「二人の関係が上手くいっているように見えるとき、一方が我慢している」これ基本ね。 いじめもスクールカーストも労働移民制度も、これの垂直固定型。
競馬で思い出した。 大学生が競馬やって良かったのかどうかうろ覚えだが昔、父に連れられて競馬場へ行った。 普通の?条件戦だったと思う、返し馬で一頭が、気持ちよさそうに走っていた。 で、父に「あの馬が良く走っている」と伝えたと。 レースはその馬が勝った。 走って投票所まで行けば間に合う時間だったはずだが結局買わなかった、だが私はこれを、自分の中で誇っている。 自分は「馬を見る」事が出来る、と。 ここがミソね。 「出来る」単体で満足するのが有能感。 「他人よりも」の方に価値を置くのが優越感。 この「馬を見る」能力の場合、百万人中百万人がこれをする事が可能だったとしても、やっぱりそれを誇るのが有能感の側。
昔「スラムダンク」というバスケットボール漫画があった。 真ん中らへんでその主人公、桜木花道が、バスケ部の監督、安西先生とジャンプシュートの練習をする場面がある。 ここ。 細かい表現は忘れたが、確か「ただシュートするのが楽しかった」とあった、はず。 この時点で主人公花道は、押すと転がる安西先生よりも下手糞なのね。 でも楽しい。 これ有能感の感覚なのね。
「穴を掘って埋めさせる」という拷問があるのだそうな。 有能感の人に毎日これをさせたらおそらくその人は、自分磨きを始める。 最適なスコップの挿し方、土の質に応じたすくい方と放り方、疲れにくい体幹の使い方、くずれにくい穴の形と壁、スコップの個性の把握等を探求しだす。 そういう意味ではこういうものが拷問になるのは、自分が、命令なりなんなりをして我慢をさせる他人を必要とする人なのだと。
まあ私自身は「上にいると思い込んでいる人を下にする」のが大好きだったりするんだけれどもね。
有能感の人は「自分が出来る事」に価値を見出す。 では有能感の人は無条件で楽しい人生を送れるのかというとそうではなく、身体的苦痛も楽しみを奪われて怒るのも変わらないわけだ。 ただ人生の価値に「下の他人」を必要としない点が違うだけと。
優越感の人は「下の他人」を必要とする。 強さだったり速さだったり札束だったりファッションだったり、同調圧で作り出すものだったり。 「下の人」にストレスを与え続けた挙句、「下の人」を巡って争いだす。
有能感型の人生と優越感型の人生は、選択制である。 通常はおそらく、気付かないうちに選んでいてずっとそのまま、というものだろうが、小さい子に「こういう生き方とこういう生き方とがあって、こっちがいいんだよ」と教える事は可能で、素直な子ならばそちらを選んで一生ずっとそのまま、という事も十分あり得ると。 また朝起きて、「今日は有能感で過ごす」と決めるも可能。 「これまでずっと優越感で生きてきた成功経験」を覆せるかどうかはともかくも。
小学校低学年、あるいは幼稚園で、「有能感型人生とはこうで、優越感型人生とはこうです、有能感の方を選ぶ事を勧めます」としたとしよう、どうなるか。 初動ではおそらく、現状と大差ない状況となるだろう。 長期的には違ってくる。 教えられ、知っていて、選んでしまった、そういう人が大人になり老人になり気付く。 そうするべきではなかったのだ、これまで自分が「下にしてきた他人」はみな居なくなってしまったが自分が「出来た」身近な事はみな忘れてしまった、そういう人生になってしまったと悔やむ、これが残る。 社会のあちこちにこうした老人たちがさ迷い歩くようになる。 これを見た子供たちが、有能感の側を選ぶようになる。
じゃあ失敗老人たちが居ないと社会は変わらないのか、というと、私は違うと思うわけだ。 素直な子供なら言葉だけで判断できるだろう、と。
競馬で思い出した。 大学生が競馬やって良かったのかどうかうろ覚えだが昔、父に連れられて競馬場へ行った。 普通の?条件戦だったと思う、返し馬で一頭が、気持ちよさそうに走っていた。 で、父に「あの馬が良く走っている」と伝えたと。 レースはその馬が勝った。 走って投票所まで行けば間に合う時間だったはずだが結局買わなかった、だが私はこれを、自分の中で誇っている。 自分は「馬を見る」事が出来る、と。 ここがミソね。 「出来る」単体で満足するのが有能感。 「他人よりも」の方に価値を置くのが優越感。 この「馬を見る」能力の場合、百万人中百万人がこれをする事が可能だったとしても、やっぱりそれを誇るのが有能感の側。
昔「スラムダンク」というバスケットボール漫画があった。 真ん中らへんでその主人公、桜木花道が、バスケ部の監督、安西先生とジャンプシュートの練習をする場面がある。 ここ。 細かい表現は忘れたが、確か「ただシュートするのが楽しかった」とあった、はず。 この時点で主人公花道は、押すと転がる安西先生よりも下手糞なのね。 でも楽しい。 これ有能感の感覚なのね。
「穴を掘って埋めさせる」という拷問があるのだそうな。 有能感の人に毎日これをさせたらおそらくその人は、自分磨きを始める。 最適なスコップの挿し方、土の質に応じたすくい方と放り方、疲れにくい体幹の使い方、くずれにくい穴の形と壁、スコップの個性の把握等を探求しだす。 そういう意味ではこういうものが拷問になるのは、自分が、命令なりなんなりをして我慢をさせる他人を必要とする人なのだと。
まあ私自身は「上にいると思い込んでいる人を下にする」のが大好きだったりするんだけれどもね。
有能感の人は「自分が出来る事」に価値を見出す。 では有能感の人は無条件で楽しい人生を送れるのかというとそうではなく、身体的苦痛も楽しみを奪われて怒るのも変わらないわけだ。 ただ人生の価値に「下の他人」を必要としない点が違うだけと。
優越感の人は「下の他人」を必要とする。 強さだったり速さだったり札束だったりファッションだったり、同調圧で作り出すものだったり。 「下の人」にストレスを与え続けた挙句、「下の人」を巡って争いだす。
有能感型の人生と優越感型の人生は、選択制である。 通常はおそらく、気付かないうちに選んでいてずっとそのまま、というものだろうが、小さい子に「こういう生き方とこういう生き方とがあって、こっちがいいんだよ」と教える事は可能で、素直な子ならばそちらを選んで一生ずっとそのまま、という事も十分あり得ると。 また朝起きて、「今日は有能感で過ごす」と決めるも可能。 「これまでずっと優越感で生きてきた成功経験」を覆せるかどうかはともかくも。
小学校低学年、あるいは幼稚園で、「有能感型人生とはこうで、優越感型人生とはこうです、有能感の方を選ぶ事を勧めます」としたとしよう、どうなるか。 初動ではおそらく、現状と大差ない状況となるだろう。 長期的には違ってくる。 教えられ、知っていて、選んでしまった、そういう人が大人になり老人になり気付く。 そうするべきではなかったのだ、これまで自分が「下にしてきた他人」はみな居なくなってしまったが自分が「出来た」身近な事はみな忘れてしまった、そういう人生になってしまったと悔やむ、これが残る。 社会のあちこちにこうした老人たちがさ迷い歩くようになる。 これを見た子供たちが、有能感の側を選ぶようになる。
じゃあ失敗老人たちが居ないと社会は変わらないのか、というと、私は違うと思うわけだ。 素直な子供なら言葉だけで判断できるだろう、と。