福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

「静養ホームたまゆら」火災(2) 都会の高齢者を秋田に招いては?

2009年03月26日 07時52分05秒 | 秋田の話題
 本県の置かれている状況は極めて厳しい。
 高齢化率、少子化率は全国最速で進行、2010年ごろに30%、2030年には40%近い、日本一の超高齢県となる予定である。逆に労働力人口は減少し、経済活力の一層の減退が懸念される。
 人口減にも歯止めがかからず、年間1万人以上の減少が続いている。秋田では生活が成り立たず、若者は生きるためにより活力のある大都市圏に移っているということである。
 さらに、先日発表された土地の公示価格は他県以上にどんどんと下落している。このことは、国内における地域としての秋田県や秋田市の評価や価値が低下している、と言うことを示す。

 こうした「下落県、下落社会」は今始まったことでない。県も企業誘致の努力等をしてきてはいたが殆ど実を結んでいない。最近はその様な努力も形としては見られず、県の予算の縮小、削減のことばかりである。
 今までの発想の延長線ではダメだ。どんどん活力が低下していく。

 今、世界同時不況の最中にあり外需には期待出来がたい。さりとて経済を停滞させたままでは日本は沈没する。日本は内需の向上が急務である。しかも経済状態が変わっても不変の分野で、永続性がなくてはならない。県民生活に絶対的に必要なもので、さらに今後さらに需要が拡大する分野であることが望まれる。
 ザッと挙げるとエネルギー、食料、医療・福祉分野である。このうちエネルギーに関しては秋田に特徴的利点は見つからないが、後二者については秋田の利点を活かせるのではないだろうか。

 食料については自給率全国第二であり、生産力はまだまだ増やせるのではないだろうか。政策的誘導があれば、産業としての再構築できる可能性は高い。

 医療・福祉分野は先の「静養ホームたまゆら」火災によって明らかになった如く、都会地における、福祉分野はもう限界を迎えている。ならば、秋田で受け入れてはどうだろうか。勿論、寝たきり患者を秋田にと言うわけでなく、現役を退いた方々の第二の人生を「自然と人情味豊かで、空が広い秋田の地で・・」として一大キャンペーンを行って誘う。その様な方々が移り住んで来る事による経済効果は住宅、医療、福祉の分野、最期の葬儀関連費用までの間のことを考えても十二分である。当然、労働力も必要になって来るから雇用効果も大きい。しかも後30年近くは需要は続く。

 明日は秋田県知事の告示日である。
 秋田に活力を生み出せる候補者は誰なのか、を見極めて投票しよう。自立可能な地域を築いていくという気概が知事候補者には強く求められる。本県の再建、再生への熱い思いを力強く県民に訴えてほしいものである。

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オバマ米大統領が差別的発言 健常者は差別視するという障害を持つ障害者なのだ

2009年03月25日 06時33分15秒 | 時事問題 社会問題
 オバマ米大統領は3月19日、NBC-TVのトーク番組に出演し、ボウリングのスコアが思わしくなく「知的障害者のスポーツ大会、スペシャルオリンピックスの様だったよ」と笑いながら述べた。この差別的とも取れる発言について知的障害者の支援団体から一斉に非難の声があがった。

 知的障害者支援組織「アーク」は20日、「深く落胆した。知的障害者やその家族は不用意な発言に悲しみ、怒っている」とする声明を発表し、知的障害者のスポーツ大会などを通じて社会参加を促す国際組繊「スペシャルオリンピックス」のシュライバー会長も同日「不用恵な発言は知的障害者に痛みをもたらし、彼らへの不公正な見方を定着させる」、と苦言を呈した。
 大統領はシュライバー会長に電話で謝まり、会長は謝罪を受け入れたが、アークは、社会的弱者への配慮を唱える大統領の言行不一致を指摘した。

 失言に対してブーイングが生じるのは日本だけではない。オバマ大統領もやってしまった。恐らく、出演したのはいつもの演説とは異なり、本音で語れるような気楽なトーク番組だったのだろうし、悪意など始めから100%なかったハズである。
 ただ、私はこの様な状況の中で語られた言葉であることをむしろ重視したい。
 私は常々、「健常者の多くは、障害者を差別・蔑視すると言う心的障害を持つ障害者である」と思っているからである。勿論、私も同列の一人である。

 要するに、健常者は特有のフィルターを通して障害者を見ている、と言うことである。健常者は成長と共に、知的に、倫理的に、社会的にそのフィルターに蓋をする事が求められ、建て前と本音を使い分けて振る舞うようになっているが、時として本音が飛び出すと言うことである。

 多くの場合、差別感は成長の過程で、両親や家族から家庭で植え付けられる。特に日本はその傾向が強い、とされている。時には教育者から植え付けられ、助長される。子供達が持つ差別感というのは正直で、直線的で、容赦がない。その陰に、大人達が持つ差別感を読みとれる。

 かつての東大の某精神科教授は「日本の障害者は、障害に加え日本で生まれたという二重の困難を背負っている・・」といった主旨の発言を残しているが、私は日本だけでない、より普遍的な感覚ではないか、と思う。
 明日は県障害者施策推進協議会委員会である。心して出席しよう。

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「静養ホームたまゆら」火災は、人ごとと思えない

2009年03月24日 08時36分26秒 | 時事問題 社会問題
 群馬県渋川市の高齢者向け住宅「静養ホームたまゆら」で起きた火災は10人が犠牲になる惨事となった。お亡くなりになった方々の冥福を祈りたい。

 次々と明らかにされる施設の状況を見ると、増改築を重ねた狭い廊下、スプリンクラー無し、火災報知機無し、出火当時に施設にいた職員は3棟に僅かに1人だけ、と驚く内容である。これでは障害のある高齢者を避難することは到底出来ない。起こるべくして起こった惨事と言えよう。

 しかも、この施設を運営するNPO法人は県に有料老人ホームとしての届けを出していなかった。
 さらに、驚いたのは・・、と次々に隠された事実が明らかになるのがこの種のニュースの特徴でもあるのだが、入居者のうち15人が東京都墨田区から回された方々であった、と言うことである。
 東京など都市部では高齢者施設は空きがなく、その受け皿に近隣地方の施設が使われていた、と言うことで、このことを私は初めて知ったが、わが国の、首都東京の医療・福祉の貧しさが露呈した感じである。
 墨田区は受け入れさえしてくれれば一件落着と言うことなのか、無届け施設に紹介していたことになるし、実際にはその実態も把握していなかったようだ。
 このような無届け老人施設は全国で350を超すという。
 これがわが国の高齢者福祉の実態の一面である。余りにも貧しい。しかし、このような貧しい施設が果たしている役割は大きい。マスコミは次々とこの施設の問題点をあばき立てる。それを見聞きする度に、私はいたたまれない気持ちになる。

 マスコミの論調はNPO法人の経営者には命を預かっている自覚が十分あったのか?などと書き立てているが、一つ一つ明らかになってきたことは、本来なら政府、厚労省が痛みとしてとらえるべき内容である。いつも登場して調子の良いコメントを出す厚労相は何処に行ったのか?

 目を病院に移して考えてみればどうだろうか。
 当然、今回問題になっている施設よりは安全面で優れているが、絶対的なものでない。夜間や深夜の看護師等の1病棟あたりのスタッフはせいぜい2-3名で、特に高齢者の多い病棟では半数ほどが、あるいはそれ以上が障害を持つ方とか、寝たきり患者の病棟もある。
 緊急避難という状況下においては自ずから限界がある。だからこそ、消防署との連携や情報交換、類焼を防ぐ防火対策とか避難訓練とかを日常から怠ることは出来ない。

 訓練とか十分行っているとはいえ、災害はどんな状況で発生するか分からない。だから、常に不安を抱えている、と言うのが正直なところである。

 介護の必要なお年寄りはこれから増える一方だが、療養病棟は削減される。さりとて在宅ケアのインフラが充足しているわけではない。
 今、高齢者向け施設のあり方を社会全体で見直し、体制を整えるべきであろう。今回の事故は、行政がもたらした介護難民の悲劇である、ととらえたい。

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公私混同について 公私は別々でなく互いにリンクしているのだ 

2009年03月23日 09時09分10秒 | コラム、エッセイ
 公私と言う言葉がある。これの用例としてよく「公私とも多忙・・」とか、「公私混同は困る・・」等と用いられる。

 その中で、「公私混同」は絶対にやってはならない、と言う意味の言葉であり、人としての倫理観に関わる領域まで含み、意味するところはとても重い。

 仕事や公務において、業務上の立場や業務上で知り得たことを私的な分野に利用したり、金銭を私事に流用することなどは絶対的にあってはならないことである。
 上記の面では、私は今までにやましいことは一つもないハズだ、と自賛しているが、他の人から見ればどうなのだろうか。
 尤も、私にはいわゆる権力的なものは無いし、金銭を直接動かす事などは全くない。後者に於いては全て提案書を作成、事務的に処理される。だから、やましさゼロである。各種の仲介の申し込みの話はないわけではないが、100%お断りしている。

 ただし、堂々と「公私混同」している分野がある。それは、時間と場所である。帰宅しても睡眠時間以外は大部分業務に充てているからかなり「公私混同」している事になるし、それに伴うエネルギーや機材の経費も発生している。逆に、勤務先で私的な文章書き等一切していない、と言えば嘘になる。
 先日、ある会で懇談した病院長の一人は、「自分は公私の区別は明快で、業務を持ち帰ることは一切無い」、と話していたが、そう言う世界もあるのだろう。

 しかしながら、誰であっても公私を区別出来難い分野がある。「公私混同」を精神面、心理面で考えた場合はどうなのだろうか。この領域になれば、何事も割り切って考えるようにしている私も、途端に自信がなくなる。

 今までは私の私的環境は恵まれていて、私的なことで業務を乱した、と言う自覚もそれ程ない。
 しかし、それは昨日までのことである。私はストレスには弱い事は承知しているからこそ対策も出来ていた。今までの閾値を超えるレベルの懸案をかかえた場合、集中力を欠いたり、ミスを連発したり、時にはなげやりになったりするだろう、と思われてならない。

 「公」と「私」は同一人物のなかでは絶対的に別々ではあり得ない。共に有機的につながっているのだ。最近とみにそう思うようになってきた。

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だらしないボタンをかけない医師の白衣姿 

2009年03月22日 18時18分49秒 | 医療、医学
 時代が変わったのであろう、今の若い医師は大部分は古いタイプの白衣ではなく欧米風の白衣を着用している。かつてはかなり違和感があったが、今はもう逆である。一部の医師が着用している古いタイプの白衣組の方に違和感を持つくらいである。
 医師としてのイメージはまだこちらの方の白衣の方がしっくりするが、問題はその着用方法である。旧式のタイプはしっかり着用するとまとわりついて邪魔であり、苦しいし、暑い季節などは辛い。だから、前ボタンをかけずに着用する医師が少なくないのだと思うが、これが実にだらしない。

 若い医師の一部はジーパンにTシャツ、あるいはこれに類似した服装に従来型の白衣を着て、と言うより白衣を引っ掛けて診療をしている。このようなラフなスタイルで患者に接しているのを見ると大変気になる。特に、不特定多数の患者を診る外来ではこれで良いのか、と思う。まず、着用している私服自体気になるし、さらに大部分の医師は白衣のボタンをかけていない。廊下も白衣をひらひら風にたなびかせて歩いている。

 私は医学部三年の臨床実習が始まる前に指導の教官から、今までの基礎医学の実験室とは違うのだから、患者の前に出る時はネクタイをつけてきちっとした服装できなさい、と言われたことを思い出す。当然である。もう40年近くも前のことで、その当時は今のような洋風の白衣はなく、白衣と言えば古くからあるタイプだった。私の知る範囲は著しく狭いが、この頃、医師は総じてきちんとした服装をしていたように思うし、白衣のボタンもかけていたように思う。

 私もきちんとしてきたと思っているが、そのうちまとわりつくし、暑いし、汚れるし・・イヤになって白衣着用もしなくなった。

 ここ1-2週間地元の新聞に医師の講演姿、診察時の姿が写真入りで紹介されていたが、そのうちの何人かはやはりボタンをかけておらず、とてもだらしない印象を受けた。一方、日本医師会ではいま勤務医、女性医師の厳しい勤務状況をTVコマーシャルで紹介し、医師不足を訴えている。2種類あって男女一人ずつ医師が登場するが、幸いなことに白衣のボタンはかけていた。ただ、あの医師室の乱雑さが気になった。

 私は若い医師に対するオリエンテーションの際、医師としてはまだまだ未熟なのだから、患者と接する時は服装は清楚にし、ネクタイを締めて欲しいと言うが、最近の医師は殆どが欧米タイプの白衣を着るから、このアドバイスは空振りである。
 中堅医師は言っても効果はない。

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