狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

有能感型人生と優越感型人生

2017-05-31 14:12:40 | Weblog
「二人の関係が上手くいっているように見えるとき、一方が我慢している」これ基本ね。 いじめもスクールカーストも労働移民制度も、これの垂直固定型。

競馬で思い出した。 大学生が競馬やって良かったのかどうかうろ覚えだが昔、父に連れられて競馬場へ行った。 普通の?条件戦だったと思う、返し馬で一頭が、気持ちよさそうに走っていた。 で、父に「あの馬が良く走っている」と伝えたと。 レースはその馬が勝った。 走って投票所まで行けば間に合う時間だったはずだが結局買わなかった、だが私はこれを、自分の中で誇っている。 自分は「馬を見る」事が出来る、と。 ここがミソね。 「出来る」単体で満足するのが有能感。 「他人よりも」の方に価値を置くのが優越感。 この「馬を見る」能力の場合、百万人中百万人がこれをする事が可能だったとしても、やっぱりそれを誇るのが有能感の側。
昔「スラムダンク」というバスケットボール漫画があった。 真ん中らへんでその主人公、桜木花道が、バスケ部の監督、安西先生とジャンプシュートの練習をする場面がある。 ここ。 細かい表現は忘れたが、確か「ただシュートするのが楽しかった」とあった、はず。 この時点で主人公花道は、押すと転がる安西先生よりも下手糞なのね。 でも楽しい。 これ有能感の感覚なのね。
「穴を掘って埋めさせる」という拷問があるのだそうな。 有能感の人に毎日これをさせたらおそらくその人は、自分磨きを始める。 最適なスコップの挿し方、土の質に応じたすくい方と放り方、疲れにくい体幹の使い方、くずれにくい穴の形と壁、スコップの個性の把握等を探求しだす。 そういう意味ではこういうものが拷問になるのは、自分が、命令なりなんなりをして我慢をさせる他人を必要とする人なのだと。
まあ私自身は「上にいると思い込んでいる人を下にする」のが大好きだったりするんだけれどもね。

有能感の人は「自分が出来る事」に価値を見出す。 では有能感の人は無条件で楽しい人生を送れるのかというとそうではなく、身体的苦痛も楽しみを奪われて怒るのも変わらないわけだ。 ただ人生の価値に「下の他人」を必要としない点が違うだけと。
優越感の人は「下の他人」を必要とする。 強さだったり速さだったり札束だったりファッションだったり、同調圧で作り出すものだったり。 「下の人」にストレスを与え続けた挙句、「下の人」を巡って争いだす。

有能感型の人生と優越感型の人生は、選択制である。 通常はおそらく、気付かないうちに選んでいてずっとそのまま、というものだろうが、小さい子に「こういう生き方とこういう生き方とがあって、こっちがいいんだよ」と教える事は可能で、素直な子ならばそちらを選んで一生ずっとそのまま、という事も十分あり得ると。 また朝起きて、「今日は有能感で過ごす」と決めるも可能。 「これまでずっと優越感で生きてきた成功経験」を覆せるかどうかはともかくも。
小学校低学年、あるいは幼稚園で、「有能感型人生とはこうで、優越感型人生とはこうです、有能感の方を選ぶ事を勧めます」としたとしよう、どうなるか。 初動ではおそらく、現状と大差ない状況となるだろう。 長期的には違ってくる。 教えられ、知っていて、選んでしまった、そういう人が大人になり老人になり気付く。 そうするべきではなかったのだ、これまで自分が「下にしてきた他人」はみな居なくなってしまったが自分が「出来た」身近な事はみな忘れてしまった、そういう人生になってしまったと悔やむ、これが残る。 社会のあちこちにこうした老人たちがさ迷い歩くようになる。 これを見た子供たちが、有能感の側を選ぶようになる。
じゃあ失敗老人たちが居ないと社会は変わらないのか、というと、私は違うと思うわけだ。 素直な子供なら言葉だけで判断できるだろう、と。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Wotのイベント行ってきた

2017-05-30 03:38:12 | Weblog
ウォーゲーミング社のイベント、フレンドシップデーとやらに行ってきた。 内容は、昼をまたいでワールドオブウォーシップス、午後にワールドオブタンクス。 近くに東郷神社があって、池で亀が日向ぼっこしてた。 んでイベントの雑感として
・お船と戦車、両方出た人は少数
・参加者数は戦車の方が多少多かった気がするがそんなに変わらなかった印象
・平均年齢は戦車の方が低めに見えた
・お船の方が、良く言えばおとなしめ、悪く言うと日陰者
・戦車の方の参加者、どこしらか「主流だ」「先進的なんだ」「自分たちは偉いんだ」と勘違いしたお子様感あり
・事件等は無し、トラブルは、クライアントの設定が間違ってた、パソコンから異音が、くらいか
・常時100人前後居たんじゃないかなと

街を歩いて気になったのだが、白人観光客のマナーが、微妙に悪いと感じた。 閑散とした観光地でなら問題のない行動を雑踏でとる。 この点に関してはひょっとしたら、同クラス(金も学歴もそこそこある)の中国人の方が、マナーが良いんじゃないかと。 アフリカでマスターレースやってた頃のメンタリティ引きずってるんじゃないかと勘繰ったり。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

啓蒙とは、否定である

2017-05-27 23:00:55 | Weblog
店員が冷静すぎる、と話題になった動画
https://www.youtube.com/watch?v=2xdtZ-ZksDc

一部、「店員と強盗がグルなのではないか」との見方をする人が居るが、解らない人は幸せだな~ある意味、と思う。 こーゆーのを相手にすると心が死ぬんだよ。 無駄で無益だって判るからそうするの。 流石にこんな犯罪に遭った経験は無いが。
改めて見て、強盗が銃を取り出してからしばらくの間店員が静止しているのに気付いた。 考えて切り替えているんだね。

よく「話し合いで~」とかって言うでしょ? 「必要ない場面も多い」って言ったら問答無用の暴力主義者だとかって思うでしょ? 逆の意味で書くんだな。 その場で相手が示してくるものによっては信用して任せる事が出来るから話し合うとかの理由が無くなるの。
私が誰かに、責任を問う、とか非を詰る、とかの態度をとるでしょ? こういった時の反応を二通りに見るの。 一つは、逆に脅してくる、怯えて見せる、取引を持ち掛ける、といったもの諸々。 表面的に恭順の意を示す、平和的話し合いで解決しようとする、といったものもここに含まれる。 もう一つは、まともさを持っている事、あるいは持とうとしているという態度を示そうとするもの。 宗教がかった言い方をすると自分の利益か神様が喜ぶ事かの二択だという話だが、実際にはもっと単純に、人間社会の糞さに辟易していて同じ事をする気はなく、もう少しマシにしようと思っているかどうか、といったものと。
こう書くと社会改革思想だろうと思う人も多いと思う、でも違うんだな。 それ過去のそれの物真似だから。 社会変えなくてもいいの。 人が変わればいいだけだから。 「こう社会が変われば人の意識もそう変わる」というのを見出した人が居たのだろう、だがそれが物真似されるようになった社会は、社会構造も人の意識も変わった後の状況なのね。 提唱者が望んだ方向に変わったとは限らないが、それする異議無くなっちゃってるのよ、提唱者の物真似する人たちとその周囲とで。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷戦後期派

2017-05-25 16:56:35 | Weblog
「後期冷戦派」と思った。 最初その単語で書こうとしていたのだが、この語順だと時代分けではなく世代分けになっちゃってそう。 それで良かったのか? ひょっとしたらそうかもしれない。 でもまあ、書く事の内容としては「冷戦後期」の時代なわけで、とりあえず。

冷戦後期。 冷戦期は前期と後期とに分けられて語られる事が多い。 前期は激突を前提とした、小競り合い。 後期はデタントへと向かう流れでありプロパガンダ合戦が主。
前期と後期を分ける事件としてはキューバ危機(パナマシーレーン)、ベトナム戦争、中ソ対立、オイルショック、日独の台頭、テレビの普及、中華人民共和国の国連常任理事国化。

うんまあ言いたい事は「冷戦後期派だか後期冷戦派だかが主流だがコイツら悪い事しかしないよ」って話なんだな。
元々は西側の、社会主義ユートピアンだったのだがソ連社会主義のディストピアを見た後プロパガンダ手段を手に入れて(精神的に)中国に逃げた連中。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビを見るにそこで何が行われていても「コイツらまた騙そうとしてやがる」と思ってしまう件

2017-05-25 16:36:09 | Weblog
一般の。 洋画とアニメは割と平気なのね。 二本で放送されるそれらの多くは、なんて言うのかな、対象・状況を限定した定型の内に収まっていると。 洋画の場合は「昔の西洋人はこんな事を信じていましたよ」でありアニメは「大人になれば子供だましだと気付きますよ」となっていると。 これが「収まっている」状態。 だからBBC謹製「アニマルファーム」なんかは駄目なはずなのね。 状況次第で「また騙そうとしている」になるの。 定形云々に収まっていない。

テレビを見ると「騙そうとしている」とし、気分が悪くなる。 どんどん不機嫌になる。 鳴っている音が聞こえるだけで嫌。 実際には内容によるはずで、討論番組は論外。 トレンド系も駄目。 啓蒙と称するもの、政治経済国際情勢を扱ったワイドショー系、これも胸糞悪い。 趣味系だが芸能人が話を進める。 「押し」を見額にしわが寄る。

私の感性は正しいのだ。
そうなっている。 私が「これは嫌なものだ」とした以上はそうなっているはずなのだ。 ただ「テレビが嫌い」を一般化し「彼らは悪い事をしようとしている」としただけだと属人判断、やる前からの決め付けであり偏見であり、テレビ業界人たちに対する差別待遇だ。 違いとなる「何か」を言語化出来ていないとただの「嫌い」になってしまうわけだ。

私には知恵がある。
与えられている。 物事を前に置き、見て、言葉にする。 これが出来るはず。 能力があるのだからやれば成る。 成せる。 無いのは出来ないからではなく、やっていないからだ。

今回は出来てるな。 初動で。 ようは「ごり押し」だ。 「ごり押し状況の腑分けと説明」が簡易に出来てた。 「やってみたら即出来た」の典型か。 話を進めるか。 何かを隠し、別のものを押し付けようとするごり押しポイントがあり、それを目と耳で捉えて不快としているわけだ。
ここから進めるとなると、脛に?うん?脛に疵持てば笹原走る、だそうな。 予測変換で出てきたのをググってみた。 ああ、なんだ強姦事件か。 早稲田大学あたりの学生時代かその後か、強姦なり強姦まがいなりをしてリベラル派にかばってもらって無罪放免となった人たちが「公正な人たち」に背を向け陥れようとしているんだな。 麻薬犯罪、万引き、蛇頭なんかも同系統。 彼らにしてみれば、そういう人たちの方が安心出来るのね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Youtuberとcopyright strike続報

2017-05-23 23:20:45 | Weblog
前回取り上げたM氏の動画
https://www.youtube.com/watch?v=Xma_DtVjF-Y

続報が出てた
https://www.youtube.com/watch?v=R1AcN5andxA

約15分の英語、誰か日本語に訳してくれと言いたいが、一応私も英語使いの端くれしょうがないからそれっぽいものを書く。
なんでもEU支社のコミュニティ担当偉いさんから問題解決の話は出たがその直後だか、US支社から逆の発表「F氏はヘイトスピーチとホモ差別の人なので措置を取る」とか。

ヘイトスピーチ。 まーた面白い単語が出てきたもんだ。
M氏曰く、EU支社とUS支社が別行動を取っているのかもしれない、との事だが私は別の可能性として、US支社は「コピーライト云々はしないがヘイトスピーチ云々はする」と主張している、というのを挙げるわけだ。 「著作権被害者ではなく人権問題における善意の第三者だ」というヤツだな。 これだとすると、この動きの裏に、なにかしら指示するか煽るかした圧力団体が居る、となると。

とりあえずhomophobicという単語を調べた。 これ「成果」と言ったもんか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Youtuberとcopyright strike云々

2017-05-23 22:20:29 | Weblog
Youtuber界隈でなにやらトラブルが発生したらしい。 昨晩私が見たM氏の動画では最近一連の流れとして起きた二件のクレーム問題を取り上げていて、なんでもワールドオブタンクスのWG社が、C氏、M氏の友人?の上げた動画に個人攻撃に該当する部分がある、との指摘をしたと。 それを受けてC氏は動画の取り下げに応じたらしい。 M氏曰くWG社の過剰反応ではないか、との事だが、こちらはこれで一応問題終息となったと。 次がF氏やらが上げた動画。 M氏から見ても問題が多々らしい、が、こちらはWG社からの取り下げ要請に応じなかったとの事。 正当な要請(?)が聞き入られなかったWG社はF氏に対し、copyright strikeを敢行するとの通達を出したとか。 ここまでが第一段階。
Youtuberに対して恫喝的手法を用いる会社とはやっていけん、公式友好関係を清算し紹介動画を閉める、との見解をM氏がWG社に出したというのが第二段階で、ここでなにやらWG社の偉いさんから「恫喝じみた手法は用いないようにするつもりだが正式発表には社内手続きに時間がかかる」との返答が来た、といったところで動画が終わりと。 30分以上の英語で眠くなった。
問題は収束に向かっているかに見えるのだが、本日当事者F氏が問題状況の説明に上げた最新動画を発見、視聴しようとしたがなんかふざけてるっぽいのですぐ止めた。 さらに他のYoutuberたちがWG社を小馬鹿にした動画を上げているのが現状、第三段階と。

便乗叩きのように見えて好きになれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私は車が嫌いでね(自転車問題)

2017-05-21 02:41:20 | Weblog
私には嫌いなものが多い。 タイトルに車を挙げたが正確には「周囲を顧みないドライバーが嫌い」でこれが昂じて「車嫌いなのだ」としていると。 そうじゃないドライバーが運転している様を見ると「ああ、これなら」と好ましく思うだろうな。

自転車の。 道路の蝙蝠なんて呼ばれたりする。 走っている時は車両で手で押している時は歩行者だ、と法律で定められているが実際には歩道を走ったり車道を走ったりしていて、そこからそうなったと。 見るからに危ない、と言いたい場面を目にする事もあり事故も多いと聞く。 この日本でどうにかるに、どうしたもんかと考える。

その1
問題の多くは住宅街の道路で起こる、とする。 自転車レーンを設ければ緩和されるはずだがそうした道路の多くは道幅が狭いが対面交通で、新たにレーンを増やす余裕はない。 現状のままでは。 だったらだ。 対面交通を止めてしまえばいい。 一方通行にし空いたスペースに「自転車レーン」の色塗りでもすると。 

その2
路上駐車を原則禁止にする。 配達車両、のみならず、一般乗用車の路上駐停車をわりと目にする。 本当に必要か?と疑問に思う。 正直、「路上駐車して当然なのだ」という常識は死滅した方がいいと思っている。

その3
道路の両側に歩道がある場合は一方を歩行者専用、自転車不可にする。 発想としてはその1と変わらないが、自転車乗りの多くは我儘な人間だろう、すぐには守られないルールになりそうな気がする。 どちらかというと「我儘な人間を照らし出す効果」の方がありそうな。 それはそれで、将来の事故を防ぐ役に立つはず。 社会の責任者らがしっかりしていればの話だが。

その4
自転車を廃止してしまおう。 自転車、原付、バイクを廃止し変わりに時速20~25kmくらいが最高速度の四輪スクーターみたいなのを導入する。 庶民の足としての機械ならば5分で1~2kmも進めれば十分なはずで、日々の買い物に足るだけの積載量があればそれ以上は不要。 それでも事故を起こす馬鹿は出てくるだろうが対処も回避もずっとしやすくなる。 遅い方がいいのだ。
時速20kmの四輪を基準とする。 欧米とはまったく違う交通事情になるだろう、だが別に真似しなきゃいけないわけじゃない。 彼らと同じ事をしちゃ駄目な様を多く見る昨今、その方がいい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「先生に知らせなきゃ」と「先生に言いつけてやる」の差

2017-05-21 02:14:48 | Weblog
アニメもテレビで比較的きれいな方、って書いたっけか? 最近じゃあ怪しいんだよな、これ。 元々文芸業界にアタマオカシイ系の人、社会に対する怨嗟を勝手にこじらせて八つ当たり欲で動くようになっちゃった、みたいなのが居たはずなんだが、そうした流れからアニメ等子供向けの番組を取り込もうとする動きもあるわけね。

「知らせなきゃ」と「言いつけてやる」の差。
前者は共通認識なのね。 子供たちが善意のようなものを共有していて、問題、なんらかの危険を発見し解決方法として大人、対処能力を持つ人間に委ねようとすると。 後者は対立関係。 そこで権力者を抱き込もうとする動き。
報道業界にあるのってたいがい「言いつけてやる」の方なのね。 これ義憤とかじゃないよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福と不幸

2017-05-21 02:09:29 | Weblog
幸せと不幸せって反対の概念ではない、としたら怪訝に思われるだろうか。
「幸せな状態」は割と、自分で認識する、自分を幸せにする何かが有る時に喜び、それが離れた時に「ああ、自分は幸せだったのだ」と気付く。 そして似たようなものがまた来た時の喜びに、「ああ、今自分は幸せなのだ」と思うと。
一方の、不幸せは、他人が決める面がある。 一般には怪我や病気等の健康上の問題が続いている、自分の子などを亡くした際の心の痛み、他人に毟られ続ける状態、何をやっても上手くいかない時の、全てがどうでもよくなる無気力感など。 個々に内容が結構違う。 無気力感が有る時は自分で自分を不幸だと認識する。 心の痛み云々は永くあると期待していた幸福が去ってもう帰ってこなくなる状態で、不幸だという認識よりも感情としての悲しみが強くあると。 健康状態については身体の苦しみだわな。 「何でもいい早く終わってくれ」とか「何故こうなったのだ自分をこのようにした何者かを恨む」とかの、感情があると。 「終わってくれ」という願いよりも「何故だ」との恨み怒る感情の時の方が、余裕がある。 多分。 毟られる状態が続く時。 これは往々にして、それが不幸とされる状態なのだと気付かなかったりすると。 指摘され、何らかの形心に余裕が出来顧みると納得する。 その状態は不幸だったのだ、と。

・幸福は主観だが不幸は客観
・幸福自体は感情だが不幸は状態認識

必ずしも全パターンに当てはまるわけではないが、同じものの両端、対義、裏表の関係ではなさそうだ。 幸福かつ不幸という状態も幸福ではないが不幸でもないという状態もあり得ると。

こうしたものから考える。
幸福は幸福感でありその反対は悲嘆や憂鬱感。
不幸は不幸状態の認識でありその反対は有能感の確信や心身充実の確認。

「知恵があるから不幸なのだ」といった話があったりする。 私はこれは嘘だろうとする。 知恵がなくとも当人が「嫌だー逃げ出したいー」と思い続けるが叶わない、そういう状態はありうる。 「嫌だった。 抜け出せて良かった。 もうあのようにはなりたくない」と思う事もあるだろう、これは「不幸だ」という認識、概念を外部から与えられたものとは違う。 概念として認識されなくとも当人は忌避する、これは「不幸に気付いた」状態となんら変わりない。
「彼らは幸せだったのだ」はどうだろう。 私なら「勝手に決めるな」と怒るかもしれない。 なるほど「彼らは幸せだった」は、知恵の悪用に該当するのだろう。 発言者が「馬鹿のままでいてくれた方が都合がよかったのに」と思っているだけの事と。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする