「全たる」というのは私が神様の初期状態想定するもので、神様にとっての事実上の
他者、霊が創造される、その前段階よりも前の姿。 そして前段階を「移動する神様」
としている。 具体的な霊の創造が、世界に反映された自身の意志の肯定と否定とを
繰り返す「振動する神様」としている。 初出だね。 この後「最初の霊」が出現し
それを元、基準に霊たちの世界が構築される。 そして霊倫理の想起により事故が
起こる。
問題がある。
出エジプト記の25章から31章、これジャンクである。
24章から32章「金の子牛」事件は繋がっていなければならない、そしてその間に、
レビ記にでも載っていればいい程度の文章が延々と押し込められているがこれは読者
をだれさせぼかすためのものである。 問題の記述は24章にある。
出エジプト記の25章から31章はジャンクであるこれは事実。
重要な物語の中にジャンクが詰め込まれている。 あえてのそれ。
これを事実として受け止めなければあなた方は先には進めない。
さて「全たる」の意志をどう見るか。
いくつかの、主筋複数他者の争いの中にそれを見る、というのが一つの答えなのだが
それだと「では争いで決めよう」が未来を選ぶ手段となってしまう。
出来うる限りはこれは避けたい、と思わなくも無い。
別の見方は「全たるの意志は実現する」というものである。
聖書に「全たるの意志」は載ってない。 聖書を通して実現するものの中に
「全たるの意志」その実現があるなら正しい。 だがこれでもやっぱり一時的な
現象と長期的な目的に沿った変化の差が見切れず結局は各個に実現につき「私こそが
意志の体現者である」となってしまう。
これを避ける一つの手段としては千年単位で見るのがあるんだな。
一世代単位でも無いという事はあり得ない、人が捨て置かれないとするのなら必ず
一人の人生、60年か、の間にそれはある、のだが個々の事象については「次の世代の
ためあえて」という部分とそうではなくその世代のための部分の区別がつかない。
1000年の間に世界規模で実現した事はかなりの確度でそうだとなる、また千年単位
同士の比較も可能、人類の伝統、宗教を遡れるのが三千年、これを千年区切りa,b,c
とするとa,b,cそれぞれ単体、ab,bc,acの比較、ab対c,bc対a,ac対b,abc一貫と
10の判断材料が得られる。
もちろん、記録者がウソをついていないというのがこれを可能にする大前提なのだが。