福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

「司」と「士」と「師」 何で「医師」は「医士」でないのか?(1)

2009年03月14日 12時14分44秒 | コラム、エッセイ
 私は秋田県のDV(配偶者からの暴力)の防止関連委員会委員でもある。2月末までに議案の改訂作業は終了したが、その過程で「児童心理司」という資格があるのを知った。「児童心理士」のミスプリントではないかと質問したら間違いではないとのことであった。調べたら、確かに間違いではなかった。

 私の印象から言えば「児童心理士」にさえ若干違和感を感じるし、ましてや「児童心理司」なるものがあるとは予想だにしていなかった。

 「司」は古くは日本の律令制において主に省のもとに置かれた官司の等級の一つで身分を表し、主に役人またはその仕事を指すからである。「司直」「司祭」「国司」「保護司」「行司」「司書」などなどがその例である。

 私は医師に関しても何で医師は「医士」ではないのだろうか? と常々疑問に思っていた。「弁護士」「代議士」「博士」「勇士」「名士」にしろ、一定の資格を持ちプロフェショナルと呼ばれる職業、あるいはそれに準じた方には「士」が与えられている。これに対して「師」は専門家を示すのだと言うことで、「教師」「看護師」「理容師」「講談師」などと同格の扱いである。これに「ペテン師」「詐欺師」も含まれてくるから納得できないわけ。

 医業は長らく卑賎の職業で、これが一定の資格を持つプロフェショナルと位置づけられたのは明治時代も末朋のことである。

 日本史上「医師」の文字が現れたのは、奈艮・平安時代の律令国家誕生と時期を同じにしている。朝廷内に診療組織が誕生したが、「医師」は針師や薬師と同列にに配属された。当時、「医師」は、単なる官職名で、尊敬される様な職業ではなく、技術に優れた人の範囲を出ない卑しい人であり、宮中の身分は極めて低かった。

 これらの制度は武家制度の中でも受け継がれ、実際に徳川時代には「士農工商」の揺るぎない身分社会の中で、医術を用いる者は「工」とされて、賎しき階級とされた。

 だから、身分の高い方を診察する際に「糸脈・糸診」の範囲に制限され、体に直接触れることなど決して許されなかったことはよく知られている。そのために医術の恩恵を受けられず、命を失ったこ高貴な方々も少なくないだろう。

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善魔から善意まで  私はけっして善意の人ではない

2009年03月14日 09時17分14秒 | コラム、エッセイ
 麻生氏、中川氏の功績もあって漢字ブームである。今までそれほど使われなかった「未曾有」は真面目な文章にも頻回に登場するようになった。私も自らの手で漢字を書くと言うことが無沙汰になっていることを反省し、四文字単語集など引っ張り出して眺めている。
 漢字は他の文字と違って独特なフィーリングがあってとても良い。

 その中で「善」であるが、「善」を含む語句は沢山あって枚挙にいとまがない。たまたま先日、古い文献を整理していて「善魔」という言葉があることを知った。「悪魔」の反対語であるが、辞書には載っていない。
 1974年の朝日新聞に遠藤周作氏は「善魔について」という記事を載せている。彼の創作単語なのかもしれない。独りよがりの正義感を持ち、独善的でいつも正義の旗印を掲げ、自分に従わない者や自分に組みしない者を悪の協力者とみなす、という人を指しているようだ。

 宗教もそうだが、何でも集中・没頭し過ぎると視野が狭くなり、排他的になっていく。遠藤氏は「善魔」に二つの特徴を挙げている。一つは自分以外の世界の存在を認めない。二つめは他人を裁く、こと。
 結果的に、目指す「善」から少しずつはなれていき「善魔」になる。この極端な例として、反捕鯨を掲げるグリーンピース、ハイジャッカー、テロリスト等挙げられる。それぞれの実行者は自らを堅く正義と思い行動している。どちらにせよ、視野が狭くなるような状況にならないよう、広い感受性を維持する努力も同時に求めていかなければならないのだが、彼らにはもはや何を言っても通じないだろう。

 ちょっと柔らかな「善意」についてであるが、一概には言えないが、私はどちらかというと「善意は是」と取れない方である。ホントに「他人に親切にしなければならない」のだろうか?と思う。特にプライベートな面でそう思う。
 これは私の生きる上での悩みの一つである。勿論、いま、具合悪くて困っている方々、緊急に助けが必要である方々に手を伸ばし、援助することは吝かでない。

 問題は、それほどでもない場合である。私は親切な医師、と言うことになっているようだが、実際はそうでない。訓練で、あるいは職業柄で最大限の迎合努力をしてその場を乗り切っている、だけである。私がいろんな申し出に一見快く応ずるのは、今の状態の継続を大事にすると言う打算かな?と思う。もう一つの理由は、断るのが面倒だからである。
 早くこんな努力を要するような辛い状態から解放されたい、ものである。

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