ありがとう
隣の人に
伝えると
多分隣の
人も喜ぶ
葛藤することを脳内会議と言ったりする。
たいして議論するわけではなくただただ混乱があるだけなのだが
賛成や反対や、どちらでもない有象無象の感情を人に見立ててそう言うと。
脳内会議がある。
これから何を食べるかでも、パンツの色でも、議題はなんでもいい。
やろうと思えば何時でも出来る。
そういうもの。
会議の参加者を分自我とする。
紛糾する会議を高いところから眺めるあなたは源自我。
白熱する会議のメンバーに、お茶とお菓子を配ったとする。
登場人物を一人増やして彼に持ってこさせたと。
さて分自我達はお茶とお菓子を、源自我に感謝するべきだろうか。
それとも持ってきた新しい分自我に感謝するべきだろうか。
私は現時点では両方するのが正しいと思うのだが。
少なくとも分自我が別の分自我に感謝の意を表することは、
微笑ましいとは感じても間違っているとは感じていない。
お茶とお菓子がどこから来たのかについて関心を持つべきでは、
とも思ったりするが。
考え方として間違っているのかもしれない。
人がいきなり出現するという状況を仮定することは
社会がどうあるべきかと考える上で、何か違うのかも知れない。
他人とは自分にとってどう捉えるべきなのだろうか。
隣の人に
伝えると
多分隣の
人も喜ぶ
葛藤することを脳内会議と言ったりする。
たいして議論するわけではなくただただ混乱があるだけなのだが
賛成や反対や、どちらでもない有象無象の感情を人に見立ててそう言うと。
脳内会議がある。
これから何を食べるかでも、パンツの色でも、議題はなんでもいい。
やろうと思えば何時でも出来る。
そういうもの。
会議の参加者を分自我とする。
紛糾する会議を高いところから眺めるあなたは源自我。
白熱する会議のメンバーに、お茶とお菓子を配ったとする。
登場人物を一人増やして彼に持ってこさせたと。
さて分自我達はお茶とお菓子を、源自我に感謝するべきだろうか。
それとも持ってきた新しい分自我に感謝するべきだろうか。
私は現時点では両方するのが正しいと思うのだが。
少なくとも分自我が別の分自我に感謝の意を表することは、
微笑ましいとは感じても間違っているとは感じていない。
お茶とお菓子がどこから来たのかについて関心を持つべきでは、
とも思ったりするが。
考え方として間違っているのかもしれない。
人がいきなり出現するという状況を仮定することは
社会がどうあるべきかと考える上で、何か違うのかも知れない。
他人とは自分にとってどう捉えるべきなのだろうか。