評価について

2010-02-21 18:35:28 | Weblog
人の目に
一喜一憂
ぬかに竿
後にぺんぺん
レミングの笛

維持する人達にとっての生活とは、稼ぎのことである。
何かを渡し、その対価として何かを得る。
基本得られなくて当たり前であり、得られることに感謝する。
持っている物は得た物であり、だから取られると怒る。

正義を唱える人達にとっての生活とは、
取る側から見た税金のようなものなのだろう。
得られて当然であり、得られないことを悪とする。
だから他人が得ている物を見て怒り、取ろうとする。
不平等だと騒ぐ。

さて評価について。
人が価値を測る時、二つの物差しを使う。
一つは自分にとっての価値、もう一つは他人にとっての価値。

食べ物を、食べる。
美味しい。 食感が楽しい。
食べ物がない。
目が回る。 腹が減る。
これらが自分にとっての価値。

高級なものを食べる。 他人がうらやましがる物を食べる。
食べる様が格好良く見える。 食べたことを他人に話すと珍しがられる。
これらが他人にとっての価値。

自分の価値で物事を捉える人達にとって
持っている物の社会的価値は、自分が何を得られるかで量られる。
それが自分にとって嬉しければ価値があるとし、
そうでなければ嬉しい物と交換出来ることが価値となる。
嬉しくなくかつ交換出来ない物は、持っている価値のない物。

他人にとっての価値で捉える人達にとって
持っている物の社会的価値は、人気、注目度、そう表わされるもので量られる。
人気がある物、他人が良い物と喧伝する物、持っていて注目を浴びる物。
そういう物が価値がある物となる。
どれだけ美しくともガラス玉には価値がない。
そういう価値観。

創作活動と呼ばれる行動にもこれが出るわけだ。
ある人は自分が嬉しい物を創ろうとし、
ある人は他人を喜ばす物を創ろうとし、
またある人は、創った自分が注目を浴びることを目標とする。

嬉しい、楽しいといった感情。
他人にどう見られるか、という地位。

後者の価値を高める手っ取り早い方法は何か。
悪人がいればいい。
悪人がいて、それに勝利する。
そういう価値観で動いている人達がいる。

価値があるとされるから価値がある、というのが評価。
自分にとっての価値と、他人の評価。
評価という歩を進めてきた人の足跡は、時間の経過と共に消え去る。
足跡が残らない。 道が出来ない。
だから振り返らない。 振り返ることが出来ない。
振り返れば、これまでの「無さ」を知ってしまうから。

さあ問題だ。
学校教師は「価値」だろうか?
それとも「評価」だろうか?
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