不快について

2010-02-17 14:21:06 | Weblog
番組を
出す人達の
約束は
一貫性と
放送時間

バビロン人の自然観とはどのようなものなのか疑問に思ったので
そっちの系統の自然番組をビデオ屋で借りてきた。
なんらかの形で良い物があるのではないかと期待して。
見始めてすぐにEXCITEMENTとの単語が出てきた。
私はそれを不快なものに分類し、
しばらく早送りしてみたりした後リモコンの停止ボタンを押した。

さて不快について。
尻の穴に野菜を入れたが出せなくなり病院に運ばれた男のニュースがあった。
何時何処の国の事件だったか忘れたが多分去年、西の方だったと記憶している。
世界中の人が彼を不快に思ったとする。 仮定の話。
彼は悪だろうか?
私はそうではないと見る。
せいぜい、医者の手を煩わせたくらいの迷惑だ。
彼の行動の結果、アパート内が異臭に満ちたとする。 仮定の話。
彼は悪だろうか。
彼は悪ではないだろうが、彼の行動はこの場合は悪と言えなくもないとみる。
彼の行動がアパートの廊下に汚物と野菜片をまき散らすことで近隣住人に
嫌がらせをし野菜を作っている農家を侮辱することにあったとしたらどうだろう。
私はこの場合は、彼を悪の人と見る。

善悪の判断は精神、行動の目的に置くべきだろう(とはいっても善は不明だが)し、
秩序の判断は迷惑、他者の生活の侵害に置くべきだろうと見る。
だが社会は不快で動いている。
不快なものこそが悪であり秩序を乱すものであり、
ルールとはそれを正当化するものでなければならないとの理念に充ち満ちている。
それで社会が上手く行くはずがない、と思うのだが。

さて問題です。
線とはどのくらいの太さのものを指すのか。
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強者について

2010-02-17 06:59:16 | Weblog
従うと
いうことはこれ
行動を
選ぶ自由を
明け渡すこと

私はこれまで自分を弱者である側に置き、そこから書いていた。
王様がいてそれに対して「王様は裸だ」と言う。
肉塊としての子供は無能であり、そこにどれだけの真実が含まれていようとも
その声は数ある声の内の一つでしかない。
では、たまたまその場に居た大国の王子が裸の王様に
「服を着るべきだ」と言ったらどうなるか。
それは命令に近い意味を持つことになる。
ある面で脅し。 従わなかった場合は対立に発展しうる。

強者から出た声は、暴力になってしまう。
そこに真実があろうとなかろうと。

では強者とは、どうあるべきなのか。
弱者の代弁というのは詭弁だ。
数いる弱者から自分にとって都合がよい者だけを集めることは容易であり
また弱者の多くも積極的に強者にすり寄る。 結局、暴力になる。

歪みが強者よりも大きければいいのか?
強者が自分自身が歪みになることを避けようとするならば正すべき歪みを
量れなければならない、ということになるのだろうか。

別の可能性もある。
声を聞く側がそれを量れるようになればいい。
この考えは媚に価値を置く人達のそれの対極に位置しているな。

さて問題。
日本人は日頃、水と安全はタダだと思って生きている。
では何故これらは有料なのだろうか。
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