狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

いろいろ書きたいが

2013-07-22 12:15:07 | Weblog
当面弱いものいじめにしかならないので自粛。
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社会科学系書いた後にオカルト系書くのを「カエシを打つ」って言ってる個人的に

2013-07-17 12:54:41 | Weblog
米外交誌「日米はいつまで中国に資金援助するつもりか」=中国
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130716-00000041-scn-cn

ふむふむ。

「中韓と関係改善を」米前次官補ら安倍政権に
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000008862.html

いやどっちなのよ。

さてここ最近で天使論を三つくらい書いたと記憶している。 欧米それぞれの白派
黒派、日本の「忠の儒教」と「国家神道」の対立構造、それと欧米露の赤派。
「忠の儒教」を反逆筋と書いちゃったのには結構反発があったなーなんて感じてる
ところ。
フィルター論。 東の例で言うとフィルターで濾過する対象は文化特に思想である。
大陸の思想を島に集めるがそれに伴う癒着性見返り要求性の文化をフィルター部分
に留めておくと。 西側三点の中心にあるのはイスラエルで、西洋思想の源流は、
まあそういう事なんだな。 「集められる」という事は一方で無くなるという事で
ありつまりその過程で「去られ」が発生するかもしれないと。

神様になにか要望を出す、というか抗議する、と期待と違う結果が来る、みたいな
感じがある。 周囲の状況aにつき状況bとの比較で文句を言うと何というのかな、
矯正されるようなモノが来ると。 んでその矯正結果を考えるに自分を状況b対応
型のBに変更するような。 遡るに自身はそれ以前はb未対応型だったという事に
なるわけで超越者の対応としては至極真っ当だったという結論が出てくる。 じゃ
人の期待っていったいなんなんだろなみたいな話になってくるわけで、人-人関係
は見返り性で出来ている、人はそれを神-人関係にも適用されると思い込むがそれ
が大ハズレと。
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何を以って無明状態から脱することが出来たとするか

2013-07-16 11:34:25 | Weblog
ロシア、極東で軍事演習。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130716/erp13071610150002-n1.htm

まあロシアの行動は東アジアの安定に一部寄与しているとしよう、問題は日本の
マスコミがそうした流れを報道しない点とあと、
> 軍事専門家の宋暁軍氏は「泥棒からすれば、誰もが警察にみえる」と話し、
> 日本は汚点国家の典型で、自分では冷戦の勝者と思っているが、戦時中に旧
> ソ連侵略を試みるなど歴史的に中ロ> を傷つけたと主張した。 さらに
> 「中国とロシアは軍事同盟の関係ではないが、どちらも過去に日本に咬み
> つかれた経験がある。日本は今、中国とロシアに島嶼を奪われるのではない
> かとビクビクしている。これは泥棒が警察に出くわした心境に近いと言え
> よう」と述べた。

中国人に対話を前提としていないような人が多い点。

無明問題を考える。 ある文化圏に属する集団なり個人なりが、ある日自身が属す
るそこが無明状態であると知ったとする。 そこでどうするかだ。 無明状態とは、
とある文化圏AにつきA人の敵はA人であるという状態だと定義している。
とりあえず。

さて無明からの脱出を以下とする。
1. 無明を知るかどうか
2. 無明からの脱出を選ぶか
3. 何を脱出手段とするか
4. 何を以って脱出出来たとするか

脱出手段の選択もなかなかに問題だが4の、何を以って脱出出来たとするかもまた
厄介な話ではある、というのも、人にとっての敵の定義は流動的であるのが常だ。
ある瞬間から親族友人が敵になる、それが人と。
短期的な話に限ると道を歩く変人が危険人物に見えるのならその人が居る場所は
小規模文化圏的意味で無明社会、それた「ただの人」に見えるのならそうではない。
家庭内についても同じ事が言える。 殴ろうとしているのはどちらか、新規に
所有権主張しているのはどちらか、そして穏便に事を収めよう、誰かが罰される
のを避けようとしているのはどちらかが判断材料だろう、それで事が収まらない
ようならば、備えて結果を待つより他無く。
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法秩序云々

2013-07-16 10:58:12 | Weblog
社会をよろしくない状態を三段階で考える。 戦争、犯罪、日常の不快。
日常の不快が積もって犯罪に走る人が出て犯罪多発状態が積もって地域抗争や国家
間戦争のような状態に移行するのかというとそうでもない。 だがおおざっぱな
傾向としてこれを想定する人は少なくないだろうと思う、そしてこの構図で見るに
中心は犯罪である。
犯罪とは何を指すのか。 正常な社会があり正常な社会を維持するためのルールが
あり、そしてそのルールに反する社会の正常性を乱す行動が犯罪。 犯罪の定義は
他にも有るかもしれないが、とりあえずはこんなところだろう。 すると正常な
社会って何かという話になってきてこれが人によって異なる。 ある人にとっては
当面回避できる人の死を回避する社会でありある人にとっては皆が同じ時間に礼拝
する社会でありまたある人にとっては自身にとって不快なファッションを日常で
目にしない社会である。 一般的傾向としては欧米人は定時礼拝を間違った社会だ
とし、そして私は不快なファッション否定のルール化を狂乱だとしていると。
私はイスラム教で定時礼拝制度が確立されたのには相応の理由があるのだろうと
見ているがそれを知る人はまず居ない。 とりあえず「決められたのルールだから」
という理由で今日まで続いていると。 今日それらが理由で西洋とイスラム圏とで
戦争をやっている。 表面的な現象としてはそんなところ。
ルールが違う。 戦争がある。 そんなこんなで私が薦めているのが当面の人の死
回避を基準とするもの。 人が社会を作る理由は感情論では癒着志向つまり支配欲、
あるいははらぺこやセックスしたいなど当面の衝動がそれだが人死に回避はどこの
社会でも一定の優先度が割かれているはずであり、共通性が高い。 共通性が高い
事は高いが、絶対ではない。 チンピラ人種は麻薬を打ちチキンランをする。
彼らの癒着はそうなっている。

人は死ぬ。 そのもう一方に、何のために生きているかという問いも有る。 人を
明日死ぬ人ととりあえず明日は死なない人とに分ける。 それをさらに「何のため
に生きるか」の、漠然とした答えが当座有るかどうかで分ける。 すると以下と
なる。
1. 明日死ぬけど生き続ける理由が見当たらないという人
2. 明日死ぬけど生き続ける理由が有ると思っている人
3. 明日死なず生き続ける理由が見当たらないという人
4. 明日死なず生き続ける理由が有ると思っている人

ここに、「明日死ぬ人の死ぬ原因」と「生き続ける理由」とのどちらを優先するの
かという問いを見る。 極端な話だが明日全員家に引きこもったとするとその日
一日の交通事故はゼロになる。 続けたら全員が餓死するだろうから意味が無いと
言われるかもしれないが一方で、そうした行動の仮定に基づく交通事故ゼロベース
は有る。 独裁者が週三日緊急車両以外の自動車による移動を禁止したとしよう
その結果交通事故死が三割ないし四割減る、そういう状態は十分にありえる。
現代社会の人間たちは不必要な自動車の運転に基づく「なんとなく生きている感」
を事故死者よりも優先している、これは一つの見方だ。

自動車利用者の「なんとなく生きている感」は事故死者が出る可能性よりも優先
すべき事なのか。 そうではないとしよう、ではその手の自動車規制を布くべきか。
消極的に否とする人が多数だろう。
私はその「なんとなくの感」、開放感などのそれは本当に優先するべきことなのか
と問いかけはする、そして他人の生を優先する判断をする人を賞賛する、だが法律
によってそれを強制しようとは思わない。
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経済論

2013-07-12 15:05:14 | Weblog
スパイ問題と書くとスパイが居てスパイされるーみたいな話が多いと思うが私の
場合はそうではない。 おそらくスパイたちに私が見えないだろう事が問題だ、と
いった類の話。
一例だが先日在日朝鮮人の法的地位問題を書いたがその後チャーター機による
フィリピン人の強制送還劇があった、らしい。 スパイ筋から見るとこれ私が日本
国政府と連動している、依頼を受けて動いているかのように見えるかもしれないが、
実はしていない。 メキシコ湾流とかロリコンハートキドナップとかの件ともなる
ともう完全にオカルトで、オカルト解釈が実は正しいと主張しているのだがこれ
説得不能に近い。

さて経済競争とはどのようなものか。 音楽を競う事を平和だとし経済を競う事を
戦争だとし忌み嫌う人たちが居る。 私は趣味の問題だろうと見る。 経済競争と
は音楽家が音楽を競うようなものなのか。 是とする。 経済は違う戦争だとする
人たちは多分利益を見ているのだろうだが音楽に利益があれば同じ事になる。
何年か前の私は「媚の通貨」を発見したと言って喜んでいた。 同じ場所に多くの
人は「必要性の通貨」を発見する模様。 複式だな。 要媚借款表とか書けちゃう
んかな?

日本人のアフリカ進出が拡大している。 これまではもっぱらアフリカでは資源を
買うだけだった。 周知のとおり日本の輸出品は中産階級向けに極端に偏っている。
最近だとそう極端でもないのかな、それでも中産階級ハイエンドに留まっている
はずでありそしてそうした日本製品を買う人の居ない所に日本企業の本格進出は
無い。 せいぜい商社マンがうろつく程度。 これまでのアフリカとはいったい何
だったのかと問いたくなってくるそして、おそらくこれから日本人が引き返す事に
なるだろうアフリカの半分はいったい何なのかと。

経済についての考え方は初動で二つに分かれる。 「何が必要なのか」と「何が
儲かるか」とである。 前者は事有る毎にそこに立ち返り後者は常日頃そればかり
を探し続ける。 これ両方経済であり、同じ場所で活動する、社会的には。 両者
は思想空間上、人生哲学上は正反対に位置しているが当人たちは日常的には同じ事
をしていると思っていたりする、というか、後者が前者を「同じ事をしているのに
彼らばかり評価されるのは不当だ」と言うのが普通の社会。 経済論はデトロイト
なのか。 やれやれだ。
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無明論

2013-07-12 15:04:25 | Weblog
さて「とある文化圏AにつきA人の敵はA人である」を無明だとした。 さてこれに
「とある文化圏につき」が必要なのだろうかと考える。 無明状態と非無明状態と
が有った場合その単位はおそらく文化圏だろうよってそう書いておく方が適切。
個人単位での無明あるいは人類規模でのそれとするとその一文が定義に無い方が
考えやすいかもしれない。 個人や人類単位を一文化圏とする事は可能でありそう
いう使われ方も少なくはないと思う。 個人を「意思の多」とするのは独特なの
かな?まあいいや。

無明状態の指摘自体はそう難しくないはず。 定義さえあれば誰にでも可能とする
事も出来る。 問題はどうやって抜け出すかだ。 抜け出したつもりがそこもまた
無明だという例には事欠かない。

中国は無明か。 全体的にそう。 朝鮮半島は無明か。 北は南を南は北を敵とし、
南では人は他人に対し地縁血縁など「敵ではない条件」を提示しようとし、北では
人は労働党員を前に「彼こそが右派であり私は違う」と言う。 無明である。
日本は無明か。 部分的にはそうだとする。 左翼文化は無明に根を張る。 現代
最大のそれを私は「売女の正義」と指摘する。

さて「売女の正義」と出た。 無明の定義に続きさらなる無明理解の鍵になるかも
しれない。 というか「これだ」という確信がある。 まあ私にあった所で読者に
あるとは限らないが。 売女の正義とは何か。 売女気質の人間、男女問わず、が
持とうとする社会正義の事である。 売女気質とはどのようなものか。 見目の
良さで良い地位を得ようとする人の生の方向性である。 そういった人たちが主張
する正義とはどのようなものか。 自分たちがそうある事を認めさせるよう法律で
強制しよう、そうするべきだというものである。
売女の正義に集う人たちはなぜそうなるのか。 私はこれを、「人は自然には助け
合わない」という人生哲学の下に暮らしているためと見、助け合わせるため特に
自分を助けさせるためには自分に飴としての華美が、また社会には鞭としての法が
必要だとするからなのだろうとすると。 そして法を制定するためには恫喝も辞さ
ないといった方針に転じると。 人の敵は人、その結論としてそう。

人は助け合わないのか。 社会は無形の好意によって形作られている。 他人に
対し他人として生き続ける事を当然とし容認する、その継続性のための行為を肯定
する、社会があると言われる場所ではそれが当たり前で無ければ全員が泥棒だ。
そこにそれを見るか見ないかがそのまま、その人がどちらに所属してるかになる。

無明社会はどうすれば無明社会では無くなるのか。 子供に無明論を教えれば彼ら
はそのまま選ぶだろう。 選ばれた社会の一方は無明ではない側となる。 そこに
あなたが居るとは限らない、ただそれだけの話か。 では無明の側の人が非無明の
側を選ぶ事は可能か。 私はこれを別に難しくもなんともない事だろうとする。
持っている無明を捨てればいいただそれだけの事だと。 それこそが難しいのだと
言われたら、まあそんなもんだろうと答えるか。
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「ずーっといなかに居る人間は駄目だ」という主張を見た

2013-07-12 15:04:02 | Weblog
表題の主張、なんとなく判る気がする。 気がするのだがそれが「これ」と言った
形にならない。 元の主張、「やっぱり田舎の方が良かった」はありだとしていた
ので田舎での生活そのものを否定しているわけではない模様、おそらく田舎にあり
がちな、他では通用しそうにない駄目人間の多くが外で経験を積む事を始めから
拒否しているような、そんな話なのだと思う。 なあなあ的で刹那的、どことなく
他人がする事を馬鹿にしているような態度で気分次第で当たり前に嫌がらせや足
引張りをする、そんな人を想定。 これが「人としておかしい」というものを
マナー的主張とモラル的主張とに分けて見てみると。
書いて、みてなるほど、と思った。 「なあなあ的」と「気分次第の足引っ張り」
がそのまま田舎的排他性になりそうだ。 新規の変化に対し村人の多数が「嫌」と
なったとしようその場合それがなあなあ的に村の空気となり「険」となる。 気分
次第の嫌がらせをしてはいけないというルールは村には無くよって新規の側は村人
の多くから「険」を受ける事となると。 逆にこれ多数が「好」となると小数の
「嫌」となった人は「偏屈」とされ、彼らからの嫌がらせはやっぱり有るが、その
変化の主張者からは村自体はリベラルだとの評価を受けると。 こうして見ると
この構図って「芸能界の掟」や「労働組合の空気」などと同じ物なのではないかと
いった結論が浮かんでくる。 なるほど都市部には田舎を邪としたい人が多く彼ら
がそれを田舎特有の現象だとしている、そうする事も可能か。
さてマナー主張とモラル主張だ。 ここで挙げた構図を新規変化の側視点で書くと
「自身がもたらした変化に対し村人が好きと嫌いとに分かれる」で「嫌いの側が
各種嫌がらせをしてくる」の二段階になっている、となる。 「自身の変化に対し
村人は好意的に接しなければならない」とするのはマナー論だな。 リベラル主張
などが伴う事も多いと思われるがそんなもの各人の勝手、つまりこれはゴミ。
モラル論的に問題視するのは「嫌がらせ足引っ張りが当然」とするもの。 これは
田舎だけではなくリベラルメディアの行動にも共通しているがまあここではそこに
は踏み込まない。 何故田舎では「嫌がらせが当然」となっているのか。 多分だ
が、人間関係、特に内的なそれが善だとされているからだと見る。 「善である」
からモラル上マイナス、無い方無くす方が良いものまで肯定されてしまっている、
そうなってしまっているのだと。
さてどういう人がモラルよりも内的人間関係を是とするのか。 癒着的な人だろう
と見る。 田舎に生まれてそこに癒着関係を見出せばもう都会に出る理由は無い、
そういう話なのかもしれない。 都会で癒着関係を見出そうとすると労組や新興
宗教あるいは各種政治圧力団体の思想的運動となるのかもしれない。
モラルとは何か。 他人の生存条件の優先である。 生イコール食が転じて生産性
の優先となったりもする。 癒着的な人にはこれが無いらしい、当面の雰囲気的
癒着性が優先される一方で生きられるかどうかは考慮されない。 本能的好嫌だけ
でも死なないじゃんみたいなライフスタイル。 人はそれを田舎と、それこそが
田舎なのだと言うが、はてさて。
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傍観中

2013-07-10 13:46:18 | Weblog
エジプトのバック、シリアのバック、イラクのバックで三つ巴になりつつある
ように見える。 お前ら足引っ張りじゃなく安定化に努めろよと言いたい、
特にエジプトの。

反捕鯨運動について書こうかと思ったけど書く事ほとんど無いんだよね。
白人たちが始めた運動が「みんなやってたから」って理由だけでそのままそれ
が正しい事のように思えてきて続いちゃったってだけなんだから。
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天使論(赤)

2013-07-10 11:51:42 | Weblog
九龍城砦のテーマパークらしきものが日本にあるのだそうな、「伝説のスラム街」
と謳われていて、場所が川崎と知ってすこし笑った。 邪悪な話ではなく。

キチガイサヨクとは何なのか。 最新の答えは無明で、少し前の答えは邪神憑き
だった。 人口増加を正と置くと「戦争は最高の媚薬」なんて話も正になったり
するが人の寿命が延びれば新たに人が生まれる必要性も無くなってきたりする。
人口増加を否と置くとどうなるか。 何故後進国に激しい人口増加が有るのか、の
答えが「人が奴隷を欲しがるから」になったりする。 男は家の中で、女は家の外
で働く奴隷を欲しがり欲がぶつかり合った結果子供が生まれてくると。 育った
子供は「私にも奴隷を」と言い出すこれが平等欲。

切れる17歳世代、という話をネットで読んだ。 バブルとともに育った連中が常識
固定期に崩壊を見、世に出る頃に表面化したのだろうというのが私の社会科学的
考察。 社会科学ではない解釈は、去られた世代が準備にアテられたのだろう、と
見るもの。

戦国時代に来日した宣教師が日本人たちに問われた事に、キリスト教入信が条件
ならば俺たちのご先祖様はどうなったのだというものがあった。 宣教師が当然
地獄行きだ、と答えると、日本人たちはならば地獄の方が良い、と答えたと。
私はこれを布教上の上手い下手云々ではなく「自分たちのみ」とした宣教師たちの
傲慢と見る、ただし、現代の朝鮮人につきこれを逆としているつまり、早く逃げ出
さないとチゴク行きになる、お前が周りに「うそつきだ」「うそつきを止める」と
言えばお前はそこからはじき出され結果助かる、お前が助かればひょっとしたら
お前の周りも気づくかもしれないぞ、と。 これをして私の傲慢と言うかね。
無明は説明した。 好きにしろ。

フィルターの設置場所。 東のフィルターが除かれ西に置かれる。 候補らしき
場所が三つあり、それぞれマゴグ案、バビロン案、ローマ案となっている、と見る。
ロシアが良くしない事で第一案、アメリカが良くしない事で第二案となるだろう
そんな話。

さてフランスである。 最近エジプトと言うとフランスであり、フランスと言うと
アカである。 ではフランスは赤の欧州か。 フランス人イコール赤ではないが、
現状赤の欧州がどの国に当てはまるか、と聞かれればフランスだ、とするだろう。
イギリスが白、ドイツが黒とすると残るはあそこだ。 その国の人意外は「ああ」
と納得するんじゃないかななんて思ってる。 赤はフィルター設置担当なのか。
どうやらそうなっているらしい、東での稼動結果は良好。
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お菓子の国に戻ればいいのに

2013-07-07 10:17:10 | Weblog
エジプト分裂を朝鮮半島と置く。
すると西サラセン、東サラセン、となる。
朝鮮半島の計画上の役割は何かを一つ書くと、フィルターである。

分裂させない、は当面の答えだが、さて彼らにそれが出来るのか。
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