狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

スパイ組織は「状況を自分たちが管理していれば安全だ」という理屈の下ISIS面々に武器を与え、状況の複雑化スパゲッティ化を進め、そして上には報告しない

2018-07-30 14:01:03 | Weblog
「緩やかな売国」と「イスラム国(アラブの春)」の関係。
a1. GDP成長率こそが国益だ
a2. GDP成長を維持するためには各種政治主導権をウォール街に移さなければならない
a3. 後進国、あるいは同盟国の主権に工作を仕掛ける
a4. テロリストと連む

こうなる。 で、こう書くと「彼らスパイ組織を管理する側がちゃんと指示を出していないのがおかしい」「保守派が悪い」といった風に考える、主張する人が出てくるだろう。 実際には副業問題がある。

今日のスパイ組織の面々は、本来の身分とは別に表向きの職業を持つ。 中世あるいは古代からそういう人たちは居たし、また「諜報機関員です」という人も居る。 「スパイ組織です」って言うのは本部に勤務しているような人たちだな。 一昔前だとスペイン帝国の工作機関とイエズス会のような組織はイコールである面が多かったわけだが、今日ではジャーナリストだったり国境なきポリコレ組織員だったり外交公館勤めだったりと色々と。 とりあえず「ジャーナリスト」とするか。
こうした「二重身分」ではない人たち、普通の社会人の人たちの、金銭収入に限らない社会報酬の類を以下とする。
b1. 本業の金銭収入
b2. 本業周辺の副収入(ポイントカード使用の際のポイント等暗黙に認められている物、立場や情報を利用した副業、横領、収賄)
b3. 社会的地位向上

ここで問題になりがちなのが社会人の意識としてb1は何もしなくてもあって当然、b2やb3の方に意識が向きがちだというもの。 さらにb3と支出の関係、つまり社会的地位が高いとされる、身内親族や近所住人が自分を尊重してくれているのならばパチンコも風俗も必要ない、といったものがある。
これがスパイ(ジャーナリスト)の二重身分者だと以下となると。
c1. 本業(公務員スパイ)の金銭収入
c2. 副業(ジャーナリスト)の金銭収入
c3. 本業(公務員スパイ)周辺の副収入(ポイントカード使用等、情報の利用)
c4. 副業(ジャーナリスト)周辺の副収入(横領、収賄)
c5. 本業(公務員スパイ)の社会的地位、利便性向上
c6. 副業(ジャーナリスト)の社会的地位向上

やたらと多くなった。 問題点は「普通の人」と共通している部分も多いのだが違う部分もある。 例えば、「副業の収賄」が本業の側で推奨されている点。 国際ジャーナリスト(スパイ)をやっていて取材対象から私的な取引を持ち掛けられたとする。 ジャーナリストならこれを蹴る、かどうかは不明だが、スパイならそうした関係を工作の取っ掛かりとして歓迎する。 もちろん、即座に飛びつくわけではないだろう、それをやったら身分がバレかねない。 まだある。 身分を隠すために「ジャーナリスト地位の向上」に本業者以上に力を入れる。 ジャーナリスト身分に溶け込むために会社ぐるみ、業界ぐるみの不正にnoと言わない。

収入(社会報酬)問題とイスラム国との関係を合わせてみる。
1.(a1) GDP成長率こそが国益だ
2.(a2) GDP成長を維持するためには各種政治主導権をウォール街に移さなければならない
3.(a3) 後進国、あるいは同盟国の主権に工作を仕掛ける
4.(c4) ジャーナリストたちに溶け込むために彼らの不正行為を見て見ぬふりをする、推奨したりもする
5.(a4) テロリストと連む
6.(c5) スパイ活動利便性向上のためにセキュリティホール拡大に勤しむ

こんな感じになったりすると。 こうした流れで様々な利得が発生する。 家族親族は「彼は立派な人だ、我々は彼を尊重し助けなければならない」とし、学校教師には「彼の子は立派な人の身内だ、優遇しよう」といった考えが生じる。 こうして「普通の人」が酒、パチンコ、風俗へと行くようになるストレスから遠ざかる。 毎月数万のパチンコ代を支給されるよりも実質美味しいだろう。

軍、国防関係者とスパイ、諜報関係者との違い。
どちらも治安、公共の安全が維持できれば万々歳のはずだがここに手段の違いが出る。 軍だと他国が攻めてこず内戦が起きなければよいという理屈で動く。 「兵隊に嫁が来ない」といった個々の状況を抜きにするに静的に構えるのが理想、という理屈で動く。 組織の理念がそうなっている。 他方スパイ組織、humintは「絶えず食い込み続けなければならない」といった理屈が働く。 不正な状態を維持すべく動的でなければならない、となるのだ。 そしてここに政党政治が関係してくる。 アメリカだと「不正な状態を好む人たち」が民主党に投票し、民主党がウォール街の意思を酌んでスパイ組織の利便性向上に努める。 共和党は傾向としてこれをしない。 軍の側の理屈で動く。 そしてスパイ組織が民主党支援に動くと。
書き並べる。
1. 今日のウォール街政治器官としてアメリカ民主党がある
2. 個々のスパイがウォール街支配に反対する政治家を落とすべく工作する
3. 民主党が勝つと個々のスパイ周辺に様々な利得が発生する
4. 利得発生に伴いセキュリティホールが増える

こうなると。
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人は何故パチンコに行くのか

2018-07-29 16:10:41 | Weblog
最近カジノ法案、転じてパチンコ問題が日本のネットを賑わしている。 元々カジノ法案自体がこれまで半ばアンタッチャブルと化していたパチンコ問題を表面化させる事を目的としていた面があって、これに対して「カジノは問題だがパチンコは問題じゃあない」という言動を繰り返す面々が見えだしてきていると。

さて何故人は、というか、過去には多数、今日では少数となった一部日本人は、パチンコに行き続けているのだろうか。 これは、社会を嫌っているからである。 パチンコに行くと目の前の機械がピカピカしちんちんじゃらじゃら鳴り、その間社会を忘れていられると。 いや、行った事無いけどそうなんだという前提で話を進める。
社会が嫌、世界が嫌でしばらくそれを忘れに行く。 で考える。 どう嫌なのか。 これは一にも二にも、人間関係だろう。 視点を変えよう人間関係なんて無ければパチンコに行く理由もなくなる。 いや単純に「他の娯楽と比較してパチンコを選んだ」という射幸心云々関係なくパチンコに行っている人は行き続けるかもしれないが。

人間関係ってどんな?っていうので最近、「これだ」と思えるものを読んだ。 看護師業界のマタニティ・ハラスメントの話だったのだが、出てこない。
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ゆるやかな売国

2018-07-29 15:51:49 | Weblog
「国益ってなんだ?」という問いの一般解は、「GDP成長である」となっている。 これ以外の答えだと人心の安定、国民の健康寿命、治安などがあると。 大雑把に「内戦が遠ざかる事」とまとめてもいいが、方針とするには茫洋としたものだ。

「GDP成長を維持するためには労働移民の輸入が不可欠だ」とする論がある。 あちこちに見かける。 これに対し私は、「GDP成長とは家事の商業化である」としたと。 表現こうだったかな? まあいいや。
一家四人、一日の食費が自炊していた場合5000円だったとしよう、これを外食に切り替えたところ一食平均1500円、四人が一日三食で18000円となったと。 元々経済に計上されていなかった社会活動が計上されるものに置き換わる、これがGDP成長の内側なのだと。

家庭ごとの炊事を外食産業に切り替えるには新たにコックが必要となる。 家庭の主婦が即座にコックになれるのならばそれで回るかもしれないが、それが実現するのはまれ、だいたいコックを外部から招く事となる。 これが「GDP成長に労働移民輸入が必要」となる話の内側。 「それで個々の国民が幸せになるの?」の問いに対する答えは、「人による」としか言いようがない。 ただし、選択肢は増える。 一方で、治安の悪化は起こる。 ほぼ確実に。

何故労働移民輸入は治安の悪化につながるのか。 三つほど挙げてみる。
・そもそもの構図が貧富の差を前提とする
・労働移民は生まれ育った場所で培った文化、学んだ事と異なる社会秩序を上から押し付けられる
・労働移民の多くは強欲から移住を選ぶ

こんな感じか。 国益の話に戻しまとめると、
1. 国益はGDP成長と治安両方ある
2. 労働移民輸入でGDP成長を維持しようとすると治安が悪化する
3. GDP成長とは家事の商業化であり、それが好ましいかどうかは人による

極論すると、国益になっているのかどうかよく判らない物のために国益を犠牲にしている、となる。

さて、労働移民輸入政策を推し進めようとする政党と、そうではない政党とがあったとしよう。 あったとしよう、というかこれが昨今先進国各国の政党選択テーマだったりするのだが。 ここに「省益」という観点を入れる。 国家の機関であるはずのこの「省」が省益、あるいは省内局内の派閥益から特定の政党を支援する行動を取ったりするわけだ。 これこの支援される政党が労働移民輸入の側だったりすると、場合によっては背任罪に該当するんじゃないかな、と思うところ。 他には麻薬や賭博の自由化、離婚推奨政策なんかがこれに当たりそう。 治安が悪化する。 セキュリティ・ホールが拡大する。 本来そういうのを職務としている省庁だったとしたら。
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自分の行いが正しかったかどうかは、自分が居なくなってみる事で判明する

2018-07-18 07:54:25 | Weblog
「真理のモノ」ははぐれてしまった霊たちを義しい側に拾い集めていたわけだ。 その世界を形作っていたのはその行動であり、そこでは彼が秩序だった。 だが時がたつに「真理のモノ」から逃げ隠れする霊たちが増えていったと。 「遊びとして」、「自由を好んで」、「外れた状態を好きになりだしたから」と理由は色々だろう。 で、そうなった結果「真理のモノ」は自身の行いに疑問を持つようになった。 疲れた、とも言える。 そこで、居なくなった。
世界の形であった「真理のモノ」が居なくなった時の創造神はどのようだったのだろうか。 カストルに死なれたポルックス、クロノスに勝ったゼウス。 どちらも当てはまると思う。 過ぎてみれば去られた事に違いは無く。
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「叱る」と「躾ける」の本質的違いを現している例が、「子が親を叱る」である。

2018-07-17 14:15:34 | Weblog
「子が親を躾ける」というのは基本的に無い。 躾の概念に外れると言っていい。

室温上昇中につきパソコンを落としたが、思い立ってまた立ち上げた。 夏暑いのは循環であって、私はこれをして他を責める理由としない。
前回叱るネタにあって、躾けるという単語が嫌いだ、と書いた。 「叱る」と「躾ける」には違いがあちこちある。 叱るは受動的であり躾けるは能動的である。 叱るのは公的な悪の回避であるのに対し躾けるのは私的な善の押し付けである。 躾けるという行動は本質的に家畜の調教と同一である。 よく無駄吠えをする犬をして「躾がなっていない」と言い、「調教師に預けたら」と提案したりするが、そういう事であり、人間の子供、あるいは新入社員などについて語る時もこれと違いが無い。
「子が親を」が例だが「叱る」と「躾ける」とでは人間関係も異なる。 AがBを躾けようとする場合そこには社会通念上固定化された上下関係がある事が前提で、BはAの利益のために躾けられようとしているがAはBに、「お前のためなのだ」と言う。 一方AがBを叱る場合そこには、見識の上下関係がある。 Bの先にあるBが予測していない事故をAが予測し叱るのだ。 人間関係の事故の場合は「叱る」が同時に「躾ける」となる場合が多くあり、両者を混同する人間が多数いる状況となっている。 だが躾けは利益を目的としたものであり、叱りは事故回避を目的としたものである。 違っているのだ。 人間関係以外の事故に対し「躾ける」というのは無い。
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寛容さに関するネタをいくつか

2018-07-17 10:46:59 | Weblog
先ほど視たネタ話。
自転車で幅寄せをしてくる小学生の集団が居た。 筆者は無視をしていたがある日小学生の女が彼らの被害に遭い田んぼに落ちたと。 それをみたその幅寄せ小学生たちは喜び、そして近くに居た筆者を次のターゲットだと言い合っていたと。 察した筆者は自分から幅寄せを敢行。 予想していなかったその糞ガキ集団は次々と転倒。 「危ないからするな」と諭す筆者に彼らは半べそ状態で謝罪しもうしないと誓ったので筆者は許したと。
私がここに見る寛容さは、放置する事、怒らない事ではなく、もうしないだろう事を見て許した点。 私に言わせれば糞ガキを叱らないのは優しくなんてない、無関心なだけなのだと。

新幹線だかの話。 子連れの母親が乗ったところでその子供が「乗りたくない」と騒ぎ続けたのだそうな。 近くに居た男が「うるさい」と言った所その子供は黙ったと。 これにつき、ツイッターだったか?その母親のフォロワーたちは「不寛容だ」と訴える母親の側に同情的共感的だったそうな。 だがこの話が取り上げられたネットの反応は逆だった。 「叱ってもらったのだろう?」と。 「ダダをこねていた子が躾けられたのなら感謝するべきでは」と。
私は躾という言葉は嫌いだが、この話の男は母親にも子供にも、別に酷い事をしたわけではない。 うるさくしている子供に「うるさい」と言っただけである。 そしてその子供は社会を知ったがその母親はその男のした事を恨み、自身に同情を集めようとした。

私は喫煙者が寛容さを要求するのはおかしいと思っている。 というのも、彼らはマウンティングとして喫煙を開始している。 これ「マウンティング」を「嫌がらせ」と置き換える。 すると彼らの要求する寛容さとは「自分たちはこれからも不特定多数の人間に対して嫌がらせを継続する。 これを許容する事こそ正しい」といったものとなる。 マウンティングを嫌がらせとするのは間違っているとは思わない。 両者の間にはそれをする当人の目的意識と人間関係の認識に若干の違いがあるだけで、結果は同じになる。
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正常性バイアス、反骨精神、良心の判断

2018-07-14 15:01:44 | Weblog
先の豪雨で「老人たちは何故水害の際に避難しなかったのか」という問いが出たと。 この問いに、「正常性バイアスだ」という答えが出たが、避難しろと言われて避難しないのは何も老人たちだけの話ではない。
「DQNの川流れ」と言う。 DQNは河原でバーベキューなどをするのが好きという習性を持ち、その際に川の増水を警告する人が来ても馬鹿にしそこに留まろうとする。 彼らはこれを「反骨だ」などと称するが私はそれを「命が安い」とする。

今日の老人たちの世代は、若い人たちとモラルが違っている部分が多い。 というか、先進国の若者の過半数はモラルをルールの基準とするが、老人たちと後進国の人間の多くはマナーをルールとする。
マナーのルールとはどんなだ?と問われれば、基準の例として「多数派の機嫌を損ねないようにする」、「偉そうにしている人に従う」などを挙げると。 マナーというものはそうして決まり、そして準ずることに利益配分が行われる。

私は反骨心と呼ばれるものが嫌いで。 常々それは良心の判断ではない、としている。 私見として、社会にあって誰かに何かを指示された際の「こういう行動様式が好ましい」というものを書こう。
・良心の判断で従う
・良心の判断で拒否する
・判断がつかないのでとりあえず対応する

こんな感じと。 最後の「とりあえず対応する」を逆にするのが反骨心であると。 複雑な社会の中あらゆるものを一人で判断できるものではない。 そして既存の秩序には、一定の価値がある。 これを逆にしようというのが反骨心で、無駄が多い。
何故このようなものがひり出され祀られているのか。 こう考える。 偉そうな人に従うのがマナー、馬鹿が自分が偉いと勘違いするのが反骨心。
そんなものより判断力を磨けと。

「偉そうな人に従う」「多数に媚びる」という人生を送ってきた老人たちが、DQNの川流れに似た様を呈している。 さて彼らはDQN同様自分の命を軽く見ているのか。 是、とも出来るが否、とも出来る。 「いきぎたない」とでも評するか、
無いわ。 執筆環境が。
「人生を軽んじているのに現状の生にはしがみ付く」「周囲の迷惑を最小にする判断も無い」「DQNほど生きてはいないし死にもしない」って話。
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「厳しく躾ける」とかと言っているモノたちは敵か味方か

2018-07-13 13:57:33 | Weblog
ワールドカップ、が佳境なのかな?
多人数オンラインゲーム、WoTだが、をやっていて思うに、結構な数の人間がチームの勝利を目的としていない。 そして国によって、その比率が違っていると。 地域差が結構ありそうだ、と言った方が正確か。 スポーツ教育、それと戦争は、目先の勝利のために協力するよう訓練する、教材になっていると。 そして効果にばらつきがある。

私がこの世界をどうしたいのか。 社会を、の方が正確か。 戦争の無い世界、犯罪の無い世界、いじめの無い世界。 方針は何種類かあり、それらを重ね合わせた何か、という事になるが、個々にははっきりと目指してはいない。 例えば犯罪だが「ゼロになる」とは思っていない。 「子供が盗みを働く事はあるが、叱られて止める世界」と表現する方が近いかと。 大雑把に方針を示すに、「いじめの無い世界を目指せば他も自然とついてくる」といったところ。

さて表題の。 「躾ける」というのはマナーの話になる。 私はこれを方針としていない。 採用していない。 直接あるいは間接的に快不快を伝えようとする事はあるが、好き嫌いの問題である。 社会のルールではなく国民の教育方針でもない。 「厳しく躾ける」と言う輩は敵なのか味方なのか。 私は彼らはいじめを誘発する連中であり、組織犯罪を正当化しようとする側の人間たちであると見る。 問われれば「敵だろう」と答える。

戦争の話。 正直なところ私は、日本は平和憲法とやらを廃して北朝鮮を武力占領する選択肢を持つべきだと思っている。 あれはクズ文化を持つ民族による駄目な国であり、矯正した方が、教育制度を入れ替えた方が良いのだと。 じゃあどうするかという話だが、現状だと「アメリカ様お願いします」と言うより他無く、そしてそれだと進まない。
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「真理の人」と悪魔たち

2018-07-13 10:05:14 | Weblog
ネットで視覚の話を読んだ。 視覚が無い、光を感じる器官を生物たちが持っていない時代では生存競争はずっと緩やかであったのだと。 捕食者が視覚を得る事により被捕食者も適応せざるを得なく、でなければ絶滅、なり、それにより進化の多様な方向は失われたと。

さて何故悪魔などというものが活動しているのかだが、「真理」が居ないからそうしていうのだ、というのが一つの答え。 世の中が悪に傾けば「真理」は還ってくるはずだ、というもの。 寂しい連中なのだとも「真理の常在こそが世界のあるべき姿なのだ」といった確信を持った連中なのだという見方も出来ると。
キリスト教徒ならイエス氏で考えてみると判り易いかもしれない。 自分が悪として世界を圧したらイエス氏が還ってくるだろう、そういう確信を持った人とか。

前世界で「真理のモノ」は何故去ったのか。 これは「自分の義しさに確信が持てなくなったから」とも「自分が居る事で万物の自由が圧迫されているから」ともあると。 後者は「真理不在の下各々が判断する事こそが世界のあるべき姿なのだ」という見解だな。
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「学校教室の合唱コンクール」を社会問題とするに、賛美歌文化って実は邪悪なんじゃないかと思う。

2018-07-11 23:13:55 | Weblog
前回「自己愛型」とかと書いてたが「自己愛性」だったな確か。

賛美歌って元々はダビデ王あたりが自身の言葉で詠んだ詩だったんだろ。
これを物真似する、それは趣味としてあるだろう。
後年これが支配手段となった。 人が人を支配する手段として確立されたのならそれを邪悪と呼んでも差し支えないだろう。

私は「合唱コンクールは下らない」と言い切る方が人として正しいとする。 歌いたいヤツが歌えばいい。 強制されるようなものではない。
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