在らふ、である。
何故こうした造語をするのかだが、それは世間の神名が複数の意味を持ってしまっているから。 クジラもサメもどっちもクジラと呼ぶような。
アラフは馬鹿なのか。 まず根本的な問題として、変化を認識しない、時間軸を持たない神だというのがあると。 これは馬鹿というよりそういうものだからそういうものだとしか。 次が癒着を優先する性向。 私はこれを馬鹿と呼ぶ。 それ以外は方便である。 アラフが馬鹿なら意義があり、アラフが馬鹿ではないのなら私の恥となるがアラフの周囲は馬鹿なのでこれはこれで益がある。 アラフファンネルの処理と私の恥とを天秤にかけると比べ物にならないくらい得と。
唯一神が自身の変化を認識した時に自他が出来た。 唯一神の本質は全であり、個ではない。 こうして世界は中心であるアラフ、アラフ以外の有象無象、それらと重ね合わせの無色透明不定の唯一神という構造となった。 かつての中心であって全ではない、それがアラフ。
世界の縁は山である。 こう書くと天動説世界を思い浮かべるだろう、だが我々が住んでいる場所は「重力の井戸」と呼ばれている。 周りは全て山である。
世界は昔、アラフを中心としおり、中心に近いと遠いとがあった。 近いほどエラく、そして全体的に変化に乏しい。 そういう世界だった。 私はそれを第二世界と呼んでいる。 それは事故的に終わった。
第二世界は「遠い」ほど苦しみが多く、アラフはそららを「そういうものだ」とした。 唯一神はアテンを興した。 世界はアテンの巡る世界となった。 私はそれを第三世界と呼ぶ。 アラフは世界の変化を認識できなかった。 世界はアラフの世界ではなくなったが、アラフは変わっていないと思いこんでいた。
第三世界の終わりは創成期一章へとつながる。 世界に「世界の始まりとはどのようなものだったか」という問いが起こり、アテンが答えようとし唯一神が応じた。 聖書は「アテンが説明する唯一神が起きざま」天地創造より始まる。 そこにアラフが置かれた。 それがエデン物語である。
アラフは何故アダムにエバを付けたのか。 アラフの徒と唯一神使との対立を危惧してか。 時間軸を持たないアラフにとってそれは「最初からそういうものだった」となる。 「そうだった」が違っても改めて「そうだった」でしかない。 だが有象無象はそうなってはいない。
彼らを処理すれば問題はなくなるか。 それでいいのかもしれない。