狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

改革

2011-05-30 11:56:36 | Weblog
クレヨンしんちゃん、という漫画がある。
実は私、日本人の半数が眉をひそめるだろうこの漫画を
良くされている漫画に分類している。
海外に出せばさらに多くの割合の人が眉をひそめることだろうと思う。
だからといって別に、それに眉をひそめる人たちを悪人だと言っている
わけでもない。

テレビとの癒着を見るに、創価学会というのは喝采の徒だったわけだ。
単にそういう人たちが寄り集まっただけなのか、それが違うものに
変化していっているのかの違いは代表の言行に現れていると見る。
集団の志向、方向性というヤツだ。

正直宣伝戦で左派に勝てる気がしない。
前も負けたし。
それを以って彼らが私を負け犬と呼ぶのならそれはそれで、事実だ。

改革の必要性とはどのような時に出てくるのか。
どのような時に認識されるようになるのか、の方が正しいかもしれない。
まず体制が出来る。 これは概ね必要性に応じて構築される。
だが当然必要とする人としない人が居る。
改革が必要だと叫ばれるのはその体制のコストが必要性を上回った、
と認識された時だろう。
必要認識よりもコスト意識の方が強い人が改革支持派、という事になる。
本当だろうか。
はっきり言おう。
私は違うと思っている。
体制内部および周辺の人間の方が金回りがいい。
それを目にした人たちが改革派を自認するのだろうと見ている。

改革の必要性は、体制構造の必要性とコストのバランスで決まる。
必要性はサービス、コストは税金と言い換えてもいい。
今日の先進国では必要性は、無政府主義者でない限り
誰もが認識しているだろう、つまり問題はコストの方だ。
つまり必要なのはコストカッターだ、ということになる。
そしてコストカッターに求められる能力は、
優先順位を見極められるかどうか、となる。

なるほど。
私が彼らのままで良い、と言うときはその人たちが各政治の優先度を
正しく認識しているだろうと見ている時で、彼らを選ぶなと言うときは
優先度の認識が狂っているあるいは無い人たちだと見ている時らしい。
そして世間の人間がそれを「見る」事はほぼ無く、
そういった認識が必要だといった意識を持っている人も
ほとんどいないと思っていると。

さて金回りの良さとそれを見る目。
どう評価するべきだろうか。
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理想の占領統治

2011-05-30 11:55:50 | Weblog
人口一千万人の後進国を占領したとする。
まず最初に何をするか。 何を目標とするか。
最初は当然食料配布。 三分の一を食わせるとして三食で一千万食、
一ヶ月三億食、一年で三十六億食。
一食あたり百円とすると毎年三千六百億円かかる。
もちろん食料配布を必要とする地域がなければそれだけ減る。

次が刑務所。 収容所とも言う。
反抗的な人をぶち込む。 これをしないと占領が成り立たない。
占領と収容所体制構築だけで普通は一年はかかるかと。

病院、道路、水道、農業、小学校、大学。
これらは五月雨式の構築になる。
このうち最初に作るものは病院になる。
戦闘で負傷者が出るからというのもあるだろうがそれ以上に
占領維持のためのエサと大義名分が必要だから。

医者は当初、ある程度外部から呼ぶ事になる。
人口一千万、一万人に一人必要とすると千人、年俸と経費が
一千万かかるとすると毎年百億円、看護婦が同額とすると
合計で毎年二百億円。
医者十人に一人病院を作るとすると百軒。
一軒あたり建築費十億円かかるとすると一千億円。
作ったら作っただけ既存の開業医の経済を圧迫するが、
その問題は反抗的な医者を収容所にぶち込むことで解決する。

道路、水道、農業。
道路が無いと軍隊以外は何も出来ないので道路が先だろうが
それ以外もすぐ必要になる。 また食の問題をとっとと解決したいこと、
そのために何が必要かを見るためにも農業にも早期に手を付けたい。
長さが何キロで水量がいくら、耕地面積がどのくらいと計算するべき
なのだろうがここではまとめて人口の二十分の一を雇用すると見做す。
年俸百万円で五十万人。 これで五千億円。
ここまでで初年度の占領統治費用一兆円かかることになる。
内半分が現地人の雇用、三分の一が食料配布。

小学校。
学童を人口の一割、百人につき一校作るとすると一万校。
これも既存の教育システム、後進国なら宗教系だろう、
を圧迫することになるが、やはり収容で解決する。
教師を一校あたり五人配置するとなると五万人。
給料諸経費込みで五百万円とするとこれが二千五百億円。
学校建築が一校一億円とすると一兆円。
だがこれはすべて初年度に手を付ける必要は無い。

大学。
は趣味の物なのでとりあえずは計上しない。
最終目標には必要だがその時は作った小学校のうちの幾つかを振り替える。

初年度の予算が一兆五千億円くらいまで膨れ上がった。
二年目以降は一兆円くらいまで下がるとしても、十年は必要。

さて初期構築が上手くいったとする。
次に何をするか。 撤退である。
とは言っても軍隊が引き上げるわけではない。
彼らは後進国再構築が済むまで居ることになる。
食料配布の停止。 これが十年目安。
これは計画的にすることでは無いのかもしれないが、
必要無いと判断された地域から減らしていく。
病院、学校の独立採算化。 二十年くらいを目処にする。
これだけの期間があれば学校教育を受けた人たちが社会の中に
それなりの数出現する事になる。 母校の維持を彼らにやらせる。
病院も同様、経済的には患者と元患者が維持する。
ここに最終目標が見えてくる。
医者と小学校教師の現地生産である。
これに何年かかるか。
学校教育および職業訓練に二十年かかるとすると、占領初期とあわせて
それだけで四半世紀、小学校教師が小学校教師を作る、という状況が
出現するまでその二倍の半世紀かかることになる。
これが終わるまで軍隊と収容所が必要だ、という結論。
もちろん、現地政府が出来ればそこに引き継いでもいいが、
政治を見ない人たちはそれを独裁者と呼ぶだろう。
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代表幻想

2011-05-30 11:55:33 | Weblog
なにやら経団連が狭まった糞門の拡張をしているらしい。
私はそこは狭い方が好ましいと思っていたのだが、上の判断は違う模様。
そこから入って来る人たちは飯より先に風呂に入れ。

私は何かを代表している、なんとかの集団の利益を代表している
などといった発言は、大概が代表幻想なのだろうと思う。
統計上の代表つまりサンプルだと言っている可能性もあるが、
彼らがそういった趣旨で発言しているようには私の目には映らない。
代表幻想とはどういった現象か、どのような時に現れる物か、
書くならこの二点だろう。

代表幻想とはどういった現象か。
これは正規の代表というものがどういった形で出来るかを見れば判る。
選挙で選ばれる、代表者の集まりである国会のような場所で承認される、
承認された者から辞令を受ける、あるいは地域住民全員を巻き込む
内戦で勝ち残る、最初に代表がいてメンバーを募るなどか。
一般的には国家の長が選挙や承認、外交官や兵隊が辞令、名家が内戦、
企業の社長などが最初から居る例か。
これ以外による代表が代表幻想による代表だ、となる。

代表幻想とはどういった時に現れるか。
二十世紀後半の社会、「女性」や「労働者」といった発言にこれを見る。
活動家と名乗る人たちがこれらを代表しているのだと主張していた。
どうやら不満人たちが増えてくるとそういった人たちが支持される
ようになるらしい。
代表幻想はそれに応じて出てくると。

何故正規の代表と代表幻想による代表とを分けるのか。
これは簡単、後者はエゴの産物でありそれの意味するところは内乱だ。
よって私はこれを嫌う。
これを好む人たちは改革だ、と言うのだろう。
どうだろうな。
はっきりと反乱だ、と言う方が私は潔いと思うが。
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ヨーロッパにおける文化移動

2011-05-30 11:55:04 | Weblog
一説によるとイエス氏は四月の生まれらしい。
それに関する認識の違いに二つの切り取り線のようなものを見る。
一つがキリスト教徒とユダヤ人とを分けるもの、もう一つが
キリスト教内部を分けるもの。

現代にまで至る欧州文化の起点は欧州人が言うようにギリシャなわけだ。
イベリア半島やバイキングを起点とすることも不可能ではないのでは、
とも思うのだがそういった説は見た事が無い。
単にまだ見てないだけかもしれない。

ギリシャを起点とすると、それはローマ時代に西進した。
そしてカエサル氏の時代にガリアが征服され、
それは地中海ではなく欧州となった。
少し下ってそこまで生き延びていたエジプト文明の滅亡があるわけだが
私はそこを猫の起点と見ていたりする。
それ以降が猫文化、それ以前とされる時代は犬や牛と違って猫地質学、
つまりは恐竜の仲間。

まあ欧州文化だ。
地中海沿いに広がったギリシャ文化はそのあと東西に分裂、
東ローマ文化および西ローマ文化といった形で北上するわけだ。
そのころ北アフリカをイスラム文化が征していると。
イスラム文化はイベリア半島およびバルカン半島にも進出するが、
結局押し戻されている。
その後モンゴルがやってきたりと色々あって、東西文化が融合する形で
出来たのがドイツ。 フランスやイギリスが有力国でも有る事から
現在の欧州は西ローマの色彩が強い、とも取れる。
この三国の文化勢力で見るとドイツが強いと融合型、フランスが強いと
東西対立型、イギリスが強いと南北対立型の文化傾向が強まる、となる。
イタリアが強くなると多分地中海型になるのだろう、が、
今のところその傾向は見られず。

冷戦後に何が起きたかというと、旧東側の人間の西側への出稼ぎ。
これはこれで、融合傾向にあるのだとも言える。

欧州文化のアフリカ進出をどう見るか。
一言で言うなら啓蒙だろう。
アフリカ人は啓蒙されるのが正しかったのか。
それは知らない。
とりあえず欧州人はそうだと言っている。
アフリカ人もそう思うのならそうあればいい。
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盆栽の平和

2011-05-26 08:15:24 | Weblog
日本人の半分は江戸時代を理想とする。
残りの半分はそれを悪とする。
江戸時代の日本から日本だけでゆるやかに国民国家へと移行する事は
可能だったか。 私は可能だったと見ている。
その兆しはあった。 流れもあった。
小さく留められていたものが開放されたのが明治維新だった。
そして日本人以外の人たちもそれを見た。
明治維新は日本を変えるためにあったのではなく
変わる日本を知らしめるためにあった、とそうなる。

アウシュビッツ。
地上の地獄として知られている。
私はそこは江戸時代の日本と同じ意味で恵まれた環境だったのでは
とも思う。
もちろんその事に気付かずそこに居たとすると、
やっぱりそこは地獄でしかないのだろうけれど。

相変わらず「鉢植えの平和」のどこが悪いのかが判らない。
それは恵まれていないと実現しないのかもしれない、とも思う。
でも何故実現しないのかが判らないので、やっぱり何が悪いのかの
判断がつかない。

恋愛する男女がいたとする。
彼らが望むのが鉢植えの平和だろう、そしてその永続。
人によっては栄光を望むのかもしれないが、それが恋愛か
と問われると私は首をかしげる。
ただ相手さえいればいい、それが恋愛と言うものだ、と聞く。

社会的にはこれはおかしいということはすぐに判る。
日本語でこれを揶揄あるいは迷惑物としてバカップルと言う。
社会が分業で成り立っているのに相手しか見ていない。
ご飯を食べてももお百姓さんに感謝しない。
食べ物に対していただきますとしない。
言ってもただ言うだけ。

では村社会で自給自足が成り立っていたとしたら。
実際には海なり陸なりで生態系が繋がっているのだが
それが駄目だとする理由がピンと来ない。
相変わらず、鉢植えがいっぱいあるだけでいいのでは、と思える。

村があって全員が食えていて、正月に神社にいく。
それでいい、と半数の日本人は思っている。
そうではない人たちというのは何故そうなのか。
おそらくそこの鉢植えの環境を、嫌っているのだろう。

世界中の人たちに良くされている環境がある。
ガザだ。
さてそこは地獄なのだろうか。
その事に気付かなければそこは地獄なのだろう。
ではガザを良くしようとする人たちは、そこが地獄だから良くしようと
しているのだろうか。 近くならば、おそらくそうだろうと思う。
遠くならば?
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日本のテレビ業界の価値と在日朝鮮人

2011-05-26 08:12:27 | Weblog
日本のテレビ業界の癒着相手として挙げられる集団は多い。
自動車業界や日弁連、創価学会などがそうだったりするがここでは
近年その筆頭とされる事の多い在日朝鮮人との関係を見てみる。

彼らがあらわにそう言う場面はまあまず無いだろうが、テレビ業界に
所属している人が自分たちは在日朝鮮人に対して良くしている、と
思っているだろう事は想像するに難くない。
これが事実であることを一応仮定とし、話を進める。

テレビ業界人が良くしていると思っているこの在日朝鮮人という文化を
共有する集団、これが一向に良くならない。
良くしようと言う方向性を持つ人は帰化か帰国かを選ぶだろうから当然だ、
と言われればそれまでなのだが、良くされた結果集団にそうした方向性が
出来てくる、といった現象が無いのもまた事実。
テレビ業界人は良くしていると思い込んでいる。
「良くされた」在日朝鮮人は良くならない。
親が子供に良くする。
子供はそのうち大人になる。
この違いはいったい何処にあるのか。

親が子供に良くするとはどういった行動なのか。
子供を大人にすることである。
大人になった、つまり社会で働くようになった、子育てするようになった
子供を見て親は、自分が良くしたつまり育てたのだと認識する。
私は現在どちらもしていないが、何故そうあるようにされているのかは
上の都合によるものでありその理由を私は知らない。

「良くする」という行動はどういったものか。
まずは飯である。
これは人が飯を食う存在である限り変わらない。
「される人」が腹が減っていなければこれは当然飛ばされる。
順次必要に応じて服、寝床、病気のときは医者と薬、娯楽、教育、友人、
年齢と方向性によって職業や結婚相手などと続く。
就職し結婚した後も困った事が有れば助ける、などが「良くする」行動。
必要は千差万別なのでその後一概にどういう形になるとは言えないが、
最終的には人を医者に、教育者に、指導者にするといった方向か。
「良くする」とは「良くする人になって欲しい」という方向性を持った
行動であるようだ。

何故在日朝鮮人は周囲に対して「良くする」という存在にならないのか。
これはそういう文化が彼らの中にあるかだらと見る。
では何故テレビ業界人はそれを良しとするのか。
私はそれが、彼らにとっての彼らの価値だからだろうと見る。
喝采されることがそれか。
それがあるのは一時の事でしかない。
続く価値と続かない価値の差か。

前回と今回とで三つのモノが出てきた。
地位と、続く価値、続かない価値。
テレビ関係者は在日朝鮮人に対して「歴史の被害者」という立場を
投げ与えているわけだ。 永遠の弱者という地位。
そしてそれを、在日朝鮮人が喝采する。
彼らだけで完結している。
ご覧のとおり両者はひとかたまりになって転がり落ちているわけだが
小さく完結する関係の何が悪いのかがはっきりとしてこない。
ふむ。
テレビ業者が持っていて与えている地位も欲しがっている喝采も、
本来は広に対してのもののはずだ。 言い換えると公になるか。
だが彼らはそれを狭い範囲のものにしてしまっている。
そこにあるのはそれ以外の無視。
そしてそのことを喝采する人たち。

テレビ業界人は喝采を、続かない価値を求めてそうなった。
では在日朝鮮人が求めているのは何か。
それが地位なのだろう。
自分たち以外が無視される世界。

恋愛が続かないものとして定められているのもそれゆえか。
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自分の中の自分の価値と自分の中の自分の地位

2011-05-26 08:12:02 | Weblog
自分の中の自分の価値と自分の中の自分の地位、と言われても
それが具体的に何の事を指すのか判らないだろうと思う。
自分の価値、だけなら判るだろう、だが地位というものは
一般には社会の中にあるものだ。
こう考えてみたらどうか。
自分が複数居る社会があると。
そうするとそこに、それぞれの自分の地位が出来てくる。

自分の価値とは何か。
他人の価値なら簡単だろう。
提供される飯だったりセックスだったり敵だったり、あるいはもっと穏当に
遊びの相手だったり相談相手だったり。
これを自分の中の自分に当てはめると自分の中の自分の価値になる。
自分の中の他人に対する自分の中の自分の価値。
これはこれで、何らかの形で社会経験で出来ている。
そして自分の中の他人は自分の一部。

地位とは何か。
社会における位置づけだ。
実社会ではもっぱら肩書きで判断される。
自分の中の自分の地位とは自分の中の他人に対する自分の中の自分の
位置づけであり、そしてそこに肩書きがあったりする。
肩書きを服装と言い換えてもいいかもしれない。

自分の中の自分の価値は他人の顔で現される。
そして自分の中の自分の地位は、着飾った自分の姿をしている。
有る無しの組み合わせ、それぞれを見てみよう。
価値が有り、地位が有るという状態。
他人が着飾った自分を喜んでいる状態だ。
価値が無く、地位も無い状態。
他人がみすぼらしい自分を嫌っている状態。
価値が有り、地位が無い状態。
他人がみすぼらしいままの自分を喜んでいる。
価値が無く、地位が有る状態。
他人に嫌われる着飾った自分。

日本で、馬鹿な子供がよく言うとされるフレーズに「みんなそう言っている」
といったものがある。
これにこの、人の中の人という構図を当てはめるとその子供の中に社会があって、
そこに居る彼の方を向いている人たちがそう言っている、となるわけだ。
この解釈が正しいとすると、馬鹿でも子供でもそれがある。

自我とは何かの答えが、鏡に映る着飾った自分だ、といった文を以前書いた。
ゾロアスター教だかの問答だったと思う。
人が日ごろ自我と呼ぶものがそう見えるのかもしれない。

人は地位を求める。
男は長になりたがり、女は長の母になりたがる。
幸か不幸か支配欲と被保障欲は対になっている。
上の立場があるということはその下に、下の立場があるということ。
上の立場とは何か。
指導する立場である。
判断しない人、責任から逃げ続ける人、指導する能力のない人がそこに立つと
その下となった人たちの顔は苦痛に歪む。
その人の中のその人の価値は上に立つべきではないのに上に立った時から
減っていき、そして無くなる。
地位はどうか。
上に立つことさえ出来ればそれだけで出来る。

価値は何か。
飯だ。
飯の価値は何処にあるか。
その人の腹が減っていることにある。
必要だ。
衣類、家、薬、教育、就職、結婚、育児、遊び相手。
他人がこれらを必要だとする。
目に見える必要が他人に有り、それを満たす人が助ける人。
それがいずれその人の価値となる。
「助ける人」という地位を求める人はその地位を見ているのであって
助けられる他人は見ない。
地位はあっても価値は無い。
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ノモンハン

2011-05-26 08:11:09 | Weblog
先週アダルトDVDを売ってきた。
実写の男と若い女が映っているヤツが数本。
別に売りたかったわけではない。
お金が無かったのだ。
一本平均百円未満の二束三文、硬貨で帰ってきた。
帰りに牛丼屋に入ったらそれはほぼ無くなった。

気になったのでノモンハン事件を確認してみた。
原因はモンゴル国と満州国との国境紛争、
後ろ盾がソ連か日本かという差はあれ両国とも似たような成り立ち、
日ソ双方に侵略の意図があり小競り合いが頻発していた。
意図の場所は日本の方は現場が積極論で東京は及び腰、
ソ連の方は独裁者の胸先三寸と。
日本側の分裂は植民地経営的と見るべきか非対称同盟的と見るべきか。

ソ連は近代化工業化に成功しており日本は継続中、
軍はソ連では士官の粛清が進行中で日本側は旧時代の悪癖を
引きずっていた、とは言っても、個々の悪癖は指摘されてはいるが
その時点でどのような政策を取ればそれらが良くなったのか
といった言は現状見当たらず。
戦闘は前半は日本側有利、後半はソ連の勝利。
兵器の質では日本側が劣っていたが兵の練度で上回っており
死傷者数は同程度だったと見られ、損害はソ連の方が大きかった。
双方とも侵略の意図を残したまま政治状況は戦闘前と
さして変わらぬ状況のまま停戦、日本側は情報隠蔽努力から
中央の政治が混沌化する。

その後日本は南進策を取り華北からさらに侵略、対米戦争に突入し敗戦、
ソ連より満州国を与えられた毛沢東軍が東ユーラシアの半分を征服し
中華人民共和国が成立、モンゴルはそのまま残る。

大正時代以降日本はグレートゲームの参加国として振舞うことが
当たり前になっており、戦後日本の文脈はその中での
軍部の失敗を糾弾した上に人道論で着色する形になっている。
何がアカデミズムだ。
私がべき論を言うなら英帝と米帝とソ連と仏帝と独帝とをぶっ潰し
中国を征服し中国人を啓蒙した後日帝を解体するべきだったとなる。
全帝国消滅なんて事態は有り得ないだろうと言うかもしれない。
だが機会はあった。 例えば、冷戦終了時とか。
まあどの道、日本の大学文人たちの言にはなんの価値も見出せないことに
変わりは無し。

どうも歴史上の事実関係は認識していたのと違っていた模様。
調べないまま取り上げていました。
ごめんなさい。
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お金の使い道

2011-05-23 10:53:28 | Weblog
老猫の面倒を最後まで看たのは母だった。
だから彼女はそれを以って「助けた」と言うことができる。

ラクダが針の穴を通るよりも難しい、という言葉がある。
こういう発言をするからにはそれに対する具体的なイメージが有ったわけだ。
無かったとすると相手の傲慢さを嫌って蹴っただけ、ということになるが
それでもなんらかの形で構成員としてふさわしいとする基準があり、
上の発言はそれと矛盾しないものだったとなる。
弟子が居るという状況や以前以後の発言などからそれは有った、
と見るほうが自然だろう。
そのイメージはどこから来たのか。
なんらかの形でそれが出来上がる人生経験があったはず。
大工の経験、ローマ帝国の統治、都市部及び地方のユダヤ人社会、その対比。
建築作業員としての共同作業に何があったのか。
そこから大金、税金、貯金というものをどう見たか。

お金の使い道、というものがある。
手元にお金がある、または未来にお金があると想定してする判断である。
並べていって見る。
100円 自炊する食費一人当たり
500円 自炊でおかずを多くした場合
500円 外食で安く済ませた場合
1,000円 外食した場合
1,000円 本を買う
5,000円 普段着を購入
20,000円 仕事用の服を新調
30,000円 自転車を買う
50,000円 パソコンを買う
100,000円 ノートパソコンを買う
500,000円 中古車を買う
1,000,000円 新車を買う
20,000,000円 家を買う

一般的な意味での購入物では家が一番高い。
それに対して趣味の費用はだいたいその数万分の一から。
家、車などを不動産といい家具やパソコンなどを耐久消費財と言ったりする。
今日の社会で木の下で寝起きする人はほとんど居ないだろう、
家は限りなく必須に近いとされている。
優先順位で行くとまず食料、そして衣類、その次に家屋となる。
財産の問題というのは何故全員に家があるわけではないのか、という形に
近似することが出来る。 何故ならそれが一番高いから。

何故皆が家を持っているわけではないのか。
これの答えは皆が家を買うわけではないから、となる。
辺鄙な田舎のクソ安い家なら土地付きで百万円くらいからで買える。
これは一人暮らしのサラリーマンなら一年働けば貯める事が出来る金額だ。
何故買わないのか。
借家でも生活に別に不自由しないから。

人生の目的は何か。
大半の男のそれは、大まかに二通りと見る。
社長になる、家長になる、この二つ。
スポーツ選手や芸人、議員などは個人事業主つまりは前者だ。
サラリーマンの平凡な幸せ、と言うときはだいたい後者を意味する。
家長になるためには結婚する必要があり結婚のためには地位が必要であり
地位のためには学位が必要であり学位のためには大学受験に通らなければならず
大学受験のためには勉強が必要である、と今日の社会はそうなっている。
目的実現の最大の難関は地位であり、それさえあれば
それ以外はわりと簡単に揃う、そう見做されている。
生活のため、という言は大概がウソで実際は地位のため、そう見る。

お金の使い道は地位を目的としている。
貧富の差は地位のために出来ている。
皆が地位を目指すときにそれが出来上がってくる。
そう見える。
皆が地位を目指す中で貧富の差が無い社会というのはどういった状況か。
収入が同じ。 借金も運用も無い。
作業に対する周囲の評価が無く、使い道つまり財産の自由も制限されている。
そんな社会の中に目指す地位だけがある。 わけが判らない。
では地位なんてどうでもいいと見切ったらどうなるか。
食費だけ、衣類だけ、家屋だけ、あとは趣味。
そういった生活になる。
そこにある地位とは建築の指導者、といったものだけになる。
それでいいんじゃないかとも思うのだが。
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児童虐待

2011-05-23 10:50:15 | Weblog
平和な家庭、愛のある家庭といった常識に鑑みてクソみたいな親、
と評するのが妥当だとされる人が、時々居る。 居るとされる。
そこに、天使みたいな子供、と評される人が居たりする。

クソみたいな世界だと思って生きている人たちが居る。
私はそれを間違っているとは思わない。
むしろ正しい状況判断の一つと見る。
私が間違いとするのはその後の行動、彼らはクソみたいな世界を
さらにクソまみれにし、その上で元からクソなのが悪いと言う。

幼少期のモーツァルト氏はクソみたいなガキだったと推測する。
大人になっても変わらずクソみたいだったかもしれないが。
モーツァルト氏の親が、こんなクソみたいなガキ要らない、と言ったとする。
私はこれを間違っているとはしない。
音楽の才が有ろうと無かろうと、クソみたいなガキはクソみたいなガキだ。
もらった物を突っ返すというのも一つの判断。
世間的にどんなに良い物でも受け取った当人たちにとっては苦痛でしかない、
そんな物もある。

クソみたいな親の下に生まれた天使みたいな子供。
これを天使だと仮定すると面白い構図が見えてくる。
何故彼はそこに居るのか。
クソみたいな親を救うため、というのが直近の答えだろう。
ではそのクソみたいな親にこの構図はどう映るか。
その子供はクソみたいな世界を決めている連中が送り込んできた回し者。
そうなる。

その親の救いは子供にある。
これを児童虐待という状況に当てはめると実際に救済が必要なのは
虐待されている子供ではなく、虐待している親の方だという事になる。
だがその状況をより正確に判断しているのは子供ではなくむしろ親の方だ。
ではその、救いを必要としている親を刑務所にぶち込むことは正しいか。
これは判らない。
その子供が天使だったと仮定した場合の彼がそこに居る理由は否定される。
だがそれで、虐待を見てきた周囲の人たちのクソみたいな状況は多分
救われるのだろう。

天使みたいな子供と救済の必要な親。
これを人類すべてに当てはまる、としてみる。
そうすると、人の子はすべて人の子なのだ、となる。
まあ仮定の話だ。

では虐待を受けた子供はクソ親をどうするべきか。
いや別にどうも。
ほっといていいんじゃないかな。
機会はあった。
後は当人の問題。
老人を助けたいのなら近所にでも居るだろう、そっちを助ければいい。
とは言ってもクソ親が受けていると認識するだろう不利益はせいぜい、
周囲からクソ親だと見られるという事だけなのだろうけど。
なるほどまともな人は「周囲からどう見られているか」を気にするわけだ。

救うとする側が実際には救われていて、救われるとされた側が
実際には救っている。
じゃあ悪魔みたいなクソガキというのはなんなのだろうか。
悪魔も天使か。
あまり気にしなくてもいいのかもしれない。

世界をクソだとしている人たち、いや特に彼らに限る事も無いかもしれない、
は私の言う「良い」は単に他人に都合が良い生き方なのだろうと取るのでは
ないかとも思う。
私は彼らがそう認識する分にはそれは間違いではないとする。
私の言う「良い」と彼らの言う「都合が良い」は若干違うのだが、
どの道彼らはその差を認識しないだろう。
要は誰が腹が減っているか、なのだが。
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