クズは何時クズになるのか

2011-08-29 09:08:41 | Weblog
つまり私はジョッキー志向、寄生型人間が権力を目指すことを自分
自身の主人たる事を放棄していながら他人の主人たろうとしている、
と見做している訳だな。
寛容か不寛容かで言うと私は確実に不寛容系だ。

インチキな反米主義者、マヌケな新米主義者という本を手に取った。
十年前のフランスの本で原題はL'OBSESSION ANTI-AMERICAINE。
昔読んだはずなのに新しく読める。
出た当時ちょっとした話題になった本なのだがその後も日本人は、
自民党が悪いと言い続けた。 よりひどくなった気もする。

母が時々異言する。
最初にそれに気付いたのは去年あたりだったと思う、その時は
「あ、やべぇ勝てない」と感じた。

物語の中に食っちゃ寝ばかりしていた男がある日突然動き出す、
といったようなものがある。 彼は必要性を認識したのだとすると
これは男としては割と自然な行動で納得がいく。
女は両隣の感情で動くが男は不特定多数の他人の必要性で動く。
後進国の女は働き者だが男は怠け者だ、と言われていたりするが
これはある意味で当然、なんせ後進国の社会には身内はいても
不特定多数の他人はいない。

お金の必要無い社会を考えてみる。
食料庫が有って社会の構成員全員がそこから自由に欲しいだけ
食料を持ち出し食べることが出来る。
一般家庭では戸棚や冷蔵庫がそれだな。
食料庫の食料が減ってくれば減ってきた事に気付いた人が供給する。
各人がそれをし、それが延々と続くだけ。
めいめい好きなだけ持っていく。 気付く人が供給する。
ノルマも無く、体制も無い。
ただひたすらふんだんな供給だけがある。
それに気付かない人はそこでは永久に、供給する側にはならない。
平等は無い。
平等に、と言う人は居ない。
食べすぎだ、粗末にするなと言う人はいるだろうが。

さて前回更新時、イギリスは助け合わない社会であると出た。
助け合いが無い社会ではない。 だが隣人を助けた、隣人に助けられた
という経験は英国人には普遍的ではないと見る。 社会に慈善は有る。
保障も有る。 そこに個人があり、出来る人がやり、出来ない人は
出来ないまま放置される、そういう社会。

中学から高校くらいの年齢にかけての間私は英国式の教育機関に通って
いた。 そこで二人、同学年の級友だ、放置された生徒を見た。
一人は英本国人、もう一人は旧植民地人だろう。
生徒は基本的に彼らを相手にせず、教師も嫌っていた。
どちらかというと旧植民地人の方が彼には仲間が居た分マシに見えた。
どっちもどっちだが。
では彼らは何時からそう扱われてきたのか。
私がそこに通学するようになった初期からそうだったとするとおそらく
小学校時代からそうだったのだろうそうすると、出来る子は助けない、
出来ない子は助けられない、そして私がそれ以上に深刻だろうとする
のがそれ以外の子、彼らは助ける級友も助けられる級友も見ずに育つ。
それがそのまま社会の常識となる。

出来ない級友を助ける。
出来ないから友人に助けを請う。
こうした行為は特定の人に対するものか、不特定の人に対するものか。
友人に、とすると特定だが級友に、とすると不特定になる。
クラスで最も出来る生徒と出来ない生徒はランダムだ。
それを当然とするのならこれは不特定を相手にする性質のもの。

出来る出来ないと書くと競争社会がーと言い出す人が居ると思う。
競争が出来ない人を作るのだと。
出来るようにするのが正しいのか、他人に勝つのが正しいのか。
私はむしろ出来ない人にこそ競争が必要だとする。
一例が百マス計算。
友人との競争と、それ以上に自分との競争だ。
競争がだめだと言っている人たちは勝者だけを見てたたえる人たちと
同様に競争を駄目にする側なのだとろう、出来ない人対してになにも
しなければ言う人は加害者にはならず、社会を非難する側で居られる。
競争は悪いとする人も勝つのが正しいとする人も、出来ない人を放置
する、という点について差は無い。
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エンターテインメント産業と役者

2011-08-29 09:08:06 | Weblog
相変わらずブログの更新に週二回ペースで家と実家とを往復している。
んで前回、おやっ?と思う場面に出くわした。
女子中学生と思わしき横隊が、道を空けたのである。
男子ならよくある。 と言うより男性社会では道を空けないのは
知恵が足りないのだと見做さる。
若い連中は変わってきている。 男女ともに。
一例だけで、と言うかもしれないが行動が文化的なものかどうかは
見て予想がつく。
じゃあ年嵩の連中はどうか。

映画を作るとする。
スタッフが5人と役者が5人居ると。
スタッフの給料を月20万円、手当社会保障その他に10万円ずつかかると
すると30万*5人で毎月150万円。 役者の方も同程度だとすると合計で
300万円。 半年で撮りあがるとすると1800万円。
観客1人あたり製作者に100円入るとすると18万人、300円入るとすると
6万人が観ないと採算が合わない。
映画館一室で平均100人入るとすると1800回ないし600回、10館で放映
されるとすると一館あたり180回ないしは60回、一箇所につき一日4回
放映されるとすると45日ないしは15日。
1万人しか観ない映画だと1人当たり300円徴収しても300万円。
これだとスタッフ5人役者5人の体制だと制作期間は1ヶ月しか取れない。

観客から制作費を取ると採算の目処が立たない。
借りるにしても自腹にしても不採算では続かない。
資金を得るには別の方法もある。 スポンサー、宣伝広告である。
宣伝広告を見るのは誰か。 映画を観る客である。
つまり宣伝広告は、入場料とは別の方法でお金を取るという方法で
成り立っているわけだ。
映画を見た客に映画以外の物、宣伝物を買わせて、宣伝物を買った客
から映画を観る観ない関係無く映画料を徴収するという組み合わせ。
そんなんでスポンサー側の採算が合うのかと心配になってくるが
どうやら合うらしい。 それが人気というものなのだろう。
言い換えるなら消費者は、人気に対して金を出しているのだと。

さてここで製作者に二つの方向性が出てくる。
作品の質か、人気かである。
消費者は知ってか知らずか人気を買う。
質を買う人を見込んでスタッフを集めるか、人気を当て込んで有名な
役者を集めるか。 スポンサー集めに有利なのは後者だ。
何故ならスポンサーには人気は見えても作品の質は見えないから。
多少質が下がっても人気で補えばいい。 そうなる。
その結果、制作費が製作者よりも人気の役者に多く流れていく。
ではこの傾向が大きくなっていくとどうなるか。
こう書くと「視聴率至上主義」と反応する人も居るだろうと思うが
私はそれはそれで真っ当なのだとする。
スポンサー業である以上は人気を気にするのは当たり前。
問題が有るとすれば質を巡る構造を説明する責任、特にスポンサーに
対してのそれを果たしていない点にだろう。

消費者は人気を買う。
これはどういう行動か。
役者を買っているのだな。 まあスポーツ選手だったりもするが。
ではその役者がどういった人物なのかを消費者は判断しているのか。
否だろう。
人気の役者を買えればそれだけでいい、そういう行動になっていると。
こうしてみるとオタクの行動というのは面白い。
彼らは製作者を買っている。
キャラクターグッズを買う時でも「投資する」などといった語が
飛び交ったりする。 まあそういう意識を持たない人たちも居るが。

趣味系のネットではこう言われていたりする。
女に人気が出るとコンテンツが死ぬと。
もちろん過去の話だろう、これから変わって行くのかもしれない。
まあ変わる気が有れば、の話だが。
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戦後日本のテレビと朝鮮半島

2011-08-29 09:06:34 | Weblog
怨恨の教会、と書いた。 だがキリスト教徒のそれをキリスト教会が
受け止めたと解釈するのならそれは聖だろう。

日本の歴史学には「腐儒の系譜」が有る。
徳川幕府が全国の豪族、士族階級なわけだが、を支配するのに利用した
のが儒教だったのだがこれが儒教の中でも原理主義色の強い朝鮮朱子学
だったと。 結局その文化は江戸時代を通して、少なくとも直接的には
士族階級以外には広まらなかったそれは、明治期に入って西洋思想が
流入してくると全否定されたのだが一時代が去ってもそこに居た人が
即死滅するわけで無く、不平士族、私が言う不満人の先祖だが、たちや
その後継らの精神的拠り所として生きながらえたと。
戦後になって明治が否定されるようになるとそれが復権した。
朝鮮人を聖とするこの系譜が今日マスコミとパチンコヤクザとの癒着を
正当化する根拠の一つとして機能しているわけで私はそれを不潔な関係
と書いた。 社会における位置づけとしては欧州のネオナチと同等と
考えてもそう遠くは無いだろう、この腐儒の系譜との距離がそのまま
個々人の怨恨文化との距離の取り方になっていると見ているわけで。

かなり乱暴な分類になるが、TBSが北朝鮮系でフジテレビを韓国系。
フジは潜在的にアメリカ民主党系だとする方がより正確かもしれない。
テロ屋や麻薬屋に肩入れするのがもっぱらTBSで冷戦西側系の反テロ利権
を抱えるのがフジテレビとも取れる。 これまでTBSに怒る事が多かった
のは彼らがテロ屋の企業恫喝に加担していたから。
NHKは特にどちらというわけでもなく入り乱れているわけだが、どの道
テレビ業界の既得権維持に動く。 仮に業界を一組織とすると対外宣伝的
なのがNHKで実働部門的なのがTBSと。 もちろん業界人当人たちにはそう
いった意識は無いだろうが。 どこにせよ想定する視聴者は団塊世代で
そして直接の癒着相手が在日朝鮮人。 在日朝鮮人コミュニティ全体と
してはその時々で節操無く北によったり南によったりする。
反米コンプレックス、業界特権、パチンコ利権にうごめく部族主義集団が
入り乱れていてややこしい状況。 在日朝鮮人コミュニティは日本の中の
アフガニスタンだと言うと判りやすいと思う。
そして部族主義者の方が宗教だの思想だの麻薬だの戦争だのを持ち込む
ガイジンに寛容だったりするからリベラル派に受けがいいと。
パクチョンヒ氏←(何故か変換できない。 金日成氏金正日氏金大中氏
などは変換できるのに。 日本語のMS-IMEを作っているのは在米朝鮮人だ
という話も)が殺されたのは彼がまともだったからだろう、まともなら
朝鮮半島はとっくの昔に統一されている。

団塊世代も在日朝鮮人も日本ローカルな問題であってアメリカも中国も関係
無いじゃん、と言われればそうだと答えるのが正しいのだろう(後者は国籍
が違うし朝鮮半島情勢が関わってくるから国内問題とは言えないが)、でも
戦後正常化の流れに常に容喙してきたのがニューヨーク筋だったりすると。
現地を混乱させ正常化を阻害する容喙主義、本来なら忌むべき物であるはず
のこれが何故欧米、特にアングロサクソン筋で容認、むしろ正義であるが
如く扱われてきたのかの理由を私は分割統治の伝統に見ているわけで、
この見方が正しいのだとすると彼らは似たような事を過去も今も世界中で
やっていて、そしてこれからもやっていくだろうとなる。

日本の正常化を進めるとこの容喙主義にぶつかる。
そこに引っ付いているのがマスコミ特にテレビ業界の主流正義であり
彼らに引きずられた団塊世代であり。 そうなったのには理由がある
のかもしれないが今そうあるのは彼らの悪質さの現れでしかなく、
今そうある事を彼らが選んでいるのだから腐儒から容喙主義から全部
まとめて捨てるのが一つの手と。 逆に治っちゃう方がめんどくさい。
私としては。
実際には大きく治るか一部分だけ治るかの差でしかないのだが。
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景気対策云々

2011-08-26 09:17:07 | Weblog
どこぞの経済誌に載った風刺画、首長らが日本人の格好をしている、
の話題を見たときを私は喜んだのだが欧米人はそれを喜ぶべきものとは
しなかったらしい。
今にして思うとあれは「景気対策」を実行するためのコンセンサス作り
だったのかもしれない、だとするとその決定者は誰なのか。
海の獣は陰暦で42ヶ月、復讐の火は怨恨の教会に落ちた。

昨日木曜日に実家に行ったら父がパソコンを使っていた。
しばらく待ったが空かないので帰った。
結果エントリー数が倍になった。

日本の民主党が代表選をやっているらしい。
テレビのニュースでやっていた。
一昨年の選挙で70歳以上と20代で自民党支持、それ以外で民主党支持が
多かったらしい。 自民党が戦後戦中派の政党なら民主党は団塊世代の政党
なのだろう。 私は1976年生まれの日本人を「購われた世代」としている。
理由は彼らの大半が大学に入学する、あるいは高校を卒業して社会人となる
1995年初頭に起きた一連の出来事から。
二年前の時点で32~33歳。
日本の中学高校が三年制である事からその交友範囲は前後二学年だろう、
だが実際の影響はそこから下の世代にあるわけだな。

欧米諸国が「景気対策」に出る事を選んだと。
これは誰のための物なのだろうか。

出エジプトにイスラエルの民が居なくなったら誰がレンガを焼くのか、などと
いう心配事をする話が出てくる。 これに対する反応は欧米人と日本人とで
異なっているのではと思う。 日本人がこれを読んでも「エジプト人が焼けば
いいのではないか」としか思わない。 だから欧米人が「日本も移民を入れな
ければやっていけなくなる」などと言われてもぴんと来ない。

何故自国民ではなく移民なのか。 何故移民でなければ出来ないのか。
ここに「景気対策」という語を入れてみると奇妙な構図に見える。
欧米でそれが行われると企業に金が入り、最終的には移民が増える。
多分そうなる。
どうやら欧米の「景気対策」は失業対策ではないらしい。
何時からそうなったのか、という疑問はたどれば多分アメリカ大陸進出あたり
に行き着くのではないかと想像する。
思い込みで勝手に書くだけなのだが、欧米は国民がエリートと非エリートとで
二分されているのだとするとこの辺の構図に納得がいく。 そしてその理由は
欧米人は近所の馬鹿をたしなめたりしない事から来ているのではと。
日本の初等教育ではまず教室内の「横」の関係が教え込まれる。
体育についてのそれは無意味無価値だと思うが、算数なんかの授業ではそれに
よって、賢い子が馬鹿な子の面倒を見る、といった構図が自然と出来上がる。
賢い子が賢い子しか見ない環境では賢い子がする「景気対策」は当たり前に
賢い子を助けるための物になり、馬鹿な子は捨てられたままになると。
そして馬鹿な子を馬鹿なまま食わせようとするとして賢い子が用意するものが
社会保障なのだと。
救えない馬鹿に釣り針の作り方を教える人は居ない。
賢い人ならなおさらの事。
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女性の政治化か政治の女性化か

2011-08-26 09:16:19 | Weblog
中世ヨーロッパの労働人口は人口の四分の一程度だったそうな。
労働者と言えば男手の事を指していたとするとまず男女で二分の一、
失業者が一割程度に多産多死傾向から若年者が多かった事でさらに
二分の一程度、これで一応数字は合う。 正しくは無いだろうし農繁期
には一家総出で働いていただろう事はおそらく数字に出ていないだろう。
そもそも旦那よりも女将さんの方が良く働いていた家も少なくなかった
だろうから四分の一というのは支出を決める経済人の割合を反映した
数字と見るべきか。
では実際の自由主義経済下で動員可能な労働者数の上限、というのは
どのくらいなのだろうか。
ピラミッド型ではなく直立型の年齢人口分布で寿命を80年とする。
すると人口の1/4が20才以下、1/4が60才以上となる。 半分だ。
さらに失業者が1割、傷病者と障害者が合計で1割、専業主婦が女性の1割
とすると残りが75%、半分のそれだから37.5%。 4割を切る。
10代から60代、傷病者から妊婦まで動員して最大で75%。
さすがにそれは無理があるし、そもそも戦力になるのかといった問題が
出てくるので5,6割が最大労働動員数という事になるのだろうか。

女性の社会進出が進んだのが20世紀。
それを大雑把に前後半に分けると前半が戦争による必要性の増大となり
後半がもっぱら女性の側からの要請によるもの、となる。
女性が女性の社会進出を鼓舞した、となると後半のそれは一部女性の
恣意にそれ以外の女性が参加したあるいは巻き込まれた、となる。
国家間戦争による動員と社会運動による動員。
もっぱら前半に女性の政治化を見、後半に政治の女性化を見る。
歓迎するのは前者のみで、後者を私は唾棄する。

20世紀以前、女性の地位は低かったとされている。
夫婦でどちらがより多く飯を食べる事が出来るかという意味でなら
これはあちこちの国や文化圏で正しいのだろう、では飯の順位が低い
事は不幸を意味するのか。 必ずしもそうではなく、低くとも幸せな
例はいくらでもある。 ただし選択の自由は高い方にある。

20世紀後半女性は「飯の順位」の上位を求めたのか。
運動の方向性としてはそうだろう、飯に限らず社会活動全般における自分
たちの自分たちによる選択を求めたのだろう。
ではだ。
1位の権利を求めた人たちは1位の義務を果たしたのか。
私はこれを否と見ているわけだ。
相変もわらず孤立の長たるよりも衆愚の一部で居続けようとしているように
見えると。 これを政治の女性化と書いたわけだ。
何故そう思うのか。
道行くおばさんも中学生も横に広がって歩く。

「女性的」とは着飾って群れて道を塞ぐことを意味する。
これがまさに一個人たらんとする義務感が無い事の現れであると。
差別だと言われようとも私は「女性的」を叫ぶ女性をそうだと見做す。
社会の不特定多数の人間に対する平常を維持するという感覚が無い。
だから道を塞いでいても疑問に思わない。
親族、同僚、友人といった横並びの身内の悪感情を恐れて傅く。
これは長たる意識を自分から捨てているようなものだ。
社会の平常は隣の人間の好意や悪意とは無関係に存在する。
なぜならそれは不特定多数、隣以外の人間を含むものだから。

では何故20世紀前半には女性の政治化が進んだのか。
これは簡単、目的合理性を強制されたから。
生産性である。
国家規模で「隣人が居る」という意識を持つ事を強要された。
そりゃそうだ、ネジだけ作っても飛行機は飛ばない。
東から西から多くの部品が揃い組み立てられ、初めてそれは空を飛ぶ。
今日の女性にはこれを嫌う傾向が多く見られる。
曰く、国家権力による強制だと。
彼らは何を嫌っているのか。
個人の長になるためにはどのような経験が必要なのか。
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経済成長の中身と主食と付加価値

2011-08-26 09:15:54 | Weblog
主食の価格が騰がれば即インフレ。
経済とは一見物を買っているように見えても実際には人に対してお金を
払っており、人は飯を食うために働く。
私の状況は聖的障害者なのか? 経済的にはそうなっているな。
まあいい。
来年生きるために必要なものが家屋だとすると明日生きるために必要な
ものが飯。 人は誰でもこうなっているはず。
よって食料品価格の上昇イコールインフレ。
絵画の値段やスポーツ選手の年俸の場合はそうなってはいない。
それらがいくら騰がっても実社会への影響は短期的にはほぼ無い。
購入物を並べると一番右に来るのが主食、次が副食と衣料、家屋、燃料
や洗面道具が来て医薬品、車、家電製品など。
左を見ると音楽やスポーツ用品、愛玩動物、学習教材や娯楽物が。

ある村にお金持ちがやってくる。
村で色々な物を買う。 その結果村内部の金回りが良くなる。
これは村にとっては経済成長と言える。 一時的かもしれないが。
ところがどんなお金持ちでも主食に関しては一人分増えるだけである。
さらに言うと元居た地域では一人分減る。
主食は必ず人数分消費される変わりに、人数分以上は消費されない。
捨てでもしない限りは。

ある村で外食化が進んだとする。
100人の村、元々5人ずつ20家族居てそれぞれが家で食べていたのが
その内3軒が飯屋を始めて皆がそこで食べるようになったと。
村内外食市場が新規に出来たと。
一食500円、一日3食365日で1095食、100人だと約11万食分5500万円。
家の畑で採れた物を家族で食べていた村人全員が外食化する事で
村のGDPがこれだけ増える。
村人たちのメリットは料理人がプロ化し食の質が上がっただろう事、
それぞれ好きなメニューが選べるようになった事。
競争化、自由化のメリットだ。
この流れは個食化だとも言える。
それぞれがばらばらのメニューを選ぶのと同様にばらばらの時間、
ばらばらの場所で食べることも可能だから。
そしてここでも経済成長前後で主食の消費量は変化していない。

ある村で技術革新が起きたとする。
一家の畑につき1トン生産していた主食、とりあえずはお米とするか、
が1.5トン生産できるようになったと。
何が起きるか。
お米を一人一日平均300g食べるとすると一年で109kg、米農家一軒で
だいたい9人分作っていたのが一軒で14人分近く生産出来るように
なったということになる。
100人の村に11軒分必要だった米農家が6~7軒で足りるようになった。
では余った家、お米の生産4~5軒分の人たちはどうするか。
魚でも捕ってくるか。 陶芸でもするか。 勉強でも教えるか。
漫画でも描くか。 それとも失業者になるか。
お米の価格が一定ならそれを作っている農家の収入は1.5倍に増える。
失業する人たちが漫画家になったなら漫画市場の分村の経済は成長する。
100人の村でそれが20人なら最終的にGDPが2割増し。
お米の生産量は変わらず、村人は以前と同様人数分お米を食べる。
だがおそらく生産者が減った分、お米生産業者の村内での発言力は
低下する事になるだろう。

なんやかやで村の経済が成長したと。
そこである主食の農家は付加価値の高い主食を作る事にした。
高級米。 高級小麦。 高級ジャガイモ。 高級とうもろこし。
1袋5kg1000円だった主食に新たに5kg5000円のそれが加わった。
毎年200袋売っていた時は年収20万円。
売る量が変化せずに所得を倍増するには高級主食を
1000*200*2=1000*(200-X)+5000*X
400000=200000-1000*X+5000*X
200000=4000*X
50袋を高級主食で売らないと所得が倍にはならない。
そして全員が高級主食を食べるという状況はおそらくインフレを
意味するのだろう。

どうやら経済成長と呼ばれるものにはいくつかパターンがある模様。
1. 景気循環
2. 社会の個人化
3. 生産の効率化に始まる失業を伴う産業構造の変化
4. 高級化

主食生産者の収入増、商売を通して経済成長の恩恵に与る事になるのは
3か4のパターン。
農業生産の効率化というのは技術的な問題なので起きたり起きなかったり
し、社会の経済成長とは直接的には関係しない。
そこで4の主食の高級化、言い換えると高額化になる、はどこまで社会に
容認されるのか、といった問題が浮上してくるわけだ。
もう一つの答えは主食生産者は経済が成長しても貧乏なままでいい、
それで当然、というものになる。
後進国から輸入する、というのはこちらの答えを意味するのだろう。
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経済成長と物価高騰とトイレットペーパー

2011-08-26 09:15:36 | Weblog
昨今のニュースを見るに今日のアラブ人、イラン人らが言うイスラム
文化とは部族主義の事を指すのだろう、彼らの政治はそうなっている。
来週がラマダン月の終わりらしい。

前回私は団塊世代はトイレットペーパー騒動恐怖症が全てだ、と書いた。
これをして私が団塊世代を馬鹿にしていると見るのならそれは正しい
だろうとするが、こうした行動を止める気があるわけでもない。
荒唐無稽なら適切に反論するなり現実の姿をまとめてみるなりして
一笑に付せばいいだけ、単に不愉快だからとしか言えないのならそれが
団塊なのだ、としか言いようがない。
もちろん、反論やまとめが世間の失笑を買ったとしてもそれは書き手の
認識に問題があったのだろうというだけの事。

さて物価はなぜ上がるのか。
直接的には店主が値段を書き変えているからと言う事になる。
あっちこっちで店主が値段を高くする、これが物価の上昇。
店主が国の例もある。 原油価格なんかがそうだ。
さすがに国際市場となると当然条約云々といった話になってくるが、
店主が値段を書き変えるという構図から外れるわけではない。
この様々な物価上昇の平均値をインフレと言ったりする。
有る物の値段が上がるとそれにつられて別の物の値段も上がる。
何故か。
売る側つまり店主の側が使うお金、必要とするお金が増えるから。
原材料費だったり人件費だったり光熱費だったり。

買う側はお金を出して物を買う。
何に対してお金を出しているのか。
人である。
物に対してお金を出していると思う事も多いだろう、自分の必要を
中心に見るとそれはそれで間違ってはいないが、海や川原、裏山、
ゴミ捨て場で拾う物にお金を出す人は居ない。 無人の販売所では
商品を取ってお金を置いていくが野の物山の物に対してそれをすれば
頭のおかしい人だと見做されるだろう。
お金は人に対して払う。
経済とは労働を買っているのである。
畑を耕したり物を運んできたりした労力、あるいは単に最初にそこを
囲い込んだ事で発生した先取権に対してだったりもするが。
そうした活動を平均すると一人の人が一人の人を雇っている形になる。
物価の上昇とは他人に対して払うお金が増える事である。

トイレットペーパーの値段は何故上がったのか。
オイルショックの時に日本ではトイレットペーパーが無くなるという
流言が飛び交い、それを求める人が店頭に殺到し実際に無くなったと。
これをトイレットペーパー騒動と言うらしい。
一連の騒動で物価が年20%以上上昇し高度経済成長と呼ばれる時期は
終焉した。
直接の引き金はアラブ諸国の石油価格引き上げ宣言だったが、日本
ローカルでのそれは消費者が店に殺到した事だ。
馬鹿な行動だったと言うのは正しいのだろう、だがそうした行動が
間違っていた、とか悪だったとは、思えないわけだが。
こうした現象を中心に構築された世界観、というのはどうにも理解
しづらい。
なんなのだろう。

経済成長とは何か。
物価の上昇、ではないらしい。
ここで効用という経済用語が出てくる。
お金を使って物を得て満足するのがそれらしい。
お金を使わずに満足するのはつまり効用ではない。
満足度が同じだとすると経済成長とはお金を使わない満足がお金を
使う満足に変化した事を意味するわけだ。
家の畑で取れたものをみんなで食べるか外食するかの違いだな。
ただし、経済が成長していない所では家の畑や近所のお裾分け以外の
物を食べる事は困難な状況にある。
経済成長とは個々人の自由が増える事を意味する。
少なくとも自由経済下では。

万人が必要とする物の価格上昇は全ての物価に波及する。
主食の価格が経済指標の原点になり労働者はこれの値段を基に労働の
単価を決める。 お米を毎年1トン作る農家は経済がどれだけ成長
しても、お米を1トン作る農家でしかない。
1トン分のお米で賄える労働者数というのはほぼ不変だが、経済成長の
意味は一般労働者がお米以外の娯楽物を買えるようになる事。
つまり主食の生産する農家は主食の生産を続ける限りは生産量の増加
でしか収入を増やす方法が無い、という結論になる。
もちろん主食の生産を止める、縮小して畑を他の高級食材に切り替える
というのも選択肢として常に存在するが。
これは必要物を作る人ほど経済成長の旨みに乏しい、あるいは一般的な
意味での経済成長は食料特に主食の生産を置いていく形で発生する、
と出ると。
では誰が主食を生産するのか、といった話になってくる。
国際分業推進派なら後進国の人間、と答えるのだろう。
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メセナ

2011-08-26 09:15:14 | Weblog
前回「無知なら書くな」は駄目みたいな事を書いたがそれは考察が
秀逸だと思ったからで、駄文ならわざわざ反応する理由も無い。
で改めて見てみた所、「書くな」ではなく「駄目なのが多いから
マシなのを書く」とあった。

最後「官の肥大が民の卑業化を招く」とした。
ここからさらに二つの見方を出す。
・社会の良化には民業の善業化努力が必要
・左派は他勢力を矮小化するのを常態とする
善業化とは管理指導することではなく良心を働かせるようする事。
下段、他勢力を隣人と置き換えると構図はもっとはっきりしてくる。

今フジテレビが揺れている。
日本のテレビは許認可制だが一端放送権を獲得すると一企業が半永久的に
それを握り続ける構図になっている。
これまでチャンネル数が少なかった事と相まって大多数に発信される情報
を取捨選択する特権が少数の人間に集中するというシステムになっていた
のだが、ネットを中心とする動きでこれが崩壊し始めていると。
ちなみにだ。
2002年ワールドカップ、トルコの三位表彰をカットするという暴挙に出た
のがこのフジテレビで私はその理由を、中国対トルコ戦で中国側ゴール
裏のウイグル人の旗がトルコのゴールの度に放送された事を中国側が不快
に思った件に関しての表態だろうと見ているわけだ。
国家規模の特権私企業が近隣独裁国の機嫌を伺う構図。
それを不快に思う日本人も多いが、団塊左翼はこれを国際親善と言う。
私は東トルキスタン独立にはどちらかというと反対だが窮状を訴えるのを
抑え込もうとする動きにも異を唱える。
日本のマスコミと中国人、韓国人、北朝鮮人との関係を私は不潔な物だと
見做している。 まあ一国のマスコミ業界が特定の国家や国籍集団と
特別な関係になる事がそもそも不潔なのだが、理由はそれぞれ。

朝日新聞がまた日中友好と言い出したのだそうな。
欧米が「景気対策」に傾いた事を嗅ぎ取っての行動だろうか。
正面から反対するでもなく、腹を決めるでもなく。 うん、奴隷商人。

トイレットペーパー騒動恐怖症。
団塊世代にとってはこれが社会における心配事のほぼすべてなのだろう。
他にもっと心配するべき事はあるだろうに思うが。

多分韓国のテレビコマーシャルだろう、をアレンジしたダンスの動画が、
日本に対する海外の反応を紹介するサイトに載っていた。
上手い。
ここ数年でだいぶ変わったと感じる。 ハルヒダンスの影響だろうか。
以前から踊れる人が居てそれほど表に出てこなかっただけなのかも
しれないがジャンル関係なしに「動く日本人」に感嘆する機会が
増えた気がする。
そうしたネットの動画を多数見る事を始めたのが去年、水準の比較が
してみたくなってバレエを検索してみた。
流石に上手いと感じた。
なにより体系化されていると。
で思った事が、まだこれは食われていないな、と。

食われていない、と思ったのだから当然食われたものもあるわけで、
その一例がオペラである。
1990年代あたりの日本の創作物にオペラ的表現が使われていたりする。
私が想定しているのはスーパーファミコンのゲームだったりするが、
他の分野でも探せば似たような現象を発見出来るはず。
そこから少し遡るとあるのが、マスコミが盛んにメセナと言っていた
時代で、その影響範囲が今回のテーマ。

1980年代あたりからだったと思う、マスコミが「文化」と言い出すよう
になり、以前から日本にあった欧米コンプレックスと相まって、メセナ
という語に収束した。
なんでも企業による文化振興を意味する言葉らしい。
ではこの動きがなにをもたらしたか。
まずは文化振興だろう、だがこれは国民の創作意欲が高まるのではなく、
既存の文化事業利権者たちに金が流れていく事となったと。
次に起きたのが企業減税措置への圧力強化。
企業が文化に金を出すのだから国が企業を搾取する正統性は当然減る。
そうした企業が正しく国家は間違っている、そういう正義となった。
文化人を芸能人と置き換え文化事業の多くが宣伝広告を必要とする事に
注目すると世界史上最高額、究極にして至高のお手盛りとも取れるが
まあそれはそれ。

メセナ運動、あるいはそれ以前からあったそこへと繋がる流れが虚業の
肥大化を招きバブルの狂騒となった。 まあこれは多少、悪影響と現在
非難されている結果を強引に結びつけた感があるかもしれない。
方向性も時期も一致はするが。
では良い面はあったのか。
私はそれを海外旅行に見る。
それまでは過ぎた道楽とされる事も少なくなかったそれが容認、さらに
推奨される事となりその結果、日本人の目が肥える事となったと結論
付けても事実からそう離れてはいないだろう。
ではメセナ運動が無ければ海外旅行の国民標準化は無かったか。
いや有っても無くても標準化しただろう。
オペラ文化の取り込みはどうか。
これも同様に、並行する流れではあっても上流下流という関係ではない
と見る。
ではそれは日本人の軽佻浮薄化を進めるだけの物だったのか。
私はそうだとする。
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イギリス暴動

2011-08-26 09:14:44 | Weblog
大通りから一本入ると坂道が途中で二股に分かれていて、左に行くと
当時住んでいた家、右に行くとイギリス人たちが住む集合住宅に
なっていた。 そっちに行った回数は片手で数えるくらいだったはず
だが、そちらでグルカ人を見た記憶は無い。 住んでいたのかも
しれないし、住んでいなかったのかもしれない。
有る日の学校の帰りイギリス人のガキが四人ほどつきて来た。
そのうち一番小さい、小学生くらいのが他の三人から離れて特に声を
掛けるでもなく近づいて来たが、気にしながらも先に進んだ。
そこで彼が石を投げてきた。
一投目は彼から見て右に逸れて街灯の柱に当たった。
目の前で起きた事なのだが何が起きたのか理解できず彼を見た。
彼は再び投げてきて、今度は私に当たった。 右ひじだったか左ひじ
だったかは覚えていない。
怒って石か何かを投げ返そうとしたが砂のような小石しかなく、
それを投げかけるまでもなく逃げ去っていた。
彼らが何故そういう行動に出たのかは知る由もなし。
状況からグループ若年者の度胸試しのようなものだろうとは思うが。
何故私だったのかも知らない。 誰でもよかったのか、はたまた
雰囲気などから私が日本人だと知り、親兄弟か教師かBBCあたりが
流していただろう日本悪玉論に感化されてやった事なのか。
こうした事例は世界中どこにでもあるだろう。
アフリカでも中東でも南米でもまだあるだろうし、過去日本統治下の
朝鮮半島でもあっただろう。 またこれを理由にイギリスを嫌って
いる訳ではない。 実際、21世紀に入るまで私は自分を親英派だと
思っていてミルクティーをがぶ飲みしていた。
こうした経験自体が上が用意したイベントだろうと思っている。
おかげで各種騒乱事件に対してインテリ的保身文化から自由な身で
色々書くことが出来ている。

今更20年も前の経験を持ってきた理由はイギリスの暴動にある。
先日これに関する面白い文章を読んだ。
イギリス暴動の裏にある鬱屈と絶望について、という題だった。
ググれば出てくるはず。
大雑把に書くと、カウンシルフラットは動物園なのだと。
勉強せずに自説を披露する絶好の機会、とも書いてあって日常的に
それをしている方としては耳が痛かったりするわけだがだからと
言ってそうした行動を変える気も無く、改めて思い返したのが
冒頭に書いた経験。
イギリス本国に帰って行っただろうかつての級友たちは今回の暴動の
主役となった若者たちの親の世代。
なんだこの件に関しては私はむしろ当事者に近いではないかと。
ただしだ。
無知なら書くな、関係者以外は書くなというのは承服しかねる。
もっと勉強しろというのならまさにその通りでうなだれるしかない
のだが、私は無知な人ほど無知を前提に積極的に書けと言いたい。
逆に朝日新聞には各種社会現象の見解を書かないことを勧めする。
人間的劣悪さが評価判断の逆転として現れているのだから。

んで本題のイギリスの暴動。
どうせいつものヨーロッパだろうと思っていたのだが、なんでも
今回の主役はイギリス人、具体的にはカウンシルフラット育ちの
若者だったのだと。
どうしてそうなったのかはシングルマザー保護政策が現実には離婚
推奨政策となってしまっている上に低賃金の労働は移民に奪われ、
さらには生活保護制度がイギリス人貧民にとって「働かない方が
収入が多い」という状況を作り出してしまっていたらしい。
特権化した名目弱者が社会の生産性を高める、生産社会文化に参加
するよりも、元々ある暴力組織の活動を背景に政治権力に働きかけ
弱者宣伝をより強化する方を選ぶ、といった話なら日本にもあり、
私はそれを関西暗黒伝などと書いたりもしたのだがイギリスでは
そうした弱者政策が国籍保持者全般に適用され、何故か最終的に
暴動となったと。
「保護されている人たち」が何故暴動に走ったのかの原因は
どうやら家庭教育の崩壊にあったとか。

段階を追って書いてみる。
・シングルマザー推奨政策がある
・生活保護があっても貧乏
・よって何かを買うにあたって働きに出る
・地域や親族の助けが無いまま幼児が家に残される
・そうして育った幼児は小学校開始時点で学習困難児童に
・学校からドロップアウト
・そのまま大人になって保護措置の受給者に

この繰り返しが貧乏なままの未来しか無い子を大量生産し彼らが
暴動の主役となったと。

では政治どうするべきなのか。
とりあえず思いつくのは保護政策よりも上のイギリス人向け就職先
を大量創出し「馬鹿でも働けるしその方が有利」という状況を
作ると。 あとは保育所を増やしてそこで読み書きを教えるように
しさらにシングルマザー推奨政策を結婚推奨政策に切り替える。

左派はおそらく家庭教育を復権させるよりもその崩壊をさらに
進めてすべて公教育制度でまかなおうとするだろう、さてそうした
政策はどういう結果に繋がるのかな?
ここに私の予想を書いてもいいが、せっかくヨーロッパが左傾化
しているのだからその実験結果を見てみたい気もする。
いや、やっぱり書こう。
幼児教育を国民規模で公制度化したらどうなるか。
1. 政策決定者の志向が反映されることで好悪の画一化が進む
2. 児童にとって画一状態が当然となり非画一が嫌悪の対象に
3. 官業の肥大化が進み民間イコールマフィアが常識化する
4. 官業による蔑視と一部民業脱法化の対立が解消不能になる

さて、当たるかな?
逆にこうした動きに期待する事もある。
イギリスで就職を前提とした幼稚園保育園教育を実施し一定の成果
があがるようになったt場合そのその政策は他国、特に後進国に
とって役に立つものとなるだろうと。
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イスラム世界

2011-08-22 10:07:57 | Weblog
社会評価があって責任を取らない事を上とする人たちが多く集まる場所は
どこか。 一つは大学だろう。
そうした流れを上とする体制とはどのようなものか。
その一つは社会主義体制と呼ばれるものだろう。
そこでは必然的にノーメンクラツーラが台頭し最終責任の受け手として
独裁者が出現するか、はたまた責任の受け手が居ないかのどちらかに
落ち着くことになると。

インセスト・タブーはどこから来たのか。
私は父親と娘の関係だと思う。
家の中にあって最高権力者であり家の外からは一定の不可侵性を認められて
いた時代にあって娘が父親の性欲の対象となった場合、その娘に逃げ道は
ほぼ無い。 兄と妹についても傾向としては同じ。
その問題発生を抑制するために家というルールよりも上位の掟が作られ
それがそのまま伝統化、宗教化したと。
では家が絶対では無くなった今日においてそれは必要か。
以前ほどでは無いだろうが、多分まだ有ったほうが良いと思う。
では一夫多妻はどうか。
100人居たら10人がやろうとし、その内9人が後にやらなきゃ良かったと思う
ようなものならそれを良くないものとするのも一つの手だろう。
当人たちの問題でしかない、とすることも出来るが。

イスラム教徒は言う。 キリスト教徒が悪いと。
その一方でイスラム教徒も分裂し、戦争をしてきた歴史がある。
初期の武力行使は外部勢力という問題の解決に仕方なくしたものだ、と言う
かもしれないか問題解決に武力行使という手段を用いてきた点については
イスラム教も他の宗教となんら変わりはなかったとも言えるわけで。
イスラム教徒も戦争をした。
イスラム圏も分裂した。
イスラム社会でも奴隷制度が存続した。
これが歴史的事実だがにもかかわらずイスラム主義者とやらはイスラム的
である事が問題解決であるとする。
私は彼らに政治的な展望があるとは看做さない。

イスラム教徒は助け合う。
まあ麗しいわな。
キリスト教徒同士もやっぱり助け合っているわけで、特筆するような事でも
ないのかもしれないが。
イスラム教徒の国とキリスト教徒の国が隣接していたとしてどちらがより
多くの社会問題を隣国に対しもたらすか。
見方は色々あるだろうが単純なものとしては平均的なモラルの低い方、
当地でモラルであるとするものが社会問題の緩和に貢献していない方、
政治制度の整備が遅れている方、そしてより貧乏な方だろう。
富への志向が社会問題なのであって富の多寡は問題にはならないとするかも
しれないが、富んでいれば域内での解決が容易にはなる。

さて比べてみよう。
イスラム教圏とキリスト教圏、どちらがより他に対し問題的か。
平均的モラル。
イスラム圏にも売春も有れば麻薬も有るわけで目糞鼻糞という気もするが
とりあえずはイスラム圏の方をよりモラル的としておく。
より田舎的と言った方が正しいかもしれない。
モラル認識の社会問題適合度。
キリスト教圏も糞だがイスラム教圏は論外だろう。
政治制度の整備。
これは圧倒的にキリスト教圏が勝ると。
何故キリスト教圏でそれが進んだのかの理由は国家間戦争だったりするが、
まあそれはそれ。 良いものなら輸入すればいいだけの事。
富。
オイルマネーの分イスラム圏の方が自由度が高い。
であるにもかかわらず、それがまともに機能しているようには見えない。

オスマン帝国が健在だったころにインドネシアは植民地化された。
アフリカの問題地はメッカからそう遠くは無い。
イスラム教徒は隣人を助ける事よりも異教徒をぶちのめす事により多くの
政治力を投入しているのではと疑うわけだが、どうなのだろう。
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