アニメSHIROBAKOについて難癖付けたい点が二つほど浮かぶ。 一つは公道カーレース、カーチェイスの扱いで、もう一つが悪役の配置。
カーチェイスは前にも書いたが主人公サイドの他人を危険にさらす悪質行為だが、悪びれもせず大した罰も受けない。 これは制作会社の思想傾向でありアニメ業界の体質問題でもあるのだろう。 「改善されなかったありふれたクズ文化」といったところか。
もう一つ、悪役の配置だが、私は後半の悪役は女にするべきだったとしている。
作中のトラブルメーカー、悪役が男に寄っているが、これは制作テーマに「働く女」とやらが挙げられている以上わざとだろう。
制作側にちょっと酌量出来るかも点を挙げるなら最後の悪役を女にすると、あちこちで多く見られるステレオタイプをなぞる形になってしまう。 ならば仕方がなかったのかというとそんなわけない。 「黒人主役のドラマでトラブルメーカー大半が白人、黒幕も白人」みたいなものであり、ポリコレ的には許される、むしろ推奨されていたりするがそうした作品は黒人を悪意の側に落とすものだと。 ポリコレに参画しようとして歴史的被害者側を悪意に固定しようとする動き。 この作品の制作意図はそうしたものになっている。
「中心的トラブルメーカー二名を女にすれば良かったのでは」というのがあり、それだったら良心的でありかつ作品の傾向も他と被らず斬新さが出た可能性がある。 ただしそれをリアルなアニメ制作現場に見せるには苦労が生じただろう。
要するに安直に悪意に流れた。 ポリコレ嗜好がそうさせた。
Zガンダムあたりを念頭に富野由悠季作品を語るに、「作戦戦闘ではない」となる。
作戦戦闘を
1 立案、説明、戦闘目的の共有
2 作戦準備、目的共有下で各人状況変化へ対応
3 戦果を得る
とする。 これは実は、少年ジャンプの「友情・努力・勝利」の大人版である。
これを富野は
1 思いつき立案、権力による強制
2 反発、殴り統制、脱走や分裂騒動、なあなあで通る
3 主人公周辺に全滅級被害、グダグタ結末
こうなる。
アニメの歴史的に富野ファンらしき人間は多いが、パッと見評価されている戦闘シーンはモブ対モブあるいはモブ対主役級によるもの。 主役級同士には無駄に尺を取る愛憎会話劇がねじ込まれる。
こうした作品傾向と現実のパワハラ文化とに関連がないのならば問題視するようなものではない。 私には彼が、公私ともにパワハラ圏を広げようとしているように映る。