アイヌについて

2010-02-23 13:19:19 | Weblog
日本では
食べ放題を
バイキング
名称に出る
満腹の欲

変な夢を見た。
どこか開けたところでトロッコ列車のようなものが脱線事故を起こす。
私は機関車から客車を引き離し、乗っていた人達にそこから離れるように
と言うのだが、彼らはそこに止まろうとしたと。

さてアイヌについて。
18世紀頃からロシアが太平洋アジアに進出してくる。
元々そこに住んでいた側に言わせれば侵略傾向ということになるわけだ。
で当時の日本、徳川幕府と明治政府だが、から見てその前線となったのが
西の朝鮮半島と、北の北海道。

日本人(ヤマト人)の北海道支配は、白人のアメリカ大陸支配や
漢人のチベット支配と比較される。
歴史的経緯や状況が近いわけだ。
で遡って江戸時代まではどうだったかというと、交易してたり戦争してたり。
さらに遡ると双方が縄文人に行き着く。
農業化し渡来人と混血、国家化したのがヤマト人で
狩猟採集文化のまま残った部族がアイヌ人。

ヤマト人との歴史を見てみる。
元々アイヌ人は農耕も主要産業だったらしいのだがヤマト人との交易が
盛んになってくるにつれ狩猟の比重が増えていったとか。
ヤマト人側の輸出品目が鉄器。
値段と品質に文句を付けた少年が鍛冶屋に刺されるという事件から起きたのが
コシャマインの戦い、1457年。
この戦いの結果、北海道に居たヤマト人側が諸侯化して出来たのが松前藩。

この松前藩がアイヌ独占交易権を徳川幕府に認められたのが1604年。
その後アイヌ人集団間の対立で一方の首長が殺される事件が発生、
殺された側の集団が松前藩に武器の提供を申し出るがその使者が帰路に病死。
松前藩が毒殺したとの誤報をアイヌ人が信じて始まったのが
シャクシャインの戦い、1669年。
当初一斉蜂起からアイヌ側が攻め込むも武器の差やアイヌ人同士の連携が
上手く行かなかったことなどから松前藩側が有利となりアイヌ側が退く形に。
その後シャクシャイン氏は和睦のためと呼び出されて謀殺される。
この戦いの結果アイヌ側は戦いに参加した集団もしなかった集団も
松前藩に服従を誓わされることとなり、帝国主義期の植民地人的立場に
転落していったらしい。

商取引の横暴さに不満が爆発した国後島のアイヌ人が蜂起したのが
クナシリ・メナシの戦い、1789年。
この戦いの時点で既に北方からのロシアの南下が始まっており
後に道東が、続いて道西が幕府の直轄地となったと。
ヤマト人の道東への進出がこの後に本格化したのだがそれによってアイヌ人は
オーストラリアの白人に対するアボリジニのような立場となったらしい。

北海道在住の日本人がどうなのかは判らないが自分がアイヌ人である
と認識していない日本人が「アイヌ」という単語を聞いて思い浮かべるのは
文化保護だろう。 さらには就職待遇差の問題。
では自分がアイヌ人であると認識している日本人はどうか。
おそらくは、いわゆる歴史問題やアイデンティティーの問題、
そういったものを思い浮かべるのではと想像する。
ではどうあるべきか。
双方良好な状態とはどういったものか。

調査捕鯨を縮小、IWC直轄にとのこと。
http://www3.nhk.or.jp/news/k10015781491000.html
反捕鯨国の主張は私は狂気に分類されるものだと認識していまして
IWCの実態は彼らの手下なのではとの懸念も持っていたりします。
過去にそういう傾向はあった、これは事実。

戦災から復興する際に役立つ価値観体系があったとする。
これが必要無い状況が二つあるわけだ。
この二つはどういった状況でしょう、というのを今回の問題としてみる。
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