あー。 書く気しない。 引き続き「なんでこんな馬鹿共のために?」があって。 書いても無駄だとの感で。
今日は比較的静かな日で。 今週は買い出し時の運転でも悪質運転者がそれほど目につかなかった。 まあ多少は回復したのかもなと。
全体視上の困窮者。 人間社会に限ったこれは要は困っている人の事で、社会で窮し具合で順位をつけるならだいたい、重傷者が一位、重病者が二位、乳児が三位、妊婦が四位単独で居る幼児が五位障害者乳児の母老人傷病者、これらに続いて黒人や女といった、「定義上の弱者」で差別待遇を受けている人たちとなる。
全体視上の困窮者とは一定条件下に全体を視た際の、だいたい最も困っている存在で、ぶっちゃけ神様でもその特定は困難。 一応「液晶スクリーン上の輝点黒点等異常を視る」のは可能だが、全体視は条件が整わないと無理だしその理由を探るとなると一点近傍以外はおざなりになる。
人間に出来るのは「教室の全生徒を視る」くらいの箱庭条件下でのそれで、人がする以上常に箱庭条件だというのは念頭に置く必要がある。
なんで弱者の定義が必要なの?が問いで、理由は人間社会が良く言えば綱引き、悪く言うと奪い合いで出来ているから。 弱ければ綱引きに負け続ける、奪われ続けるで困窮者となる。 周囲が助けなければならないのは困窮者の方だが、一部の人間にとっては「弱者の定義」の方が都合が良い。
優等生。 現代社会における優等生とは「社会制度上有利な行動が取れる人間」である。 現実のそれは社会制度を自分有利に利用でき、そしてその多くがそうした「見えない資産」から人間関係を自分有利に構築していく人間と。 官僚制度・学校社会を中心とした上級国民と言い換えてもいい。 彼らにしてみれば「弱者の定義」もまた利用すべきものであり、利益の出る制度は利権として固定化される。
「定義上の弱者が社会の義しさの基準である」とする彼らは社会の癌である。 定義上の弱者は困窮者ではなく、困窮者を視ない彼らは公権力の座に値しない。