狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

イギリスと、いわゆる従軍慰安婦問題

2015-03-31 15:54:28 | Weblog
ネットにロバート・エルドリッジ氏の解雇撤回要求の署名依頼が出ていた。
解雇事由は何やら基地内映像の無許可公開らしい。 私は「解雇」自体は政治
判断から来るものでありその判断は、旧来の事なかれ主義による誤りではない
かと思うが事由は正当なものと見ると。 要するに「解雇」に関して事を大き
くするのは賛成だがその際にアメリカの主権を侵害するような主張は避ける
ようにと。

日帝の東南アジア侵攻は解放戦争だったのか。 何を以って「解放」とするか
は後回しにするとして日本人がこれに「解放の色彩もあった」と主張する根拠
の一つが当時のインドネシアの状況なんだな。 当時のオランダ領に居た
インドネシア人たちの状況は、端的に言って家畜状態だったと。 家畜状態か
ら日帝支配下人間状態へと変化したのだから解放だ、そういう趣旨。 つまり
それを「解放戦争だった」としている日本人の一般的主張は「侵略でありかつ
解放であった」なんだな。 より正確には「植民地地図の塗り替えなので旧来
の侵略の意味にも合わない」であったりもする。
さて解放の定義だがこれは人それぞれだろうなので現状で「これなら解放と
呼べる」というものを挙げる。 インド軍がチベットに侵攻しこれを自国の
連邦構造に組み込む、というもの。 私はこれが起きたら「チベット人たちは
解放されたのだ」と見做すだろう一方で、中国と中国の友人たちは「侵略だ」
と罵り続けるだろうこれが私の「第二次世界大戦における日帝の東南アジア
侵攻は解放戦争だったのか」の答え。



昨日ここにあった。
女が邪魔をし無くなった。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジア侵略史云々

2015-03-27 13:28:42 | Weblog
アメリカで何やら「現代日本人保守派の過去の侵略に対する言動が歴史事実と
異なっているので受け付けられない」との反応があるらしい。 私は書く。
それは「火星人襲来」の類だと。 事を幾つかに分けよう。
1. 歴史事実
2. 日本でこれが歴史事実だと信じられているもの
3. 日本人保守派の歴史事実に関する主張
4. 中国でこれが歴史事実だと信じられているもの
5. 華人の歴史事実に関する主張
6. アメリカでこれが歴史事実だと信じられているもの
7. アメリカ人が「これが日本の保守派が歴史事実だと主張しているもの」と
 信じているもの

私がここで「火星人襲来だ」と指摘したのが7でありアメリカ人たちが疑問に
思っているのだろうそが6と7の間の矛盾。 本来問題となるべきは1がどうで
あたかなのだ。 だがアメリカではそうはならない。 私はこれを「イギリス
がクズだから」であるとしておりまたリベラル派がウォール街に極度に依存
する体質を抱えてしまっているからだ、としている、後者具体的にはアメリカ
私立大学群の財務体質と大学社会内部で教授たちが何を「自分たちのリベラル
への貢献」としているのかであると。
中国韓国、それらと文化的に連続している華僑社会で1の歴史事実がどうなって
いるかがまったく検討の対象となっていないのは周知の事実であろうこの段階
でアメリカ人は疑問に思うべきなのだ。 これは純粋に各個の知的怠慢とする
ものだろう、私はその本質はもっと悪質なものなのだと記しているが。

とりあえず「これが3、保守派の主張だ」と私が目しているものを大雑把に書く。
a. 韓国の併合はアフリカの植民地化よりもイングランドによるスコットランド
 併合に近い
b. 満州国建国は現代社会で例えるならば現イラク政権、現ウクライナ政権や
 「アラブの春」に近い
c. 中華民国汪兆銘政権は旧日本の侵略の結果出現したもの
d. 旧日本の東南アジア進出は解放戦争

まずaに反発するのが韓国人。 だが韓国人の反発はそれだけが理由ではない。
bは欧米リベラル派には到底受け入れがたいものであろう、現イラク政権に
ついては当時のアメリカ政府からはa及びdと同様の結果が期待できたので正と
した。
cについての補足。 日本人保守派の主張としては汪兆銘政権は日本による
革命輸出の類であり内戦介入であるとする。 またそれは旧日本による傀儡
政権としての色彩の強いものではあったが蒋介石政権、毛沢東政権もまた英米、
ソ連による同様のものであった、となる。 これは現中国政権、そして
アメリカ人イギリス人も、内心では同意しつつも強く否定する類のもので
あろう。
dの解放戦争。 これも海外から異論が多く出るだろう結局は日本の帝国に
組み込もうとしただけだったのだと。 私はこれこの見解差を「独立」と
「自立」に対する価値観の違いから来るものだとする。 過去の日本人は
独立を与えようとはしていなかったが自立を与えようとしていた。
「自立」と「独立」を比較するならば前者に対し後者は全くの無価値と断じて
も過言ではないよって、前者をして「解放なのだ」とする日本人の主張と後者
をして「解放なのだ」とする欧米人の主張を比較するならば日本人の側が
まったく正しいとなる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現在ある「イギリス派によるアフリカ秩序」に配慮するべきかどうか

2015-03-27 13:08:53 | Weblog
表題はべき論。 私の答えは否である。
私は「イギリス派によるアジア秩序」をアヘン戦争の連続としている。
アヘン戦争でイギリスが勝ち、そのアヘン貿易人脈が清算されないまま今日も
続いていてその都合様々な「ポリティカル・コレクトネス」が創造されて来た
のだと。 私の視点からはそうだとしか捉えようが無い。 
これが清算されていない、であるならばアフリカの奴隷貿易人脈もまた同様に
清算されていないのだと推測するより他無く、イギリスが「奴隷貿易禁止」を
自国の栄光に数えている以上その秩序は配慮の対象とはならない。

私にはイスラエル、アメリカ、ロシア、中国、アラブ、それぞれに「ここは
情状酌量の余地がある」とするものがある。 事実の指摘はするが同時にそれ
を読む人に配慮の要求もする。 イギリスに対するそれは無い。
過去にパレスチナ問題を起こしたからそうなのではない。 現在進行形の体質
問題、彼らがこれからパレスチナ問題を各地に作るだろうそれであるが故に。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞とインターネットの関係

2015-03-18 13:54:04 | Weblog
四方八方敵に回しかねない事を書いている、と思っている。 ケンカを
売るような事でありこれ「敵に回しかねない事」ではあるが「敵に回す事」
ではないここ重要。

今月頭にちょっとした願掛けのようなものをしていて、一日のうちに10、
一日に4を五日、一日に3を十日書けば彼らの政治勢力は壊滅するだろう、
というもの。

早稲田大学。 日本では私学の雄として知られてもいるが旧来ここは報道
の早稲田大学、テレビ業界に強い早稲田大学、朝日新聞の早稲田大学と
なっていた。 近年これが、捏造の早稲田大学、テロ業界に親しい早稲田
大学、朝日新聞の早稲田大学と変化した。 元々「朝日新聞」で売ってき
たのだからむべなるかな、卒業生らが実社会で「ああ、朝日新聞の」と
目されてきたのがこれからは「ああ、朝日新聞の」と見られるように変化
するわけで、これからはカルト大学の地位を享受する事になるだろう。
朝日新聞の側でもう少しまっとうと言える対応を取っていたとしたならば
あるいは違った状況になっていたかもしれなかったのだがもう終わった事。
ご愁傷様。

朝日新聞。 今日の日本では若年層と高齢層保守派から、「捏造の朝日
新聞」「テロ支援の朝日新聞」とされているそれだが現在のその特徴の
一つにネット嫌いを見る、まあこれ自体はテレビ業界などにも見られる
傾向でありここ単独の特徴ではない。 若干違って見える部分があると
するならば常に表面化している点かもしれない。 ネット貶め専門部隊
みたいなものがあったりして。
朝日新聞他日本のマスコミはネットを嫌っている。 実はこの傾向昔から
そうだったわけではないんだな。 大雑把に2002年までは違っていた、
朝日新聞などの左派メディアはネットを「リベラルな場」として自分たち
が導く対象としていたんだな。 これがひっくり返ったのがご存知日韓
共催ワールドカップと、拉致問題の発覚。 ネットを新たな情報源と目し
ていた若年層を中心とする側とはそれ以前から「中国におけるクリスタル
の夜」周辺事情等で認識差が発生していたんだけれどもここ、2002年近辺
で問題が発生する。 朝日新聞を筆頭とする旧メディアによるネット貶め
工作が、成功しちゃったんだな。 旧来の、団塊世代、主婦層、アエラ
などを読んでいた「意識の高い働く女性」層(アエラはOLの雑誌などと
呼ばれていた)がネットと朝日新聞との対立軸で朝日新聞を支持する側に
回っちゃったんだな。
ネットを中心と目していた人種はこうした事態に怒った。 では彼らが
戦術を転換したかというとノーだったりする。 というのも彼らの目に
状況がひっくり返るのは時間の問題だと映っていたからで、そんなこんな
で現在こうなっていたり。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自省の勧め

2015-03-18 13:13:45 | Weblog
日本では、というか日本人にとっては食べ物を粗末に扱うのは悪である。
食が遡って殺生である以上「殺しました助かりました」と「殺しました
捨てました」との差が善悪なのだと認識される。 これに反発する人も
少なからず日本に居て、彼らはそれを「捨てましたこれが自由です」
「権利です」「自分たちはそのような古い価値観には縛られません」と
主張する。 そう主張する彼らの多くもまた分類上日本人であり、海外
の反捕鯨運動に同調する日本人の主流は彼らなのだとされている。

独立と自立。 大富豪の篤志家がアフリカの奥地で売られていた少女を買
い近くの村で解放したところその少女は生活手段の無さから奴隷商人の下
にもどってしまったとかいう話がある。 これが独立の悪い面というか
価値が乏しいとなる局面。 自立って何だって話は飢えた人に魚を与える
それがそうだろう、魚を与え、魚を釣って見せ、魚を釣る道具を与え、
そして針の作り方を教える。 独立の悪い面と自立の良い面というより
そうでなければ駄目だとされる話を書いた。 では独立の良い面、自立
だけでは駄目な面はそれぞれどういったものなのだろうか。 前者は当面
の社会信用が有るというものであろうそして後者は、やはり当面の社会
信用が無いというものであろう。 独立があって自立が無いのは看板が
立派な無能な店主であり自立があって独立が無いのは雇われ状態の腕利き
の職人のようなもの。 結婚相手としては多くの人が前者を選ぶだろう、
これが人が面子を求める理由の典型例なのだろう。

自省の勧め。 自らを省みる、と書いて自省。 こう書くとキチガイ
サヨクの筋は「戦争を反省しろ」などと言い始めるだろう私は彼らのそれ
を、彼らが言う対象にとって自身が為した事ではなく言う彼らにとって
自らを対象としたものではなく、そして何より手法が捏造である以上省み
るものでもない、とする。 彼らの主張は自身を上位とするヒエラルキー
を押し付けるための被害者看板作りであり彼らの言う「戦争が来る」は
過去に彼らが主張してきた「民衆を地獄で脅す宗教の悪」そのものでしか
ない。 サヨク筋は常に周りのものを自身のエリート性デコレーションに
利用しようとするがここで言うそれはそんな彼らには無いもの。

自省の勧め。 先日「自省の差」で女のそれは生来のものかもしれないと
したがこれの確認ないし否定は例えば小学校児童の女の内教師に不正を
指摘された際に「みんなやっている」といった反発をしなかった生徒を
対象に「何故そうなったのか」を調べていけばそれが家庭教育による差か
そうではないのかが判別できるはず。 ただこうした調査は当面は不可能
と思われる、なんせ性差の調査特に「女による正義」の原動力となって
いる女の悪口悪行その理由提示はリベラル・タブーの最奥。 提示する
だけで社会的に抹殺されると誰もが予想する一方ネットでは自由だったり
する分野。
自省の有無その社会調査原因究明は現状ほぼ不可能。 まあ私は近く可能
になるだろうと楽観視しているが、しがみついている人たちが居る都合今
出来る事ではない。 よって個々に自省を勧めてみる次第。

自分の行為、状態も含む、というか実際の対象は自身の精神だったりする、
を省みるのが自省である。 やる事自体は簡単
・嫌な事があった 
・何故そうなったのか
・その時自分はどうあったのか

である転じて
・自分は何故それを「嫌だ」としたのか

が自己究明であり向上の鍵だったりするという主張なのだがそもそも、
・嫌な事は思い出したくない
・嫌な事、だから他人、周囲、世界が悪い

で終わるのが自省の無い側。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘイトスピーチとかなんとか

2015-03-18 12:17:57 | Weblog
「いただきます」と「ごちそうさま」の挨拶は日本的な習慣なんだろうなー
と日本人が感じているものの一つで、近年日本でこれを敵視する人たちの
発言がネットなどで話題になっている。
どちらも元々は仏教の思想らしい。 なんでも「いただきます」は命を断
たれた食材たちに対し貰い受ける側の感謝で「ごちそうさま」の真ん中
「馳走」は食材調達の奔走を意味していて料理した側、もてなした側に対
する感謝の意、らしい。 そのまま英訳するならそれぞれThanks to who
have taken lives to keep us alive, Thank you for preparing meals
のような感じとなるのだろう。 私はこの思想の有無がオーストラリア人
と日本人とが理解しあえない、オーストラリア人はクジラを愛玩動物に
分類しこの殺傷を悪、カンガルーを害獣に分類しこの殺傷を善とするのが
日本人には理解できず、日本人がクジラの食べるための殺傷を善悪の対象
とならない行為でありカンガルーの殺傷は食用ではないので悪であると
するのがオーストラリア人に理解不能となっている理由なのだと主張する。
こう分類すると解り易いだろうか。 「ウンコをするのは悪である」。
善悪大別だとそれは紛れも無く悪である。 だが、そこが道端だろうと
便所だろうとウンコをするのは悪ではあるが、それは生きるために必要な
行為であり罪に問う理由は無い、と。 オーストラリア人が言う「クジラ
以外を食べるべきだ」も日本人には通用しない。 どちらも命である以上
意味が無い。 それは「アンデスの聖餐」などで白人を殺すのが許されな
いから黒人を殺そうと言うのと同等のものでしかない。

「五毛党」だそうな? 大富豪の五毛頭と関係しているのだろうかなどと
書くのはヘイトスピーチに該当するのかな? どうでもいいけど。

さてヘイトスピーチ論。 「ヘイト」で「スピーチ」である。 今日の
日本でこのヘイトスピーチを受けていると主張する側の主張はもっぱら、
それを受ける側がそうだと感じたらそうなのだ、というものも模様。
この主張必ずしも今日法の原則として認識されているもの例えば違法行為
はする側にとって明白でなければならない、といったものに反さないらし
い、というのもアメリカ等では「人権」とは当人が人権だと主張するもの
が人権なのだ、となっている故。 というか「法の原則」よりも「人権」
が優越すると解釈する方が正しい状況判断なのだろうか。 私ならそれを
無法状態と呼ぶが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教って何だ

2015-03-17 12:41:30 | Weblog
今月で地下鉄サリン事件20周年なのだそうな。 一部の人たちにとっては
20回忌、でもある。
地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教、現状はアレフ、Alephに改名し
たらしいが、そういうものが宗教なのだと主張する人は少なくない。
多くの人が一般に言う狂信者の行動こそが宗教なのだと言う。 私は宗教の
意義はもっぱら幼児教育にあるのだと主張し、そして狂信の範囲をより広く
取る。 狂信範囲その一例としてビートルズ・ファンを挙げる。 ファンの
英語の語源はファナティック、狂信だわな。

ビートルズ・ファンを例として挙げる際の悪行それを他の音楽の否定だと
する。 もちろんビートルズ・ファンが特別にそうだというわけではなく
また他の音楽グループファンにそうした傾向が無いという主張をするわけで
もない。 当面歴史的に一番デカい集団だったのだと見ておりまたその
ファンたちの奇行も風刺対象となっていた都合そうしているだけである。
他の音楽の否定。 ある音楽を自己集団、自身の広がりだとしそれ以外の
否定に走る、私はここに狂信の本質を見る。 自己の拡大意識と他の否定。
音楽に限った話ではなく。

さて現状の宗教団体に他の否定を見るか。 是である。 残念ながら。
話を音楽に戻すならば現在のビートルズ・ファン、まだ居るのなら、よりも
ロック・ファンにより強いその傾向を見る。 狂信の定義を他の否定だと
するならばロック・ファンの方がより狂信的だ、となる私の見立てでは。
テーマが狂信になってきた、まあいいや、ではもう一方、自己の拡大意識、
周囲の自己同一化とでもするか、はどうか。 ロック・ファンは他のロック・
ファンを自己と同一化した何かだと見ているのか。 おそらくは否だろう
偏見で書こう彼らは彼らの教祖相当人物との自己同一化を見ている一方で他
のファンをそうだとはしていない、むしろ敵視しているのではないかと推測
する。 常にそうなのか。 否と見る。 例えばクラッシック・ファンと
対峙した時彼らは自分たちの側に自己同一化を見る。

なるほど。 まとまってきた。
1. 教祖相当に対する自己同一化がある
2. 日常他集団に対する緩やかな否定がある
3. 他集団から否定を受けると自集団に対する自我拡大が起こる

こんな感じか。 そして自我拡大を根拠とした、あらわな他集団否定行動が
狂信者の行動だとされ、それこそが宗教なのだとされているのか。 そして
私は音楽ファン各集団にそれ、世間一般に言われている宗教性、を見ている
のだと。

焦点を一方に移す。 否定、他者の、場合によっては自己のも含まれるか、
行いの否定は宗教なのか。 世間一般では是とされるかもしれないが私は否
とする。 それは秩序である、否定の内容が妥当か否かはともかく。 特定
の行いに対する否定は社会秩序である。 では宗教は秩序か。 おそらくは、
是だろう。 宗教は、社会性のほぼ無いとされる幼児に対し、行ってはいけ
ない事を教える、教えようとするこれは秩序であり同時に、そうする人の
否定でもある。 宗教は泥棒を否定するこれは狂信か。 私は否とする。
泥棒の側にとっては狂信なのだろう。
では宗教は宗教団体の自己同一化を推進しているのか。 現状私は是である、
と見る。 なるほど私の今回出てきた定義によると、宗教が、自集団が狂信
ではないとする条件はそれが自集団に対し
1. 他宗教否定を戒める
2. 自集団に対する自己同一化を否とする

の双方が必要なのか。 双方を満たすならばそれは幼児教育であり秩序の要
である、と言えるようになる、少なくとも私にとっては。
では現状はどうなっているか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泥沼化する状況しない状況

2015-03-17 11:57:34 | Weblog
日本にとってのの第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争の起点は満州国
建国である。 私は大雑把に線引きをするならば「満州国建国から悪だった」
としていてこの点で他のネットウヨクと意見を異にしている。 他のネット
ウヨクたちは「満州国は成功だった」としているがそれに対し私は「やはり
この線引きで合ってるはず」と、漠然と思ってはいた。 んで再考してみた。
出た結論は、そこで「日本人による不正」が正当化されてしまったのだ、と
いうものだった。 要するに過去の歴史に見る北海道、沖縄、台湾、朝鮮
半島、北マリアナ諸島などの日本化は私にとっては不正行為ではないのだと。
満州国は泥沼化しなかった。 台湾や朝鮮半島の統治などと同様に。 一方
で、何故満州国なのか、といった問いかけをする事は可能。 そこ以外は
「日本」だったのだ。 元々住んでいた人たちとその子孫は近い未来近代
教育を受けた後に日本人と同等の権利、社会的地位である、を有する生活を
約束されていた。 後に韓国の大統領となった朴正煕氏が一例である彼は
戦場で日本人を部下としつまり状況次第で彼らに「死ね」と命令出来る地位
を与えられていた、そして彼は別段例外的な存在でもなかった。 大日本
帝国における台湾島朝鮮半島出身者に対する差別は受けた教育の差を除くと
現在の日本国に該当する日本列島における出身藩の差と同種のものだった。

満州国は泥沼化しなかった。 それ以前の状況から建国しても泥沼化しない
だろうという予測が立っていただろうし実際そのとおりになった、一方で、
そこは日本の傀儡国家だとも言われていた。 何故そこは満州国で、日本で
はなかったのか。 何故当時の日本人はそうしたのか。 当時の国際情勢が
もたらした大義名分の差からであろう。
何故満州国からの南下政策により建国された、汪兆銘政権による南京中華
民国は泥沼化(半分くらいは安定していたと見るが)したのか。 欧米諸国
(とソ連)が蒋介石政権(と共産党ゲリラ)を支援したからだというのが
答えだろうが同時に、その地に住んでいる中国人たちが認めなかったからだ、
というのも答えである。 この第二の答えは同時に何故蒋介石政権は大陸か
ら追い出されたのかの答えにもなっている。

当地の人間たちから承認されないと泥沼化する、これ当たり前と言えば当た
り前の結論だ。 他の大国の容喙も彼らありきなのだ、とも言える。
別の例を挙げようウイグル情勢である。 ここは他の大国による容喙が、
日本から見て最小限となっている地域である、だがそれでも泥沼化している。
大国による容喙が無くとも泥沼化する、そういう事例。

泥沼化を避けるためには当地の人間に通用する大義名分が必要なのか。 そ
りゃ必要だろうというのが大半の人の答えだろう無くても出来ると言う人は
ごく少数と見る。 これは当たり前なのだとしようでは介入する側の公正さ
はこれに寄与するか。 私は是とする。 公正さが無い人たちの下に安定は
無い。 再革命の応酬となるか暗黒時代、ピラミッド構造の頂点から底辺
までの全員が何かに怯え続ける状態、の到来となるかであろう、と。 では
公正さは情勢の安定化、泥沼化回避に寄与するのか。 過去の例から見て
より公正な状態とより不公正な状態の比較がある場合当地の人間たちはより
公正な側を選ぶ、そう見る。 比較が無ければ? あるいは大きな差が見ら
れなければ? 「比較対象とならなかったより不公正な状態」が選ばれる、
そういう傾向があると見る、残念ながら。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自省の差

2015-03-17 11:10:17 | Weblog
女のべき論と男のべき論の差。 私はこれを「自省の差だ」と置いて書いて
みようとしたがその先に以前目にした話を思い出し、違うな、となった。
何はともあれ初期方針の下始めてみる。
私は女の家事に対する態度を疑いの目で見ている。 料理ならば「食う」と
いう目的ないし食う事による目的達成ではなく「食わせる立場」という料理
者自身の地位を、節電ならば消費電力の現象達成ではなく自身が電力消費
管理者の座にある事を、目的としているかのように。
さてこうなった原因に「思春期に始まる一時的不安定状態が周囲に対する
攻撃性を誘発、それが助言される立場を無くし自省の機会を減らす結果と
なっているのだ」といった結論を付けようとしたのだが、そこでとある学校
教師、小学校のそれ、を思い出した。 男児と女児とで「言い訳」の差が
はっきりとある、と。 曰く、男はふてくされるが女は必ず周囲のせいに
する、というもの。

思春期以前の児童を対象とする、小学校教師の弁。 仮に勤続十年とすると
40人学級で対象数400人うち半数が女。 統計データとしてはそこそこの数
でありまた同じ学校の同僚たちや他校の同業者とその事について話し合う
機会もあったであろうとするとサンプリングの偏りによるものとも思えない。
つまり小学校低学年の時点で既に、自省の差は存在しているのだ、が結論と
なる。

ここまで女性論で書いた。 ここがおもしろい所、この文章では女の側のみ
が対象だが、つまりここで「男もそうだ」とする人と「自分はどうなのか」
とする人とに分かれる。 これが自省の差。 ちょっとした心理テスト。

何故自省の差があるのか。 何故男の方は「嫌でも承認せざるを得ない」と
する一方で女の方は「自分の悪ではない、自分のみの悪ではない」とするの
か。 これを「女の方が生物学的に防衛本能が強いのだ」とする事は可能だ
ろうそうすると自省の有無は、生来の個体差によるものなのだ、となって
しまう。

自省の差が後天的なものだと仮定する、ならば私はどこでそれを身に付けた
のか。 幼稚園入園以前将棋を教えられた事がそうだ、としよう、ならば
囲碁将棋といった黙考し局後に感想戦を行うゲームがその訓練となったのだ、
となる。 ここで逆の例が出る。 韓国は囲碁大国である。 また男と同様
小さい頃からそうした訓練をしてきた女棋士たちにも「棋風の差」があると
されている点もそう。 私は韓国に自省の文化を見ないし、棋風の差の内容
つまり女の方が激しい碁、局地戦からそのまま勝負が決まり地を数えるの
ではなく一方が屍を曝す事から「血を見る」などと言い換えられる、となる
といった言われ様の説明がつかない。 これはまだ「結果が出ていない」
だけなのかもしれないが。

さて自省の差。 この原因はどこにあるのか。
幾つか考えられる。
1. 生物学的、先天的な差が大きい
2. 黙考習慣によるもの
3. 周囲と自身との比較によるもの

当面それっぽく見える結論は3だろう、同世代同嗜好でつるんでいる集団と
そうではない集団とで自省の差が出るのだと。 そうなのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「社会を変える」をどう判断するか

2015-03-16 12:33:39 | Weblog
ちょいと歴史問題云々で扱ったものを再掲。

1. ナチス(nazi:対立勢力に付けられた蔑称)はナジル人と同文字列
2. ヒトラー氏の菜食主義はナジル人を髣髴させる

この二点から
3. そえがナチス・ドイツによるホロコースト被害が拡大した理由の一つである

とする。 ところが現状は
4. ユダヤ人側はこの事を公としてはいない

これを同解釈するかは様々だろうが一つ言える事に
5. ユダヤ教中枢と一般キリスト教国とではホロコーストに付き違った認識を
 持ち続けている

となる。 これが歴史的新事実として扱われるのが妥当だとすると現在の情勢に
なんらかの作用をもたらすだろう具体的には、旧来言われてきたものに対する
問題の再提起が可能になるんだね。
これ対象が宗教なだけで社会科学領域の問題提起だから論旨そのものを拒絶する
のは非科学的ないし利己的政治判断的な態度だとなる。

さて前回「賭博」転じて「夢を見る」が主題となった、もう一つは利益予想
だったが。 これ現在の私にとって特殊な意味を持つがそれはそれ、個人的な話。

社会は変えるものだ、という認識がある。 もう一方に社会は変えられないもの
だという認識もあったりする。 「中国に対する中国人の諦め」を私は後者の
典型例とする。 「インド人のそれ」がカースト制度だとする向きもあるかも
しれない。 その点に注目すると「社会を変えよう」とする意識を持つ方が
正しいといった結論が出たりもする。 「正義的」であり「善悪的」でもある。
現状の社会風習が悪であるかはともかくも。

「社会に不正があり、それが固定化している」これが「社会を変えるべきだ」と
する側の一般認識、そういう意思を持つ起点なのではないかと思う。 べき論は
正不正抜きには語れないわな。 正不正抜きのべきろんってどんなだろうか。
「こうすればより楽しめる」だとするにしても裏を返せば「現状こうではない」
がある。

「社会を変える」は賭博に類するものだと評されたりもする。 その認識はそう
間違っているとは思わない。 私は「社会を変える」をマンモスタンカーをタグ
ボートで曳くようなものに例える。 最初は動きが見えないが変化はある。 好
ましいかどうか、その変化の結果が制御可能かどうかはまた別の話。
べき論云々で言うならば社会を変えようとする意思を人が持たないよりも持つ方
が良いのかもしれないが実際の行動が良いとは限らない、となったり。 国際
社会は元より自分の周辺に到っても変わらないのだ、とするならばそれは意思の
沈黙した状態に類する何かだろう、中国や、聞くところによる旧来のインドから
そう見ると。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする