つまり私はジョッキー志向、寄生型人間が権力を目指すことを自分
自身の主人たる事を放棄していながら他人の主人たろうとしている、
と見做している訳だな。
寛容か不寛容かで言うと私は確実に不寛容系だ。
インチキな反米主義者、マヌケな新米主義者という本を手に取った。
十年前のフランスの本で原題はL'OBSESSION ANTI-AMERICAINE。
昔読んだはずなのに新しく読める。
出た当時ちょっとした話題になった本なのだがその後も日本人は、
自民党が悪いと言い続けた。 よりひどくなった気もする。
母が時々異言する。
最初にそれに気付いたのは去年あたりだったと思う、その時は
「あ、やべぇ勝てない」と感じた。
物語の中に食っちゃ寝ばかりしていた男がある日突然動き出す、
といったようなものがある。 彼は必要性を認識したのだとすると
これは男としては割と自然な行動で納得がいく。
女は両隣の感情で動くが男は不特定多数の他人の必要性で動く。
後進国の女は働き者だが男は怠け者だ、と言われていたりするが
これはある意味で当然、なんせ後進国の社会には身内はいても
不特定多数の他人はいない。
お金の必要無い社会を考えてみる。
食料庫が有って社会の構成員全員がそこから自由に欲しいだけ
食料を持ち出し食べることが出来る。
一般家庭では戸棚や冷蔵庫がそれだな。
食料庫の食料が減ってくれば減ってきた事に気付いた人が供給する。
各人がそれをし、それが延々と続くだけ。
めいめい好きなだけ持っていく。 気付く人が供給する。
ノルマも無く、体制も無い。
ただひたすらふんだんな供給だけがある。
それに気付かない人はそこでは永久に、供給する側にはならない。
平等は無い。
平等に、と言う人は居ない。
食べすぎだ、粗末にするなと言う人はいるだろうが。
さて前回更新時、イギリスは助け合わない社会であると出た。
助け合いが無い社会ではない。 だが隣人を助けた、隣人に助けられた
という経験は英国人には普遍的ではないと見る。 社会に慈善は有る。
保障も有る。 そこに個人があり、出来る人がやり、出来ない人は
出来ないまま放置される、そういう社会。
中学から高校くらいの年齢にかけての間私は英国式の教育機関に通って
いた。 そこで二人、同学年の級友だ、放置された生徒を見た。
一人は英本国人、もう一人は旧植民地人だろう。
生徒は基本的に彼らを相手にせず、教師も嫌っていた。
どちらかというと旧植民地人の方が彼には仲間が居た分マシに見えた。
どっちもどっちだが。
では彼らは何時からそう扱われてきたのか。
私がそこに通学するようになった初期からそうだったとするとおそらく
小学校時代からそうだったのだろうそうすると、出来る子は助けない、
出来ない子は助けられない、そして私がそれ以上に深刻だろうとする
のがそれ以外の子、彼らは助ける級友も助けられる級友も見ずに育つ。
それがそのまま社会の常識となる。
出来ない級友を助ける。
出来ないから友人に助けを請う。
こうした行為は特定の人に対するものか、不特定の人に対するものか。
友人に、とすると特定だが級友に、とすると不特定になる。
クラスで最も出来る生徒と出来ない生徒はランダムだ。
それを当然とするのならこれは不特定を相手にする性質のもの。
出来る出来ないと書くと競争社会がーと言い出す人が居ると思う。
競争が出来ない人を作るのだと。
出来るようにするのが正しいのか、他人に勝つのが正しいのか。
私はむしろ出来ない人にこそ競争が必要だとする。
一例が百マス計算。
友人との競争と、それ以上に自分との競争だ。
競争がだめだと言っている人たちは勝者だけを見てたたえる人たちと
同様に競争を駄目にする側なのだとろう、出来ない人対してになにも
しなければ言う人は加害者にはならず、社会を非難する側で居られる。
競争は悪いとする人も勝つのが正しいとする人も、出来ない人を放置
する、という点について差は無い。
自身の主人たる事を放棄していながら他人の主人たろうとしている、
と見做している訳だな。
寛容か不寛容かで言うと私は確実に不寛容系だ。
インチキな反米主義者、マヌケな新米主義者という本を手に取った。
十年前のフランスの本で原題はL'OBSESSION ANTI-AMERICAINE。
昔読んだはずなのに新しく読める。
出た当時ちょっとした話題になった本なのだがその後も日本人は、
自民党が悪いと言い続けた。 よりひどくなった気もする。
母が時々異言する。
最初にそれに気付いたのは去年あたりだったと思う、その時は
「あ、やべぇ勝てない」と感じた。
物語の中に食っちゃ寝ばかりしていた男がある日突然動き出す、
といったようなものがある。 彼は必要性を認識したのだとすると
これは男としては割と自然な行動で納得がいく。
女は両隣の感情で動くが男は不特定多数の他人の必要性で動く。
後進国の女は働き者だが男は怠け者だ、と言われていたりするが
これはある意味で当然、なんせ後進国の社会には身内はいても
不特定多数の他人はいない。
お金の必要無い社会を考えてみる。
食料庫が有って社会の構成員全員がそこから自由に欲しいだけ
食料を持ち出し食べることが出来る。
一般家庭では戸棚や冷蔵庫がそれだな。
食料庫の食料が減ってくれば減ってきた事に気付いた人が供給する。
各人がそれをし、それが延々と続くだけ。
めいめい好きなだけ持っていく。 気付く人が供給する。
ノルマも無く、体制も無い。
ただひたすらふんだんな供給だけがある。
それに気付かない人はそこでは永久に、供給する側にはならない。
平等は無い。
平等に、と言う人は居ない。
食べすぎだ、粗末にするなと言う人はいるだろうが。
さて前回更新時、イギリスは助け合わない社会であると出た。
助け合いが無い社会ではない。 だが隣人を助けた、隣人に助けられた
という経験は英国人には普遍的ではないと見る。 社会に慈善は有る。
保障も有る。 そこに個人があり、出来る人がやり、出来ない人は
出来ないまま放置される、そういう社会。
中学から高校くらいの年齢にかけての間私は英国式の教育機関に通って
いた。 そこで二人、同学年の級友だ、放置された生徒を見た。
一人は英本国人、もう一人は旧植民地人だろう。
生徒は基本的に彼らを相手にせず、教師も嫌っていた。
どちらかというと旧植民地人の方が彼には仲間が居た分マシに見えた。
どっちもどっちだが。
では彼らは何時からそう扱われてきたのか。
私がそこに通学するようになった初期からそうだったとするとおそらく
小学校時代からそうだったのだろうそうすると、出来る子は助けない、
出来ない子は助けられない、そして私がそれ以上に深刻だろうとする
のがそれ以外の子、彼らは助ける級友も助けられる級友も見ずに育つ。
それがそのまま社会の常識となる。
出来ない級友を助ける。
出来ないから友人に助けを請う。
こうした行為は特定の人に対するものか、不特定の人に対するものか。
友人に、とすると特定だが級友に、とすると不特定になる。
クラスで最も出来る生徒と出来ない生徒はランダムだ。
それを当然とするのならこれは不特定を相手にする性質のもの。
出来る出来ないと書くと競争社会がーと言い出す人が居ると思う。
競争が出来ない人を作るのだと。
出来るようにするのが正しいのか、他人に勝つのが正しいのか。
私はむしろ出来ない人にこそ競争が必要だとする。
一例が百マス計算。
友人との競争と、それ以上に自分との競争だ。
競争がだめだと言っている人たちは勝者だけを見てたたえる人たちと
同様に競争を駄目にする側なのだとろう、出来ない人対してになにも
しなければ言う人は加害者にはならず、社会を非難する側で居られる。
競争は悪いとする人も勝つのが正しいとする人も、出来ない人を放置
する、という点について差は無い。