。
美点欠点を挙げるのではなく先ず信奉があり、その後日本は駄目だと続くのが特徴。
私が駄人とするのがこれで感情的になってくるとウケのいい反米を羅列したりする
が、中国が無い。

2の親中である事がステータスになっちゃってる派。
歴史ロマン派と言い換えてもいいかもしれない食器とか書道とか古典とか神仙とか
漢方薬とか、現実の中国ではなく日本の中にある中国文化が好きな人たち。
好きでやっていてその事を意識しているのだから良質な人たちなわけだが
中国そのものは無視している傾向があるわけで、その点は反米派と変わらず。
儒教が入ってたりすると腐臭がしてくる。

交易派。
利益があるから好きという、正直で判りやすい人たち。
蛇頭が入ってなければ良しか。

4の縁があった派。
本来の意味での親中派とはこれだろう、中国と聞くと誰かの顔が浮かぶ人たち。
なんかの拍子に中国に住んじゃった経験のある人、近所や親戚筋に中国人が居て
現実の中国に興味を持った人など。
交友関係上の利害と親中という大義名分をごっちゃにする人もいる関係から
この派の行動が良識的とは言えなかったりもする。

日本は中国を温かく見守るべきだ、といった類のフレーズがある。
改革解放後に出てきたものではないかと見ている。
私のファンタジーに優しくして、俺の儲けを邪魔するな、
直訳するとこういった意味の言葉なのではないかと推測される。
ま、やなこったとしか言いようがないが。

さて現実の中国というと反日なわけだが、その内容はどうか。
中国の反日というと思い浮かぶのが靖国問題。
私は歴史にまつわる感情を政治にリンクさせる行動をクズのものだとしている。
歴史感情を政治化するのはクズ。
人間のクズ。
日本の靖国問題は反米派やステータス派が作り上げたわけだが親中派を
名乗る人たち、あなたたちは何に迎合しているのだと問い詰めたいところ。

ついでに言うと私は日本の首相が靖国神社に参拝することには賛成だが中国の
不安定化を促進するために靖国参拝するべきだ、といった人たちには賛成しない。
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経済云々

2011-06-27 11:22:00 | Weblog
住み飽きて、ではなく塩害が、といった感じ。
もちろ相場の話ではない。

企業には共同体としての側面もある。
そういう意味では一部の企業に社旗や社歌があったとしても問題だとは思わない。
日本社会のそうした傾向を恥ずかしがる人もいる。
一昔前の日本企業では社員の住居から結婚まで考えるのが良しとされていた。
これは継続的な社会の有力者の行動として見るに至極まっとうな在りようだ。
そうした政治行動のデメリットを挙げるとするなら所属の単一傾向が強まる事、
経営者に個々の社員に対する洞察力の類が無かった場合押し付けになる事、
社会の変化への対応は結局個々人でリスク管理するしかなく企業と言った単位で
やろうとするとシステムが硬直し無駄が発生しやすくなるなどがあるだろうが、
それぞれ「悪い」というわけではなく上に立つ人の方向性としては正しい。

内面の地位と価値の違い、金勘定で公益が見えなくなる、借金が人を奴隷にする、
人は固定費用つまりその人が明日も金を必要とする事を以って信用とすること、
これらを組み合わせると色々見えてくるものがある。
ここに至って現代の経済学者たちが馬鹿に見えるようになってきた。
彼らの大半は金ベースの範囲ではこうなる、といった限定的な議論を
しているのではなく社会を金ベースで捉えるのが正しいと信じているのだろう?

経済学者が賢いのか馬鹿なのかは置いておく。
いくつか組み合わせを見てみよう。
借金が人を奴隷にするという人類の歴史と、賭博や依存薬物との関係。
依存行動があり継続的に金が必要になるという事と労働を借金の形に取られている
という状態は精神的には遠くはない。 辞めたら破滅が待っている、そう考える。
経営者からしてみればまさに足元を見る事の出来る状態、労働契約は労働者の
多数がその状態に陥るだろう事を前提に締結されるわけだ。
経営者や取引相手にしてみれば自分の都合を押し付けやすい状態、
これが社会信用とされていると。
なるほど、優秀な移民などと言い出すわけだ。

内面の地位と価値、金勘定と公益。
自分を飾り立てるために地位を求める人がいたとする。
これは金が有れば簡単に実現するわけだ。
後進国では権力に値段が付けられているし先進国には慈善家といった地位がある。
ウェルカムトゥ金銭ワールド、その人は公益から遠ざかる。
飾られた地位が価値ではないことに気付き他人の喜びに興味を持つように
なった人はどうなるか。
他人を喜ばせた。 次にどうなるか。
よくあるのは喜ばせたはずの他人が翌日何かに失敗し、喜んだ事をどうでもいい
ものだったとする例。
ここに分岐がある。
どうでもいいとしたのはその他人が悪い、となるか、明日明後日喜ばれるように
する事を考えるようになるか。
後者を選び、その対象を広げていくようにするとそれは公益といった発想に
近くなっていく。

内面の地位と価値、個々人の算出する固定費用が社会信用。
固定費用が信用つまり会社に依存して生きようとする人が会社社会で信用される。
これは内面の地位の世界だ。 生き様を喜ぶ人はいない、が、馴れ合いはある。
私生活における自由な行動に価値を見出す人はそうでない人と比べて
会社で地位を低くされる。
ボランティア活動を評価するよう会社社会を変える、というのは逆方向だろう、
評価対象として固定化されたボランティア活動は地位の世界でしかない。
価値との違いは何か。
価値発想の行動は金銭や地位とは無関係に、自分のためにやるもの。

冒頭の日本企業共同体の話に戻ってみる。
会社が社員の家や結婚相手を探しやすい環境を用意したのは地位か、価値か。
そうした行動が喜ばれなくなったら自然消滅した。
あれは価値だったのだろう。
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自我調整

2011-06-23 09:30:25 | Weblog
前に私の行動は左派いじめだと認識している、と書いた。
別にわたしのいじめは良いいじめだと主張したいわけではない。
社会的には零細ブログを更新しているだけの私が知的エリートと称する人を
多数含む、人類史上最大最強の勢力をいじめていると認識する構図が
おもしろいと思っただけの事。

私がキチガイサヨクと呼ぶ人たちに人気があった大学教授の本を取ってみた。
目に付いた章を読む。
コイツ駄目だと思って本棚に戻した。
百科事典でリベラルアーツとやらを調べてみた。
修辞学とあった。
なるほど。
手に取った本の著者が詩人だったのなら私は彼が大学で学んだのだろう
表現力をほめたかもしれない。
だが彼は学者だ。 残念な事に。

好き嫌いだけで書く。
私も同じ事をしている。
では何故彼らを否定的に書いているのか。
私は彼らの示す方向は進歩ではなく退歩だとしている。
彼らは逆に主張するのだろうそれだけの事。

犬嫌いの要素を取り外してみた。
領域の底っぽい所に石のような物がありどうやらそれが
騒音やら吠え声やらに反響して悪感が増幅されている模様。
それを意識して取り除く、という行動に出たところ
騒音のうちの吠え声、ブレーキ音、金属音などが響かなくなった。
操作の直後にナイフの先端のようなものが領域内に出現した。
しばらくしたらそれは無くなった。
外部から反響構造に対する操作があったのか、取り外した石を穴を開けて
除去したのか、何が起きたのかは判らない。
取り外すという行動に出て一週間ほどになるが、快適である。

精神科医やセラピストなどは多分、自分の中で分離し除去した
という自己暗示を掛けた、という感じに見るのだろう、解釈はどうあれ
以前から悩まされていたそれを感じなくなったのは事実。
この操作の結果犬や飼い主に無関心になった、とも言える。
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公益認識

2011-06-23 09:28:38 | Weblog
去年の宮崎県口蹄疫騒動を思い出す。
その時の与党は問題に対して公益の敵であるかのように振舞っていた。
政府が農業の敵になったら農業者は各戸に自衛するしかなくなる。
公益もクソも無い。
一昨年のネットを思い出す。
応援団と呼ばれる連中が居て、多くの人が彼らに流されていた。
カイワレ大根騒動を思い出す。
報道者が業者を庇っていた。
彼らは報じなかった、そしてその結果あのような報道となった。
そう見ている。
先日またネットに、似たような動きを見た。
また多くの人が流されていた。
相変わらず公の有無を認識せずか。
まるで進歩していない。

公益認識には差が有る。
同じ時間同じ場所に居てもある人は広く見、ある人は狭く見、
そしてまたある人はそれを認識しない。
賢い子は小学校くらいからそういうものが有るということを認識し始め、
馬鹿な子は社会に出て失敗してから学ぶ。
知的障害、精神遅滞、学習困難、言い方は色々あるようだがそういう子は、
人生の大半をそれを認識せずに暮らすことになるのだろう。
人の世界の一端を人に知らしめる存在、とも取れる。

大学は公益を学ぶ場になっているか。
否だろう。
個人の趣味のような研究を公益だと主張して金をせがむ。
広報を学ぶ場だ。
自分のしている事にこそ価値が有るといった結論を導き出すための方法の
一つは他人のしている事は価値が無いのだと主張する事。
公益を詐欺の道具でしかないと認識している人は保守派を嫌うわけだな。
大学が公益なのは第一にそこで教師が作られているからだが
教師になる人はそこで公益を学ばない模様。
教師作りの観点から研究とは何かを見るにそれは、教師の教師を
安定して作り続けるためのオーバースペック、ということになる。
もちろん研究成果が役に立つのならなお良いが、これは博打。

公益と経済益との差に注目してみる。
極端な例は図書館だな。
直接的には経済益は無く、公益だけがある。
食堂の場合はどうか。
多くの人に美味しく沢山食べてもらって健康に良い、これが公益で
客の数が多かろうが少なかろうが高く売れるのが経済益。
町には経済益寄りの経営方針の店と公益寄りの経営方針の店とが有って
それが同じ場所で競争していたりするわけだ。

秋葉原に大型のディスカウントストアがある。
DQN御用達として有名なチェーンストアで全国展開しているはずだが
ここの前だけガードレールの破損が著しい。
夜中にバイクでやってきて気にせず壊す、そういう客が多いと。
公益寄りの店でも利用客が公益を認識するとは限らないわけだ。
人が公益を認識するようになる環境というのは公益か。
多分公益だろうと思う。
有るところには有り、無いところには無い。

金を価値にすると公益認識が消滅する?
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