今の社会はサルが権力を持った状態にあり、「略奪を嫌う子供=善」ではなく、「上手に略奪する子供=善」となってしまっている。
子供の犯罪性。 これを
・暴力性
・詐欺性
・支配性
と分けてみる。 私が注意が必要だとするのが暴力性。 というのも、詐欺性、支配性を伴わないそれは、何らかの形の義憤である可能性が大きいと見ているから。 それに対し女は詐欺性を尊び、社会は支配性を称える。
仮に詐欺性、支配性を排除し暴力性を放置したらどのような社会になるか。 各人単独で動き、軋轢を避けながらのまれに物々交換が成立する、そんな社会になるだろう。 私はそうした社会のほうが、今よりもより善であると見る。
詐欺性・支配性を尊ぶ彼らは邪悪。 ここは変わらない。
まあ暴力性の矯正は必要だろう。 短絡的に被害が増えるのは好ましくはない。 詐欺虚飾を好み、誤導し据え置き支配するのは悪である。 短絡的なのは動物性であって、心の悪ではない。 この違いが分からない彼らは「支配するサルたち」でしかない。
「人が協力せず支配されない社会は今よりも善である」とされなければならない。 無政府主義というわけではない。 個人の趣味としての支配性は悪であり、理念として広くそうなっていなければならないだけで協力自体は善行である。 指揮者、指揮利益者は必要ない、存在しない方が良いというだけの事。 指揮利益者の存在する協力よりも、存在しない非協力の方が、悪が少ない。 全員が無利益協力者であり、全員が非協力受益者であればいい。
花壇があったとしよう。 一人が花を植えたとする。 この場合その一人が精神利益以外を得ない労働者であり、その人以外が無協力で花を見る人となる。 ここで「花を植えたのだからカネを徴収する」となっているのが現在の社会。
さてこの無利益協力者・無協力受益者からどう政治政府、製造企業らを構築するか。
詐欺性・支配性排除の理念から思想が出来たとして、それをどのような教育とし子供たちを分けるか。
現行の悪徳人種をどう処理するか。
私が死んで天が勝利に沸き立ち腐朽消滅、理念のみ残った状態からイエスあたりの判りそうなやつにぶん投げるのが安直解か。