暴君

2011-07-28 11:25:16 | Weblog
還俗することにした。
理由は電気代。
来ていた手紙によると昨日から切れてもおかしくない状況なのだが
今朝の時点ではまだ冷蔵庫のコンプレッサーがうなっていた。

書かないのなら人でいる意味が無いが自分は人だと思っている、
だから還俗。
上とつながったままでいるのか切れるのか、はたまたそれ以外と
なるのかは不明。
それ以外なら服は黒にしてくれ。
勲章はいらない。
意味が判らない人も多いと思うが、判らないのなら気にする必要は無い。

とりあえずオーストラリアをフィリピンのようにし、
タスマニアをオーストラリアにすることにした。

犬を無くすことにした。
威嚇のための動物なんていらない。
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ベーシックインカム制度

2011-07-28 10:30:53 | Weblog
蚊を見ると悩む。
最近覚えている分だと十回くらい血を吸うのを見逃した。
数回殺した。
どっちがいいのかとやはり悩む。

さてベーシックインカムだ。
私はこれをインフレを喚起するのに最良の制度なのでは
と見ていたりする。
一言で言うと働かなくとも収入が有るという制度だ。
それで生活できるのなら誰も働かなくなるだろうと言う人が居ると。
真だろう。
ではそれだけでは生活できないレベルだとどうなるか。

社会の三分の二が労働者だとする。
とりあえず人口3000人で一地域を構成している所で考えてみる。
地域内で必要なものの大半はそこで作っていて、外部との交易は
無くとも当面は困らないような状況、つまり収入の大半は地域内で
使われる。
労働者の平均年収を300万円とする。
労働者以外も合わせて平均すると一人当たりの消費は毎年200万円。
ここに一人当たり年30万円のベーシックインカムを導入したと。
労働者の収入は330万円となり、彼ら以外の収入は年30万円。
四人家族、父親が外で働いて母親が専業主婦、子供が二人
といった家庭なら300万円の経済労働に対し420万円の家庭収入。
家庭に有る労働外収入。
これに近い状況がバブルだろう。
当時は労働外固定収入を持つ家庭が多数有り、彼らはそれが
永続する事を見込んだ生活をしていた。
それが終わった瞬間から借金をしていた人たちには借金だけが
残り、していなかった人たちも生活水準の切り下げをしなければ
ならないという状況に陥った。

想定した3000人の地域に戻る。
労働量が2000人分。 60億円で回っていた経済規模が、どういう
わけだか69億円に増えたと。 15%の増加。
食料生産は増えなかったが消費だけが増える。
もちろん胃袋が増えたわけではないので食糧消費量は増えず、
増加分はそれ以外の分野に回る事になる。
100円と500円のケーキを売っていたケーキ屋があったとする。
元々の一日の売り上げが100円のケーキ100個と500円のケーキ
20個で2万円だったとする。
胃袋が増えないのにこれが15%増しになると個数は変わらず売れる
物が高い方にシフトすることになり、15%増に相当するのは
100円のケーキが92個に500円のケーキが28個、9200円と14000円で
一日23200円の売り上げ。
ケーキ屋の店主は売り上げが増えた事を喜ぶわけだ。
100円のと500円のとでは作る労働量に差はあるだろう、
だがその分は元々それに見合う価格設定になっているはず。
ケーキ屋個人の収入は売り上げ15%増のベーシックインカム分10%増、
合計で25%の増加となった。

ベーシックインカムとして配られるお金はどこから来たのだろうか。
お札を刷ったのでなければもちろん税金だろう。
導入翌年から増税となったとする。 徴税しないと配れないから。
税金を取られた結果労働者の収入が減ったとする。
どのくらい減るのか。 もちろんベーシックインカムの分減る。
300万円の年収だった人は税金で45万円取られ一人当たりの
ベーシックインカム30万円受け取って結果285万円。
地域全体の経済としては消費は元通りに。
労働量も相変わらず300万円分。
搾取されるようになっただけ、とも言える。
金持ちから取る(盗る?)んだと言ったところで働いていない人たちに
配ることには変わりなし。

ではお札を刷ったのならどうなるか。
無収入の人には一割相当の収入、労働者は25%増し。
労働者一人当たりの労働量は収入増の内容に応じて増える。
翌年はどうなるか。
労働者の収入60億円の25%増で75億円と労働者以外の収入が3億円、
合計30%増が消費に回る。
本来なら収入が消費に回る速度を考慮しないといけないはずなのだが
ここではそれはしない。
翌々年には売り上げ30%増とベーシックインカム15%増で労働者が
40%増、84億円と労働者以外の収入が3億円。
87億円、地域経済は金額ベースで元々の145%の規模になる。
毎年元々の15%ずつ増えるのだからそうなるわけか。

ここで食糧生産者を見てみる事にする。
食料消費量は増えていない。 食料の値段も上がっていないとする。
売り物の内容も米生産者なら米、小麦生産者なら小麦で変化なし。
そうすると労働収入の増加が発生しない。
地域経済が毎年膨れ上がっていくのに大して食糧生産者の収入は
導入初年度にベーシックインカム分増えただけでおしまい。
これは農業を止めて他の仕事を始めた方が賢い、という事になる。
ではその結果食料生産が足りなくなったらどうなるか。
多分まあインフレになるのだろう。
この制度が公務員という形で実行されたのがジンバブエなのでは
とも思ったり。
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日本のネットウヨクは過剰反応か

2011-07-28 10:30:03 | Weblog
かつての日本とナチスドイツとの連携は上手く行っていなかった。
蒋介石政権とナチスドイツとの関係、ユダヤ人難民と旧日本軍部との
関係を見ればその理由は明らかだろう。 日本とナチスドイツ、
お互いさほど親近感を感じていなかったが共通の敵がいた。
極論すると利用出来るサル、ダニを食う虫、そういう関係。
戦後日本の保守派はソ連を蛇蝎のごとく嫌っていた。
一方戦時中の日本はソ連を信用していた。
ソ連に対する攻撃計画は戦前にはあったが、戦時中は凍結されていた。
ソ連が危機にあり、満州の軍を動かすことが不可能ではなかった時も
あったが攻撃はしなかった。
これらをつなげるとどうなるか。
当時の日本人の主流派、少なくとも大東亜派とも呼ばれるその一部は
ナチスドイツよりもソ連の方がより近い理念、共有できる目的を
持っていると思っていた。
ソ連人は日本他アジアを植民地化、属国化しないと思い込んでいた。
そういう結論が出てくる。
ソ連参戦まで日本が降伏しなかった理由もそれが一つか。
そしてそれが思い込みでしかなかった事が判明した時、
彼らはソ連嫌いになった。
その後の歴史を見ると彼らは中ソ対立から中国を信用するという
行動に出ている。
ロマンチストなんだな、多分。

さて戦後日本は諜報機関を持たない国となった。
敗戦国として持つ事を許されなかったまま歴史が進んだ。
軍部解体の結果は自衛隊の歴史、財閥解体は帝銀事件、農地解放の
その後は日本の農政と農協との関係あたりを調べてもらうと
判りやすいと思う。
その状況は斜陽の大国となった今日も続いている。
国際常識豊かな人は信じないかもしれないが、これ本当の話。
一応自衛隊、警察、内閣、それと外務省あたりそれぞれに
情報専門の組織があるわけだが、諜報機関は無い。
まともな日本人には国家間規模でテロ対策が取れない事を憂う人が
多いのだが、こうした動きを常に阻害してきたのがマスコミや
日教組を中心に根を張る戦後初期に革命を標榜した勢力の残滓。
私がマルクス教をマルクス教と、それが宗教である事を強調する
表現を使う理由の一つがこれ。
隠れマルキってヤツだな。
彼らの行動は極めて宗教組織的である。
諜報機関を持たない日本がソ連や北朝鮮といった東側諸国の工作に
対処するために取った戦略をハニーポットなどと言ったりする。
パッシブに徹し基本的に泳がせておいて各国の諜報員間の相互牽制
に期待するというものだな。
打つ手が無かったから結果的にそうなった、と考える方がより
正確なのではないかとも思ったり。
工作活動に極端に脆弱な国。
「最古のラットレース」から解放された代償とも言える。

さて1990年代に話を進める。
今日口の悪い若年者たちからは犯罪世代とも言われている、
1960年代、1970年代に破壊活動に勤しみその後何の臆面も無く
会社員となり社会的安定を得ていたかつての社会主義国家の標榜者
たちは、そのころ中高年となっていた。
そこに降って湧いたのが冷戦終結に伴う西側諜報員の組織維持を
目的とした経済諜報活動への転換だ。
そこでは日本は同盟国に後ろから攻撃される立場となった。
結果出現したのが国政の混乱。
かつての標榜者たちはこれを良しとした。
経済成長が止まったまま十年が過ぎた2000年代前半、
ネットウヨクと呼ばれる勢力が出現する。
彼らが訴えたのが愛国心、普通の国、それと民間防衛だった。

思えば六カ国協議というのも間抜けな構図だったものだ。
あるべき姿のはっきりしている朝鮮半島ローカルな権力争いに
超大国の人士が雁首揃えて引きずり回されていたのだから。
まあいいさ。
どの道、あるべき姿に戻ればそのツケは
内政が遅れただけという形で朝鮮人たちが払う事になる。
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マカーキの国

2011-07-28 10:28:34 | Weblog
メメントモリさせられまくった理由がこれなんだろう、命が軽い。
自分のも、他人のも。

戦前のオランダの、インドネシアに関する評がおもしろい。
オランダはインドネシアを失ったら大国に翻弄されるだけの
ただの小国になってしまうだろうと。
こうした論は当然戦前の日本でも主流的だった。
だがオランダと日本とで決定的に違っていたのが、
日本はマカーキの国だったということ。

何故日本人はあんなにも近代化を急いだのか。
私の立場からは急がされたのかと言うべきかも知れないが、
急いだのかの答えを書くなら当時の日本人に約束されていた未来は
早急に近代化を果たさなかった場合はごく一部が中国か東南アジアで
阿片商人となる他は大半が、米か綿花かはたまた生糸かの単一生産
地域で農奴となるしかない世界、そうなっていただろうからだと。
戦前もそうだったし、戦後、敗戦直後もそうだった。
ニューヨークにドイツ人がビルを買っても何も起きず、
日本人が買うと反対運動が起きた。
アジア太平洋地域の覇者となったアメリカはインドシナ半島を
フランスに、マレーをイギリスに、東インドをオランダに、
満州をソ連にそれぞれ引き渡し、旧日本を自分で管理する事にした。
よく言われている、いわゆる戦間期には西欧諸国は侵略的では
なくなっていたとの話だが、私はこれはうそだと思っている。
戦後処理、マルクス教対策、ドイツの封じ込めやその後の大恐慌
などで手一杯だっただけで手が空けば彼らはまた侵略、残る地域は
日本と中国なわけだが、に乗り出していただろうと。
事実、彼らは戦後東南アジアに帰ってきている。
害獣の国。 それが敗戦後の日本。
日本のその状況を変えたのが中国の共産化だった。

日本はマカーキの国だった。
国の数が少なかった頃、欧州の戦争が大戦と呼ばれていた頃の
国際社会における日本の地位がそれだった。
そうと言う人はあからさまにそう言い、
違うと言う人も結局はそう行動した。
19世紀もそうで、1920年代もそうで、1940年代もそうで、
1960年代もそうだった。 1970年代から若干変わってきたが
それでもやっぱりマカーキの国でしかなかった。
イギリスもオーストラリアも戦前から引き続き日本を危険国、
日本人を有害民族として扱っていた。

イギリス人は言うかもしれない。
東洋に居た白人をダニ扱いしたのは日本人の方が先だと。
それは肯定する。
明治期から知識人の間ではそれが一般的だっただろう。
その認識が国民の共有物となったのは日本人が大英帝国の尖兵
となってインド人の反乱を鎮圧したときだったかもしれない。
私も言う。 20世紀前半アジア太平洋地域に居た白人は
人類社会のダニだったのだと。

インド人は立たず、中国人は動かず、蒋介石氏は阿片商売で
財を成した者たちとニギニギする事に忙しかった。
当時の日本人の大勢はそう見た。
あいつら全部駄目だ、とした日本人の判断は正しかったのか。
間違っていたとするのが戦後の常識。
戦後の日本に話を移そう。
最初にアメリカがした事は日本の無力化だった。
軍、諜報機関、財閥の解体。
こうして諜報機関が存在しないという大国としては珍しい国家が
出来上がる事となり、その状況が今日にまで至ると。
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大農場経済と大都会経済

2011-07-25 11:53:36 | Weblog
数ヶ月前から安全基準に関する怪しげな数字が飛び交っている。
不安を煽ったり安心感を作ろうとしたりとなんとも忙しい人たち。
安全基準というのは結局のところ死人の数だ。
Aという原因でBという現象が起き、その結果Cとなって死ぬと。
例えば日本人のうちCを死因とする人が三人に一人だったとする。
Cが無ければ別の死因で死ぬだろう事は人の必然で、よってこれは
どれだけ寿命が縮むかといった問題。
Cという死因が無ければ平均寿命が5年延びるとする。
三人に一人が5年寿命を縮めるので日本人1億人だと1.67億年。
日本人の平均寿命は80年を超えているはずなので、
若年者から高齢者まで等しく縮むと仮定するとだいたい2000万人。
Cとなるうち原因がAであるものが0.1%だとすると死者数1万人、
0.01%だとすると1000人。
元々あったCになるリスクが倍になったのだとするとその原因は
率がどれくらいだったかに応じて死者数1万人なり1000人なりの
災害に相当すると。
またAの範囲が限定的で百万人くらいがその影響下に居ると見積もれる
ような場合はこれが100人なり10人なりに減る。
10人なら交通事故数件分程度だな。
慢性的な影響が実害になるまでにかかる平均的な期間が20年とすると
1年での影響はさらに減って1/20となる。
もっともまあ、ジジババの一年なんて中学生の一ヶ月、幼稚園児の
一週間相当の価値しかないだろうと見ているよってそれらを等価に
計算するのはわりと馬鹿らしいとも感じてはいるが。

じゃあ私が安全だと言い切るかというとそうでもなく、その理由は
「減らさなければ減らされる」の布石だろうとも見ているからで。

相変わらずアメリカでは「金持ちか、政府か」といった綱引きが
行われている模様。
実際には違っていたとしても知らない。
日本にはそう伝わっているというだけの事。
伝わっている事に沿って話を進める。

まず、「金持ち」と言う人たちの言い分を考えてみる。
大雑把に言うとアメリカはそういう国なのだ、という事だろう。
ある所に働き者が居たとする。
彼の働きが周囲に認められ、良い物だとされた彼の物には作る以上の
値が付き彼は金持ちになったと。
彼の物が嫌なら誰か別の人から買えばいい。
彼が嫌ならどこか別の場所に行けばいい。
ある所の地域社会にお金が回らない。
ではどうするか。
お金持ちがなんとかすればいい。
そこのお金持ちが嫌なら別の場所に行って自分で稼げばいい。
アメリカはそういう社会だと。
ある種原始的だが場は無数にあり、横への移動が保障されている。
多数のピラミッドと水平移動の自由。

小集団となる自由を最大限に保障しようとするとこうあるべきだとする
政治判断は妥当だろうと見る。
問題はお金がお金を産む構図が存在する事。

「政府」と言う人たちの言い分を考えてみる。
世の中には生まれその他様々な状況に伴う運不運がある。
それは往々にして大きすぎるし、放っておくと固定化していく。
だから政府が介入して均さなければならないのだと。
妥当な事を言っているようにも見える。

前者は金持ちが、後者は政府が、と言う。
消費者、労働者に選ばれた近くの金持ちか
有権者、代表者に選ばれた遠くの政府。
言う対象の役割はそんなには違わない。

試しに少し、問題をバビロンに絞って見てみよう。
あれこそがお金がお金を産む構図の粋だ。
あれを遠ざける、檻に入れる、そういった事をすればどちらでも
それなりに上手く行くのではといった疑問も湧いてくる。
当然、そんな事をしようとしたら「それをするなんてとんでもない」
といった人たちが出て来る事は目に見えているが。
まあ投機に限らず詐欺、借金誘導、賭博、麻薬などなど問題を
発生させる構図は社会のあちこちにあるのでその場所だけに
問題を絞ってなんとかなるものでもないが。

なるほど。
最悪の存在は「遠くの金持ち」の模様。

結局だれが金持ちの役割を果たすのか、といった話なんだな。
旧来の日本の場合は自民党と官僚団が最上だろう。
こう言うと自民党を毛嫌いする人たちが出てくるが別に私はあれが
完璧だと言いたいわけではない。
テレビ社会、据え置き電話社会程度の情報量ではあのくらいの実現度
しか達成出来ないのだと思って暮らす方が穏当だろうといった話。
もちろんインターネットと携帯電話が普及してもただ口を開けて誰か
が政治を実現してくれるのを期待しているだけ、気に入らない事が
あったら愚痴るだけの国民、地位のある自分しか見ようとしないため
望んでいる事と要求している事が違っていることに気付かず
出来上がった望まぬ結果を他人のせいにし悪人探しをする国民、
そんな国ではテレビ社会以下にしかならないのだろうが。

政府ならば正しくお金を使えるのか。
社会主義国家の失敗からはNOといった答えが出ているわけだが。
では人は物を買う時に金持ちを選んでいるのか。
これもNOだろう。
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思想か宗教か

2011-07-25 11:53:13 | Weblog
世間では頭の回転の速い人を頭がいいと言ったりする。
答えを出すのが早いと。
では頭の悪い人はどうやっているのか。
ある問題に対して一つの考え方で果敢に挑戦する。
そして何度も失敗する。
同じように。
終いには考える事を止める。
頭のいい人は言う。
多数の考え方を持てば良いと。
人間や社会に対するこれがいわゆる思想。
ちなみに私の答えは違う。
考え方の作り方を覚えればいい。

なんで欧米、西欧とアメリカ東部か、がああなのかは思うに
植民地利権喪失の恐怖を共有しているからなんだろうな。
もちろん前世紀にアフリカやアジア、あるいは南米といった旧被支配
地域との関係は変化した。
それでもいわゆる知識層の、こうした地域に対する既得権意識は
変わらずに残っていてそれが歴史問題に対する嫌悪感となっていると。
知ってめくらになるのならなんのための知識なんだか。

とうとう父がサヨク礼賛を始めた模様。
自民党嫌いが硬膏に入ったか。
礼賛対象が変化しサヨクではなくなったのか、テレビ業界にも波及
し始めた世相の変化に父がついて行けなくなった結果バッシング
継続というニッチを選んだ人を好むようになったのかは確認が
必要だが、後者だろうと見ている。
母は一見良さそうだ。
だがこれは母が変わったのではなく、父の評価が沈んで母の地位が
相対的に上がった結果なのだろう。
少し後悔している。
何故私は一昨年両親に「投票所に行くな」と言わなかったのか。
まあいい。 なるべくしてなった結果だ。
父も母も結局は地位社会の人間。

さて、宗教は幼児教育。
一方の思想は中学生教育の失敗作だとした。
観点を変えてみよう。
社会における思想の立ち居地と影響はあれで正しいのだと。

思想は宗教とやっている事の方向性は同じだが、違いは想定する
影響の対象が中学生相当という点。
今日思想と呼ばれるものの多くはヨーロッパ、プロテスタント運動
に続く形で生まれたもの。
それ以前のヨーロッパは西欧がどうなっていたかと言われているか
というと、キリスト教一極支配だった。
つまり思想は一宗教のみな状態を緩和するものなのだと。

私が思想を評価しようとするなら一極状態の緩和、これが理由になる。
本当にそうなのだろうか。
歴史的にそうなっていたか。
社会的にそうなっているか。
教育の場でそのように扱われているか。
順番に見ていく事にする。

欧州は思想の中心になったのはドイツだ。
中国だと春秋時代だがとりあえず今はそれは見ない。
当時ドイツの状態は宗教一極的だったのか。
そうだったのかもしれない。
だが南欧、地中海地域ほどではなかったはず。
何故南欧は一極的だったのか。
これはイスラム教徒との戦争がありキリスト教がその旗印として
使われていたから。
ドイツで思想が伸びたのは何故か。
南欧の支配に対抗するためであって、当地のキリスト教一極を緩和
するためではなかった。 少なくとも当初は。

現代の社会はどうなっていたか。
宗教の一極支配と同じ事が思想でも起きていた。
私はその最大の物をマルクス教と呼んでいるがナチズムも同じだし
戦後の反ファシズムもやはり同様だっただろう。
実際「反省」などと称する弾圧法が各国にあり、権威の利権者たちが
その上に胡坐をかいている。 暗黒伝。
思想は宗教化し肥大化し一極化し、同様の弊害をもたらした。

教育の場ではどうなっているか。
日本では日教組、他の西側諸国にもキリスト教やイスラム教文化に
対する批判はその内容、批判者の目的および行動の如何にかかわらず正義
だが黒人などの文化に対するそれは何時いかなる場合でも密告の対象と
すべし、といった方針で政治活動をしているサ派が蔓延っている。
そして他人を引き摺り下ろす事に歓喜する不満人たちが彼らの支持層。
論外だ。
中国や北朝鮮のような国に至っては「国家公認の思想以外認めず」とまで
なっている。
ただし中には極端に宗教的な家庭もある事を考えれば、思想を中学校あたり
で教える事がまったく無意味だとも言い切れない。

鉢植えの平和が否定されている理由はこれだろうか。
確かに100や200の家庭では多宗教状態の維持は困難で、ふとした拍子に
地域内で一家族の影響が巨大になる事も十分ありえるのだろう。
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少数派の迫害

2011-07-25 11:52:47 | Weblog
女子サッカーの世界大会で日本代表が優勝したのだそうな。
おめでとうございます。
んで一昨年日本で進行した「事業仕分け」が槍玉に挙がったらしい。
私はそれを間違いだったとはしない。
私がやれと言われたとしてもスポーツから手を付けただろうから。
事業仕分けに問題があったとするならば何に手を付けたかよりもむしろ、
何に手を付けなかったかだろう、もちろん自衛隊いびりのようなもの
には常時反対する。

手のひら返し、と言えば通じる人には通じるだろう、
少し先の日本でこれが起きるだろう事を危惧している。
やるのは団塊左翼を中心とした勢力、要するに旧来の民主党支持層だ。
内外、右左、あちこちに無意味に吠え威嚇する座敷犬のようになる。
この時若い世代は彼らを止める側でなければならない。
なぜなら日本人そうであるべきであり、そして日本人に限らず
そうであるべきだから。
とは言っても今やるべきは特殊な事でも行動的な事でもなく、
「あいつらやりかねない」と言い続ける事なのだが。
団塊世代とくに左派は言うだろう、差別的なネットウヨクならともかく
知的でリベラルな我々がそんな事をするはずが無いと。

少数派の迫害。
観点を変えればそれは転落者の迫害だ。
そしてそれをするのは必ずしも対立していた者たちではなく暴力的、
集団的で無自覚な連中、そういう人たちは大義名分さえ立てばそう動く。
集団性と無自覚性。
常時集団的だから無自覚なのか考えない人が集団に安住するのか。
ファッションを価値だと思い込むが、それが流されている状態なのだ
ということに気付かない。

セルバンテス氏がイスラム教徒の捕虜となり奴隷となったキリスト教徒
の扱いを残酷だと批判していたころスペインでは異端審問でコンベルソ
やモリスコが火あぶりにされていた。
これをして宗教なんて、と言う人は自分の価値観が一般的だと無自覚に
思い込んでいるだけ。
今日で言う一党独裁体制下の秘密警察密告制度に続くものだ。
当時文明の中心と居える場所に居た最高の知識人をしてそうなのだから
人の言う特定集団に対する残酷さといった評価はそんなものなのだろう。

大義名分があり密告、処刑という制度があった。
そういう歴史だ。
人々は何故密告したのか。
理由はもっぱら、金回りに対する嫉妬だったのだそうな。

現在お隣の韓国ではチンイルバ子孫の財産を没収しているらしい。
こうした動きを朝日新聞に代表される日本のリベラル派が賞賛してきた。
彼らは他罰的な人間なんだな。
だから大義名分を後生大事にする。
彼らにとって重要なのはその影響ではない。
自分の他罰性向を満たしてくれるかどうかだ。
無自覚。
だからモスクワ、ピョンヤン、ペキン、ソウルと転々としてきた事を
恥としない。

そんな粗悪劣悪なリベラル派は日本だけだ、海外のリベラル派の中には
そう言う人もいるだろう。
そうなのかもしれない。
だが海外のリベラル派はこれまで朝日新聞を礼賛してきた。
朝日新聞が彼らの気に入る行動を取ったら、多くがまたやるだろう。

現在のスペインには「歴史の記憶」などとかいう法律があるのだそうな。
なにやら復讐心理の臭いがする。
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デブ

2011-07-25 11:52:23 | Weblog
最近あばらが浮いてきたが、下腹部の脂肪はまだ落ちていない。
そういうものなのだろう。
一時期30を超えていたBMIは現在20くらい。
カロリー30%オフ(当人比)である。

小学校のころは暑い地域に住んでいた事も有り、家に帰ると冷蔵庫から
牛乳を出しコップに注ぎがぶ飲みしていた。
中学校、高校くらいのころもやはりそうだった。
体格が向上するにつれ飲む量も増えてはいったが行動は変わらず。
飲むものの種類は清涼飲料水などにも広がって行った。
牛乳パックから直接飲むようになったのは日本に帰ってから、
コンビニで500mlパックのジュースやミルクティーなどを飲むように
なってからだったはずだが、やはり行動は同じだった。
サラリーマンになり体重の増加を気にするようになってからは
スポーツドリンク、野菜ジュース、お茶へと飲む種類が変化していったが、
やはり行動は変わらず。
先日久しぶりに炭酸飲料(カロリーゼロ)を飲んだわけだが感想は
「ぷはーうめぇー」だった。 やっぱり変化なし。

好きな食べ物はカレーライスとかハンバーガーとかである。
ビッグ○ックは幸せの味がする。
いや単純に味比べをするなら他店に軍配を上げるが。
父が裕福だったころもそうだったし、今もそう、と言っても
最後に食べたのが何時だったかは覚えていないが。
他人が何を食っていようと私はそれでいい、と思っている。
これが私であり私は私をこういう人間だと思っていてそして、
こういう人間が私であるとも思っている。
いわゆるアイデンティティーである。
そしてこれを、私の中にある暴食傾向だとも認識している。

アイデンティティーと個人の嗜好をごっちゃにするなと人は言う
かもしれない。
だが食うことはデブのアイデンティティーだ、と言ったら
多くの人は頷くだろう。
アイデンティティーの行動とはそういう話でもある。

紛争カレーというものがあったとする。
例えばカレーに使われるある香辛料がアフリカのとある国でしか採れず、
その国のテロ勢力が戦争を続ける資金源になっている、そんな話。
そうなった場合私はカレーを食べる事を止めるか。
多分止める。
アイデンティティーの放棄あるいは一部切り替えである。
私はこれを当然とする。

牛肉が熱帯雨林を破壊しているといった話が昔あった。
割り箸悪玉論と同様にガセネタに近かったのかあるいはある程度
問題が解決したからなのかは知らないが、最近は聞かない。
当時の私は肉を遠ざけていたか。
それが何時ごろだったかを覚えていないが、違っていたような気がする。
当時の私は再生紙の利用を唱えるほどには環境問題に関心を持っていた
はずなのだが。
発展途上国に近い位置に居た関係から先進国と言う工業化済み白人国、
そこを中心に叫ばれていた熱帯雨林論を怪しんでいたのかもしれない。

現在日本で消費されている牛肉はもっぱら北米産やオーストラリア産、
後は国産のはず。
飼育に必要な真水消費量、フードマイルといった問題はあるかも
しれないがあちらも先進国、今すぐどうこうといった話では無い筈。

企業単位の小コロニーが月に点在する状況を考える。
そこでは地球では奪い合いになるようなレアメタルが安価で取引され、
その一方で、空気が有料だ。

誰にでもふんだんに与えられている物はすぐに当たり前となり、
それに誰も有難さを感じなくなる。
誰もが感謝しない状況を止めているのは宗教だろう、
日本人はいただきますと言う。
宗教があって経験を伴わない状況は続くだろうか。
おそらく否だろう、少なくとも現状は。
人はまだ隣人に「飢える役」を必要としている。

豚肉を食べない事を止める事を検討中。
理由は、そうする事に決めたら書くつもり。
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人はパンのみに生きず

2011-07-22 16:32:06 | Weblog
昨日から東の風。
温度計の値が30度からほとんど動かないなーと思っていたが今回気温が
大きく下がり、値が20と30の中間くらいまで降りてきた結果1目盛り1度
だと思っていたものが2度であることに気付いた。
フールプルーフと言う。
塗り薬の使い方を知らずに真似するだけの人は使用済みの脱脂綿を
再びその薬液に漬けるだろう。
馬鹿が居るからフールプルーフが考えられる。
その恩恵を受けるのは馬鹿だけだろうか。

人はパンのみに生きずと言う。
宗教を指す言葉のようだ。
では宗教とは何か。
以前私は宗教は幼児教育だと書いた。
人はこうあるべきだ、という指針が教育という形に体系化されたもの。
では思想はどうか。
同じだ。
個人よりも社会の方に指針の比重を置く傾向が見られるがそういう宗教も
ありまた逆に、指針を個人寄りに持つ思想もある。

個人に対し思想はどのようにあると捉えるか。
趣味だ。
剣道や茶道などを思想として捉える向きもあるが、それが趣味である事に
違いは無い。 一時期大学生たちの間で流行したマルクス教はどうか。
やはり趣味だろう。
では適当な思想の支持者から見て趣味と思想の違いは何処にあるのか。
強制性だ。
自分の志向を他者に強制しようという意識がある場合はそれを思想と呼び、
無い場合はそれを趣味と呼ぶ。
権威ある思想だから強制するのが正しい、そう考えそう使い分けている。
なるほど。
幼児に対して初期教育として機能するようになっているのが宗教、
大学生あるいはもっと若く中学生くらいに対して説得力を持つように
構成されているものが思想。
社会的にはそうなっていると。
そして思想は、結局のところ趣味でしかない。

人はパンのみに生きずと言う。
宗教と趣味は方向性が違うと言うかもしれない。
確かに違うだろう、だが場所は近く両者を分ける明確な線は無い。
人はパンのみに生きず、趣味を持つ。
趣味の内、幼児に対して社会性の最初として教えるものが宗教、
幼児以上社会人未満の青少年に対して強制しようというものが思想。
どちらもパンではない。
聖書の正しい分類は児童書だろう、それ以上でもそれ以下でもない。
児童書に予言なんかのっかてるのがおかしいんだとも言える。
予言は子供のための物だと言うのならそれでいいのかもしれないが。

既存の宗教は幼児教育として正しいか。
いや知らない。
幼児なんて得体の知れない生物でありそれが学ぶのは親の価値観だろう、
得体の知れない生物が他者の価値観を人の基本として受け入れる以上、
それはどうあがいても宗教の形を取る事になる。
なんせそれ以前に、人としてどうあるべきかの根拠が無い。
根拠が無いところに根拠を作ろうとすればそれは宗教だ。
では思想はどうか。
既存の思想は青少年の学ぶ志向に強制するものとして正しいか。
否と見る。
社会人としての教育が必要だと言うのならパンのための経済、パンのための
政治でも学ばせればいい。
あとは放っておけば適当に趣味を見つけるだろう。
それは哲学かもしれないしテレビゲームかもしれない。
周りがどうしたところで、人は趣味に生きる。
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乞食国家

2011-07-22 16:31:33 | Weblog
ストリートチルドレンとは地位である、を補足。
ストリートチルドレンが死ぬ事で減少しないことから生存だけなら食が
足りているのだとの推測で、社会が彼らにそういう地位を与えているのだ
とした。
問題が社会における地位にあるのを貧困こそが問題であるとした場合、
どのような現象が現れると見るか。
一つの可能性として、貧困者という地位が新たに出現し、貧困者という
地位層の拡大によって他の層、要するに生産活動が圧迫される。
結果が飢餓地域、飢餓国家の出現。

日帝がモンゴルまで征していたらその後はどうなっていただろうか。
歴史そのままの流れを適用するならモンゴルは満州と同じ道を辿り、
ウイグルがモンゴルのようになっていたかもしれない。
もちろん、一つが変わればそれに伴い多くの事が変わるのだが。
漢人の支配が最悪の部類ならばウイグル人はこう問うべきか。
何故我々はロシアに支配されなかったのか、と。

北朝鮮の問題は韓国が「うちで引き取る」と言わない事だと書いた。
専門家は言うだろう、そんなに単純な問題ではないと。
私は言う、問題そのものはまったく複雑でもなんでもないのだと。
我々は統一国家を作る、関係各国はそれに合わせろ。
そう言うだけでいいのだと。
複雑なのは大国の思惑だが当事国両国がそれに合わせる理由は無い。
ここで発想を転換させてみる。
実は専門家の出した結論の方が正しく、北朝鮮情勢は各国間の利害調整が
問題解決にあたる絶対条件であると。
私はあくまで当事者の問題であり当事者がどうあるべきかといった見解に
沿って解決を図れば良いのだとしている。
この差は何か。
当事国国民の依頼心だろう。
彼らは問題の認識も薄く問題を解決するのだという意思も乏しい。
口はうるさくとも本音はただエサが降ってくればいいな、程度なので
彼らの状態は関係各国が関係各国それぞれに都合が良いように
決めてやるべき問題なのだとなる。
そんなわけないと言うかもしれない。
だが自分でやろうとしないという事はそういう事であり、これまで
そうだった彼らがこれから先もずっとそうだとすると専門家の言う事の
方が正しい、となる。

家長制度というのは父親が稼ぎ手である事から発生した制度なのだろう、
養う側と養われる側とにはっきりと分かれる。
これにさらに多産が基本とする常識を足したらどうなるか。
一対一、対等が基本ではなく一対多、一家長に対して命令を受けるだけ
の従属者が多数。
従属者は従属的であることが本分であるとされ、全ては家長の責任。
これを正しい構図とし拡大適用すると、優れた一人と賞賛する周囲
というアフリカ式の教育方針となり、さらに国家間に適用すると
大国が小国を養うのが当然、という構図となる。
では大国の判断は正しいのか。

大国と小国の文化距離は近いだろうか。
おおむね遠いだろう。
中央から見える距離が国境ならその外にあるのが周辺国。
そして判断は当然、見える距離で行われる。
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