うんだから。 知っていたら、「陰キャ許容」にはなっても「陰キャ嫌悪」にはならない。 同時に、知っていたら「無責任嫌悪」にはなっても「無責任許容」にはならない。 世間一般、現在のマスコミを中心とする「ブーム」や「人身売買じみた事をするプロスポーツ文化」は嫌悪の対象。 「陽気に楽しむだけ」なんて事になりえない。 そうなるとしたらソイツは目に入っても考えない、状況を無視できる無関心な人間か、「自分がいじめる側」である事を喜んでいる人間。
陽気であると自任する人間は保健所には行かない。 陰気で陰惨だから。 そして彼らはペットショップに行く。 高級種売買の側を嫌うのが陰気だとされる人間。
キリスト教圏の指導者に「イスラム教徒と仲良くしろ」と言うと、スンニ派とにぎにぎする。 裏で「シーア派を叩いて帳尻を合わせよう」という密約を交わす。
この構図、国際社会の基本構造でありあちこちで似たような「融和」が行われるある種戦略セオリー行動なのだがこれ、「社会性に長けた人」が日常的にする行動。 犠牲者選びである。 誰かと何かを妥協する際にこれをする。 無意識にそうし、選定上手な自分を誇っていたりもする。
さてこの指摘に対し、「長けていない人もやっているだろう」とする向きもあると思う。 ところが国際社会の場、政治家外交官たちは、そういう人間なのかどうかを既に試されていたりする。 所謂「歴史問題」である。
さて映画「ガンジー」ネタ、子供を殺された怒りからイスラム教徒の子供を虐殺してしまった人の親に、「イスラム教徒の孤児を拾いなさい」とし、「そしてイスラム教徒として育てなさい」としたと。 これはぱっと見ほど簡単な話ではない、宗教モラルの違いとは一般の日本人が朝鮮総連を見るような、欧米人ユダヤ人がナチスドイツと聞いて思うものを含むのだと。 グローバルな宗教対立の双方が、一般には安定した伝統宗教である事からそうした「差異への目」が忘れられがちだが細部の本質は違うのだ、としたと。 そして「私ならどうするか」に「良心に従う」としたと。
この「良心に従う」としたネタ、「一般化出来ないだろう」と思った人は慧眼だとする。 良心の基準は立場や文化背景によって異なると。 ところがだ。 この、「映画ガンジーの子供虐殺ネタ」だと少々違ってくる。 というのも、このガンジー氏への相談者には決定的な点がある。 「宗教対立、暴動から子供を殺してしまった自分を悪だとしている」点。 彼はこれを、「ヒンドゥー教の教義に反しているから悪なのだ」とはしていない。 人として生きてきた、人の親としての経験からそれを「悪だ」としていた、そう見ると。 これ必ずしも宗教判断、宗教文化をバックとした何かではなく、共通性が高いものなのだとしていると。
ではだ。 こうではない宗教もあるのでは、と思われたりするだろうか。 うん。 ある。 「子は、目下は親、目上のエサたるべし」という宗教が。
陽気であると自任する人間は保健所には行かない。 陰気で陰惨だから。 そして彼らはペットショップに行く。 高級種売買の側を嫌うのが陰気だとされる人間。
キリスト教圏の指導者に「イスラム教徒と仲良くしろ」と言うと、スンニ派とにぎにぎする。 裏で「シーア派を叩いて帳尻を合わせよう」という密約を交わす。
この構図、国際社会の基本構造でありあちこちで似たような「融和」が行われるある種戦略セオリー行動なのだがこれ、「社会性に長けた人」が日常的にする行動。 犠牲者選びである。 誰かと何かを妥協する際にこれをする。 無意識にそうし、選定上手な自分を誇っていたりもする。
さてこの指摘に対し、「長けていない人もやっているだろう」とする向きもあると思う。 ところが国際社会の場、政治家外交官たちは、そういう人間なのかどうかを既に試されていたりする。 所謂「歴史問題」である。
さて映画「ガンジー」ネタ、子供を殺された怒りからイスラム教徒の子供を虐殺してしまった人の親に、「イスラム教徒の孤児を拾いなさい」とし、「そしてイスラム教徒として育てなさい」としたと。 これはぱっと見ほど簡単な話ではない、宗教モラルの違いとは一般の日本人が朝鮮総連を見るような、欧米人ユダヤ人がナチスドイツと聞いて思うものを含むのだと。 グローバルな宗教対立の双方が、一般には安定した伝統宗教である事からそうした「差異への目」が忘れられがちだが細部の本質は違うのだ、としたと。 そして「私ならどうするか」に「良心に従う」としたと。
この「良心に従う」としたネタ、「一般化出来ないだろう」と思った人は慧眼だとする。 良心の基準は立場や文化背景によって異なると。 ところがだ。 この、「映画ガンジーの子供虐殺ネタ」だと少々違ってくる。 というのも、このガンジー氏への相談者には決定的な点がある。 「宗教対立、暴動から子供を殺してしまった自分を悪だとしている」点。 彼はこれを、「ヒンドゥー教の教義に反しているから悪なのだ」とはしていない。 人として生きてきた、人の親としての経験からそれを「悪だ」としていた、そう見ると。 これ必ずしも宗教判断、宗教文化をバックとした何かではなく、共通性が高いものなのだとしていると。
ではだ。 こうではない宗教もあるのでは、と思われたりするだろうか。 うん。 ある。 「子は、目下は親、目上のエサたるべし」という宗教が。